2001年度 森基金報告書 (古川康一)

「演奏動作の定性モデルの抽出とスキル制約による評価法」

慶應義塾大学大学院政策・メディア研究科 教授 古川康一
慶應義塾大学大学院政策・メディア研究科 後期博士課程3年 植野研
慶應義塾大学大学院政策・メディア研究科 修士課程1年 米津幸絵

abstract

楽器演奏は,非日常的動作を多分に含んだ高度な身体的スキルの一つである.演奏家は,このような動作をいとも簡単にこなしているように見える.これは,長い 演奏経験や練習経験を経て得た一種の最適な動作であるといえる.しかしながら,スキルの向上を考えたとき,この最適だと思われる動作が実は局所的な最適解 (ローカルオプティマム)に陥っている場合も考えられる.特に,身体の持つ構造や機能,特性を無視した練習は,怪我につながってしまうこともある.本研究では,以上に挙げた 理由から,楽器演奏の動作面に焦点を当て,演奏動作を,定性モデルの抽出とスキル制約によって評価する方法を提案する.まず,第一章で,関節の協調動作が身体的スキルに 大きな役割を担うことを示す.特に,モーションキャプチャにより得られたデータから計算された関節角度変化を考察することによって,協調動作の重要性を示す.第二章においては, センサにより関節角度変化を捉える実験と認知心理実験とを組み合わせることによって,スキルを客観的に評価する方法を提案する.第三章においては,定量データをどのようにして 最適な抽象レベルで定性モデルやスキル制約を計算するかを考察する.これらの試みが,楽器演奏の客観的評価法を構築する上での足がかりになると我々は考えている.

第1章: 楽器演奏における関節間協調動作の役割

概要

人間は,複数の関節を協調的に制御することにより,滑らかな動作を実現している.これは,日常的動作のみならず,非日常的動作を多分に含む楽器演奏動作においても同様である. 我々は,以前のチェロ演奏動作分析から,初心者と熟練者のスキル比較において,肩,肘,手首の関節運動に根本的な違いを発見した[1][2].しかしながら,肩肘手首の個々の違いのみが 明らかになるのみで,その協調的な動作がどうやって発現されるのかについては分からなかった.第一章では,これらの関節協調動作にどのような背景があるのかを考察する.以前の演奏タスクはスケール演奏であったが, 今回は関節協調動作をより詳細に検討できるような練習曲を作成した.その後,モーションキャプチャにて練習曲演奏中の動作を計測し,職業演奏家がどのように関節動作を協調させているかを考察した.

研究背景と目的

以前の楽器演奏動作の分析[1][2]から,初心者と熟練者のスキル比較において肩・肘・手首の関節運動に根本的な違いがあることが分かった.特に,熟練者は,肩関節角と前腕・弓間角を一定に保つ傾向があった. また,荻原らの演奏動作モデル1) によると,初心者と熟練者の動作の違いが,次に述べるような動作傾向にあることが示唆された.力学チェロを用いた弓圧一定条件下での解放弦演奏タスクにおいて,初心者は位置 エネルギーに頼りすぎてしまう傾向にある.つまり,初心者が物理的・形態学的に容易な動作を行いがちであることが報告されている.その一方で,熟練者は肩の外転動作と上腕の回転を利用して正確なボーイングを 行うことができる.しかしながら,力学チェロを用いた解放弦演奏タスクと実際のチェロを用いた曲での動作の違いについての言及は少ない.そこで,本研究では,自作の練習曲を使用した計測実験によりチェロ右腕ボーイング 動作における被験者間差異を明らかにする.本研究の作業仮説は,熟練者の演奏動作には,肩と肘の協調動作の正確さ,動作の高い再現性が存在するということである.以下,熟練者と初心者の動作比較によって この仮説を検証する.

方法

本実験では,赤外線式3 次元動作解析器と筋電図を用いて演奏動作中の関節位置データと筋電図を計測した.被験者にはチェロの4 つの弦を全て使用するような練習曲(図1)を演奏するように指示した.この練習曲 は,ボーイングによる肩の外転・水平屈曲動作だけでなく移弦による外転・水平屈曲動作が随所に盛り込まれている.また,一番低い弦から高い弦に跳ぶような動作や弓の返し動作なども含まれている.


