研究課題名:

ポスト・グローバル化時代におけるイスラーム研究の可能性

 

研究代表者:

奥田 敦(総合政策学部教授)

 

研究課題:

金融資本主義に主導されたグローバル化破綻後のグローバル社会におけるイスラーム研究の可能性を、イスラーム圏の各地(シリア、レバノン、イエメン、リビヤ、モロッコ、セネガル、インドネシア)に展開しているSFCの研究拠点を活用して、経済、金融、政治、国家体制、開発、安全保障、エネルギー、法、社会、伝統、文化・文化交流、映像・メディア、言語、倫理、宗教、聖典クルアーンなどの幅広い観点から、フィールドワーク、文献研究、国内外の専門家との意見交換も交えつつ明らかにしていく。従来の地域研究を超え、イスラームに特有の包括的世界観をもとにポストG化時代の学問方法論を構築する試みである。

 

研究の背景:

 金融資本主義に主導されたグローバル化が破綻し、未曾有の経済危機に追い込まれた。経済偏重、資本偏重、ユニラテラルな権力への追従から脱却し、新たなパラダイムへ移行しなければならないことが、いよいよ明らかになった。人文・社会学の学問の分野はそうした状況を積極的に助長しなかったまでも少なくとも看過はしてきた点は見逃されてはならない。分ける学問としての科学、分析から法則の抽出が主題となり、物質的なるもの定量的なるものへの還元が主流を形成してきた学問の在り方、知の体系に対する鋭い問題が突き付けられている。

 グローバル化が呑み込もうとしていたものにイスラーム金融がある。金融資本の破綻がなければ、おそらくオイルマネーによる投資やイスラーム圏の人々の資産の金融化が、一挙に進んだのであろう。だが、急ブレーキがかかった。イスラーム金融を正当化する法理論は、イスラーム法の立場からすれば脱法行為にも等しく、実体経済を重んじるイスラームの立場からすると、本来のイスラーム経済からの逸脱は甚だしいといわざるを得ない。

 事実、今回の経済危機の余波があるのかとたとえばシリアやイエメンで聞いても、影響は限定的でしかないというのが一般的な答えである。それは、閉鎖的な経済のせいだと説明されるところではあるが、なぜ、国際的な金融市場に組み込まれていないのかを一因として人々に埋め込まれたイスラーム経済の教えの影響を無視することはできないのではないか。もっと積極的にいえば、イスラームの教えの中にこうした混迷に対する解が埋め込まれているのではないかと考えることさえできるのである。

 イスラーム教徒たちによれば、イスラームの教えの源である聖典クルアーンは、彼らの社会と彼ら自身にとっての憲法であるという。イスラーム法では、不易不動の究極的な法源をなす。しかも、その聖典クルアーンは、イスラーム教徒にのみ向けられたものではない。それを信じるかどうかは別として、すべての人々に向けられており、時空の制約をこえてすべての問題に対して答え、あるいはそのヒントを示してくれる書物なのである。

 本研究では、金融資本主義によるグローバル化の破綻という時代の変節点にあって、イスラームの教えの包括性、普遍性に着目して、人文社会科学を中心に既存の学問体系の在り方に対して、様々な分野におけるフィールドワークの成果に基づきながら見直しを行い、次の時代を切り拓く学問方法論の構築に、イスラーム研究の新たな可能性を検証しようというものである。

 

研究の成果:

 上記の背景を受け、イスラーム研究の可能性を、経済、金融、政治、国家体制、開発、安全保障、エネルギー、法、社会、伝統、文化・文化交流、映像・メディア、言語、倫理、宗教、聖典クルアーンなどの幅広い観点から検証した。

 経済:富の還流の問題に焦点を当てる。特に、イスラーム教徒が義務として行っているザカートやサダカといった第2次的な富の還流について、それを促進する団体や個人について、ラマダーン月に実際にサウムを行いながら、調査をおこなった。(20099月、奥田、植村さおり(政策メディア研究科博士課程)、戸田圭祐(環境4年大学院進学予定者)など@シリア)

 金融:イスラーム金融の現状を経済的な側面と法学的な側面の両面から考察する。経済的な側面については、シリアのアレッポに、銀行と利用者、さらに現地の宗教学者にインタビューを行った。イスラムビジネス法研究会(@西村あさひ法律事務所)へも奥田が設立時からのメンバーとして8回の研究会に出席。9月の会では、発表を行った。

