2001年度森泰吉郎記念研究振興基金による研究助成報告書

過渡的シンクロニーを考慮した
高次視覚機能のモデル化

慶応義塾大学
政策・メディア研究科後期博士課程
舘 俊太
tate@sfc.keio.ac.jp

はじめに
神経細胞群によって形成される、生物の高次視覚機能のモデルを提案する。本研究では特に、低次視覚と高次視覚機能を結ぶ機序の解明を目指す。
モデルとしては物体を認識する多層化ネットワークを用いる。低次の層の神経細胞が高次の層の神経細胞と発火活動を同期することによって、視覚要素が統合されると考える。本研究ではこのシンクロニー状態が定常的でないモデル、過渡的シンクロニーモデルを提案する。
本報告書では先ず本研究背景を述べ、提案モデルについて説明し、本年度に行った体外発表に関して報告する。

1. 背景
神経生理学的概説
大脳の視覚経路は主に、物体の形態に関わる情報を処理する経路と、運動性と位置に関わる処理経路の二つに別れるが、そのうち形態視の経路の概略を以下に示す。
研究の背景:形態視の機能

上図は低次の第一視覚野(V1野)から、高次視覚野のTE野にいたる経路である。 後頭葉のV1野は特定の線分の傾きにのみ反応するカラムと呼ばれる細胞群から成っている。一つ一つのカラムは視野のごく狭い範囲にのみ対応しており、入力を受けた線分の傾きの角度に関して選択的に興奮する。このように視覚情報はV1野では興奮したカラムの集合、すなわち分断された線分として処理される。
そして線分という局所的で単純な情報が、各段階の皮質部位を中継するにつれて周囲の情報の相対関係で角や曲線といった図形特徴として受容され、複雑化して行く。高次視覚野であるTE野では、図形特徴は人の顔や図形の組み合わせと言った、複雑な視覚情報に統合され、カラムは複雑な図形に対して選択的に興奮する機能を持つ。尚、上図のTE野カラム層は便宜的に描かれており、実際の微小電極を用いた実験では一つの複雑な図形は複数のTE野カラムを興奮させ、一つのTE野カラムは複数の図形に反応することが判っている。
皮質間のフィードバック結合
実は、各視覚野の皮質間の結合繊維は単純に一層ずつ順列に結合しているのではなく、一層飛ばして更に高次の層に投射する結合や、二層飛ばすもの、形態視経路以外の他の皮質に投射するもの、更に順行的な結合だけでなく逆行性の繊維も存在する。順行経路の投射繊維の数と比べて決してその量は少なくはないことが判っているが、この多量の逆行経路がどのような役割を持っているかはっきりしていない。
振動的発火、時空間的符号化
近年の神経生理学的研究で、神経細胞は振動的・動的な発火によって空間的のみならず、時空間的に情報を符号化していることが判って来ている。しかし生物の大脳皮質上の高次視覚野における、情報符号化の仕組みを説明する決定的なモデルはまだ無い。

本研究ではその統一的な見解への一助を試み、個人的に重要と考えている知見をあげる。

第一に、視床にある外側膝状体(LGN)は、網膜からの中継を受けている部位であり、ここに対してV1野からフィードバック結合が投射している。このフィードバック結合を切断すると、振動同期的に発火していた複数の外側膝状体細胞の相関が消失してバラバラに発火することが知られている。そのため逆行結合は下層における何らかの出力調整を行っていると思われるが、おそらく高次層の処理の結果を下層に伝えることによって、 (I)脳の計算にトップダウン(視覚の順関数)とボトムアップ(視覚の逆関数)の同時作用を起こさせ、情報解釈の計算を収束させる効果を持っていると思われる。また同時に、 (II)色彩や線分のように複数の皮質にまたがって独立している情報を連合させているのではないかと考えられる。最後に、 (III)高次視覚野の作用で、低次視覚野のニューロンの発火が統合されると、視覚知覚(アウェアネス)が意識に生じると考えられる。この心理的現象を示す関連実験として両眼視野闘争などが挙げられる。
生体のタスク実行時、脳の多くの領野間に大域的な同期発火が出現するのは上の(I)〜(III)のような作用の指標的側面と考えられる。

第ニに、大脳の皮質においてはある程度普遍に、領野間でδ,θ,α波といった2〜12Hzの遅い振動発火が主に見られ、領野内ではβ波やγ波の12〜100Hzといった早い振動発火が主に見られる。可能性としては(I)高次〜低次層を信号が往復するときの時定数が2〜12Hzに当たる(II)領野間の信号には伝達遅れや伝送ノイズが存在するため、振動発火を用いて情報を搬送するときの何らかの機序として役立てているのどちらかと思われる。領野内のニューロン群に複数の異なる振動成分が部分的に重なりあって同居している可能性があり、数理モデルの視点から興味深い。

第三に、刺激によって被験動物が行動を変えるようなタスク(GO-NOGOタスク)を行って複数の脳領野のθ波の振動成分を観察すると、行動によって発火が引き込まれたり(GO刺激を与えたとき)、バラバラに離散したり(NO-GO刺激を与えたとき)することが判っているが、このような同期発火の非定常性は高次視覚野においても同様に存在する(過渡的シンクロニー)。これは視覚処理自体に非定常性が内在しているからなのか、それとも脳内のより高度な心理的行為の発露を示すものなのか、まだ定かではない。Varela[2]によれば形態視に関わる脳の離れた部位の細胞群の電位間にシンクロニーが形成されるが、このシンクロニーは100〜200msecという非常に短い時間で構成・分解・再構成を繰り返しており、脳波のうち40Hz近辺のγ波が主にその統合に関与しているという。

