2000年度 森泰吉郎記念研究振興基金 研究報告書

エージェントベース経済学の構築にむけて II

井庭 崇

政策・メディア研究科博士課程2年

 

Abstract

 本年度の研究では、エージェントベース経済シミュレーション 研究のための共有基盤で ある「Boxed Economy シミュレーションプラットフォー ム」の構想とその基礎モ デルを提案した。複数の研究者による協同活動のための土台となる Boxed Economy シミュレーションプラットフォーム、および経済社会の もつ基本的な構造をオブ ジェクト指向分析手法により抽象化した「Boxed Economy 基礎モデル」を提案した。また、流通機構の一部を例として、「社会 集 団」コンポーネントと「機能」コンポーネントの特徴を明らかにし、Boxed Economyの適用の可能性を考察した。


はじめに

本報告書では、エージェントベース経済シミュレーション研究のための共有基盤 で ある「Boxed Economy シミュレーションプラットフォーム」の構想とその基礎モ デルを紹介する。 エージェントベース経済シミュレーションとは、多数 のエー ジェント(自律的主体)がミクロ的な経済活動を行うことによって マクロ現象が生成 されるような人工経済シミュレーションのことである。 本報告書で提案する「Boxed Economy 基礎モデル」は、経済社会のもつ基本的な構 造を 抽象化しており、エージェントベース経済シミュレーションのための基本デザ イ ンを提供している。以下では、研究の背景とその意義を概観した後に、基礎モデル を カタログ・スタイルで定義し、その適用例によって特徴を明らかにしていく。

 


 

研究の背景

これまで経済分析や政策効果分析では、主にマクロ計量モデルなどによる集 計量 の分析が行われてきた。しかし、経済内部をブラックボックスとして隠蔽し てしま うため、内部で起きている現象のメカニズムを理解できないだけでなく、 マクロ的なダイナミズムも捉え損ねてしまうことがある。

この問題を踏まえて、ミクロレベルの経済行動からマクロ経済をシミュレート する「マイクロシミュレーション」の研究が行われてきた 。このようなミク ロ経済 学とマクロ経済学の壁を越える試みは、近年の分散人工知能の 研究成果やコンピュータの性能向上を受けて、「エージェ ントベース経済シミュ レーション」という かたちで展開されつつある。最近の研究としては、ASPEN モデル 、Agent-Based Keynesian Economics モデル、 Dichotomous Economic Growth モデル, バーチャルエコノミー モデルなどがあり、人工市場研究とともに注目を集めている。

一般に、理論の発展のためには、多くの研究の積み重ねによるモデルの洗練・拡 張が重要となる。特にエージェントベース経済シミュレーション研究においては、 対象となる経済社会が多数の要素からなる複雑なシステムであるため、現実性の あるモデルを作成するためには、複数の異なる視点からの協同活動によってモデ ル を巧みに構成していく累積的な研究過程が不可欠である。 しかし、エージェントベース経済シミュレーション研究の現状では、必ずしもそ のような協同活動が実現されているとはいえない。

このような現状を踏まえ、私たちはエージェントベース経済シミュレーション研 究の共有基盤として「Boxed Economy シミュレーションプラットフォーム」を提 案し、その構築に取り組んでいる。 Boxed Economyでは、経済を記述するための基 礎モデルを提供することにより、 協同活動のための土台づくりを行う。 基礎モデルとは、いわば経済社会を記述・シミュレートするため の「言語」を形 成する言語体系の根幹をなすものである。

 

 

 

 

 

 

 


 

経済シミュレーション研究の共有基盤としての Boxed Economy

Boxed Economy シミュレーションプラットフォームは、エージェントベース経済 シミュレーション研究のための共有基盤として以下のことを実現する。

第一に、これまで主観的な社会認識を客観化して伝達するため の手段であった 文字、数式、図式、画像などのコミュニケーションのコード(記 号)に代わり、動的 で複雑な表現が可能な「シミュレーショ ン・コード」と呼び得る新しいコード体系を提供する。 シミュレーション・コー ドとは、シミュレーションにおける部分モデルをコン ポーネントとして切り分け、 それらを組み合わせることで多様な社会表現を可能 にするものである。これによって経済学や政策研究において、理論やモデルを 文 章や数式にような静的なレベルではなく、動くかたちで伝達・共有することが でき るようになる。