 政治・国家体制:独裁体制の正当性の維持についてイスラームの教えを背景に持つ独裁制をリビヤ(小林周(修士1年)、12月から1月)、ウズベキスタン(奥田、稲垣文昭(SFC研究所上席研究員)、中野晧介(修士1年)、9月)において、予備的なフィールドワークを行った。国家権力とガバナンス論の関係については、『体制移行とガバナンス』(世界思想社、2010年度刊行予定)にて執筆を担当。

 人間の豊かさ:人間の豊かさとはいかなるものなのかについて、中田考(同志社大学神学部教授)、山本達也(名古屋商科大学外国語学部常勤講師)および日本人イスラーム教徒の大学院生らとともに、6月(@三田)と12月(@SFC)に研究会を行った。研究成果は、日本・サウジアラビヤ協会の助成を得て、イスラーム的な視点のほか、オイルピーク論などのエネルギーの観点も含めて、多元的な「豊かさ論」が来年度前半にまとめられる予定。開発援助の前提に対しても一石を投ずるものになりうる。

 安全保障:これまでの対テロ戦争がイスラーム圏における平和構築の最善策ではないことは、ジハードの本義から明らかであるが、この点を実例から検証し、安全保障の確保に最も必要なものをインドネシアのイスラーム台頭の事例(野中)を中心に考察した。

 法:イスラーム法の包括性、普遍性について考察を行い、イスラーム法学の可能性を明らかにするためにユースフ・カラダーウィー『フィクフの優先課題』(アラビヤ語)の訳出を進めた。イスラーム金融などで濫用されているとされるイジュティハードの実際的運用とその主導原理についての調査は、今後の課題となった。

 社会:イスラーム台頭の動きとその影響についてフィールドワークの成果に基づきながら、インドネシア(野中葉(博士候補))、シリア(植村)、セネガル(阿毛香絵(修士課程2年)研究成果は修士論文にまとめられた)を中心に検証を行った。市民社会、公共宗教といったユダヤ・キリスト教的な文脈の中で生まれた概念の受容の実際と、イスラーム的な観点からのそれらの意味については、奥田が『協働体主義』(田島、山本編、慶應義塾大学出版会、2009年)にイスラーム市民社会における「公」について論考を寄せた。

 伝統:ステレオタイプ的な「中東」も「イスラーム教徒」も消滅している現状の中で、伝統的なイスラームが依然として根強い影響力を持ち続けている。日本との比較も交えながら伝統によらない「人と人とのつながり」についてアラブ人学生歓迎プログラム(112日から16日@SFC、未来先導基金からの助成プログラム)の実施を通じて、学部生も含めて実践的な考察を行った。また、柳田国男などの民俗学的な日本人としてのつながりについては、その限界性も含めて代田七瀬(修士1年)が周到な検討を行った。

 文化・文化交流:異文化とされることの多いイスラーム文化だが、果たしてそれは「異なる」文化か。お互いの変化の契機としての文化交流の事例としアラブ人学生歓迎プログラム(11月)、アラブ人若手日本語教師研修プログラム(12月〜1月、未来先導基金からの助成プログラム)、特別研究プロジェクト(アラブ世界訪問プログラム@モロッコ、4大学)を実際に行いながら、イスラーム的な意味での文化や文化交流の在り方を考え、また実践する機会を得た。

 映像・メディア:アラブの映画作品によって表象されまた受容されるアラブ・イスラーム圏のイメージを検証し、映像・メディアの重要性と可能性について考察。調査は、アラブ諸国で行われる映画祭への同行フィールドワーク(佐野(ベイルート在住、セント・ジョセフ大学日本センター副所長))による。

 言語:イスラームの啓示、クルアーンの言葉でもあるアラビヤ語のコミュニケーションの特殊性から、言語一般の特質を引き出す。従来、話し手と聞き手の2項からのみなるとされてきた会話構造に、アラビヤ語ではアッラーという第3項が加わる。第3項の顕在化している会話の特質をフィールドワークと文献研究による調査を行った(間瀬優太(修士1年)@アレッポ)。アラビヤ語の媒介性については、奥田敦「アラビヤ語の媒介性について」『媒介言語論を学ぶ人のために』木村・渡辺編、世界思想社、2009年が出版された。また、アラブ・イスラーム圏における日本語教育の現状と問題点について、堀内暁子(修士1年)がアレッポとベイルートで、教員および学習者に対する聞き取り調査を行った(2月〜3月)。

