2004年度学術交流支援資金

研究報告書

 

2005228

 

研究課題名:グローバリゼーションとナショナリズムの比較事例研究

研究代表者:環境情報学部教授  山本純一

共同研究者:総合政策学部助教授 田島英一

                総合政策学部助教授 小熊英二

 

 

1 研究の背景と目的

グローバリズム[1](もしくはグローバリゼーション)とナショナリズムは対立関係として語られることが多い。たとえば、日本の代表的な保守論客である佐伯啓思は次のように述べている。

 

グローバリズムが進展すると、世界はボーダーレスになって、国家は後退するといわれています。しかし、実はグローバル化の時代になると、むしろ国家間の競争が激しくなるということです。…… 市場が拡大していけばいくほど、経済の領域に摩擦や対立が起きることが多くなる。…… また、産業の基盤というものは、どうしても国内の労働基盤や教育システムと結びついていますから、そう簡単に産業構造は変えることができない。産業自体も産業間ネットワークのなかで存立しているわけですから、金融がグローバル化するなかで、産業の利益を守ろうとするようになる。そこでどうしても国家と国家の間で経済競争が、生まれてこざるをえないと思うのです。(佐伯ほか2000129-131

 

このような「対立史観」に対し、小熊英二(2002b)は異論を展開している。少々長くなるが、興味深い議論なので原文をそのまま引用する。

 

近年、「グローバリゼーションとナショナリズムの対立」という図式が語られる。しかし筆者は、両者は対立関係というより、共犯関係だと考える。

 そもそもグローバリゼーションとは何だろうか。よく挙げられるのは、交通・通信技術の発達、文化の均質化、経済活動の領域拡大などであろう。

 しかしこれらは、ナショナリズムの基盤でもある。幕藩体制から近代国家への移行は、藩を超えた交通の発達と、標準語の普及や地方文化の消滅、全国市場の成立などをもたらした。こうした交通の発達や文化の均質化がなければ、藩や村を超えた「日本」という意識は成立しえなかったのである。

 そう考えた場合、グローバリゼーションとナショナリズムは、同じ現象の別側面だといえる。交通の発達や文化の均質化が、国境内で起こる場合にはナショナリズムと呼ばれ、国境を跨いで起こる場合にはグローバリゼーションと呼ばれるにすぎない。

 そして両者は、相互に高めあう補完関係にある。まずナショナリズムの覚醒は、グローバルな他者接触の結果として発生するものである。明治維新が黒船の来航から起こったこと、これが蒸気船という交通技術革新の結果だったことは、いうまでもない。

 さらにナショナリズムの形成は、グローバルな模倣関係によって行われる。明治政府が国旗を制定し、国家を作り、文化財を保護したのは、西欧のナショナリズム形成政策を学んだ結果にほかならない。ナショナリズムの特徴は、どこの国家も「独自性」を主張しながら、その「独自性」の主張の方法(歴史や伝統文化の重視など)が、どこまでも同じである点にある。

 また国家は、しばしばグローバリゼーションを加速する。明治政府は鉄道や港湾の整備、産業の育成、教育の普及などを促進した。これらは国家隆盛政策であると同時に日本を国際経済の一部に組み込む作業であった。

 そしてグローバリゼーションと呼ばれる現象の多くは、国家の存在を前提として成立している。多国籍企業が国境を越えるのは、為替レートや平均賃金の相違、税制の優遇や環境基準の甘さなど、国家によって設けられた段差を利用するためである。世界が国家で分断されていなければ、多国籍企業が国境を越える動機は半減するであろう。

 それでは、ナショナリズムとグローバリゼーションの対立と称される現象が、なぜ存在するのか。筆者はこれを、権力の配置から派生した問題と考える。

 「ナショナル」と「グローバル」の最大の相違は、国家には主権はあるが、国家を超える権力は存在しないという点にある。実際にはコインの表裏であるはずの両者だが、権力の問題に限っては明確な相違があるのだ。

 そのためグローバリゼーションとナショナリズムの対立という議論は、多くの場合、この「国家にしか存在しない権力」の活用や正統性をめぐって行われているようだ。典型的な事例は貿易自由化の問題だが、「国民文化」の保護もその一環である。

