2000年度森泰吉郎記念研究振興資金 研究者育成費(修士)
研究成果報告書

修士論文

「移動志向の誕生――タイ北部農村パヤオ県ドッカムタイの移動労働者の生活史から」

松井智子 [mako@sfc.keio.ac.jp]
89932123
政策・メディア研究科修士課程2年
近代日本とアジア・北太平洋のマルチメディアデータベースプロジェクト

論文要旨:

 国境を越えて移動し、出身地域や出身国を離れて生活し労働する人々が世界規模で増大している。1980年代以降、日本にも途上国からの移動労働者が流入をはじめ、いわゆる「外国人労働者問題」として主に受け入れ側の立場から論じられてきた。

 本研究は、移動する主体に焦点をあて、彼らの視点から「移動」という現象を捉えようとするものである。調査は、日本をはじめ国内外への移動労働者が多いタイ北部パヤオ県ドッカムタイ郡の農村において、移動労働経験者31名に対して(1)生い立ち、(2)移動までの過程、(3)移動先での労働と生活、(4)帰郷後の労働と生活、(5)今後の意向の五つの項目を中心とした生活史の聞き取り調査を行なった。

 本論ではそれらの聞き取り資料をもとに、移動者が国内外の移動労働の経験を累積することによって、移動し出身地を離れることを否定的に捉えず、むしろ世界各地を移動しながら生計を立てることを当然とみなすような「移動志向」が誕生していることを記述的に論じた。移動者はもはや、「移動」を一時的で特殊な行為として捉えたり、出身地や移動先での「定住」を志向しているわけでは必ずしもない。本研究はこうした従来の移動労働者像の修正を迫るものである。

論文の構成:

  • 第1章 序論
     1.1 本研究の問いと目的/1.2 日本における「外国人労働者」研究とその問題点/1.3 送り出し社会と移動主体に関する先行研究/1.4 「定住/移動」をめぐる近代的枠組みの相対化にむけて
  • 第2章 インフォーマントの概要
     2.1 現地調査の概要/2.2 インフォーマントの概要
  • 第3章 移動労働者の母村
     3.1 先行研究における「北部」・「パヤオ」・「ドッカムタイ」地域/3.2 母村の概況/3.3 移動労働についての見解――村長とNGOへのインタビューから
  • 第4章 「移動志向」の誕生
     4.1 はじめに――2人の事例から/4.2 移動パターン/4.3 初めての移動の契機――「移動志向」の萌芽/4.4 海外移動への転機――「移動志向」の誕生/4.5 拮抗する「移動/定住」志向
  • 第5章 結論
  • 謝辞
  • 参考文献
  • 添付資料
     資料1 移動労働者の生活史調査に使用した質問表/資料2 タイ人移動労働者の生活史集

タイ現地調査歴:

  • 1997年9月 現地下見
    (「開発と女性」プロジェクトの下で、山岳民族支援NGO「バーン・ルアム・ジャイ・プロジェクト」に参加)
  • 1999年2月 第1回現地調査
    (資料収集/協力研究機関訪問/政府機関にてインタビュー調査)
  • 1999年8−9月 第2回現地調査
    (資料収集/協力研究機関訪問/語学研修/ランプーン県メータ郡にてインタビュー調査4名)
  • 2000年2月 第3回現地調査
    (資料収集/パヤオ県ドッカムタイ郡にてフィールドワークと生活史聞き取り調査9名)
  • 2000年8月 第4回現地調査
    (資料収集/パヤオ県ドッカムタイ郡にてフィールドワークと生活史聞き取り調査22名)

生活史聞き取り調査の内容と成果:
 
  • 生い立ち〔出生年/出生地/家族構成/生家の家業・副業/最終学歴〕
  • 移動までの過程〔動機/具体的契機/家族の反応と状況〕
  • 移動先での労働と生活〔移動の年齢/形態/滞在年数/移動先/移動先での労働(職業・賃金・会社規模・労働時間・転職回数)/居住/同郷者の存在/帰郷理由/送金(金額・頻度・使途)〕
  • 帰郷後の労働と生活〔現在の家族構成/職業/世帯の年収/今後の意向(再移動の意志)〕

⇒以上の項目を中心に、1人30分〜2時間にわたるタイ人移動労働者31名の生活史インタビューを録音して起こし、全105ページの資料集を作成した(論文に添付)。

各章の要約:
 
