1998年度 森泰吉朗記念研究復興基金
修士課程研究助成金報告書
慶應義塾大学 政策・メディア研究科 修士課程1年 長田木綿子
文献の購入、研究の性質上大量に出てくるデータを保持するためのディスクの購入、また論文、文献のコピーなど、研究を進める上で伴われる必要なものを、森基金助成金を遣わせていただくことで賄うことができました。心から感謝いたします。
研究テーマ:
原核生物のSD配列と16SrRNA間の結合エネルギーの解析はじめに
もっとも原始的な生命の形である原核生物(バクテリア)から私たち霊長類にいたるまで、全ての生きものに共通する原点というべき生命活動は次の通りである。1.生物の青写真
DNAを複製すること、2.DNAから媒体(RNA)に、意味のあるもっと小さな単位で情報セグメントを取り出し、コピーすること、3.RNAから情報を読み出し、そこにかかれたデザインどおりにタンパク質を生成すること。生成されたタンパク質は細胞の骨格となり、また酵素として生化学反応を媒介する。全ての生命活動はここから始まるのである。本研究は、上にあげた3つのうち、3番目の段階に関わる現象を解析するものである。段階3(「翻訳」といわれる)における現象は以下である。リボソームが細胞質内に浮遊する
RNAに結合し、RNAをスキャンしていき、得られた情報によりアミノ酸を選択する。こうして選ばれるものを順に繋げてゆき、一つの長い鎖を作る。この鎖が折りたたまれ、タンパク質として細胞内で機能するのである。翻訳において、その開始はタンパク質を生成する上で非常に重要である。なぜなら、RNAのどの部分から翻訳を始めるか、その選択如何によっては、まったく情報を読み違え、単にアミノ酸の鎖が短くなるだけでなく、アミノ酸の選択をすべて間違える可能性があるからである。本研究は、原核生物における翻訳開始の機構を解析する。
概要
原核生物において、リボソーム小サブユニット中の
16SrRNA3'末端と、mRNA上のShine-Dalgarno(SD)配列の相補的結合が、正しい開始コドンの選択に重要な役割を果たしている、とのモデルが知られている。本研究では、Turnerの提示する熱力学的パラメータに依り、mRNA、16SrRNAの二鎖間の自由エネルギー値を算出し、翻訳開始領域周辺の配列と16SrRNA 3'末端との対合強度の傾向を解析した。
この傾向を
9種の原核生物間で比較した。その結果、 E. coliをはじめとする6種の生物では、mRNAのSD配列が存在すると言われている部分(開始コドン上流10塩基以内)をゲージに含むポジションで、自由エネルギー値が他と比べ、明らかに低く、この結果はモデルの開始コドン認識のメカニズムによく当てはまった。
ところが、同じ原核生物でも
M. genitaliumをはじめとする3種では特定の位置における明らかな自由エネルギー値の低下はみられない。また原核生物以外についての解析では、真核生物( S. cerevisiae)は、自由エネルギー値はどのポジションにおいても一定の値を保ち、古細菌3種は、 E. coliと相似して特定の位置での値の低下を示した。
さらに、実験でタンパクの発現が確認された
Synechocystis PCC6803のデータを用い、一つ一つの遺伝子に対して、個別に分析した所、明らかに他より低い自由エネルギー値を示すポジションのあるものと、そうでないものの両方が存在することが分かった。
これらの結果は、
(1) E. coliなどにおいては、開始コドン認識のモデルが自由エネルギー値の観点から見ても良く当てはまること、(2)開始コドン選択の二RNA鎖の対合にたいする依存度は、同じ原核生物間でも、かなり差があり、中には依存度が非常に低い生物が存在すること、また(3)翻訳開始のメカニズムが真核生物と原核生物とでは異なること、(4)古細菌における翻訳開始のメカニズムが、進化的に近いといわれる真核生物より原核生物に近いこと、(5)一つの生物のなかでも遺伝子によって、このモデルのメカニズムが機能しているようにみえるものと、機能している形跡が全くみられないものが存在していることを示した。
手法
H. influenzae Rd, M. genitalium, M. jannaschii, H. pylori, A. fulgidus, B. burgdorferi, Synechocystis PCC6803, M. pneumoniae, E. coli K-12, M. thermoautotrophicum, B. subtilis, A. aeolicus.