図1: 練習曲

分析対象の被験者はオーケストラ・サークルの大学生(初心者B)1 名と音大生(熟練者A)1 名である.実験では,練習曲を4回ずつ演奏させた.一つの音を弾くのに要する時間は0.5 秒間であり,1 試行あたり16 秒で ある.なお,楽器の違いによって動作に違いが出るのを防ぐ目的からいずれの被験者も同一の楽器を使用した.試行はそれぞれ5 回行い,そのうち各4 つをとり,中2小節分を分析した.実験では,演奏者の演奏動作を とらえるために赤外線式モーションキャプチャリングシステム(Qualysis 社製MacReflexを用いた.各関節の測定点に赤外線反射マーカを取り付け,3 台の赤外線カメラでマーカ座標を追跡し,DLT 法で3 次元化した. 分析対象のマーカは,胸鎖関節,右の肩峰,外側上顆,右尺骨下端中央部,右示指MP 関節,弓元,弓先,チェロ本体左右の9点である.この7 点から,肩関節外転角(鎖骨と上腕骨),肘関節角(上腕骨と前腕), 手根関節角(前腕と手),手-弓角,弓-チェロ角の4 つの角度を計算し,これらの関節角の変化を分析した.なお,カメラのサンプリング周波数は60Hz である.なお,ここでは,フィルタリングによる情報落ちを検討するため, あえて計測後のフィルタリングはしていない.

実験結果

肩関節の角度変化を見ると,熟練者A の方が初心者B よりも弓の返しが鋭く行われていることが分かる.また,熟練者A は肩の外転角そのものが大きくダイナミックな返しとなっていることも分かる.初心者B は試行 毎でのばらつきが比較的多く不安定な動作になっていることも分かる(図2).

肩と肘は隣同士のセグメントのため肩の動作の影響が肘の動作に直接影響を及ぼす.図3 を見ると肘の屈曲伸展パターンがまったく違っている.熟練者A は弓の返し直前でいったん肘を屈曲しその後いっきに伸展させ ている.しかしながら,初心者B はそのまま肘の伸展動作で弓を返す.返し点は緩やかな軌跡を描くように動く.返し動作に伴って行われる肘の屈伸角度も初心者の方が小さくばらつきが大きい.

手首にいたってはまったく異なるパターンを発見することができた(図4).初心者B は弓の返し動作と関係なく手首を動作させているが,熟練者A は弓の返しに応じて掌屈・背屈を繰り返すのである.絶対的な角度の 幅も熟練者A の方が大きい.まとめると,肩・肘・手首すべての関節で熟練者A が初心者B よりも角度変化が幅広く,しかも鋭く弓の返しが行われていることが分かった.

チェロ演奏タスクの場合,チェロ本体と弓の角度の安定性が重要な役割を果たす.なぜならば,少しでもチェロ本体と弓の空間的関係が崩れてしまうと余計な音を弾いてしまう危険性があるからである.そこで,弓の角度とチェロ本体 面との角度を計算しその安定度を標準偏差プロットすることでボーイングの評価とした(図5).

主な特徴としては,全体的なばらつきは熟練者の方が少なく,試行毎に再現性のあるボーイング能力を発揮していることが分かった.しかしながら,唯一弓の返し点にて初心者よりもばらつきが瞬間的に大きくなった.これは, 返し点でより加速度をつけるため,試行毎の安定性よりも瞬間的により大きく返すという試みからであると考えられる.


図2: 肩外転角の変化(左:熟A 右:初B)


図3: 肘の角度変化(左:熟A 右:初B)


図4: 手首の角度変化(左:熟A 右:初B)


図5: チェロ-弓角プロット(左:熟A 右:初B)

関節間協調動作

まず,各関節の角度変化の最小値を0,最大値を1とするような正規化を行った.そして,全ての関節間の関係をみれるような協調ダイアグラム(図6)を作成した.ここから,演奏動作中に潜む協調様式を考察する. グラフには,肩,肘,手首,手-弓角,チェロ・弓角の計5個の角度変化が示されている.