 なかでも争点になっているのは、福祉政策を始めとした、国家の再分配機能をどう考えるかである。グローバリゼーションによる格差の拡大を嘆き、国家を擁護する論者は、この再分配機能に期待があると思われる。1930年代のドイツや日本、現在の第三世界などに明らかだが、民衆を巻き込んだ草の根ナショナリズムも、格差に耐えかねた人々が、国家権力による再分配を期待した場合に台頭しやすい。

 ところが問題は、こうした権力の問題でも、やはり国家とグローバリゼーションは共犯関係にあるということである。為政者のレベルでは国家の再分配機能を重視しないのが現在の潮流だ。そこでは、再分配の原資である国家経済そのものが、国際競争力の強化によってしか拡大できず、したがって再分配に予算を割くよりも、国際競争に勝てるエリートと産業を育成すべきだという論理が唱えられやすい。

 その結果グローバリゼーションの被害者は国家に期待するが、国家を動かす為政者の方は、グローバリゼーションに対応した競争の強化を唱えるという図式が出現している。しかもそのグローバリゼーションへの対応は、「国際競争の勝利」というナショナリズムの名の下に進められているのだ。現実の世界は、グローバリゼーション対ナショナリズムというような単純な二項対立では動いていない。両者を抽象的に対立させ、どちらか一方に肩入れするという議論は、その構図自体が不毛であろう。国家という制度をどう使いこなすにしても、国家とそれを超える動きが共犯関係として併存している状況を把握することなしには、現実的な議論は進まない。

 

さらに小熊は、別の論文で、グローバリゼーションはグローバルなレベルでの均質化を促進すると同時に、国内では格差を助長するというパラドキシカルな現象でもあるとも指摘している(小熊2002a)。

 

 本研究の立場は基本的に小熊と同じである。ただし、

1)グローバリゼーションのインパクトは国や地域によって異なる

2)グローバリゼーションのインパクトは政治・経済・文化などの領域によって異なる

3)グローバリゼーションとともに起きるナショナリズムは国や地域によって異なる

ことが考えられる。つまり、グローバリゼーションに対して、それぞれの国・地域がどのようなナショナリズムをとるかは、その国や地域の歴史的・文化的・政治的・経済的・社会的背景によって異なると思われる。そこで、本研究ではメキシコと中国を事例として取り上げ、文献調査と現地調査によって、グローバリゼーションとともに生起したと思われるナショナリズムの類似点・相違点を明らかにすることを目的とする。

 

 

2 研究活動の概要

 

 現地調査に先立ち、文献調査と講師を招いた勉強会を開催した。対象となった文献は本報告書に掲載した参考文献である。また、開催した勉強会は以下のとおりである。

 

1)2004424日 「人間安全保障と社会行動仏教−カンボジアの事例と今後の課題」

              講師:中部大学助教授 野田真里

2)2004731日 「フランス同化主義の実像グローバリゼーション時代の少数派擁

護を考える」

              講師:パリ第八大学助教授 小坂井敏晶氏

 野田氏は、グローバリゼーションの影響で国家が国民の安全を保障するという従来の考え方が揺らいでおり、国家の安全保障を補完する上で、ローカルな地域に根ざした社会運動が重要であることを内戦後のカンボジアを事例に指摘された。われわれとしては、グローバリゼーションとナショナリズムの関係だけでなく、ローカルな視点を盛り込む必要性について示唆を得た。

 小坂井氏は、「グローバリゼーションにともなって、文化の交流と同時に文化の均一化が進行する。この時に、自らを異文化要素に対して開くか(異文化受容)、あるいは閉ざすか(同一性維持)をめぐってせめぎあいが生まれる。この問題は国家間のみならず、ひとつの社会内においても同じ構造を持っている。移民受け入れ問題においてそれが端的に現れる」と主張し、移民受け入れ問題の典型的な事例として、多民族・多文化主義の米国・カナダと普遍主義のフランスを比較した。結論として、両者それぞれに以下のような利点と問題点があると指摘した。「多民族・多文化主義の場合には、少数派保護の点では好ましいが、個々の集団が固定化されて社会が分離してしまう。また、民族の実体視にもつながる。後者の普遍主義では、基本的に民族の実体化を避ける。フランスでは国勢調査で出身国別の統計を取らず、アファーマティブアクションは否定される。しかしそのような普遍主義は同化主義でもある」。われわれとしては、中国とメキシコの場合のナショナリズム(民族主義)を理解するときの参照枠組みとして利用できるのではないかと考えた。