以上14のデータ・セットに加え、佐塚さんらの実験により
N末端の同定された遺伝子のみを集め、分析した。(Sazuka 1996)
計算に利用した
12種の生物(原核生物9種+古細菌3種)の16S rRNA 3' 末端 配列20塩基と S. cerevisiaeの18S rRNA 3'末端配列を利用した。自由エネルギー値の算出には、生物毎に、該当 する生物の16S 3'末端を使った。
20
塩基長のウィンドウを設定し、16SrRNA 3'末端とmRNAの開始コドン上流の一部をアライメントし、自由エネルギーを算出する。ウィンドウは開始コドン上流の
$-50$から+20(ウィンドウの左端が開始コドンの最初の文字に重なる位置)までの20塩基をゲージに入れ、mRNA上を1塩基づつスライドしながら、50のポジション($-50$〜0)で、16SrRNA 3'末端との対合の強度を算出する。
ポジションは、ウィンドウ・ゲージの左端に入る塩基の開始コドンからの距離を示す。(
ex. ポジション -50 の自由エネルギー値は、mRNAの開始コドンの50塩基上流から30塩基上流までの配列と、16S rRNAの 3'末端から20塩基分の配列から算出される)
自由エネルギー値は、下に式で表されるように、放出されるエネルギーの合計
ΣΔ Gx と、二重鎖形成に必要とされるエネルギー ΣΔGuの合計とする。(Turner 1987).Δ
Gtotal = ΣΔ Gx + ΣΔGu
アラインメントは、小さいギャップやミスマッチを許容する。アラインメントにはダイナミック・プログラミングを用い、自由エネルギー値が最小となるよう最適化し、得られた値を各々のウィンドウ位置における値とする。
以上の操作で、遺伝子個々に対して
50(ポジション$-50$ から 0)の自由エネルギーが算出される。こうして算出される値をポジションを横軸としてプロットし、ポジションによる値の変化を観察する。プロットされた自由エネルギー値の顕著に低いポジションが見られるならば、開始コドン上流に、周辺と比べて16S rRNA 3'末端が結合しやすい部分が存在する可能性が示される。
結果・考察
生物種間の比較
実験で
SD配列の重要性が確かめられた E. coliをはじめとして、9種の原核生物、真核生物、古細菌3種の翻訳開始が、どれだけShine-Dalgarnoの仮説に当てはまるかを検証する。
原核生物9種の分析
:6
種の原核生物( A. aeolicus, B. subtilis, B. burgdorferi, E. coli,H. influenzae, H. pylori)において、自由エネルギー値が$-18$を中心とする$- 20$から$-10$の間のポジションで他のポジションと比較し顕著に低い。(図1)
20
塩基のウィンドウ幅を考えると、このポジションでのウィンドウは、仮説のSD配列が存在する位置を含むことになる。この位置において自由エネルギーの顕著に低いことは、SD配列と16SrRNA の対合が翻訳開始において重要な役割を果たす、というShine,Dalgarnoの仮説に合致した。また、特にSD配列が顕著にみられるといわれる B. subtilisのカーブは、その特定の位置において、著しく低い自由エネルギー値が算出された。
一方、
Synechocystis PCC6803、 M. genitalium、{\it M. pneumoniaeでは、上の6種と同じポジションで、他より比較的低い値が示さられた。しかし、他のポジションの値との差は、 E. coliなどの生物で見られたように顕著なものではない。(図2)
これら原核生物の自由エネルギー値の算出結果をまとめる。第一に、図1の
6種の生物の結果が、Shine, Dalgarno による仮説が提示している開始コドン認識メカニズムのモデルと合致することから、この結果は、上記仮説が信頼できるものであることを支持する。