熟練者A の最大の特徴は手首の動作である.手首の動作がチェロ-弓の相対関係にあたえる影響は弓の返しの際に見受けられる.手首を使うことにより,この相対関係の細かな修正が可能になるのではないか と考えられる.見逃せないもう一つの熟練者A のポイントは,2秒目の返しで,肩,肘,弓の順に角度ピークを迎えている点である.これらの位相ずれを伴う協調動作はおそらくむちのようにしなやかに素早く近位の動作を遠位に伝える 役割があると考えられる.肘の関節は屈曲・伸展の1自由度であるので,肩の鋭い返し時の動作ピークをその先に伝えるには,適確な肘のコントロールが必要である.少しでも肘の動作方向が狂ってしまうと,肩で生まれたモーメントが 肘にうまく伝わらないからである.これは一種の空間的制約,解剖学的制約であるといえる.一方,初心者の特徴は,肘の角度変化と手首-弓角の変化がほとんど同じである点だ.これは手首をあまり使用していない副作用であると 考えられる.


図6: 協調ダイアグラム(左:熟A 右:初B)

まとめ

実際のチェロを用いた練習曲演奏において,3 次元動作解析器を用いて熟練者と初心者における身体の協調動作の違いを明らかにした.特に肩→肘→弓への位相ずれを伴う協調動作は,弓の返し動作に 重要な役割を与えていることが示唆された.また,熟練者は手首を巧みに動かして弓をコントロールしていることが分かった.この結果は先行研究[1][2]の事実に合致しており,今後,被験者数を増やしてこれらの パターンの一般性を確認する予定である.また,他の楽器演奏についても同様に実験を進める予定である.


第2章: ピアノ演奏における手首の回転運動と動作評価

―ゴニオメータによる演奏動作解析とアンケートによる演奏評価を用いたスキル制約による評価法―

概要

楽器演奏においては,身体の回転運動と音楽演奏表現の間に暗黙的な相関関係が認められる.特にピアノ演奏では,手首の回転運動および背筋と演奏の音楽心理的評価との間で 科学的因果性があると考えられる.本報告では,ピアノ演奏における手首の回転運動および背筋の角度や角速度の変化をゴニオメータを用いて客観的に測定すると同時に,認知心理実験 により被験者および聴衆の相互主観的な演奏の評価を行った.具体的な評価方法として,(1)統計による検定,(2)progolによる検定を行い,演奏動作パターンの抽出および評価を行った.

はじめに

音楽演奏は,自己の内面的な部分を音楽という媒体を通して表現するものである.すなわち音楽は主に感性や感受性によって 構成されている.演奏者にとって感性が豊かか否かで演奏評価が決まると言っても過言ではない.音楽の持つこのような特性を科学的に解明するには,まず他覚評価手法面からのアプローチを 行うことによって,客観的な分析が可能となる.古川らは,チェロ演奏を,筋電図およびモーションキャプチャによる計測を行うことによって,チェロ演奏の熟練者とアマチュアの演奏動作の比較を行っている([3])

一方で客観的データと同時に,主観評価手法による分析も必要である.それによって音楽の持つ感性的な部分が抽出され,より細分化された音楽演奏表現の分析が可能となる. 私は,演奏動作の客観的分析および主観的感性情報処理との融合により,よい演奏および悪い演奏の特徴を抽出し,究極的には音楽演奏上達に向けての演奏ルールの解明を行う.本研究ではその第1 段階として,ゴニオメータによるピアノ演奏動作実験を行い,主に手首に焦点をあて手首の動きにおける特徴を明らかにした.また被験者自身による演奏自己評価を行い,演奏動作データとの相関性を考察した. 加えて,聴衆による演奏評価についても行い,演奏動作データ・被験者自己評価・聴衆による演奏評価の3要因による相関性についての考察も行った.最終的にはこれらの3 要因の共通性を明らかにすることに よって,演奏ルールの抽出を行うことを目的とする([4]).

