2003年度学術交流支援資金報告書

 

研究課題名:”KEIO Collection”(大腸菌の全通り遺伝子欠失株)の作製とその応用

研究代表者氏名:冨田 勝

所属/職名:政策・メディア研究科/教授

報告者氏名:馬場 知哉

所属/職名:環境情報学部/専任講師

 

【研究の背景】

世界におけるバイオインフォマティクス研究の潮流は生命現象をシステムとして認識・評価するシステム生物学の確立を目指している。その究極的な目標は『生命システムの自由自在な設計と構築』であり、そこに至る過程として『細胞のシミュレーション』を通した生命現象の本質的理解が当面の課題となっている。一方、実験生物学の分野ではゲノム研究の飛躍的な進展に伴い、生命情報を網羅的かつ多角的に解析する事で生命機能の統合的な理解を開拓しつつある。慶應義塾大学、政策・メディア研究科、バイオインフォマティクス・プログラムにおいては鶴岡タウンキャンパス・先端生命科学研究センターを拠点にバイオインフォマティクスと実験生物学の有機的な連携により『細胞のシミュレーション』を通した生命現象の本質的理解を目標に掲げ、その一環として大腸菌のゲノム構造と機能の解明に取り組んでいる。大腸菌は地球上で最も詳しく研究されてきた生物の一つであり、そのゲノム4.64Mb上には約4400の遺伝子がコードされるが、予測された遺伝子の約半数は未だに機能が解明されていない(表1)。

我々はこれらの機能未知遺伝子の機能解明と大腸菌のゲノム構造と機能の関連研究を視野に入れて全通り遺伝子欠失株の作製を開始した。これまでに全通り遺伝子欠失株作製の技術的な手法(図1)を確立し、細部に渡って効率化およびハイスループット化を目指してきた。

具体的には(a)欠失の目標となる遺伝子の部分断片のPCR法による増幅実験の効率化や(b)電気泳動法による確認実験のハイスループット化(図2)、さらには(c)マーカー遺伝子との相同組換えにより組換え体を得る遺伝子導入実験での宿主細胞の高品質化などである。

これらの改良・改善により、平成14年度までに2118遺伝子についての遺伝子欠失株を作製した。これは大腸菌の半数の遺伝子にあたる。我々は、これら得られた大腸菌の遺伝子欠失株を”KEIO Collection”として日本分子生物学会で発表し、その一部の1440遺伝子を” KEIO Collection ver.1.0.0 (図3)として公開し、世界の生物学あるいはシステム生物学の研究に広く活用していく方針とした。

 

【研究目的】

(1)    KEIO Collection”(慶應義塾大学、鶴岡タウンキャンパス・先端生命科学研究センターにおいて構築中である大腸菌の全通り遺伝子欠失株)の早期の完成

(2)    KEIO Collection”の供給による国際共同研究の推進と”KEIO Collection”の研究スタンダードとしての世界標準化

以上の2点を研究目的とした。

 

【研究成果】

(1)    KEIO Collection”(大腸菌の全通り遺伝子欠失株)の早期の完成について

最新のゲノム工学技術を駆使した結果、生物学において最短期間・最少人数・最少コストによるゲノム上の遺伝子の全通り遺伝子欠失研究として完成の目処が立った。これまでの生物学においてモデル生物としてゲノム上の遺伝子の全通り遺伝子欠失研究が試みられた生物として酵母が挙げられる。酵母(Saccharomyces cerevisiae)は1997年から約5年の歳月と22研究機関、73名の研究者により5916遺伝子の遺伝子欠失株が報告されている。(Giaever G. et al., Functional profiling of the Saccharomyces cerevisiae genome, Nature, 418, 387-91, 2002)

KEIO Collection”の作製は鶴岡タウンキャンパス・先端生命科学研究センターが発足した平成13年から開始され、慶應義塾が中心となり単独の研究機関として約3年の歳月と、わずか数名の研究者により約4000遺伝子の遺伝子欠失株が完成する見通しとなった。平成162月時点の進行状況を表2に示す。

大腸菌の全通り遺伝子欠失株の作製実験は終了しており、一部でのPCR法での最終的な確認作業を残すのみとなっている。大腸菌K-12株は地球上で最も詳しく研究されてきた生物であり、鶴岡タウンキャンパス・先端生命科学研究センターにおいては、”KEIO Collection”を用いた代謝工学研究、トランスクリプトーム解析研究、プロテオーム研究、さらにはメタボローム解析研究を世界に先駆けて進める事により、慶應義塾が21世紀の新しい学問分野であるシステム生物学を世界的にリードしていく基盤を構築することを目指している。

 