第二に、上記モデルとの一致の傾向には、原核生物間でも生物により差があることから、モデルの機構に対する依存度が生物によって異なるという示唆を与える。
第三に、
1の6種がモデルのメカニズムが機能している可能性を示唆するのに対し、図2の3種の示す傾向は明白さに欠け、これらの生物で、必ずしもモデルの機構が機能してはいないのではないか、このメカニズムに対する依存度が非常に低いのではないかとの疑問をあらためて提示する。
真核生物の分析
:16S rRNA
に代わり、18S rRNA 3'末端を用い、真核生物に対し同様の解析を行なった。 S. cerevisiaeは、原核生物とは明らかに異なり、開始コドン上流において低い値を示すポジションはなく、全てのポジションでほぼ一定の値を保った。(図3)
これは図2で表した原核生物3種の結果とも異なり、特定の場所での微小な値の低下すらみられない。開始コドン直前で、急激な低下がみられるが、そのポジションのウィンドウは開始コドン及びコード領域内の配列を含むため、コード領域の上流配列の影響というより、それらの要因による影響を強く受けているのではないかと考えられる。
このように、原核生物と真核生物の間で明白な違いが見られたことから、この解析手法による結果もまた、開始コドン選択のメカニズムが真核生物と原核生物とでは全く異なっているという、過去に得られた知見と一致していることが分かる。
古細菌
3種の分析:古細菌は進化的に原核生物よりむしろ真核生物に近いという議論があるが、リボソームタンパク、
rRNAは原核生物と共通しており、16S rRNA を持つ。解析の結果、 A. fulgidus、 M. jannaschii、M. thermoautotrophicumの3種の古細菌で、原核生物と同じく開始コドン上流- 20から-10で、明らかに低い値を示すポジションがみられた。(図4)
このことから、翻訳開始において古細菌と原核生物が共通の機構を使っていることが考えられる。また、生物によって全体的に値に高低があることも原核生物と共通していえる。
ただし、原核生物では、特定の部位で自由エネルギー値が低下した後、ポジション
$-10$から0の間で再び、低下する前(-20より上流)と同程度の値まで上昇するのに対し、古細菌では、いったん低下した値は元の3分の1程度上昇した後、それ以上は上昇せずそのままおちつくという違いがある。
また、古細菌において生物間の比較を行なったときに特に気付くのは、片方の生物において顕著に低い値が、もう片方の生物の値の中では必ずしも低いと言えない場合がある、という事実である。例えば、
M. jannaschii の最低値は、他の2種の平均的な値から考えると特に顕著に低いとは言えないかも知れないが、この生物の平均値から考えると特異的に低い値であるということができる。
全体を通しての傾向
:真核生物を除く全てに関して以下のことがいえる。
実験から得たデータによる遺伝子個々の分析
実験の確認したデータ・セットの結果データを遺伝子個々にプロットする。すると、確実にタンパクが発現している
N末端のデータであるにも関わらず、その中には翻訳開始領域に値の低いポジションがみられないものが少なからず存在している。(図5)
この事は、現実に発現している遺伝子に、
SD配列と16SrRNA 3'末端の配列の対合が翻訳開始に使われていない可能性があることを示している。
今後の展望
遺伝子個々の結果についてより詳細な分析を試みる。
IFプロテインやS1プロテインなど、翻訳開始の際にmRNAが関わる可能性のある他の要素と、ここで解析した自由エネルギー値との関連を追求する。
また、
16S rRNA の3'末端以外の部分、そしてmRNAの本研究で調べられなかった部分に対象を広げ、この二鎖間にこれ以外の相互作用がある可能性を検証する予定である。
References