音楽演奏とスキル

スキルの定義
スキル(skill)とは「最高の正確さで,またしばしば最小の時間とエネルギーあるいはこれら両者の消費であらかじめ決められた結果を生じるように学習された能力([5])」である.スキルには 次の3 つの特徴がある.
  1. スキルはいくつかの運動の構成から成り立っている.
  2. スキルとは,最高の正確さで,その“予め決められた結果”に合わせる.
  3. スキルはパフォーマンスに必要なエネルギーの節約である.
  4. 最小の時間で目標を達成する,高度に熟練した遂行者に関するものである.
さらにスキルには様々な種類に分類される.
[第1 次元]
@ 開放スキル(open skill)
A 閉鎖スキル(closed skill)
[第2 次元]
B 分離スキル(discrete skill)
C 系列スキル(serial skill)
D 連続スキル(continuous skill)
[第3 次元]
E 運動スキル(motor skill)
F 認知スキル(cognitive skill)
具体的には第1 次元の@開放スキルは,環境が変化し予測できないスキルと例えばレスリングは効果的に相手の将来の動きを予測することは困難である.Aの閉鎖スキルは,環境 が安定し予測できるスキルを意味する.例として体操競技の規定種目などが挙げられる.閉鎖スキルの場合,遂行者は時間的プレッシャーなしに予め環境の要求を評価し,運動を組織化し, 運動が開始すると素早い修正を必要とせずに閉鎖スキルを行うことが出来る([5]).

本研究では様々なスキルのなかでも特にピアノ演奏に関するスキルに焦点を当て,ピアニスト(熟達者)におけるピアノ演奏動作実験および演奏評価を行った.

先行研究

スキルに関する先行研究は様々な分野で幅広く行われている.認知心理学の分野では,熟達化の研究がなされている.熟達は,スキルを獲得するために必要なプロセスである.熟 達の条件としては,@遂行の評価基準,A自己状態の評価基準が必要である.具体的には@は,ただ単に問題解決に向けての知識の獲得を行うだけではなく,どのような遂行が最 も価値があるのかを決定することであり,Aは自分の行っている練習が望ましい遂行に近づいているのかどうかをチェックすることである.@における先行研究としては,熟達者の 評価基準が初心者の評価基準とどのような点で異なるのかについて,ピアノ演奏の評価を通して研究されている.まず数曲の短いピアノ曲の4 種類の異なる演奏(相当上手な演 奏,強弱を一定にした演奏,強弱をでたらめに入れ替えた演奏,メリハリはあるが型通り)を聴かせる実験を行った結果,年齢に関わらず演奏技能の高い人ほど評価の安定性,一貫 性の高いことが示され,また形容詞での演奏の特徴づけも適切であることが分かった.

次にAの自己の状態を絶えずモニタリングとしての自己調整との関係を取り上げた研究は,例えば物理学の熟達者は,簡単な問題では既知の量から未知の量へと前向きの方法で解決 していくが,困難な課題ではより一般的な方法で探索的な方法である後ろ向きの解決方法に切り替えることが知られている.また,初心者が自己調整能力の点で大きな制約がある ことを示す研究で,洋楽の分野で長い経験を持つ熟達者が新たに邦楽を学び始めた場合,姿勢をチェックして正しい構えに直せるようになるまで1 年半かかったことが報告されて いる.この被験者が困った点は,音が悪いとわかっていても姿勢をどのように直したらよいのかが分からなかったことである.悪戦苦闘した末,1 年半が過ぎた頃ようやく自分で姿 勢を直せるようになっている.本研究では,このような暗黙的な知識についての言語化に向けて,スキル獲得および練習プロセスの解明を試みた.

以上に見られるような熟達の過程を促す要因として@知識の最表象化,A能動的モニタリングが挙げられる.具体的には@は,三味線の初心者の姿勢の調整といったような,初 心者の自己調整能力が熟達に伴って次第に高くなるといったことである.Aは,適応的熟達を促進する要因として重要な意味を持つ.例えば,新しい曲の練習に取り組むことで自 分の演奏法を発見したり,それまで受けた指導の意味をより深く理解する.そして一つの形の意味が,いろいろな練習によってより深く納得出来るようになる.これは学習者自身 が自分の誤解や思い違いに気付くような経験が,学習者に能動的モニタリングを起こさせ,より深い知識の形成へ促進していると言える([5]).

音楽情報処理面においては,演奏情報と楽譜情報の対からの演奏表情規則の獲得についての研究が行われている.具体的には演奏情報と楽譜情報の多量の対から,演奏表情の抽 出と,近似関数の係数の修正を行い,演奏表情に対する適切な関数を決定し,獲得した規則の応用として,演奏に表情を付加することのほかに演奏から奏法に関する記号をも生成 する採譜システムの実現を目指している([6]).