ニューラルコンピューティングモデルによって、このような現象を一貫性をもって説明できるモデルを提案する。
2. モデル
筆者は1999年に振動子ニューロン同士が同期状態(シンクロニー)によって特徴を統合する時空間コーディングモデルを提案し、2000年度にはこのモデルを発展させ、より複雑な物体を認識する多層化ネットワークを提案した[5]。ここでは、モデルの同期状態は定常的ではない(過渡的シンクロニー)という知見を元にしたモデルを提案して、より生体の実際に近い視覚モデルのダイナミクスを解明する。
本モデルでは、神経細胞の同期発火(シンクロニー)で視覚情報の統合が行われるという考えが基調である。但し、全ての神経細胞が同じリズムで振動発火を繰り返すような状態を考えるとこれは癲癇発作に近い状態であり、時空間情報量が極めて小さく定常的な振る舞いといえる。ここでは概念的に下のようなモデルを考える。
バスタブ波モデル
図の通り風呂桶(バスタブ)の波面を複数重ねたような外観である。バスタブに身を沈めて身を揺すり、波を起こすと色々な周波数で波面に振動が起こるが、主成分となる大きな波と手先で起こす小さな波が共存することが判る。大脳皮質ではこのような神経細胞が複数層重なり合って各層の間で相互に投射し、γ波を主成分にして振動を引き込み合っていると考える。

これを下敷きに、下のような二次元で複層の神経細胞モデルとして視覚モデルを考える。左図は部分的詳細、右図は全体の概略である。右図で神経投射は部分的に省略されており、全ては描かれていない。 各ニューロンは固有の振動数を持つパルス型ニューロンでモデリングされており、傾きを認識するエッジニューロン層と、線分を統合する特徴統合層に分かれる。入射した視覚情報(ここでは色々な大きさと傾きの三角図形と四角図形)に対してヘブ型学習を行い、上層に情報を送る。中間のコインシデンスデテクターニューロン層はフィードバック信号と下層のニューロン発火から同時に信号を受けて乗算フィルターし、上下の層で引き込みを起こすニューロン層である。
モデルの概要 モデルの概要


このモデルをシミュレーションした結果が下図である。左図はエッジニューロン層のニューロン群の相互相関グラフである。左図上では40Hz周辺の振動成分が主となって各ニューロン間で引き込みを起こしているのが判る(判り易さのためにグラフは白抜きにしてある)。左図下はフィードバック結合を断絶したときの結果であり、相関が消失しているのがわかる。右図は特徴統合ニューロンの自己相関及び相互相関グラフである。10Hz程度の振動成分が主であることがわかる。
相互相関グラフ 相互相関グラフ


また、ニューロン発火の時系列情報の一例を示す。特徴統合ニューロンが周期的というより過渡的に100msec〜200msec単位で収束・静止状態を繰り返しており、生理的知見に合致した過渡的シンクロニーを起こしていることが判る。 このことにより、本モデルは前節で述べたような生理学的知見を部分的に良く再現したモデルと言える。
実験結果:スパイク時系列
3. 本年度の対外発表及び活動実績
本年度と前年度における研究を以下の学会で発表した。
  • 舘俊太, 「同期する2層のパルスニューラルネットを用いた幾何図形の認識」, 生体生理工学シンポジウム:中枢システムにおける同期現象とその情報構造, 北里大学, 2001年8月

    関連業績として以下の出版物で関連研究のレビューを執筆した。
  • 舘俊太, 「レビュー:知覚と意識における神経回路の協同現象とバインディング」, 日本神経回路学会誌, 処理中, 2001年12月

    助成金によって以下のサマースクールに参加した。
  • 日本生理学会若手の会サマースクール, 脳機能の計測方法の集中講義, 慶応大医学部, 2001年8月

    また以下の学会にて本年度の研究業績をまとめて発表する予定である。
  • KES'2002 Sixth International Conference on Knowledge-Based Intelligent Information & Engineering Systems, September 2002, Crema, Italy

    謝辞
    森基金研究助成金を受ける機会を与えていただいたことに関係諸兄皆様に感謝致します。理化学研究所の山口陽子先生におかれては研究についての談話及び学会参加等で大変お世話になりました。また東京工科大の福島教授には研究について多くの示唆を頂戴しました。この場を借りて特に御礼申し上げます。
    文献
    [1] Astrid von Stein, Carl Chiang and Peter Koenig, Top-down processing mediated by interareal synchronization, PNAS, December 2000, vol.97, no.26, pp.14748-14753

    [2] F.Varela et al., Nature 397, pp.431-433, 1999

    [3] H.Shimizu, Y.Yamaguchi and K. Satoh, Holovision: a Semantic Information Processor for Visual Perception, in Dynamic Patterns in Complex Systems. Eds.S.Kelso et al., World Science

    [4] S. Tate, S. Oka, Y. Takefuji, Recognition of Human Shapes from Video Images by Deformable Template and Neural Network, IFAC, 7th IFAC Symposium, Arizona, USA, October 1998

    [5] S. Tate, Y. Takefuji, Two Layered Synchronized Spiking Neural System for Feature Binding and Figure Recognition, SCI’99 and ISAS’99, Systemics, Cyvernetics, and Informatics, Florida, USA, July 1999

    [6] 舘 俊太(第4章「ニューラルコンピューティングの新しい展開」), 武藤佳恭監修, 「応用事例ハンドブック・ニューラルコンピューティング」, 共立出版, 2001

    [7] 舘 俊太, 武藤佳恭, 「変形テンプレート法と誤差逆伝播法を用いた侵入者検知」, 電子情報通信学会論文誌D-II, 条件付採録

    [8] 舘俊太, 「同期する2層のパルスニューラルネットを用いた幾何図形の認識」, 生体生理工学シンポジウム:中枢システムにおける同期現象とその情報構造, 北里大学, 2001年8月