2000年度森基金報告書

研究題目:
「空間音響の音楽表現への応用に関する研究」

慶應義塾大学大学院
政策・メディア研究科
常盤拓司


  1. 研究の概要
    本研究では、4台のスピーカーを用いて空間音響を作り出すアルゴリズム"Extended Acoustic Space for 4 speakers"(以下EAS4と略す)を制作し、これを用いた音楽作品<“推移”(改訂、多チャンネル版)>を制作した。

    1. "Extended Acoustic Space for 4 speakers"(EAS4)
      1. 概要
        “Extended Acoustic Space for 4 speakers”(これ以降EAS4と略す)は4基のスピーカーによるの音像の生成を行うための汎用アルゴリズムで、Max/MSPのPatchとして実現している。このアルゴリズムの実現にMax/MSPを用いたのは、音楽用の開発環境として音楽家の間で、ポピュラーであることと、VST plug-in としてこのアルゴリズムを書くことが出来るためである。


        図1:EAS4のPatch

        EAS4は、4基のスピーカーを聴取空間を囲むように配置する、2-2方式と呼ばれるレイアウトを前提にしている。このスピーカーレイアウトを前提とするのは、多スピーカーによる空間音響を作り出すためのレイアウトの中で、最もシンプルなものであることと、5.1サラウンドスピーカーシステムで、前方中央以外のスピーカーを用いることによって代用が可能となること、そして、(これは、私の音響エンジニアとしての経験から来る考えであるが)スピーカーの位置や角度の誤差に対する許容度が他の方式に比べて、高いことなどが理由として挙げられる。
        また、EAS4の音像を作り出す仕組みは、ソフトウェア的に実現されているため、特定のハードウェアを必要としない。そのため、オーディオインターフェースはMax/MSPで利用可能で、4つ以上の出力があるものであれば良い。また、スピーカーは、4基とも、フルレンジスピーカー で同じ製品であれば良い。その結果、EAS4は、これまで提供されてきた音響提示システムのアイデアや作品と比べて、設置が非常に容易なシステムとなっていると言える。

      2. "Extended Acoustic Space for 4 speakers"の仕組み
        EAS4は、基本的に一つの音の入力を2段階のパンニング によって4つの出力に振り分ける。第1段階ではX軸方向に、つまり、スピーカー番号1ー2と3ー4のそれぞれの組にパンニングする。第2段階ではX軸方向に振り分け られた信号を、Y軸方向、つまり、前方の1と後方の2のそれぞれに、3−4の組は前方の3と後方の4にそれぞれパンニングする。そして、音像の移動は、このX軸とY軸のそれぞれで行われるパンニングを制御することによって作り出されている。
        また、EAS4では、XY座標は音像の位置を作る出すための便宜上のものでしかなく、作り出される“空間音響”は、これまでの空間音響システムに共通して見られる「正面」を伴わないようになっている。その結果、聴取者は、どの方向を向いていても良いようになっている。


        図2:スピーカーの番号


        図3:スピーカーへの音信号の分配

        EAS4では、音像が移動する直線の始点と終点の、2つのX,Y座標によって制御を行う。座標は4基のスピーカーの中心を原点とし、それぞれのスピーカーの座標が(1,1)、(-1,1)、(1,-1)、(-1,-1)となるようにマッピングしている。(図参照)


        図4:スピーカーの座標

        X,Yの値が絶対値で1よりも小さい場合、すなわち座標がスピーカーに囲まれた空間の中になる場合、音像は4基のスピーカーの出力のバランスによって作り出される。その結果、音像は、空間の中に作り出される。この場合、X軸とY軸のそれぞれで行われるパンニングは、コンスタントパワーパンニング と呼ばれれるアルゴリズムを用いている。
        また、X,Yの値が絶対値で1よりも大きい場合、すなわち座標がスピーカーに囲まれた空間の外側になる場合、音像は、隣り合う2基のスピーカーによる、ファントムセンターによって作り出される。その際、横方向の動きは、2基のスピーカーの出力の大きさのバランスで作られる。そして遠近は、音の大きさを、座標の絶対値の2乗に反比例させて作り出している。また、座標が、スピーカーの座標と一致する場合、座標に対応するスピーカーからモノラルで出力される。


