研究課題:「多言語共存のための応用的言語研究に向けて」

 

研究代表者:         平高史也(総合政策学部教授)

研究分担者:         木村護郎クリストフ(上智大学外国語学部准教授、総合政策学部非常勤講師)

                            由布真美子(政策・メディア研究科修士課程1年)

                            崔英善(政策・メディア研究科修士課程1年)

 

1.背景

 

いわゆるグローバル化にともない、地球規模での人口移動が進む中、移民、難民等々の移住によって、言語を異にする話者どうしの接触機会が増大している。多くの場合、移民や難民は母語を使用する範囲や対象が著しく限定され、移住先の社会で公けに使われている言語を学習して使うことを求められる。そのための言語の教育(たとえば、日本の場合は移住してきたブラジル人に対する日本語教育)は世界各地ですでに実施されているが、経済的要因や教育体制の問題など、さまざまな制約から学習が進まず、当該言語を十分に使用できない状態に留まるケースが少なくない。その結果、母語話者との間にコミュニケーション上の問題が生じ、非母語話者は不利益を被ることが多い。

 多言語多文化社会における共生に関する議論は近年ますます活発化しているが、真の共生社会を実現するために言語が果たす役割は小さくないはずである。しかし、近年の社会の多言語化に関しては、言語教育、言語政策、言語接触、第2言語習得などの分野でさまざまな研究がなされているものの、言語研究、特に社会言語学をはじめとする応用言語学が多文化共生に貢献できるという視点に立った研究は、言語権研究、ウェルフェア・リングイスティックス、「ヒューマンセキュリティの基盤」としての言語政策研究などがあるだけで、まだあまり多くない。

そこで、本研究では、多言語社会で非母語話者が抱えている言語に関する問題を、コミュニケーションの実践、言語学習支援政策、言語権の3つの側面から明らかにし、言語研究の知見が非母語話者と母語話者の平等な関係の構築に寄与する可能性があることを包括的に検証する。

 

2.目的

 

本研究の目的は次の2点である。

1)コミュニケーション上の問題、言語学習の支援政策、言語の権利の認定と行使の3つを取り上げ、問題の所在を明らかにする。

2)これらの問題を解決するために、社会言語学や言語教育が貢献しうる可能性を示す。

 

3.課題

 

2.1)に掲げた目的を達成するために、本研究では以下の3つの課題に取り組み、フィールドワークを行った。

 

1)コミュニケーション上で非母語話者が被る不利に関する問題

 

研究分担者の由布は、ドイツに住むイタリア系住民に対するインタビュー・データの収集し、修復(repair)とよばれる現象を手がかりに彼らが抱える言語コミュニケーション上の問題の解明に取り組んできたが、本研究の枠組みでは、対象をドイツ在住の日本語母語話者とし、20091119日から25日にライプチィヒで日本語母語話者とドイツ語母語話者15組によるドイツ語の会話を収録した。修復を手がかりに分析したのは、母語話者と非母語話者がお互いの関係をより対等なものにし、かつ適切な意思疎通を果たすための工夫として、修復が一定の役割を果たしていることが予想できるためである。特に非母語話者の発話に何か問題が生じた場合に着目し、修復のパターンごとにその過程・機能・会話参加者の意識を分析した結果、以下のようなことが明らかになった。

 

@非母語話者による自己開始自己修復の試み/非母語話者による自己修復の要求

上昇イントネーションをともなう修復や相手への修復要求が多く、背後には自分の発話に対する不安や母語話者の確認もしくは訂正を求める意識がある。

 

A母語話者による自己修復の要求/母語話者による他者開始他者修復

 修復を加えるか否かの判断基準に個人差があるものの、非母語話者である日本人があまり積極的にコミュニケーションをとろうとしないのではないかという予想や、積極的にコミュニケーションをとっても、できるだけに話の腰を折らないようにしようという母語話者側の意識が働いているケースが多い。

 

2)移住者の言語学習支援(崔)

 

樋口(2007)によると、韓国では「経済発展、民主化の実現、生活水準の向上、国際社会への参与拡大」などを背景に、言語政策のキーワードが1990年代を境に「世界化」に変わっているという。

