2002年度森泰吉郎記念研究振興資金 研究者育成費成果報告書

大腸菌全代謝モデルのためのモデリング理論の構築

政策・メディア研究科 博士課程 橋本健太

 

  はじめに

本研究における細胞のシミュレーションとは、代謝物質の時間変化量を状態方程式として表すことにより、細胞プロセスを動的に表現する手法であり、その一般的な形がMichaelis-Menten式に代表される反応速度式を用いての反応速度を算出する方法である。細胞内代謝にはフィードバック阻害、遺伝子発現の制御などによる様々な調節機構が働いている。これらの調節機構が存在するために、細胞は、細胞内外の状態が変化した場合にも系の安定性を保ち、また、効率の良い物質生産を行うことができる。シミュレーションのためのモデリングでは、これらの各酵素レベルでの調節機構を詳細に記述し、全体として組み合わせる手法をとるため、これらの仕組みが全体としてどのような挙動をとるかを予測することができる。
 
細胞シミュレーションの目的の一つは、細胞内代謝の設計であるが、これらの動的な変化を考慮した設計を行うためには、ダイナミックなシミュレーションが不可欠のものとなる。ただし、各反応速度を決定する速度式と速度式内で使用されるパラメータのほとんどが決定されない限り正確なシミュレーションを行うことができないという欠点を持っている。これらの式やパラメータの決定は時間と手間のかかる作業となっている。
 
細胞をモデリングする手法には、上記の動的モデルとは別に、静的モデルである代謝流束解析がある。この方法は化学反応における量論係数と各反応の流束とで行列を構成し、流入・流出との間の関係式を解くという形を取っている。この手法の利点は、モデルを構成するのに必要な要素が、代謝経路における全反応とその化学量論係数、系への流入・流出の値だけだということである。そのため、反応速度式に用いられるデータが不足している系でも表現することが可能である。ただ、代謝流束解析は、変化に富むような主要経路には適用できないというデメリットもある。また、代謝流束解析で表現できる流速モデルは、ある特定の定常状態が成り立っている場合のみにしか適用できないという欠点もある。
 
これらの問題を解決するため、冨田研究室内では、中山洋一等によってハイブリッド・アルゴリズムの共同研究が行われている。ハイブリット・アルゴリズムとは、代謝の速度を律速する酵素を含まない経路を代謝流束モデルによって表現し、詳細な速度論データが入手できる経路、また、調節機構を含むために系を律速する可能性がある酵素を含む経路に関しては、ダイナミックモデルを用いる手法である。その積分間隔ごとに代謝流束モデル内の流束分布の演算をし直すことによって、2つの手法を融合させることが可能となる。
 
近年の生命科学分野の発展に伴い、膨大な量の生化学的、分子生物学的なデータが蓄積されてきている。これらのデータを用いることにより、細胞シミュレーションを行なうことが現実的になりつつある。また、私の所属する冨田研究室では、細胞シミュレーションを行うためのソフトウェアであるE-CELLSimulation Environmentも開発、公開されている。
 
細胞をシミュレーションすることにより実験の補助による学術、医学、産業分野への貢献や、生命原理の解明等、様々な成果が期待されている。中でも、産業分野への貢献として、有用微生物の設計では、シミュレーション技術が重要な位置を占め、工業的に多きな可能性を秘めている。有用微生物を設計する際に、基となる微生物として最も適当だと考えられるのが大腸菌である。大腸菌は、分子生物学、生化学の分野において、長い間モデル生物として研究が進められてきたために、酵素キネティクス的なデータが比較的多く調べられている生物である。
 
有用微生物の設計を可能とするためには、細胞内の反応を網羅的にモデリングすることが重要となる。細胞内では様々な反応が複雑に相互作用しあっているためである。網羅的なモデリングを志す際に、比較的単純で、実現可能性の高い系は代謝系である。そこで、本課題においては、全細胞シミュレーションの第一段階として、大腸菌のエネルギー代謝経路を中心としたモデリングを行なった。また、その際、大規模な代謝モデルの構築を可能とするための、モデリング環境の構築も行った。モデルの規模が巨大化するに従い、系全体を人が把握することは難しくなる。そのため、大規模なモデルを構築するためには、従来の手法とは全く異ったモデリング手法が必要となる。そこで、細胞モデルが直接反映され、また、データの配布が可能なデータベース、及びデータベースマネージメントシステムの構築、データ収集方法について、データマイニング手法を用いた有用論文システムの構築、配列解析技術を用いたパラメータ推定の検証を行い、それらの手法を用いて大腸菌エネルギー代謝経路のモデリングとシミュレーションを行った。下図は手法全体の概略図と、構築したモデル図である。
 

