森基金結果報告書

国際共同研究-5「バクテリアの細胞内全代謝シミュレーション」

はじめに
「E-CELLプロジェクト」では、「E-CELL System」を開発、これを用いた 全細胞シミュレーションという生物学における新しい研究分野を提唱し、 そのための基礎研究を行っている。 昨年度は主に、シミュレーションエンジン 「E-CELL System」の開発、 「E-CELL System」を用いたバクテリア全代謝シミュレーションのために 必須の各代謝系および遺伝子発現系の モデリングとシミュレーション、 「E-CELL System」を用いて得た シミュレーション結果の解析 に重点をおいて行なった。それぞれの研究成果は以下のとおりである。

「E-Cell System」の開発

汎用細胞シミュレーションソフトウエア環境である 「E-CELL Simulation Environment」 を開発した。 「E-CELL System」は細胞活動を化学反応レベルの微分方程式系で表現し、それを 数値積分することによってシミュレーションを行う。「E-CELL Simulation Environment」は 実際に計算実験を行なう「E-CELL Core System」、シミュレーションルールファイルの作成を 助ける「ルールファイル」コンパイラ/ツール群、数値実験の全過程を統合的に支援する 「E-CELL Manager」、結果データを解析するための解析ツール群などの様々なモジュール から構成される。

今年度の開発は以下のような内容を含んだ。(1)反応機構のプラグイン化、 (2)より洗練された「ルールファイル」文法、(3)数値積分法のモジュール化および精度向上 (4)より詳細なデータ表示/操作が可能な GUI群 の開発、(5)「E-CELL Manager」の開発、 (6)スプレッドシートアプリケーションによるルール作成機能。

現在「E-CELL System」の開発は1999年6月の ベータ公開 を目標として作業を進めている。

実績
学会ポスター発表:

  1. "Software Architecture and Modeling Theory of the E-Cell Simulation System" Kouichi Takahashi, Tom S. Shimizu, Katsuyuki Yugi and Masaru Tomita ; 6th Intelligence Systems for Molecular Biology, Montreal, 1998
  2. "Software Architecture and Modeling Theory of the E-Cell Simulation System" Kouichi Takahashi, Tom S. Shimizu, Katsuyuki Yugi and Masaru Tomita ; Objects in Bioinformatics, near Cambridge, UK, 1998
  3. "Software Architecture and Modeling Theory of the E-Cell Simulation System" Kouichi Takahashi, Tom S. Shimizu, Katsuyuki Yugi and Masaru Tomita ; Genome Informatics 1998, 244-245, Universal Academy Press Inc., Tokyo (ISBN 4-946443-51-5).
  4. 「Software Architecture and Modeling Theory of the E-Cell Simulation System」、 高橋恒一、清水友益、柚木克之、冨田勝; 第21回日本分子生物学会年会, 1998
論文:
  1. `E-CELL: Software environment for whole cell simulation'' Tomita, M., Hashimoto, K., Takahashi, K., Shimizu, T., Matsuzaki, Y., Miyoshi, F., Saito, K., Tanida, S., Yugi, K., Venter, J.C., Hutchison, C.; Bioinformatics , Volume 15, Number 1, 72-84 (1999)


「E-Cell System」を用いたバクテリアの 細胞内化学反応系のモデリングとシミュレーション
  1. 遺伝子発現系

    「E-Cell System」を使用し、改良することにより、原核生物の遺伝子発現系 のモデリングとシミュレーションを行い、結果として、全細胞シミュレーショ ンに向けての遺伝子発現系モデルのプロトタイプを完成させた。 遺伝子発現とDNA複製は衝突することがあるため、将来的にDNA複製をモデリン グすることが可能なモデルを構築する必要があった。 そのため、新しい物質モデル、染色体モデルを設計した。 今後、生合成系等のモデルとの統合や、シミュレーションの結果の解析手法の 開発、より抽象化した遺伝子発現系のモデルの構築等を行っていく。

    実績
    学会ポスター発表:
    1. ``Modelling of Transcription and DNA Replication Using the E-CELL Simulation System" Kenta Hashimoto, Fumihiko Miyoshi, Thomas S. Shimizu, Takeshi Satoyoshi and Masaru Tomita; 6th Intelligence Systems for Molecular Biology, Montreal, 1998
    2. ``Modelling of Transcription and DNA Replication Using the E-CELL Simulation System" Kenta Hashimoto, Fumihiko Miyoshi, Thomas S. Shimizu, Takeshi Satoyoshi and Masaru Tomita; Objects in Bioinformatics, near Cambridge, UK, 1998
    3. ``Modelling of Transcription and DNA Replication Using the E-CELL Simulation System" Kenta Hashimoto, Fumihiko Miyoshi, Thomas S. Shimizu, Takeshi Satoyoshi and Masaru Tomita; Conference on Bioinformatics of Genome Regulation and Structure, Novosibirsk,Russia, 1998
    4. ``Modelling of Transcription and DNA Replication Using the E-CELL Simulation System" Kenta Hashimoto, Fumihiko Miyoshi, Thomas S. Shimizu, Takeshi Satoyoshi and Masaru Tomita; Genome Informatics 1998, 244-245, Universal Academy Press Inc., Tokyo (ISBN 4-946443-51-5).
    5. "E-CELLシステムを用いた転写、翻訳、複製のモデリング" 橋本健太、三由文 彦、清水友益、里吉健、冨田勝; 第21回日本分子生物学会年会, 1998