言語政策の「世界化」は大きく二つに分かれる。一つは、韓国語の海外普及政策である。韓国語の言語政策を主管している「国立研究所」は2007年からモンゴルをはじめ世界中に韓国語文化学校200校を建てる計画を打ち出している。また、韓国語専門指導者の養成や教材開発への支援を発表している(東北アジア地域韓国語普及法案)。2000年代前半から始まったいわゆる「韓流ブーム」も影響して、韓国語の普及政策は着実な成果を見せている。

もう一つは、韓国国内の外国人増加にともなう多文化社会における言語政策である。韓国の外国人は全人口の2.2%に該当する110万人(20095月末)に及び、外国につながる子どもの数も10万人を超えている。韓国政府はこのような状況をうけて「多文化家族支援改善総合対策」を打ち出している。

研究分担者の崔は、後者の言語政策が外国につながる子どもやその親への支援に力を入れている点に着目し、日本における外国人住民支援につながる政策面での可能性を探るべく、20091223日から1230日まで韓国でヒヤリングを実施した。

 

@     ソウル市教育委員会

ソウル市教育委員会は「多文化家族支援改善総合対策」をもとにさまざまな施策を準備している。その内容をみると、2010年から外国につながる子ども集住地域の学校には母語教室が設置され、母語のできる人材を配置する。また、学校内には放課後補習教室が設けられ、韓国語や子どものレベルに合わせた教科指導が行われる。

さらに、教育委員会の管轄ではないが、外国につながる子どもの多い幼稚園には「多文化言語指導士」と「希望乳児教育士」の配置を拡大する。「多文化言語指導士」は言語治療や言語病理学などを専攻した専門教師で、子どもの言語発達診断教育を担当する。「希望乳児教育士」も子どもの発達過程を診断し、治療する役割を担う。

 韓国の外国につながる子どもは一般に、国際結婚家庭の子ども、外国人労働者の子ども、

脱北者の子どもの3つに分けられる。これには、南北に分かれている朝鮮半島特有の背景がある。外国につながる子ども支援は脱北者の子どもに対する支援から始まっており、ソウル市内の外国につながる子ども全体の90%を占めている。外国人労働者の多い地域ではその割合は少なくなるが、韓国における外国人動向の特徴とも言える。しかし、韓国と北朝鮮では言語は同じで、方言の違いはあるが意思疎通は可能なため、大きな壁は少ないと言えるだろう。

最近、東南アジアからの国際結婚の子どもが増えているため、多言語によるさまざまな教材や配布物が教育委員会主導で作られている。しかし、まだなかなか子どもの手に届かないというのが現状である。理由はそのための人材やノウハウが不足しているためであると考えられる。

 

A     外国人移住・労働運動協議会

韓国の外国人支援は教会と市民団体によるものが多い。特に、不法滞在外国人の支援は市民団体が担っており、大きな組織が結成されていて全国に2009年現在、34カ所ある。外国人相談や法律支援、教育・文化支援をはじめ、国に対して制度改善や政策提言の役割も担っている。特に言語能力が不十分なために差別を受けている労働者や国際結婚の女性の言語や人権保護に大きく貢献している。国はこれらの市民団体に間接的に予算を拠出するという巧みな手段をとっている。

 

B     外国人支援ボランティア

春川市在住のボランティア女性(43才)に行ったヒヤリングによれば、支援対象となる外国人にはベトナム出身の国際結婚女性などが多いという。支援内容は韓国語の指導や生活相談が中心になっている。韓国の農村には学習にともなう外出を嫌う外国人もいるので困難があるともいう。しかし、国際結婚女性の韓国人の配偶者を対象にした、教育プログラムも「多文化家族支援改善総合対策」に含まれているため、改善の兆しがみられる。

ボランティアが運営する韓国語教室などはまだ少なく、これからの課題と言えるだろう。

 

3)少数言語話者の権利の問題

 

研究分担者の木村はドイツの少数民族であるソルブ語話者のコミュニティに赴き、少数言語話者が抱える言語権の問題の解明に取り組んでいる。少数言語話者の言語権に関しては従来、主に少数言語話者自身に注意が向けられてきたが、少数派の権利を認めるだけでは実際には効果がないことが少なくない。少数言語を使おうにも、多数派がそれを解さないことが、少数派の言語権の行使の妨げになっている事実がある。

