1999年度 森基金成果報告書

研究育成費(修士課程)「細胞内反応系の 汎用シミュレータによるシグナル伝達経路のシミュレーション」

目的
「E-CELLプロジェクト」では、「E-CELL Simulation Environment」を開発、 これを用いた全細胞シミュレーションという生物学における新しい手法を提唱し、 その確立を目指した基礎研究を行っている。 本研究では、 「E-CELL Simulation Environment」において大腸菌の化学走性(Chemotaxis) という現象のシミュレーションを行ない、

  1. E-CELL project のテストケースとしてシグナル伝達経路を表現する
  2. 局所限定性のある反応系のモデリング、シミュレーション手法を開発する

ことを目的として、大腸菌の Chemotaxis シミュレータの開発をすすめた。
成果
大腸菌は、菌体の表面から外につき出ている鞭毛(5〜10本)を回転させて泳ぐ。 泳ぎ方は環境との相互作用により変化する。大腸菌などにおいては、環境中の誘 引物質の方への集合と忌避物質からの逃避という方向性をもった運動、化学走性 (Chemotaxis)が知られている。 Chemotaxis はシグナル伝達系によって機能しており、 刺激に対して刺激応答と適応のふたつの応答経路をもつ。

  1. 誘因物質への刺激応答をシミュレーション

    Che タンパク群の相互作用に よるリン酸基の転移、 受容体付近における複合体形成および Che タンパクとモーターのスイッチタンパクの相互作用による モーターの回転方向制御のシミュレーションを行った。

    Chemotaxis のシグナル 伝達経路は主要な反応が細胞膜近くで進行しており、物質の局地的な濃度 が反応速度に顕著な影響を与える。 受容体付近とモーター付近の反応モデルについて、それぞれ 均一系を仮定した E-CELL で現実的に扱えるよう工夫をした結果、 前年度は得られなかった、現実に近いシミュレーション結果を得た。

  2. 知識の蓄積

    Chemotaxis の概要とモデリングに必要な事項、先行研究、 具体的なモデリング手法、シミュレーション結果、今回の モデリングとシミュレーションにより E-CELL Simulation Environment に 改良が必要と思われた事項を いくつか提案し、修士論文にまとめた。

  3. シミュレータの拡張にむけた準備研究

    このシミュレータについて2つの方向性で拡張を試みることにした。 ひとつは、Chemotaxis のもうひとつの 重要な現象である適応を再現することである。 もうひとつは、局所限定性のある反応をより正確に表現するために 拡散反応を処理する機構を導入することである。

    刺激への適応は Chemotaxis の特徴的現象であり、これを再現することに よりはじめて、Chemotaxis におけるシグナル伝達の 主な相互作用を網羅することができる。 この現象についての調査を行い、具体的なモデルを提案した。

    Chemotaxis に関わる反応のうち受容体とモーター付近 でおこるものは、それらの存在する 細胞膜付近の濃度が反応速度に影響する。 現在 E-CELL はひとつの `System' について均一系を仮定している。 しかし、Chemotaxis のような局所限定性のある反応を含む系については、 局所濃度を表現できるモデルの方がのぞましい。 そこで、反応のおきる `System' を拡散系として扱い、 濃度の不均衡と拡散反応を組み込んでシミュレーションを行なう 方法について具体的に検討し、E-CELLにシミュレーションルールと して実装する方法を提案し、そのために必要なツールを開発した。

展望
  1. シミュレータの精度をさらに検証

    今年度の研究で、E-CELL でモデリングする際に信頼できる 計算結果を得るための条件がいくつかあることがわかった。 このモデルで行なう数値計算について、より細かく検証する。

  2. シミュレータの拡張

    すでに準備研究を終えた、適応機構の表現と拡散系としての 扱いを実装する。

  3. システム解析

    シグナル伝達系は、少ない要素間の相互作用がいりくんだシステムである。 システム解析の手法をシミュレーションの解析に応用し、 シミュレーション結果からより多くの情報を引き出したい。 この系の特徴には以下のようなものがある。

    1. システムの robustness
      シグナル伝達ネットワークは、ある速度定数やタンパク質の濃度などの 生化学的変数について厳密に最適化されなくても正常にシステムが 動作するという頑強性(robustness)をもっているはずだという 議論がある。Chemotaxis における定常状態での運動パターンや 適応にかかる時間などの システム属性は Che タンパクの濃度変化によって多様に変化する。 一方で adaptation precision という指標については非常に 頑強であり、タンパクの濃度変化に全く反応しない ことがわかっている。
    2. 信号の増幅
      Chemotaxis は物質量の微少な変化に敏感に反応する。これは ポジティブフィードバックが内在するなど、信号の増幅 が効果的に行なわれるシステムであることを示す。
    3. 多様な入力が可能である
      受容体は糖や イオン、アミノ酸、環境の pH、温度など、 広い範囲の要素に対し感応することが確かめられている。

  4. 複数のべん毛モーターの挙動と菌体の行動の関係のモデル化

    今回はひとつのモーターの回転方向を確率で示すだけにとどまったが、 今後は求めた確率にしたがって複数のモーターの回転状態を表現したい。 モーターを8種の別の物質として定義し、 回転方向の確率を8個程度あるモーター それぞれに分配すれば、菌体全体の挙動のシミュレーションも できる可能性がある。このようなモデルの提案は実験方法の 制約からほとんどなく、シミュレーションによる解析に適している。

実績

学会ポスター発表:
  1. "大腸菌の化学走性における受容体の複合体形成 および鞭毛モーター回転方向制御のシミュレーション" 松崎由理、 石田貴士、冨田勝; 第22回日本分子生物学会年会, 1999