 倫理:西欧的倫理の限界性をイスラーム倫理との比較において明らかにするべくアリストテレス『二コマコス倫理学』の精読を、1年を通じて行った。また、ムスリムたちの倫理の実践の実態を、シリアの慈善団体活動(植村@アレッポ、9月)、イエメンの若者たちの反カートの動き(菊池創太(修士1年)@サヌアー、3月)、インドネシアの大学におけるダアワ(イスラームへの呼びかけ)運動(野中)の中に検証を進めた。

 宗教:アッラーについて天皇制における「神」の概念との構造的比較を行う(奥田、「概念構築GR」の講義で取り上げて議論)。また、イスラーム的な意味での宗教的観点からする「西欧アカデミズム」の限界について、論考を執筆(奥田。未発表)。さらに、「死」を相対化する社会科学の枠組みをイスラーム的観点から模索した「シャリーア・イスラーミーヤの包括性について」(『生と死の法文化学』真田芳憲編、国際書院、2010年出版予定)に寄稿。生命への過剰な信奉の構造と問題点も明らかにした。

 聖典クルアーン:クルアーンの研究なくして、イスラーム的なるものの探究は行い得ない。最大のフィールドはクルアーンなのである。上記の各領域もすべてクルアーンとのかかわりの中で個別に参照される必要がある。本研究では、マッカ期の啓示の中から「太陽章」「町章」「暁章」「圧倒的事態章」「至高者章」「夜訪れる者章」「星座章」「割れる章」「量を減らす者章」「避ける章」の各章について、アラビヤ語スキルの授業を通じて、精読を進めた。

 さらにクルアーンの聖句の意味空間を、直行ベクトル空間の方式に則ってその意味空間データベースを構築していく。前年度に行った凝血章の試験的な空間を作成を、クルアーン全体の空間に拡張するための準備作業を行った。具体的には、クルアーン内の全単語を対象として、単語の出現頻度(TF)をカウントし、上位100単語からなるベクトル空間作成の準備を行った。7月に清木研究室で研究発表を行い、清木先生から研究の方向性に示唆深いコメントいただいた。

 

小括:

@イスラームの教えからみたイスラーム圏の現実を具体的に提示:イスラーム世界の現実が抱える最大の問題が、イスラームの実践の脆弱さである。金融が突出する経済(イスラーム経済とイスラーム金融の研究)、権威主義体制に傾きがちな政治体制(リビヤ、シリア、モロッコ、ウズベキスタンなどの研究)、伝統への固執と急速な近代化の間で揺れる法学的判断(イスラーム法解釈にかかわる問題)、スーフィズムと個人崇拝に傾く信仰の姿(セネガル)などにおいてそのことが明らかになった。

A「現実」から「真実」へのシフト:それは、事実信仰に貫かれ、もはや現実さえもすくい取れなくなくなっている感のある昨今の人文・社会科学に対して、各学問領域に対してフィールドワークの実例を持って真実のレベル(つまり、彼らが真に目指しているもののレベル)とそれを明らかにするための学問的方法論への試験的な提示が行われた(たとえば、イスラーム法の包括性の指摘)。また、@であげた現実の中にあってもなお、イスラームの教えに忠実に生きようと、社会的な活動を行う人々の姿も捉える事もでき(インドネシア、シリアなどにおける内面的倫理的イスラームの復興の動き、富の分配を積極的に行おうとする個人あるいはグループの存在)、そのことがまた「現実」から「真実」への方法論的なシフトの正しさも証明した形である。

Bしたがってそれは、フィールドワークに新しい可能性を示しうるものである:イスラームの教えの包括性と普遍性にもとづくそれは、ギアーツの人類学的な手法もあるいは柳田国男らの民俗学的な手法も超える。探究すべきは「未開人」でも「常民」でもない。ましてや原理主義者やテロリストとしてのイスラーム教徒ではない。互いの違いを尊重しながら、いかに「大きな意味で」ともに「われわれ」になれるのかである。とはいえ、「大きなわれわれ」は、一時的な感情や宗教的な熱狂によって醸成されるものではない。本研究が全体として用いた方法論は、現象にのみ囚われない方法論の確立につながる。

Cイスラーム研究の新しい可能性:ポスト・グローバル化の時代にあって、より多くの人々が、人間であるというそれだけの理由で尊重し合える、新しい社会の枠組み作りは、喫緊の課題。クルアーンの聖句の研究やクルアーンの意味空間の構築をも含みながら、イスラームからの視座とそれに基づいて多領域を現実のイスラーム圏の広がりに近い形でマルチに包み込む研究は、そうした真のグローバル社会づくりの一助になるものと確信している。