さらに具体的に感性情報処理の視点からは,インタラクティブアートの研究が行われている.具体的にはパフォーマ(演奏者,演技者)のジェスチャを計測し,その信号に対し て各種処理を行ない,制御信号として音響,映像,照明,アクチュエータなどの各メディアを変化(オンオフ/モジュレーション)させるパフォーミングアートのことを指す.音 楽情報処理に関係する領域では(ライブ)コンピュータミュージックの他,新世代楽器,自動伴奏システム,セッションシステム等が挙げられる.

これらの先行研究を踏まえ,本研究では,認知心理学,感性情報処理の分野を融合させ考察を行った.具体的な手法としては,ゴニオメータを用いた演奏動作の計測と演奏評価 を融合させ,熟達者に見られるスキル獲得プロセスの曖昧な部分を科学的分析および解明を目指した.究極的な目標としては専門的なレベルの知識習得に向けてのプロセスを明 確化し,初心者にも分かりやすい形で教授していけるようなモデルを確立していきたい.知識習得のシステムを図式化すると以下のように表される.


図7: 知識習得プロセス図と研究の位置付け

実験

本章では,本実験における具体的な実験内容および方法について記述したい.
ピアノとゴニオメータ
本研究における実験方法および手法は以下の通りである.私は他覚評価手法として,ゴニオメータによる計測を行った.ゴニオメータとは,関節角度計とも言い,関節の動きを 電気信号に変えて計測([7])する生体センサのことである.ゴニオメータの長所は,関節の角度変化を測定できる点である.一方短所は,多チャンネルで測定する場合,他の チャンネルとの干渉が生じ,正確な波形を得るのが難しい点である.これを防ぐためには,ゴニオメータを取り付ける位置を細かく調整しなければならない.
ゴニオメータと身体知
本研究の目的は,まずピアノ演奏の中でも重要な役割を果たしている手首の角度変化について追究することである.そのためには,角度変位の測定が可能なゴニオメータによる 計測が適切であることから,本研究ではP&G 製ゴニオメータ(TSD130)を用いたピアノ演奏動作実験を実施した.

ゴニオメータには1 軸と2 軸のセンサがあり,大きさも大・中・小の3 種類がある.本研究では1 軸および2 軸センサを用いて手首の上下運動を中心に測定を行った. 実験の準備として,まずゴニオメータのゼロ調整を行い,静止状態時においては常にゼロの値になるように調節を行った.その上で基本動作を実施し,ピアノ演奏時の状態との 比較を行う際に必要な基礎データを計測した.

仮説

本研究における私の作業仮説は,生体力学運動と認知心理学上の演奏法則が高いタスク 打鍵準備に焦点を当てる理由としては以下の通りである. 指運動による打鍵準備を分析することによって,豊かな音楽的表現が容易にできるようになるというものである.以上のことを検証するために,ゴニオメータを用いてピアノ演奏動作を 計測し客観的なデータを獲得した.加えて被験者自身および聴衆による演奏評価を行った.

実験タスク

本研究では,ショパン作曲「バラード第3 番」より第179 小節目〜第183 小節目までのパッセージについて実験を行った.具体的には第179〜第183 小節目までを1 パッセージと し,スキル制約としてそれぞれ弾きやすいタスクと弾きにくいタスクで計測した.各タスクについては以下の表の通りである. <ショパン「バラード第3 番」を選んだ理由>

以上の理由を検証するために相応しいタスクとして選曲した.測定は各タスクともに5 回ずつ行った.


図8: 実験タスクの楽譜

実験方法

本研究における実験方法については以下の通りである.
  1. ゴニオメータによるピアノ演奏動作実験
    1. 被験者:音楽大学在学中の学生2 名
    2. 装置:P&G 製ゴニオメータ,MIDI,メトロノーム,ビデオ(2 台)
    3. 手続き:@被験者に事前に練習プロセス記録用紙とアンケートを渡し毎日記録してもらう
  2. 聴取実験
    1. 被験者都内の高校生(第1 学年)5 名
    2. 装置MIDI で録音した演奏データ
    3. 手続き演奏動作実験時に録音したMIDI データを被験者に聞かせSD 法(Semantic Differential Method)による演奏評価を記入してもらう.
聴衆者には,演奏動作実験内容を一切提示せず,第1 回目〜第100 回目までの演奏データの再生を行った.さらに実験の測定条件については以下の通りである.
@手首左右回転運動
+
鍵盤と体の距離が近い場合:体を右に傾斜させる
A手首左右回転運動
+
鍵盤と体の距離が遠い場合:体を左へ傾斜させるの条件で測定