 以上の予備研究を踏まえ、下記のフィールドワークを実施した。

 

1)2004731日〜827

目的:新自由主義経済に対する異議申し立ての動向調査

調査地:中国河南省、湖北省、湖南省、上海市

参加者:田島英一、山本純一(813日〜20日)

調査概要:

今回の調査では、新自由主義経済に対する異議申し立ての動向を、中国に探ることを目的とした。周知のように、中国の経済政策は、1978年の改革開放から1992年の社会主義市場経済へ、更には行政改革、国有企業改革、「小さな政府と大きな社会」論等、新自由主義経済との親和性を強めてきた。これにより社会階層が二極化、影響力を増した新中間層を政治的資源に変えるため、中国共産党は「三つの代表論」を提唱する。一方、農民は抗議行動を活発化させ、都市低所得層は不満のはけ口を、過激なナショナリズムに求める傾向を見せるようになった。これはつまり、市場経済の浸透が生んだ効率信仰が、農業を「非効率」部門視し、農民が政治的にも周縁化されたことを意味する。都市部においては、挫折感と価値の空白状態が、ナショナリズムによって自尊心を守るという、安易な風潮を生んだことを意味する。ゆえに、新自由主義に対する異議申し立てとは、「弱者」としての農民が尊厳を回復し、農村に新たな価値を付与する運動であり、また価値の空白ないし画一化を阻む、多元的社会構築の試みでなければならない。  

前者の例としては、河南省南街村(81518日)を訪問した。南街村は社会主義改造期の集団生産、集団所有を理念とし、その精神的支柱として毛沢東をいただく「赤い村」である。戸籍上は農村であるが、事実上は市街地化率が高く、主に第二次産業に依存する「小城鎮」であるといえよう。村指導部は、現時点で村民の生活保障に成功している。しかし、金融機関からの多額の借款の存在、外部労働力に依存する体質、中央政治との特殊な関係など、モデルとしての持続性、普遍性は疑わしいとの結論を得た。

後者の例としては、湖南省キリスト教両会(814日)、武漢キリスト教青年会(8515日)、上海キリスト教青年会(82027日)を訪問した。中国における社会団体は各級政府において登録を行うことが、合法活動の前提となり、しかも登録時に申請していない活動には参与できない。従って、湖南キリスト教両会が社会福祉事業に参与しているのは、地方政府との良好な関係が可能にした、一種「越権」行為であるといえる。また、武漢、上海のキリスト教青年会は、その幹部には教会関係者がいるものの、独立したNPOとして設立されている。このため、キリスト教の愛の精神を理念としつつも、社会福祉活動に従事することが可能となる。いずれも、市場経済における「弱者」とされた人々に福祉を提供することで、社会的認知を得つつあり、かつて「人民のアヘン」と呼ばれた宗教が、中国社会において復権する一助となる。これは、社会主義でもナショナリズムでも、市場経済の金銭的価値でもない、選択可能な価値観を復権させることにもつながる。田島が上海キリスト教青年会のボランティアに対して行ったアンケートでは、クリスチャンではない青少年に価値観のシフトを起こしつつあることも確認された。このような変化は、将来多元化された市民社会を築く、成熟した市民の出現を予感させる。ただし、こうした宗教団体やNPOが、海外資金を調達するための便利なチャンネルとして、地方政府から利用されている実態も明らかになった。

同様の調査は、200412月(別資金による)にも行われた。今後は、後者の事例に焦点をあて調査を続行、更なる分析を加える予定である。

 

2)20041118日〜1127

目的:新自由主義経済(構造調整)政策導入後のメキシコ・チアパス州コーヒー生産者組合運動に関する調査および連帯経済に関するワークショップへの参加

調査地:メキシコ市、チアパス州

参加者:山本純一、小熊英二、照沼かおり(総合政策学部4年)、神尾幸子(総合政策学部4年)

調査概要:

コーヒーは、その歴史が物語るように、「北」の需要に応じて「南」が生産させられ、「北」が取引市場を寡占的に支配、収益の大部分を手にするという意味で、「南北問題」を象徴する商品作物である。しかも、1989年以降、ICO(国際コーヒー機関)の輸出割当(生産)調整失敗によって自由貿易化、即供給過剰となり、国際価格(ニューヨーク相場)は暴落、一時的な価格の上昇はあったものの、200112月には0.415j/㍀という歴史的な安値をつけた。

 コーヒー主要生産国の一つであるメキシコでは、1982年以降、IMFの勧告に従った構造調整政策がとられ、貿易収支・財政収支の均衡化、公営企業の民営化等の措置が断行された。このため89年にはコーヒー公社が保証価格による買上げと輸出業務を停止した。かかる苦境下にあって、コーヒー生産者の7割を占めるといわれる先住民族の間に連帯といった意識が高まり、小規模生産者の中には協同組合を結成し、独自の販路作りや品質の改善に取り組む動きが活発化した。

 他方ヨーロッパでは、60年代半ば以降、「南」の生産者の生活改善を支援するため、「援助よりも貿易を」というスローガンのもと、その商品を直接購入する運動が盛んとなり、89年には公正価格での取引、すなわちフェアトレード(FT)を認証する団体が誕生した。

 メキシコのコーヒー生産者協同組合とヨーロッパのFT運動が出会うことによって、メキシコは世界のコーヒーFT市場の14を担うFT「先進国」となった。しかしながら最近のFT運動は、当初の理念である「生産者と消費者の顔が見える関係」を構築するというよりも、スターバックスに代表される大手コーヒー会社との取引を通じた「メジャー化」を志向し、生産者協同組合も組合員の多くがFT運動の目的・理念を理解していないとの報告が出されるようになっている。

以上の経緯をふまえ、本調査では、メキシコ国内最大のコーヒー生産地チアパス州において活動している、FTの経験が豊かで営利主義的傾向の強いマホムット協同組合と、FT市場への小規模新規参入者でカトリック先住民共同体を基盤とするマヤビニック協同組合の沿革・組織・運営・生産・販売・輸出の実態を比較することによって、コーヒーFT運動の可能性と課題を検証した。その結果、FT市場を拡大するには、マホムット協同組合については、組合員に対するFTの目的・理念の指導および経営の透明化を通じた内部体制の強化=組合員離れの阻止が、マヤビニック協同組合については、加工技術の向上によるコーヒー豆の品質改善と経営体制の合理化が必要であるとの結論に達した。また、コーヒー生産者協同組合全体の課題としては、国家および州レベルのコーヒー関連政府機関との連携強化が挙げられよう。

 

3 結論と今後の課題

 以上の調査から、中国の場合もメキシコの場合も、グローバリゼーションに対する異議申し立てとして、ナショナリズム(民族主義)を経由したローカルなレベルでの社会運動が隆盛しつつあることが判明した。中国とメキシコの違いと思われるのは、中国の場合が、いくら新自由主義的な傾向が強くなっているとはいえ、共産党が国民の生命・安全に対する責任を負っていることから、国家がそれなりの弱者支援体制を保っているのにたいし、メキシコの場合は、71年間に及んだ制度的革命党による一党支配体制が崩れ、国家の力が弱まったことから弱者切り捨ての傾向が強く、グローバリゼーションが国民や地方を直撃し、だからこそメキシコでの反グローバリゼーション運動が盛んになっていると考えられる点である。しかし、以上の見解はまだ仮説であり、今後の研究と調査によってこれを検証したい。

 

(文責:山本純一)

 

参考文献

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伊豫谷登士翁(2001)『グローバリゼーションと移民』有信堂

伊豫谷登士翁(2002)『グローバリゼーションとは何か――液状化する世界を読み解く』平凡社新書

伊豫谷登士翁(編)(2002)『グローバリゼーション――知の攻略 思想読本』作品社

伊豫谷登士翁・梶田孝道編(1992)『外国人労働者論――現状から理論へ』弘文堂

伊豫谷登士翁・酒井直樹・テッサ・モリス=スズキ(編)『グローバリゼーションのなかのアジア――カルチュラル・スタディーズの現在』末來社

岩渕功一(2001)『トランスナショナル・ジャパン』岩波書店

遠藤誠治(2003)『かわさき市民アカデミー講座ブックレットNo.14 グローバリゼーションとは何か』シーエーピー出版

小熊英二(2002a)「近代日本のナショナリズムとグローバリゼーション」SFCフォーラム事務局編『SFCフォーラム・ファイル6 産学の対話2002――日本復権の構図』慶應義塾大学湘南藤沢キャンパス