  • 第1章 序論

     途上国から先進国へ移動し、出身地・出身国を離れて労働する人々は、本来出身地に住みつづけることを望んでいるにもかかわらず、何らかの理由で移動を余儀なくされ、「出稼ぎ」や「移住」に出ると考えられている。日本における外国人労働者研究においても、彼らを農村での生活を前提とした「出稼ぎ者」か、先進国への定住を望む「移住者・移民」かという二者択一で捉えようとしてきた。そのどちらも、「定住」を「正常」と見なす思考枠組みの中で捉えているために、移動する者は移動することを「余儀なく」された者として映っている。だが、移動する主体に焦点を当てれば、そこでは移動することを否定的に捉えず、むしろ生活の中で積極的に移動を志向する意識と生活パターン、いわば「移動志向」が誕生しているのではないか。これを移動労働経験者の生活史を用いて記述的に明らかにしていくことが本研究の目的である。

  • 第2章 インフォーマントの概要

     そこで本研究では、日本をはじめ国内外への移動労働者の送り出し地域として知られるタイ北部の農村、パヤオ県ドッカムタイ郡のある農村において現地調査を行った。主たる調査は、国内外の移動労働経験をもつ帰郷者に対する移動経験を中心とした生活史の聞き取り調査である。インタビューは、@生い立ち、A移動までの過程、B移動先での労働と生活、C帰郷後の労働と生活、D現在の状況と今後の意向、以上の五つの項目について調査者が質問しながら口述してもらう形で行い、一人1〜2時間を要した。聞き取りの対象となった移動労働経験者は計31名(男性13名、女性18名)で、バンコクをはじめとする国内都市への移動経験者だけではなく、日本、台湾、韓国、シンガポール、サウジアラビア、イラクなどの海外諸国への移動経験をもつ者もいる。

  • 第3章 移動労働者の母村

     移動労働者の母村であるドッカムタイ郡は、米作とトウモロコシ、大豆、果物などの栽培が行われる農村地帯であり、就業人口の約7割が農業従事者である。村内の雇用としては日雇い農のほか、建設業や洗濯業などの雑業がある。しかし村内での雇用創出に対する期待は希薄である。また村の11名の村長に対し、村民の移動労働についてインタビュー調査を行ったところ、国内都市からの男性帰郷者のHIV感染や、女性移動者の海外への長期滞在による家庭崩壊が問題として挙げられたが、村長宅にも移動労働者がいる場合もあり、基本的には移動労働は肯定的に捉えられていた。

  • 第4章 「移動志向」の誕生

     生活史の聞き取り調査の結果を分析すると、インフォーマントとなった移動労働者のほとんどは、2回から5回に渡って移動労働を繰り返した人々であった。その内容を見てみると、国内一ヶ所への短期間の移動を単純に繰り返すパターンと、移動圏や滞在期間、移動労働に対する意識などに変化が見られ、移動労働の累積的な効果が予想されるパターンの二つが大別して見受けられた。前者が、基本的には村に生きようとする志向を持つ移動者、いわゆる「出稼ぎ労働者」であるのに対し、後者は、村以外の場所を舞台に生きようとしている、いわば「移動志向」をもった移動者であると考えられる。(4.1 はじめに――2人の事例から)

     このような観点をもち、まず移動労働者の移動パターンを移動圏と滞在期間の二つの軸からみてみた。すると、従来、移動のパターンとされてきたいわゆる農閑期の国内短期出稼ぎ労働や、海外一カ国への長期滞在から定住へといったパターンとは異なるパターンが生じていた。国内から海外への段階的に移動圏を拡大していく「国内→海外」パターンや、「海外二カ国以上」のパターン、5年以上の単位で海外に滞在したあと帰国する「海外長期滞在→帰国」パターンや、「2年単位の契約移動」パターンなどが出現している。このような移動パターンの変化・多様化は、移動が人々にとってヨリ身近なものになってきており、その生活パターンを変容させていると同時に、内外の移動労働に対する人々の意識や思考枠組みの変化も示唆している。(4.2 移動パターン)

     次に、初めての移動までの過程を具体的に見ていった。すると、その契機となったのは、家族・親戚による呼び寄せや依頼が中心で、ついで都市からの帰郷した村の友人による依頼や紹介によるものが多いことが分かった。このように、家族・親戚による呼び寄せや依頼が多いのは、移動の際のリスクを軽減できるためであろう。また、バンコクなど国内都市で働いている一時帰郷者が再度都市へ向かう際に、未経験者が同行して行くのもリスクを軽減した策といえよう。このように、初回の移動に伴うリスクを軽減しながら、人々は移動に踏み出していく。(4.3 初めての移動の契機――「移動志向」の萌芽)