評価法

本研究における検定法評価のための方法論については,以下の2 段階に分類される.
検定の位置付け
  1. 統計による検定(方法論1)
  2. 帰納論理プログラミング(progol)による検定(方法論2)
@ およびAにおける検定の位置付けとしては,まず初めにアナログデータ(ゴニオメータ計測から得られたデータ)をディジタル化し(数値化),そのデータをもとに@の手法 (統計による検定)を用いて,データ解析を行った.この結果を踏まえ,Aの手法(progol)を用いて,@の結果をさらに裏付けるものとした.次節では,@(方法論1)およびA(方法論2)の 方法論について考察する.

方法論1 における解析結果

本実験では,被験者2 名(以下,被験者A・被験者B)について実験を行った.まず解析の第1 段階として統計手法による解析を行った.

第1 に設定タスクの分析として,Χ2 検定でタスクの独立性の検定を行った.結果は全てのタスクにおいて独立でないとする根拠は無かった.

第2 に被験者内効果の検定を行った.検定は反復測定による分散の検定を用いて行い,測定回数(a,b,c,d,e)間において,指の動きに差が見られないという仮説の検定を実施し た.結果は,被験者A は全てのタスクにおいて0.000 < α=0.05 で仮説は棄却された.すなわち測定回数間において,指の動きに差が見られ,再現性は低かった.一方被験者Bは, 全てのタスクにおいて測定回数の間に差が見られなかった.換言すれば,測定回数に関係なく指の動きが安定し,再現性が高いという結果が得られた.以上の結果から,本研究で は,再現性の高い被験者Bに焦点を当て分析を行った.

第2 に被験者B のデータについての分析を行った.ゴニオメータ計測によるピアノ演奏動作実験で得られた波形データについて,各拍毎の平均を算出し,線型近似を行った.ゴ ニオメータからの生体データに加えてさらに聴衆による演奏評価の実験を行い,両者の相関が最も高い場合と低い場合について分析した.

両者の評価が最も高かったタスクを「音楽的好感触++」,対して両者の評価が最も低かったタスクを「音楽的好感触−− 」と定義した.具体的には「音楽的好感触++」とは,身体 的条件+心理結果について以下のグラフに示す.



図10: 音楽的好感触++と音楽的好感触――における線形近似グラフと角度変位

帰納論理プログラミングを用いた検定(方法論2)

次に帰納論理プログラミングを用いた検定について考察したい.
帰納論理プログラミングを用いる意義
はじめに本研究において帰納論理プログラミングの手法を用いる意義について触れておきたい.一般的に,帰納推論を行う際の手法は多く存在する.具体的には意味ネットワーク,プ ロダクションルールなどが挙げられる.意味ネットワークとは,コリンズとキリアンによって提唱された意味記憶の階層構造モデルのことである.意味記憶とは,世界に関する知 識,規則,言語,概念といったような一般的な知識や事実のことを意味する.意味ネットワークにおいて黒点はノードと呼ばれ,関連する概念や性質がリンクで結びついている. プロダクションルールは,「もし〜ならば,―せよ」という形式で表されるものである.具体的には,目標が達成されるまで繰り返されるルールのことである.例えば,作業記憶に ある情報と合う一つのプロダクションルールが選ばれて,そのルールの行為が実行される,などが挙げられる.関連して,プロダクションシステムとは,ニューウェルとサイモンに よって提唱された記憶機構である.想定として,長期記憶と作業記憶が挙げられる.ここでプロダクションとは,A ならばB せよ(IFa,THENb)という形式をもつ手続き的知 識であり,プロダクションルールとも呼ばれる基本要素である.プロダクションは長期記憶に保存されていて,宣言的知識や感覚器官からの入力と照合され,一致すれば行為が実 行される.また一連の活動はインタープリタによってコントロールされる.サブシステムは,1.プロダクション集合,2.データ集合,3.インタープリタである. 一方帰納論理プログラミング(ILP)は述語論理で行われる.述語論理の長所としては,
(1) 記述の一般性
(2) 表現力
(3) 数学的な裏づけ
という点が挙げられる.さらに,表現についても,
(4)述語論理(prolog プログラム)の形式に直して表現すること
によって帰納論理プログラミングの枠組みで扱うことが出来る.一方短所としては, (1)数値データの直接的な取り扱いが困難である (2)連続値のデータを扱うことは困難であり,連続値を離散化する必要がある という点が挙げられる.