  2. ヒト赤血球細胞

    ヒト赤血球細胞は一つの完結した細胞として、Glycolysis, Nucleotide Metabolism, Pentose Phosphate Pathway などの代謝系を持つ。実験的に良く 研究されてきた細胞のひとつであり、酵素反応の詳細なパラメータなどの実験 データが様々な研究グループから多数報告されている。 今回我々はE-CELLシステム(高橋恒一他)を用いて、このヒト赤血球細胞をコ ンピュータ上に再構築する試みを行なった。E-Cellプロジェクト(冨田勝他) では昨年、仮想の「自活細胞」のモデリングを完成させたが、本研究はE-Cell プロジェクトとしてはじめての実在する細胞のモデリング、シミュレーション である。 ヒト赤血球細胞の43個の代謝物質の濃度と44個所の反応のキネティックパラメー タは過去の実験系で得られたデータを参照した。酵素反応式には reversible/irreversible chemical reactionや Michaelis-Menten mechanism などの一般的な反応式を、ヘキソキナーゼ反応などいくつかの化学反応や9個 所の膜輸送反応には専用の反応式をE-Cell システムに新たに実装して詳細な モデリングを行なう。こうして構築した赤血球モデルをE-Cellシステムでシミュ レートし、その振る舞いを実験系から得られた実際の赤血球の振る舞いと比較 し考察を行なう。また、他の研究グループが行ったシミュレーションとの比較 も行う。

    実績
    学会ポスター発表:
    1. "E-CELLシステムを用いたヒト赤血球細胞のシミュレーション」 松嶋亮、中野寿子、川瀬晶子、齋藤佳奈子、冨田勝; 第21回日本分子生物学会年会, 1998
    2. "Modeling and Simulation of the Human Erythrocyte Using the E-Cell Simulation System" Ryo Matsushima, Kanako Saito, Hisako Nakano, Akiko Kawase and Masaru Tomita; Genome Informatics 1998,
  3. ミトコンドリア

    ミトコンドリアの全挙動を反応速度論的コンピュータ・モデルに帰着させる 第一歩として、電子伝達系のモデル構築を行った。実際にモデルを駆動しての シミュレーション実験においては電子伝達物質についての化学反応が定常状態 に達し、モデルの妥当性に対する最低水準の要求が満たされた。

    早ければ99年春学期中のミトコンドリア・モデル完成 およびそれを用いた生物学的・医学的実験の実施を目指しており、その暁には (1)世界初のミトコンドリア・シミュレータの完成 (2)コンピュータ上の実験系による療法開発 (3)E-CELLプロジェクトが最終目的達成へ向けて一歩前進 といった成果が期待される。 ミトコンドリア・モデルは現在最も代表的な代謝経路である電子伝達系がほ ぼ完成しており、残すところは遺伝子発現系、膜輸送系、クエン酸回路の3つ の系である。現在は遺伝子発現系をモデリングするための予備研究を進めてい る。

  4. 原核細胞化学走性シグナル伝達経路

    E.coliやS.typhimuriumは、非常に広い範囲の化学走性刺激物質濃 度に対して反応すると同時に、その微少な変化に対しても敏感に反応すること が知られている。これは化走性を司る比較的少数の分子からなるシグナル伝達 経路の特性によると考えられているが、その制御機構の全容は未だ未解明であ る。
    この経路に関わる全ての細胞内蛋白質はその配列および構造が解明されており、 さらに酵素反応の多くも速度論的に解析されているため、近年ではコンピュー タ・シミュレーションを用いた研究も盛んになっている。昨年度は刺激物質 aspartateの受容体およびChe蛋白質の複合体形成、Che蛋白質群の相互作用に よるリン酸のフロー、Che蛋白質とモーター蛋白複合体の相互作用による化学走 性反応、および受容体のメチル化による順応の機構をE-CELLシステムを用いて モデル化およびシミュレーションした。
    本研究はケンブリッジ大のThomas S. Shimizu氏と共同で行なった。 今後このモデルを拡大し、TCA回路などの代謝経路が化学走性に及ぼす影響などを解 析する予定である。