そこで本調査では、ドイツ語のみを話す多数派のいる場面でソルブ語を使用した場合に起きる問題についての聞き取り調査を行うほか、ドイツ語話者に対してソルブ語教育を提供する試みの歴史と現在を調査している。この調査をとおして、言語権を実際に保障する方策を探る(本報告執筆段階で調査中)。すでに言語権が認められている旧来の少数言語に関する知見をそのまま移民にあてはめることはできないが、多数派に働きかける形での言語権保障の方向性は、移民についても今後考える必要がある課題だろう。

 

4.考察と展望

 

本考察はそのまま上記の2.2)に掲げた目的の達成につながる。

言語研究が非母語話者の不利益の解消に役立つ可能性をもっているという視点は、言語権研究会(1999)をはじめとする言語権に関する一連の研究、社会言語学の貢献可能性について論じた徳川(1999)の「ウェルフェア・リングイスティックス」、安井・平高(2005)にまとめられたSFCの政策COEの「『ヒューマンセキュリティの基盤』としての言語政策」などに示されている。本研究では、これらの先行研究に照らして目的2.1)で取り上げた具体的な課題を通して、言語研究が言語の異なる話者、とりわけ母語話者・母語話者間の平等な関係の構築や共生に貢献する可能性について明らかにしようと考えている。

まず、由布のフィールドワークは、母語話者と非母語話者の会話データの分析を行ったもので、会話に現れる修復、聞き返しなどの方策や、語彙の使用などが、両者の間にどのような力関係を生み出しているのか、また、逆に、どのような調整役を果たしているのかを明らかにすることにつながっていく。由布の研究を通して、会話が単なる言語を用いたインターアクションではなく、相互理解のための重要なツールとなっていることが明らかになるはずである。

 次に、非母語話者の言語学習支援は、日本でもここ20年ほどボランティアによる日本語教室などが中心となって展開してきた。しかし、日本人が外国人に日本語を教えるという一方向的な支援では、真の多文化共生社会の実現は遠く、外国人自身も支援者側に加わるという視点が注目を浴びている。それは、文化庁が数年前から実施している「『生活者としての外国人』のための日本語教育事業」などでも同じである。崔自身、数年前から外国人による外国人の支援策に取り組んでおり、その点に着目した崔のフィールフドワークも、外国人に対する日本語支援政策に新しい知見を加えることができる。

最後に、言語権に関する研究では、移住先のコミュニティの言語を学習する権利がどのように守られているかが問題になる。ヨーロッパ諸国では、統合コースなどを設置して移住者にホスト国の言語や文化に関して一定の能力を求める動きが顕著になってきている。この動きは、本来、移住先のコミュニティの言語を学習する権利を移住者に与えようとした結果生まれたものではあるが、実際のところは言語能力の低い移住者を締め出す方策となっているとも言われる。木村の研究を通して、権利として保障するために必要な条件が明らかになるものと考えられる。

この3つの課題は、言語問題の諸相をコミュニケーションという個人間のミクロなレベルから、支援政策という集団を対象としたマクロなレベルにまで及び、さらに、そのいずれにも関わる、個人と集団を含む言語の権利の問題をも包括している。

しかし、言語の問題は最終的には使用者である人間の姿勢につながっていく。言語が人間の対等な関係や社会の安定、ひいては世界の平和に貢献する可能性をもっているかという問題に関する議論は、その意味では、人間自身に関する研究であると言い換えることができるだろう。そう考えると、本研究は遠大な研究課題の序奏にすぎず、取りあげる課題も母語話者・非母語話者の言語問題が有するさまざまな側面のわずか3つに過ぎないが、本研究が、多言語共存が必定となる今後の世界で、言語をめぐる科学の応用的研究(「応用的言語研究」)の進展に向けて多少なりとも貢献できればと考えている。

 

参考文献

言語権研究会(1999)『ことばへの権利』三元社

徳川宗賢(1999)「ウェルフェア・リングイスティクスの出発」(対談者J.V.ネウストプニー)『社会言語科学』第2巻第1pp.89-100.社会言語科学会

樋口謙一郎(2007)「解放後の韓国における言語政策の展開」山本忠行・河原俊昭編著『世界の言語政策2』くろしお出版pp.59-74

安井綾・平高史也(2005)「『ヒューマンセキュリティの基盤』としての言語政策」慶應義塾大学大学院政策・メディア研究科21世紀COEプログラム「日本・アジアにおける総合政策学先導拠点−ヒューマンセキュリティの基盤的研究を通して−」ワーキングペーパーシリーズ74http://coe21-policy.sfc.keio.ac.jp/ja/wp/WP74.pdf