小熊英二(2002b)「図式はナショナリズムとの共犯関係」『毎日新聞』200234日夕刊 http://web.sfc.keio.ac.jp/~oguma/report/book/zu.htm

ギデンズ、A(1993)『近代とはいかなる時代か? モダニティの帰結』(松尾・小幡訳)而立書房

グレイ、J(1999)『グローバリズムという妄想』(石塚雅彦訳)日本経済新聞社

佐伯啓思(1998)『「アメリカニズム」の終焉――シヴィック・リベラリズム精神の再発見へ』TBSブリタニカ

佐伯啓思(2001)『国家についての考察』飛鳥新社

佐伯啓思・筒井清忠・中西輝政・吉田和男(2000)『優雅なる衰退の世紀』文藝春秋

田中人(2003)「グローバル化とローカル・コミュニティ――ローカリティの変容と更新」田村正勝編著『甦るコミュニティ――哲学と社会科学の対話』文眞堂

トドロフ、ツヴェタン(1986)『他者の記号学――アメリカ大陸の征服』(及川・大谷・菊地訳)法政大学出版局

中谷義和(2000)「グローバル化・国民国家・民主政」鶴田満彦・渡辺俊彦(編著)『グローバル化のなかの現代国家』中央大学出版部

二宮厚美(1999)『現代資本主義と新自由主義の暴走』新日本出版社

野口真・平川均・佐野誠編著(2003)『反グローバリズムの開発経済学』日本評論社

橋川文三(2001)『橋川文三著作集 第9巻 ナショナリズム』筑摩書房

古矢旬(2002)『アメリカニズム――「普遍国家」のナショナリズム』東京大学出版会

フランク、A.G.2000)『リオリエント――アジア時代のグローバル・エコノミー』(山下範久訳)藤原書店

ヘルド、D.、マッグルー、A.(2003)『グローバル化と反グローバル化』(中谷義和・柳原克行訳)日本経済評論社

ミッテルマン、J.H.(2002)『グローバル化シンドローム――変容と抵抗』(田口富久治ほか訳)法政大学出版局

武者小路公秀(2003)『人間安全保障論序説――グローバル・ファシズムに抗して』国際書院

山之内靖・酒井直樹(編)(2003)『総力戦体制からグローバリゼーションへ』平凡社

山本純一(2002)『インターネットを武器にした<ゲリラ>――反グローバリズムとしてのサパティスタ運動』慶應義塾大学出版会

山本純一2003a「〈帝国〉に抗するサパティスタ――マルチチュードの可能性」『神奈川大学評論』第45

山本純一2003b)「社会運動とインターネット――サパティスタ運動に関する論争をめぐって」梅垣理郎編『総合性政策学の最先端V』慶應義塾大学出版会

山本純一(2003c)「サパティスタの挑戦――反グローバリズム・新ナショナリズム・脱国家ローカリズム」『ラテンアメリカ・レポート』Vol.20No.2、アジア経済研究所

山本純一(2004)『メキシコから世界が見える』集英社新書

山脇直司(2004)「グローバル化に対する視座とグローカル公共哲学」山脇直司・丸山真人・柴田寿子編『ライブラリ 相関社会科学10 グローバル化の行方』新世社

歴史学研究会(編)(1992)『南北アメリカの500年 第1巻 「他者」との遭遇』青木書店

渡部亮(2003)『アングロサクソン・モデルの本質 株主資本主義のカルチャー――貨幣としての株式、法律、言語』ダイヤモンド社

 

Beck, U.2000,What Is Globalization?, Cambridge: Polity Press.

Hirst, P. and Thompson, G. (1999), Globalization in Question, 2nd Edition, Cambridge: Polity Press.

Ianni, O.1999, La Era del Globalismo, México: Siglo Veintiuno Editores.



[1] 本研究でいうグローバリズムとは、佐伯が主張するように、社会主義の崩壊後、市場経済が世界に拡大し、世界に巨大で単一の市場社会が生まれることが望ましいと考えるイデオロギー、つまり端的には新自由主義をさし、グローバリゼーションとはそのような現象をいう。