2006年度 学術交流支援資金「海外の大学等との共同学術活動支援」
「質的」人間開発指標の開発にむけた基礎研究
研究代表者:ティースマイヤ・リン
▼ 研究課題
人間開発指標は、経済指標に還元することなく国家間、地域間の比較検討を可能にする指標として作られてきた。だが同時に、比較のための普遍化志向ゆえに、ある個人や世帯がその地域のいかなる社会資源にアクセスが可能/不可能かといった資源の偏在性や社会的排除の問題が考慮できず、当事者の生活に与える影響を見ることはできなかった。資源へのアクセスは、量的ではなく質的に把握するべきものである。本研究ではケイパビリティを測定するために資源のアクセス可能性に関する「質的」人間開発指標の開発にむけた基礎研究を行い、新しい指標の開発、提案を行う。
本研究によって、これまでの人間開発指標が把握できなかった、当事者の生活の機能を維持/向上させている要素を踏まえた現状の客観的把握、時系列的把握が可能となることが期待される。これは、当事者にとってのエンパワーメントをより多文化的、多地域的に鍛え直す契機となることに繋がる。
▼ 今年度の活動報告
本研究の課題は、以下のものである。「地域においていかなる社会的資源にアクセスすることができるか質的に把握することで、人間開発指標を個別具体的な文脈に対応可能なものとすることを目指す。この作業を通して、エンパワーメントのための各種施策の有効性や問題を把握可能になることが期待される」。
この地域における社会的資源へのアクセスを質的に把握するために、本年度は以下の二つの作業を行った。
1. 既知の質的側面を重視した先行調査の調査手法の分析
2. 現地調査(次節にて説明)
1については、開発途上地域において開発政策の効果や新しい地域政策の立案・実施を地域の状況や住民の参画を重視して調査、実践を勧めてきたチェンバース(Robert Chambers)のPRA(participatory rural
appraisal)について詳細に検討を行った。具体的には、チェンバースの時期の異なる二冊の著書(Chambers 1983; 1997)をベースに、開発地域において研究者や政策者がいかにして関わってゆくべきかという点、また調査においてどのように専門家が関わるべきかについて考察した。
チェンバースの提唱するPRAの背景には、現地の人々の生活を理解しようとする際、専門家の作り上げてきたリアリティによって当事者のリアリティが簒奪されてゆくことへの批判がある。そのため、専門家のみが理解できる統計的手法ではなく、当人たちが説明できる言葉と視覚的ツールを用いて当事者の「リアリティ」に近く付くことを試みている。また、この手法は開発政策全般の再評価にも繋がると言える。
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質問票調査 |
参加型手法 |
プロジェクト形成などの判断 |
現実の選択・単純化、上位のリアリティを再確認 |
現実の複雑さ、多様性の理解 下位のリアリティの共有 |
モニタリングと評価 |
プロジェクトの影響を評価するのに役に立たない(有効ではない) |
地域住民が自らプロジェクトの影響を評価し、問題点等が明確化される |
調査の実践における有効な手法として以下の手法をPRAの知見からえられる手法、認識を確認し、現地調査においても活用した。具体的には下記の項目をとくに重視している。
・閉じたものから開いたものへ(From Closed to Open):個人・家族、コミュニティのリアリティを外部者へ向けて発信、半構造的インタビュー、対話
・計測から比較へ(From measuring to comparing):絶対的な基準ではなく、相対的な基準・価値の重視
・個人からグループへ(From individual to group):複数人によるチェックを行うことによる、信頼性の確保
・口述から視覚へ(From verbal to visual):多様性・複雑性を表現、分析。弱い立場の人々・不利益な立場にある人、文字の読み書きができない人たちへのエンパワー
この知見を踏まえて、具体的には概念的側面と実地調査として以下の3点を集中的に行った。
▼ 調査実績