先行研究として認知科学における認知心理学の分野においても,発話プロトコル分析において,prolog 言語での記述が用いられている.発話プロトコルとは,プロトコル分析の 一つである.プロトコル分析とは,思考の過程を口に出しながら,課題を解くように求めて,そこから得られた言語情報を分析し,認知過程を調査する手法のことである.発話プ ロトコル分析(発話思考法:think aloud method)を用いることによって,人間の頭の中で起こっている様々な現象を説明し,人間内部のメカニズムを解明することが可能となる. 伊藤らは幾何の問題解決を題材に,人間の作図を含んだ問題解決過程としてprolog 言語に表現し直し,人間の作図的問題解決過程を再現性のある情報モデルとして検証している. また作図的問題解決過程をDIPS(Diagramatic Problem Solver)というモデルによって説明した([11]).

以上のことから,帰納論理プログラミングの手法を用いる意義として,数値化されたデータ分析では表しきれない詳細の記述が可能となり,認知プロセスの詳細を追究を行う際に 大変重要な手法となる.本研究で帰納論理プログラミングを用いることは,述語論理の長所である数学的な裏づけを行うための手法として大変意義があると言える. 究極的には,数値データによる検定手法(統計など)と帰納論理プログラミングの手法による解析の双方の検定手法を用いた解析が必要であると考える.

progol について
次にprogol について触れておきたい.Progol は,帰納論理プログラミングの代表的なシステムの一つであり,S.Muggleton らによって開発されたシステムである. Progol への入力情報は,以下の2 種類から成り立っている.
(1) 正負事例・背景知識など(問題に関する記述)
(2) モード宣言・パラメタなど(バイアス)
次節で各入力情報について考察する.
実行結果
progol による検定の実行結果に対する考察は以下の通りである.実行結果に基づいて考察すると,
task(A,B) :- has_beat(C,B,D), nextb(A,B,E,D,F,u), nextp(A,E,G,H,I,d), has_beat(A,G,D), nexte(A,G,J,K,A,a).
において
@ beat:第1beat で第1 音⇒第2 音
A nextb:A のタスクで,第1 の第2beat(表拍)⇒第1beat⇒第2 の第1beat(裏拍)⇒第2 の第1beat(表拍)
B neatp:A のタスクで,第1 の第2pitch⇒第2 の第2pitch⇒第3 の第1pitch⇒第3 の第2pitch でdown
(旋律が下行している)
C has_beat:A のタスクで,第2 の第2beat⇒第1 の第1beat⇒第1 の第2beat でdown(裏拍)
D exte:A のタスクで,第2 の第1me⇒第2me がa(増加している:クレッシェンド<)ならば,interval(音程)は開離し,
手首の角度変位が大きい,ということが言える.すなわち裏拍で手首の角度変位が大きいということは,次の表拍(強拍)への
打鍵準備運動を行っているということである.
これを楽譜上で示すと以下のようになる.


図11: progol における実行結果に基づいた解釈図

以上の結果から,@ ―Dの条件の時にinterval が開離し,手首の角度変位が大きい,すなわちそこで打鍵準備を行っていることが分かる.同時にこの状態において,被験者および 聴衆双方の演奏評価が高かったことが言える.また被験者は@ ―Fを1 まとまりとして捉えていることが分かった.このフレージングでの演奏において,被験者および聴衆の演奏評価が 高いということが判明した.

以上の演奏パターンを考察すると,裏拍の時点で次の表拍(強拍)への打鍵準備をし,前の小節の6 拍目―次の小節の第2 拍目までを1 まとまりとして捉えていることがうかが える.これは,小節はまたがっているが,旋律の流れとしては一つのフレーズで大きく捉えており,次の小節の第1 拍目へ意識的に繋げていると考えられる.