     さらに、彼らが2回、3回と移動経験を累積していくなかで、海外移動への転機を迎える具体的な過程を捉えた。具体的なきっかけとしてみられたのは、「身近な先例の存在」、「斡旋業者の勧誘・接触」、「政府による斡旋」であった。しかし政府による斡旋政策がきっかけとなった例は1件しか見られず、むしろ身近な先例からの情報や斡旋業者の勧誘が重要であることが明らかとなった。身近な先例の存在は、移動先や渡航方法に関する具体的な情報源であり、海外渡航への抵抗感を排し、海外移動の「流行」といわれるような状況さえ生み出している。斡旋業者も一つの制度として機能しており、勧誘を受け入れるだけではなく、自ら複数の斡旋業者に接触し、業者と移動先を選ぶという積極的なかたちも見られた。

     こうした状況の変化と同時に重要であるのは、その転機において、海外への移動労働に対して彼らが非常に肯定的・積極的に捉えていることである。先進国との賃金格差を自覚して比較・選択していることはもとより、移動を「新たな試み」として捉えており、また自らを先進諸国で通用する労働力であると認識している。また、彼らにとって移動先は唯一のものではなく、複数の中からの選択であり、自らの移動圏を二国間に限らず、広く想像していることが伺える。また、家族は彼らの移動を様々に支援し、移動労働からの収入を世帯単位での生活レベルの上昇に充てようとしている。これらの様子から、彼らが海外への移動労働を積極的・肯定的なものとして捉え、主体的に移動を選択し、また自らの移動圏を積極的に拡大しようとする「移動志向」が誕生していると考えられる。(4.4 海外移動への転機――「移動志向」の誕生)

     しかし、その一方で、移動労働に対して否定的に捉える意識や状況があることも否定できない。斡旋料の持ち逃げなどの斡旋業者による被害や、増大する移動先に関する否定的な情報は移動に対する大きなリスクとなっている。だが、海外での就労が「不法」であることは、それほど否定的な要素ではないようであった。一方、移動労働の「失敗者」は、その人個人の「怠惰」・「無能」であるためと捉えられており、移動労働それ自体を否定するかたちでは現れていない。また、女性移動労働者に対しては、「売春労働者」というレッテルが貼られる状況も見受けられた。また、帰るべき場所としての「故郷」はタイの農村であるという発言も見られた。こうした移動労働をめぐる否定的な態度は、村内に留まることをよしとする定住志向と結びつき、村内で移動する人々に対する差別的な態度も生み出している。このように、送り出し社会において移動労働が特殊な行為ではなくなり、それを肯定的に捉え、積極的に渡航しようとする「移動志向」が生じ、高まっている一方で、移動労働を否定的に捉える状況もまた同時に存在している。移動する人々は、二つの志向が拮抗し、緊張関係にある中で、移動を選択しているといえよう。(4.5 拮抗する「移動/定住」志向)

  • 第5章 結論

     以上に述べてきたように、タイ北部パヤオ県ドッカムタイ郡の移動労働をする人々において、「定住」を前提として「移動」を否定的に捉える態度ではなく、むしろ移動して生計を立てることを当然とする、いわば「移動志向」ともいえる意識と移動・生活パターンが誕生しているのである。

     本研究の成果としていまひとつ挙げられることは、31名のタイ人移動労働者に対して聞き取り調査を行い、移動経験を中心とした生活史集をまとめたことである。従来では受け入れ側の視点で扱われがちであった移動労働という現象を、移動する彼らの側から捉えなおすためには必須の作業であった。(資料2 タイ人移動労働者の生活史集)

     最後に、本研究の課題として残るのは、このような「移動志向」の誕生がタイ北部のいち農村に限られる現象であるのか、その他の地域でも広く見出せる現象であるのかという問題である。この問題を踏まえた上で、移動と定住をめぐる近代的枠組みをどのように相対化することが出来るのか、これが本研究に課せられた今後の課題である。

謝辞:

 海外へのフィールドワークを必須とする本研究は、森基金からの経済的な援助なしには全く不可能でした。深くお礼申し上げます。同時に、本研究の成果を今後の研究に繋げるべく努力したいと考えております。