        図5:バランスの計算アルゴリズム

        これらによって、EAS4は4基のスピーカーによる音像と、2基のスピーカーによって作られる音像、そして、多数のモノラル出力によって作られる音像の3つの音像を一つの座標系で記述することを実現している。また、実際に作り出される音像の移動も、スピーカーによって囲まれた空間の中と外を自由に動くことが可能となっている。


        図6:EAS4の空間音響


        図7:EAS4の音像移動例(矢印は音像の移動を表す)

    2. “推移”(改訂、多チャンネル版)
      1. 概要
        “推移”(改訂、多チャンネル版)は、1999年12月に発表した作品“推移”(参照)(以後、これを区別するためにオリジナル版と呼ぶ)を4基のスピーカーによる音響提示のために改訂した作品である。
        この作品は、2000年12月に行われたインターカレッジコンピュータ音楽コンサート2000において上演を行った。
        この作品の楽曲合成、音響合成に対する手法やアイデアはオリジナル版を引き継いでいる。そのため、Max/MSPのPatchの楽曲の全体構造を作り出す部分や、音響合成を行う部分については、オリジナル版とほぼ同じものを用いている。特に、音響合成を行うための変数を作り出すための乱数の制御や、音響合成におけるフィルターの中心周波数の動きなどは全く同じものである。

      2. 作品解説
        この改訂版の制作におけるコンセプトは、オリジナル版と全く同じである。しかし、この改訂版は、オリジナル版とは大きく異なった音像を用いている。
        オリジナル版では2基のスピーカーによる音響の提示によって静的な音像を作り出していた。それに対してこの改訂版では、音像は4基のスピーカーからの音響提示により、スピーカーによって囲まれた空間の内外を移動する音像が作り出される。
        改訂版の音像の移動はスピーカーに囲まれた空間の内側や外側を問わない任意の2点を結んだ直線上で作り出される。そして、この直線の動きによって、オリジナル版では静的に定位された音像によって音楽的に切り分けられていた素材音は、仮想の空間をダイナミックに動く音像によって音楽的に切り分けられている。

      3. 作品制作
        この改訂版の制作に用いたMax/MSPのPatchは、オリジナル版のために制作したものと多くの部分が共通している。
        改訂版とオリジナル版の最も大きな違いは、音像を生成するための部分が、オリジナル版では、コンスタントパワーパンニングと呼ばれる一般的なアルゴリズムであったのが、改訂版では、独自の音像生成のためのアルゴリズム“Extended Acoustic Space for 4 speakers”(EAS4)となっている点である。


        図8:変更後の音響合成アルゴリズムの内部

        この変更に伴って、オリジナル版のアルゴリズミック・コンポジションを行う部分の内部にある、音像の位置を決定するための変数を作り出すアルゴリズムは、EAS4が音像の移動を生成するのに必要な、二つのX,Y座標のセットを作り出すものに変更している。また、このPatchによって作り出される楽曲をハードディスクに保存するための部分も、2チャンネル用のものから4チャンネル用のものに変更している。


        図9:変更された作曲アルゴリズムの内部


        図10:Patchの全体

      4. まとめ
        この改訂版において、“Extended Acoustic Space for 4 speakers”を用いることによって、先に述べた3つの空間音響を音楽作品としてシームレスに統合し、過去の“空間音楽”の取り組みとの連続性を保つと同時に、全く新しい“空間音響”による“空間音楽”を作り出すことについて、部分的に成功したと考えられる。
        部分的と考える理由は、音像を与える素材をホワイトノイズにバンドパスフィルターを掛けたものを用いたことによって、同様の素材と4基のスピーカーによる空間音響を用いた作品<ホワイト・ノイズのためのイコン>のイメージが作品につきまとってしまったためである。そのため、この作品は、音楽作品としては完成度が不十分なものであったと言わざるを得ない。
        だが、それによって、これまでの空間音響を用いた音楽作品における問題点であった、音像の作り出される範囲の問題をクリアし、個々の素材を音の運動によって相互に独立させ、動きによってアンサンブルを作り出すというこの作品の目的は達成する事が出来た。
        その結果、音楽作品のための要素として空間音響が果たす役割の可能性の一端を示すことは十分に出来たと考えている。