本年度は、タイにおいて貧困地域であるタイ北部と東北部に焦点を当てて調査を行ってきた。この対象設定は、一般的に「貧困」とされる地域においてさまざまな農業支援や工業化などの開発援助が行われてきた経緯があること、同時に貧困農村地域内においても土地なし層の存在が指摘されており、社会的排除の問題を考える上でも重要な視点を提供しうることから設定したものである。この地域では、すでに数年にわたって、調査を行ってきた。本年度の調査は、これらの知見や調査におけるネットワーク(とくに、対象農村の自治組織や地域の大学(Kohn Kean University, Chaing Mai Universityなど)、地元NPOなどとのもの)を活かして調査を行った。具体的には、人間開発を個人、世帯単位で考えてゆくことを重視して以下の調査を行った。調査Aは個人、世帯の視点からみた農村内の互助組織との関係が、どの程度生活の安定化に寄与しているのか、またその格差がいかなる要因から生まれているのかについて調査したものである。また調査Bは、様々な開発指標で重要とされる貨幣収入に焦点を当て、収入生成(income
generation)の一つとして一村一品政策(OTOP)が住民の生活の安定にどのように繋がるのか、あるいはどの層には重要であるが、どの層には重要ではないかを考察したものである。
いずれも生活の安定を考える上で、既存の普遍的な資料では考察しがたい点を乗り越えるために、いかなる考察のための指標を考えてゆくべきかについて検討した。
調査A.「移行期農村社会におけるヒューマンセキュリティ」(調査担当:上原、渡部)
【概要】市場が整備されつつある東南アジア地域において農村部低収入層が生活を維持・向上させるために必要な財・サービスをどのように確保しているのかを、市場・非市場メカニズム双方の機能に着目し、明らかにすることを目指した。非市場メカニズムとは縁戚関係・互助組織を介した贈与・交換、自然環境からの採取などを指している。
【対象地域】8/14-8/28 チェンマイ、8/29-9/2 バンコク、9/3-10ラオス、9/11-19コンケン
【調査期間】2006年8月19日~9月19日(日間)
【調査手法】半構造型インタビュー/のべ70人
【知見】開発政策によってもたらされる土地や生産物などの「私的所有」のあり方が、どの程度当事者の生活に変化をもたらしたのかについて明らかにした。特に、非市場メカニズムの重要性を明らかにするとともに、このような非市場メカニズムのありようは村ごとによってもある程度違いがあり、普遍的な指標では一概に捉えきれないことを明らかにした。
調査B.「北部タイ農村における「一村一品政策」と生活の安定」(調査担当:黒川)
【概要】北部タイ一村一品政策のプロジェクトを対象に調査を行った。一村一品政策の効果を@農村社会にどのような影響を与えたのか、A一村一品政策が提供する収入機会にアクセスできる人間/できない人間はそれぞれ誰であるのか、B住民の「生活の安定」にどのように寄与したのか、という3つの点から検討した。この分析を通して、一村一品政策という国家政策と住民の生活を安定化させるための戦略との関係を考察した。
【対象地域】タイ北部地方チェンマイ県サンパトン郡ドンパサン行政村
【調査期間】2006年8月1日〜8月19日(19日間)
【調査手法】一人当たり1〜2時間の半構造的インタビュー/14世帯26名、資料収集
【知見】一村一品政策を通じての収入生成は、農村の中間層(小〜中規模の土地を所有)には有意義な政策であり、生活の安定化に繋がっていた。しかし、収入がもともと多い大規模農家が興味を持つものでなく、また「貧困」状態にある土地を持たない零細農、日雇い層にとっては参加しがたいものであった。その意味で一村一品政策は、特定層には効果的であるが、最貧層には別の形での支援が必要であることを明らかにした。
▼ 本年度の研究意義と次年度への展望
本年度の調査では、PRAの手法を参考に、当事者のリアリティに最大限近づきつつ、彼/彼女の生活の安定化に寄与する社会的資源、自然資源のあり方について現地調査における知見を中心に収集、分析を行ってきた。その結果、村内ネットワーク(互助組織など)を理解するためには、当事者の経歴や属性をその土地の文脈において理解すること(例えば、土地の有無が互助組織への参加にどのように影響しているか/いないか)などが重要なポイントであることが明らかにされた。また、指標化への努力としては、互助組織や村内政治組織への参画のあり方、村外のネットワークへの参加のあり方などが指標化可能ではないかという知見を得た。
次年度以降は、本年度の知見を活かしつつ、さらなる指標化への努力を果たすと共に、視覚的情報(当事者による「資源」地図の作成など)を積極的に取り入れた調査と指標の作成可能性を検討してゆきたい。このような作業を通して、当事者の生活の安定化に寄与するような人間開発指標の作成を目指してゆきたい。
[参考文献]
Chambers, R. 1983 Rural Development: Putting the Last First. Longman, Harlow.
Chambers, R. 1997 Whose Reality Counts? : Putting the First Last. ITDG Publishing.