 

 

研究成果

2.1モデルデータベースの構築

自動化された手法により大規模なモデル構築を行う場合、データが整理されていないと構築されたモデルを解析することが困難となる。そこで、細胞モデルを直接反映させることが可能なデータベースを構築した。シミュレーションソフトウェアであるE-CELL Simulation Environment内でのデータ構造に準拠したテーブル構造を設計し、さらに拡張して、モデルに適用する候補となるデータを複数内部に保持できるようにした。以下に、設計されたデータベース内のテーブル構造を示す。
 

 

2.2有用論文自動検索システムの開発

モデリングに必要なデータは、実験で求めるか、すでに行われた実験を文献から探し出すことによって入手する必要がある。しかし、文献からのデータの入手を行う場合、必要な文献数が膨大な量になるため、人が目で探す方法には限界がある。そこで、本研究においては、有用論文の自動検索手法の開発を行った。有用論文とは、定量的なキネティクスパラメータや反応速度式を入手できる論文である。検索対象はPubMed(http://www.ncbi.nlm.nih.gov/entrez/query.fcgi?db=PubMed)及び、Web of Science(http://wos.isiglobalnet2.com) Science CitationIndex 内のレコードである。
論文検索時の対象とするキーワードを図に示す。図は、キーワードと、重み付けに用いられる点数をセットにして示している。

 
また、本システムでは論文の相互の引用情報を基にした重み付けも行った。より過去に行われた重要な研究に関する論文を引用している場合、より高い重み付けを行う。これまでに、この基となる論文についての試験的な選出を行なっている。また、有用度の高い論文に引用されている論文も高い重み付けがされるようにする。具体的には、一段階目の重み付けが終わった時点での点数を基に、各論文が別の論文を引用していた場合に元の論文の点数の10%の点数を加算するという方法を取った。
 
大腸菌のエネルギー代謝経路内の36の酵素についてこのシステムを適用したところ、1528本の論文が見つかった。これらの論文から、全ての酵素について、最低一つの生化学的なデータを得ることができた。しかし、詳細なモデリングに十分な量のデータを得ることはできなかった。

2.3 他生物種のキネティクスパラメータの適用

酵素によっては、大腸菌でほとんど研究が行われておらず、定量的な情報の入手が見込めないものもある。この場合の解決策として、他生物種のパラメータを使用する場合がある。しかし、他生物種のデータがどれくらい適用可能かどうかについてはほとんど研究がなされていない。そのため、他生物種からの杵ティクスパラメータの転用の有効性についての検証を行った。各酵素の塩基配列、もしくは生物種間の進化的距離とのキネティクスパラメータとの相関を調べた。前者の解析には、Man-Whitney U 検定を用いた。後者の解析には、生物種間のパラメータの相関と進化的距離を二標本t検定により解析した。その結果、どちらの場合も相関があるとは言えないという結論を得た。このため、今後他生物種のデータを適用可能な条件を調べる必要がある。
 

2.4    エネルギー代謝モデルのシミュレーション

本研究では、大腸菌のエネルギー代謝系のうち、解糖系、ペントースリン酸経路、TCA回路、発酵を対象とした。エネルギー代謝系のモデリングであるにもかかわらず酸化的リン酸化反応系を含まなかったのは、その系の複雑さにより、モデリング、シミュレーションによる解析を行うのに手頃なサイズを超えてしまうと考えたためである。本モデルは36の酵素反応を含む。解糖系は13個の酵素からなり、TCA回路は11個の酵素、発酵は5個の酵素、ペントースリン酸経路は7個の酵素からなる。本研究におけるモデリングでは、アイソザイムによる酵素反応の違いについては明示的に区別せず、全ての酵素が一種類ずつしか存在しない状態と同質のものとして扱った。これは得られたデータの少なさに起因するためであり、将来的にはアイソザイムまで考慮したモデリングを行いたいと考えている。本研究においては、これらの代謝系についての個別モデリング、シミュレーション並びに統合モデルでのシミュレーションを行った。解糖系、ペンとー巣燐酸経路については、主にChassagnole et. al.2002”Dynamic Modeling of the Central Carbon Metabolism of Escherichia coli” の論文を基にモデリングを行った。以下に、シミュレーション結果を示す。
 
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3 学会発表


本研究課題について、以下の学会でポスター発表を行った。