実験結果と練習プロセス

以上の考察を踏まえ,さらに私は実験結果と各被験者の練習プロセスとの関連性についての分析を行った.まず被験者A は音を外さないようゆっくりしたテンポでの練習を行っ ていた.ゆっくり演奏は出来ても速いテンポでの演奏まではマスターできていなかった.対して被験者B は,和音の響きに注意しゆっくり練習した後,旋律を意識しながら少しず つテンポアップしている.さらにテンポの一貫性についても注意を払っている.これらを踏まえて,さらに手首の移動を素早くする練習,右手の和音がバラバラにならないための練習を行っていた. また最終段階ではリズム練習や,左右をゆっくり練習,右手の和音がバラバラにならないための練習を行っていた.この練習プロセスはR.A.Schmidt([5])による3 つの学習段階理論である, @言語・認知段階A運動段階B自動化段階のプロセスと一致している.さらに被験者B は,@→A→Bまで達成した後もB→A→@の順に逆プロセスを辿って練習することによって, 演奏スキルを強化していると考察される.

今後の課題

今回はショパン「バラード第3 番」よりの実験タスクにおける場合についての考察であるため,他の様々なパッセージについての考察までには至らなかった.本研究はピアノ演奏 ルールの抽出を行うための第一歩であり,今後さらに詳細な追究を行っていく必要がある.具体的には,その他の難しいパッセージ克服のための演奏パターンの抽出に向けての実験 タスクの検討,解析手法の追究,被験者の数の増加,聴取者の増加などが挙げられる.本研究での結果を第一歩として,今後の研究に役立てていきたい.

第3章: センサによる定量データからの直接的な定性スキルモデル抽出へ向けて

ここでは,抽象度可変機構を用いた三次元動作分析手法の設計を行った.人間の動作スキルの特徴抽出は,その身体的な構造・機能の複雑さや個人差の問題から困難なことが知ら れている([14]).そこで,本研究では,動作スキルの特徴抽出を時系列上での抽象レベルを可変にし抽象波形を生成する(1)可変抽象化関数(Variable Abstracting Function, VAF),各関節の動作の協調関係を位相のずれの組み合わせにより計算する(2)位相・関係・構造学習アルゴリズム(Elgonomic Learner for Phasic RElation and STructual Organization, EL-PRESTO)を考案した.

まず,モーションキャプチャによって得られる身体各部の変位データから速度,加速度などのダイナミクス情報を計算した上で,変位データの切れ目を計算する.次に,いくつか に分割された動作チャンクをつなぎ合わせ,一つの系列に戻し,抽象化動作系列を生成し,動作知識を得る.以上の2ステップで動作の特徴抽出を試みる.

VAFは,特徴点抽出を行い,切断を再帰的に行ってつなげることにより,波形の抽象度を変化させる関数である.この関数は,,変位データ配列を最大最小ピーク点をつなげた可変 長リストに変換する.その際に,求めている抽象レベルに応じて内積パラメータを入力することが必要となる.生成された可変長リストは,EL-PRESTOにより,着目する時刻k付 近のピーク点の集合から,時刻kに近い順にソートしたリストを生成する.このソート済みのリストは,各関節動作の位相ずれを含んだリストであり,滑らかな動作を実現するた めの動作知識である.これをn試行分繰り返すことにより,動作の揺れや個人差を取り除き,一般化された関節間協調関係の動作知識(規則,ルール)を得ることができる.

以上の構想から,現在,これらのシステムを作成中である.本アルゴリズムを使った直接的な定性スキルの抽出とアルゴリズムの検証は今後の課題である.また,定性的な解剖学的知識と バイオメカニクス的知識の扱いを可能にし,より表現力を高めることも検討している.

参考文献

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成果リスト

[1] UENO, K., FURUKAWA, K., and BAIN, M. "Motor Skill as Dynamic Constraint Satisfaction" Electric Transaction of Artificial Intelligence (ETAI), Linkoping University Electronic Press, 2001.
[2] 米津幸絵. ゴニオメータによるピアノ演奏動作分析. 情報処理学会音楽情報科学研究会研究報告 43-5, p.27-32, 2001
[3] 植野研, 五十嵐創, 米津幸絵, 古川康一. 楽器演奏における関節間協調動作の役割. 第22回バイオメカニズム学術講演会(SOBIM2000) 講演予稿集, p.25-26, 2001.
[4] 植野 研, 五十嵐 創, 古川 康一. 一貫性制約による身体技能の形式化. 第15回 人工知能学会全国大会論文集, 3D1-08, 2001.
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