    実績
    学会ポスター発表:
    1. "Modeling and Simulation of the Signal Transduction Pathway Using the E-Cell Simulation System" Yuri Matsuzaki, Kanako Saito, Thomas S. Shimizu and Masaru Tomita; Genome Informatics 1998,
    2. "E-CELLシステムを用いた原核単細胞生物の化学走性シグナル伝達経路の モデリングとシミュレーション" 松崎由理、齋藤佳奈子、清水友益、冨田勝; 第21回日本分子生物学会年会, 1998


「E-Cell System」 を用いて得たシミュレーション結果の解析

「E-CELL system」 により構築された代謝系モデルの解析に多変量時系列解析 を応用した。「E-CELL system」 は細胞を化学反応レベルでモデリングするための 汎用シミュレーション環境である。ある時間における細胞の状態は物質の濃度 や反応の活性度といった変量で表現できる。よって、シミュレーションの結果 はこれら変数の時系列データと見なすことができる。そこで我々はE-CELL system の出力を数学的に解析するために主にインパルス応答、パワー寄与率 の2つを導入した。インパルスとはシステムに突然与えられたゆさぶりである。 それに対してシステムがどう応答するかを表現したものがインパルス応答であ り、そのシステムに固有な応答が得られ、その時間領域における特性を推定す ることができる。E-CELLでは代謝系の上流にある物質の量を定常状態に達した 時点で一定量変化させ、その影響が下流の物質にどのように伝達するかを観測 することにより表現した。また生体内においては、物質濃度が振動するような 系も存在する。この場合、周波数領域で解析する必要がある。そこでシステム 特性の線形予測の数学モデルとして、自己回帰(autoregressive: AR)モデルを 導入した。ARモデルとはある時点でのxの値を、それより過去の時点での線 形和で表現するものである。そしてAR過程に基づくパワー寄与率という概念を 取り入れた。これは影響を及ぼす複数の変数間においてその変動がどの変数に どんな割合で起因するかを周波数ごとに表した値である。これによりシステム における変数間の相互関係を指標化することができる。以上の手法を用いるこ とにより、代謝系の解析への多変量時系列解析の応用の有効性を検証した。

実績
学会ポスター発表:

  1. "Multivariate Time Series Analysis of Metabolic Network Using the E-Cell System", Yusuke Saito, Kouichi Takahashi, Masaru Tomita; Genome Informatics 1998
  2. "E-CELLシステムによる代謝系の多変量時系列解析" 齋藤裕介、高橋恒一、冨田勝; 第21回日本分子生物学会年会, 1998


共同研究
上記の原核細胞化学走性シグナル伝達経路においては、今現在も英、Cambridge University Depertment of zoology の Thomas S. Shimizu 氏 とともに研究 を進行している。 また、「E-Cell System」のベータリリースにあわせて昨年モントリオールで行わ れた国際学会 ISMB (Intelligence Systems of Molecular Biology) にて共同研究の公募を行い、 以下にあげる海外の研究者、研究機関との共同研究が予定されている。

  1. "Energy metabolism of mammalian cells."
    Boris Kholodenko, Thomas Jefferson University, Philadelphia, USA Moscow State University, Russia

  2. "Knowledge representation / Ontology"
    Christos Ouzounis, EMBL, U.K.

  3. "Machine learning of kinetic parameters of metabolic pathways"
    See-Kiong Ng, Carnegie Mellon University, Pittsburgh, USA

  4. "Bioinformatic System Identification"
    Ross King, Department of Computer Science, University of Wales, U.K.

なお、この中で See-Kiong Ng 氏との共同研究である、
"Machine learning of kinetic parameters of metabolic pathways"
はすでに昨年夏から開始されている。

国内他大学との共同研究

本年3月より、以下の大学と共同研究を開始している。

九州大学 久原研究室
京都大学 金久研究室
広島大学 生物情報工学研究室
北陸先端科学技術大学院大学 知識情報研究科
九州工業大学大学院 情報工学研究科
三重大学 生物資源学部 生物情報工学研究室


展望
先にのべたように、「E-Cell System」 は今現在6月のベータリリースにむけ ての開発を鋭意進行中である。「E-Cell System」のベータリリース後は国内 外の様々な分野の研究者との共同研究の土台ができ、細胞のシミュレーション の分野においてさらに活発な研究活動が展開できると思われる。今後ますます 盛んになってゆく、ゲノム・プロテオーム解析によって得られた大量の遺伝子 機能情報や代謝経路情報を基に、これからも「細胞のシミュレーション」とい う先駆的な研究をより一層進めていくべく、今後も積極的に活動を続けていき たい。