(2)”KEIO Collection”の供給による国際共同研究の推進と”KEIO Collection”の研究スタンダードとしての世界標準化について

大腸菌は地球上で最も詳しく研究されてきた生物であり、生命現象をシステムとして研究するシステム生物学においては重要なモデル生物とされているが、そのゲノム4.64Mb上に予測された4390遺伝子の約半数は未だに機能が解明されていない。これら機能未知遺伝子の機能解明、およびゲノム構造と機能の関連については生命現象の本質的理解において直面する課題であり、この解析の為の研究資源として”KEIO Collection”は注目されつつある。その理由は、同じゲノムのバックグランド構造を持ち、ターゲットとした1遺伝子のみを欠失させていることから、ターゲット遺伝子の機能が高精度で解析できる点にある。その一例を大腸菌の基礎エネルギー代謝系の一つである解糖系遺伝子の遺伝子欠失株の生育能で図4に示す。

大腸菌の解糖系はグルコース(aGLC)からピルビン酸(PYR)までの10段階の酵素反応により構成され、大腸菌ではアイソザイム遺伝子などを含めて19遺伝子の存在がこれまでの研究により知られている。そのうちの4遺伝子は必須遺伝子であり、残る15遺伝子が”KEIO Collection”として1遺伝子欠失株が得られた。これらを炭素源としてグルコースのみとした最小培地で生育させた場合、生育には解糖系の機能が重要な役割を果たす。結果として解糖系の各遺伝子の遺伝子欠失株はその機能により異なる生育能を示した。同じ酵素反応ステップで同じ酵素機能を担うアイソザイム遺伝子(例えば、pfkA遺伝子とpfkB遺伝子)でもそれらの遺伝子欠失株の生育能の差異から細胞内での遺伝子機能の重要性が異なる結果が示された。これらは”KEIO Collection”を活用する事により、細胞内での遺伝子機能の差異や遺伝子機能のネットワーク構造が高精度に比較解析が可能となることを示している。

 平成15623-25日に慶應義塾大学、鶴岡タウンキャンパス・先端生命科学研究センターで行われた国際大腸菌研究会議(The International E. coli Alliance, IECA)の国際シンポジウムでは”KEIO Collection”はIECAが目指す大腸菌でのシステム生物学の構築に向け、研究スタンダードとして位置付けられることとなった。

IECAでの研究スタンダードとして位置付けられるだけではなく、より広く世界の生物学あるいはシステム生物学の研究に貢献していくために、すなわち慶應義塾が構築した”KEIO Collection”を広く世界に供給する事で21世紀の生物学あるいはシステム生物学での研究スタンダードとしての世界標準として認められるために、以下の国際会議で発表を行った。

(1)平成1585-10日、The 2003 Molecular Genetics of Bacteria and Phage MeetingUniversity of Wisconsin, Madison, Wisconsin, USA)、発表者:馬場知哉(環境情報学部、専任講師)、発表タイトルBridging between functional genomics and systems biology of Escherichia coli in Japan(口頭発表)

(2)平成15115-9日、4th International Conference on Systems BiologyWashington University, Saint Louis, USA)、発表者:森浩禎(政策・メディア研究科、教授)、発表タイトルSystematic Approaches to Escherichia coli K-12: Towards the Modeling of a Cell(ポスター発表)

また、”KEIO Collection”を用いた具体的な共同研究の可能性を協議するために以下の研究機関を訪問した。

(1)平成15812-14日、訪問先:Purdue University, West Lafayette, Indiana, USA、訪問者:馬場知哉(環境情報学部、専任講師)

(2)平成15814-16日、訪問先:Texas A&M University, College Station, Texas, USA、訪問者:馬場知哉(環境情報学部、専任講師)

(3)平成151110-13日、訪問先:Purdue University, West Lafayette, Indiana, USA、訪問者:森浩禎(政策・メディア研究科、教授)

(4)平成151114-16日、訪問先:The Marine Biological Laboratory, Woods Hole, Massachusetts, USA、訪問者:森浩禎(政策・メディア研究科、教授)

具体的にはアメリカのPurdue大学に1440遺伝子からなる” KEIO Collection ver.1.0.0”での共同研究が開始された。その他、国内外から”KEIO Collection”の供給依頼が寄せられている。これらの要望に対して応えるためには、慶應義塾だけでは人的にも資金的にも困難であることから、奈良先端科学技術大学院大学、遺伝子教育研究センター、生体情報の森浩禎教授(慶應義塾大学、政策・メディア研究科、教授兼担)の研究室からの分譲を行っている。

 

【最後に】

慶應義塾においては、”KEIO Collection”を用いた各種の研究成果を先行させ、それらの研究成果を元に次世代のシステム生物学研究のリーダーを輩出すべく大学院教育の拡充を今後検討していくべきであると考えている。