第二に、個々の研究者の構成的手法によるシミュレーション研究を効率化する。 「構成的手法」とは、コンピュータ上に対象を構成していく過程でその対象を理 解していくプロセスのことであり、複雑系科学などで用いられている方法である。 社会シミュレーションを構成する部分モデルは、多くの場合実証されていない仮 設 的なものであるため、模索的に代替的な部分モデルを交換・比較しながら妥当性 を検証してくことになる。Boxed Economy では、社会モデルの形式 表現と、これ をもとに動作するコンポーネントフレームワークを提供することで 構成的手法を支 援する。

第三に、経済社会モデルの開発を複数の研究者によって並行して行うことを 可 能にする。人工経済 を現実に近くなるように作り込んでいくためには、多くの分野 の研究 者や実務家の参加が不可欠である。Boxed Economy は、その基礎モデル によって 部分モデル同士の関連を定義しているため、独立して作成されたコンポー ネントである場合にも整合的に動くことが可能となる。

 


 

Boxed Economy 基礎モデル

「Boxed Economy 基礎モデル」は、経済社会をモデル化するために使用する分析 の枠組みを提供するものである。基礎モデルは、経済行為という観点から実社会 における経済行為の主体と要素を、オブジェクト指向分析を用いて非常に高い抽 象度で抽象化したものである。経済社会の構成要素から、「属性」と「振舞い」 が 共通である「もの」(=オブジェクト)がまとめられ、「クラス」として抽出される。 また、クラス間の「結びつき」についても「関連」として抽象化される。

 図は、基礎モデルで規定されているクラスとその関連 を「UML」(Unified Modeling Language: 統一モデリング言語) によって表現したものである。 基礎モデルには、現時点で13個のクラスが定義されており、 これらを「基礎モデ ルクラス」と呼ぶ。これ らは、次のように分類できる。

 

経済主体・社会集団・個人

財・情報・所有財

機能(思考・行動)・記憶・欲求

関係・経路

時間・空間

ここで、エージェントベース経済シミュレーションの主役となる「エージェン ト」 は、[経済主体]を核として[機能]と[記憶]を組み込むことで表現され、 それを 取り巻くクラスと関連して経済活動を行う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

基礎モデルの適用例

Boxed Economyによって経済シミュレーションを作成する際には、前節で説明し た基礎モデルのクラスを利用して具体的に記述していく。ここでは例として「流 通機構」を取り上げ、基礎モデルの可能性について考察する。 流通機構における 商業者のモデル化 流通機構はメーカーや卸売商、小売商などの企業から構成されて いる。卸売商と 小売商は基本的な機能は同じであるが、小売商は最終消費者に商品を販売し、卸 売商はそれ以外の商業者に再販売をする点が異なっている。 Boxed Economyでは、こ のような流通機構における主体を、「卸売商」や「小売 商」というようなエージェント単位でモデル化するのではなく、それらの意思決 定・行動を個別の[機能]ごとに分割して定義し、その組み合わせによって [社会集 団]の特徴づけを行う。これにより、複数の主体がもつ同じ [機能]を共有することができ、また、拡張性のあるエージェントを表現すること ができる。

流通機構における商業者のモデル化

流通機構はメーカーや卸売商、小売商などの企業から構成されている。卸売商と 小売商は基本的な機能は同じであるが、小売商は最終消費者に商品を販売し、卸 売商はそれ以外の商業者に再販売をする点が異なっている。

Boxed Economyでは、このような流通機構における主体を、「卸売商」や「小売 商」というようなエージェント単位でモデル化するのではなく、それらの意思決 定・行動を個別の[機能]ごとに分割して定義し、その組み合わせによって [社会集 団]の特徴づけを行う。これにより、複数の主体がもつ同じ [機能]を共有することが でき、また、拡張性のあるエージェントを表現すること ができる。

 

図は、基本的な卸売商と小売商を「保管機能」、「輸送 機能」、「流通・加工 機能」、「購入機能」、「販売機能」をもつ[社会集団]と して表している。流通機 構における販売・購入を例とすると、これらの機能を用 いて、購入者である小売商が販売者である卸売商に[経路]を開き、購入商品リス ト[情報]を送る。その後、卸売商が小売商に[経路]を開き、商品[財]を送る。

基礎モデルでは[社会集団]と[機能]を組み合わせることにより、企業([社会集 団]) の内部に部門([社会集団])を設け、それぞれの部門に[機能]を委譲することが で きる(図)。また、これにより、部門が持つ[機能]を外部 化したアウトソーシング や、「輸送機能」を専門とする運輸業を記述することも 可能である。実際、近年の 業界再編などにおいて企業機能の外部化や組み換えが 盛んに行われているが、それらを経済シミュレーション上で実現するためにも、 基礎モデルにおける[機能]単位でのモデル化は不可欠である。

 

基礎モデルの適用とその可能性

Boxed Economy 基礎モデルを用いることにより、さまざまな社会シミュレーショ ンを記述することができる。例えば、近年議論が盛んである業界再編などを再現す ることによって、企業の経営管理・戦略に関するシミュレーションとして活用す ることができる。開発・調達・製造・配送・販売の一連の業務[機能]全体の効率化 をはかるサプライチェーン・マネジメントの導入によって、これま で部門ごと・ 企業ごとの最適化にとどまっていた情報・物流・キャッシュの効率 性がどの程度改 善されるのか、という分析が可能になる。また、大店法改正によ る規制緩和政策と、それに伴う経済状態の変化などを分析することによって、政 策決定においての意思決定支援を行うことがである。このように、Boxed Economy は、経済構造や制度を変化させるような政策効果や技術効果の予測など、 従来のマクロ経済モデルでは表現が困難な事象を扱うことを可能とする。


 

さいごに

本報告書では、エージェントベース経済シミュレーション研究のための共有基盤 で ある「Boxed Economy シミュレーションプラットフォーム」の構想と「Boxed Economy 基礎モデル」を提案した。社会シミュレーション研究における 協同活動 のための基盤づくりは、著者らの手に余る壮大なプロジェクトである。 ぜひ分野を 超えた多くの方々とともに実現していきたいものである。

 

 

今年度の研究報告

 

■井庭崇, 「エージェントベース経済学の構築に向けて」, Be Ambitious Conference 2000 (BAC 2000), 2000

■井庭崇, 岩村拓哉, 廣兼賢治, 竹中平蔵, 武藤佳恭, 「エージェントベース社 会シミュレーションの ためのフレームワークデザイン」, FIF Working Paper, No.1, フジタ未来経営研究所, 2000

■Takashi Iba, Yohei Takabe, Masaharu Hirokane, Heizo Takenaka , Yoshiyasu Takefuji, "Engineering and Methodological Aspects of Boxed Economy Frameworks: Frameworks for Agent-Based Economic Simulations", FIF Working Paper, No.2, フジタ未来経営研究所, 2000

■井庭崇, 中鉢欣秀, 高部陽平, 廣兼賢治, 津屋隆之介, 田中潤一郎, 上橋賢一, 北野里美, 高松祐三, 石渡元春, 竹中平蔵, 「箱庭経済シミュレーションの基礎モデ ル、および政策分析への可能性」, 政策分析ネットワーク 政策メッセ 2000, 2000

■井庭崇, 「シミュレーション・コードによる政策コミュニケーションの進化」 , 政策分析ネットワ ーク 政策メッセ2000, 2000

■中鉢欣秀, 井庭崇, 松澤芳昭, 浅加浩太郎, 海保研, 廣兼賢治, 高部陽平, 「Boxed Economy 基礎 モデルのプロトタイピング:デザインパターンによるアプ ローチ」, 電子情報通信学会「人工知能 と知識処理」・情報処理学会「知能と複雑系」合同 研究会, 2001

■井庭崇, 中鉢欣秀, 高部陽平, 田中潤一郎, 上橋賢一, 津屋隆之介, 北野里美, 廣兼賢治, 「Boxed E conomyの実現に向けて:エージェントベース経済シミュレー ションのための基礎モデル」, 電子 情報通信学会「人工知能と知識処理」・情報処理学会「知能と複雑系」合同 研究会, 2001

■田中潤一郎, 浅加浩太郎, 中鉢欣秀, 井庭崇, 「Boxed Economy 基礎モデルに よる消費者行動の モデル化」, 計測自動制御学会 システム工学部会・知能工学部会 共催研究会, 2001

■井庭崇, 「エージェントベース経済学試論」, 進化経済学会第5回大会, 2001