2.コルチン砂地の自然と社会

2.1 コルチンの地理範囲

 コルチンはモンゴル語で“やりを持つおとこ”を意味する.そこはもともとチンギスハンの2番目の弟,ハスルの領地であった.その範囲は図2-1に示すように,東は黒竜江省のチャウトン市,南は遼寧省のシンミン市,西は赤峰市ヘシグテン旗,北は黒竜江省チチハル,南北696km,東西768km,総面積27.7万km2という広大な地域に及ぶ.現在の中国行政区画でいうと,内蒙古自治区の興安盟,通遼市,赤峰市(カラシン旗,寧城県,赤峰市区を除く),遼寧省のフーシン蒙古自治県,フーシン市,チャンウー県,カンピン県,シンミン市,ファクー県,チャントゥー県,吉林省の白城地区と双遼市,黒竜江省のターチン市,トアルボト蒙古族自治県,アンター,チャイトン市,リンディエン県,チャウゾウ県,チャウユァン県,チチアルの一部,計44の旗県市を含む.いわゆるコルチン草原とはこの範囲のことである.但し,「盟」は日本の郡に相当するモンゴル族自治州,「県」は日本の市町村に相当する行政区画,「旗」は内蒙古自治区の中のモンゴル族県を意味する.中国の「市」は上海市,北京市のような省レベルの市,通遼市や赤峰市のような郡レベルの市,ショワンリャオ市のような市町村レベルの市という3種類ある.

2-1 コルチン草原の範囲(背景:エンカルタ総合大百科2003より)

 コルチン草原は総面積27.7万km2のうち,草地15.6万km2,土地総面積の55.24%,林地2.9万km2,同10.3%,耕地5.8万km2,同20.37%,水域とその他4.0万km2,同14.08%で構成されている.44旗県市の総人口は1683万人,うち,農牧業人口は1288.2万,76.54%を占める.人口のうち,蒙古族が7.1%,他の少数民族が5.5%,漢族が87.4%を占める.このことから,コルチン草原は中国において,蒙古族人口がもっとも集中し,漢族が多数を占める多民族が共存していることが特徴としている.

 コルチン草原の南部には,西遼河と嫩江(ネンチャン)(図2-1のロンチャン->ターアン方面)両岸の氾らん平野の一部を除く4.23万km2の地域が砂丘砂地となっているため,コルチン砂地という.行政地区でいうと,内蒙古自治区興安盟南部,通遼市中南部,赤峰市東部(カラシン旗,寧城県,赤峰市区を除く),遼寧省のフーシンモンゴル族自治県,フーシン市,チャンウー県,カンピン県,シンミン市,ファクー県,チャントゥー県,吉林省の白城地区とショワンリャオ市を含む.

 通遼市はコルチン砂地の中心に位置し,内蒙古自治区東部一大の都市である.1999年現在,総人口337.2万人,うち,農業人口252.1万人,全体の82.53%を占める.蒙古族93.4万人,漢族169.7万人,それぞれ総人口の37.4%と59.8%を占める.砂地が2.7万km2で,コルチン砂地総面積の52.7%を占める.西通河,新并河,教来河,霍林河,烏力吉木仁河,柳河などが市域を流下する。通遼市は通遼市区部,カイルー県,ジャルト旗,ホンニウド旗,コルチン左翼後旗,ナイマン旗,クリン旗,コルチン左翼中旗という7つの旗県を管轄する.土地利用は農地用地13.5%,林業用地8.6%,牧草地53.7%,市街ほかの用地12.1%,未利用地12.1%となっている.

 通遼市はコルチン砂地の中で,最も砂漠化の影響を深刻に受けている地域である.全市3分の2以上の町や村,70%以上の人口,90%以上の貧困人口が砂漠化地域に住んでいる.

 コルチン左翼後旗(以下,後旗と略す)は,コルチン草原及び通遼市の南東部に位置し,通遼市街まで76km,沈陽市まで190kmの距離にある.後旗の総面積は11000 km2で,23の郷と鎮,527の村,12の国有農場に分かれる.1999年現在の総人口は39.64万人で,モンゴル族が72%を占める.ほかに漢族,イスラム族,満族等16の民族の人々が暮らしている.

 本研究は図1-1中の赤い四角枠で囲まれた部分,つまり,後旗政府所在地のカンチカ鎮周辺数十キロのエリアを対象地域として取り上げる.なお,研究の中で,地域の自然や社会の条件を述べるとき,しばしばコルチン草原,コルチン砂地,通遼市などを引用するが,それらの地名が対応する地域は図1-1のとおりである.

 

2.2 コルチン砂地の自然

1)地質と地形

 コルチン草原の地形は図2-1に示したように,東北―西南方向に走る大興安嶺の山麓丘陵,西遼河と嫩江(ネンチャン)沖積平野,堆積盆地という3つによって構成されている.地勢的に西が高く東が低い.南北が高く中部が低いかたちとなっている.松花江(ソンホァチャン)−遼河(リャオホー)沈降地帯の南端に属する西遼河と嫩江平野地帯に,第三紀と第四紀の堆積物が大量に堆積し,場所によっては300mに達するという.これはコルチン砂地が形成される地質条件である. 図2-2はコルチン砂地の範囲と水系等を表している.

 コルチン砂地は西遼河を境目に南北に分かれる.西遼河の北部にも砂丘があるが,南岸ほど密集していない.西遼河の南部では,西のバイリン右旗から東のショワンリャオ県まで,西端では南北5〜6km,東端では南北134km,東西総延長429kmの地帯に,砂丘と丘間低地が交差する砂地が広がっている.ここはコルチン砂地の主体となっている.西部の奈曼旗や庫倫旗が東部の後旗より,砂漠化がより進んでいる.後旗の中でも西部や西北部のほうが砂漠化が激しい.

 コルチン砂地は固定砂丘,半固定砂丘,移動砂丘,丘間低地,沼地,湖沼など多様な地形を見せる.砂丘と砂丘の間に,大小様々な湖沼がある.現地の人々は固定または半固定の砂丘を“トウジ”,砂丘の間にある湖沼を“パオジ”,湿地を“ディエンジ”,砂丘と湿地との間の平地を砂沼あるいは沼地という.

 移動砂丘は一般に沖積・湖積平野,浸食された山麓元といった砂の供給が豊富で,人間活動の頻繁な処に現れる.芭林橋から東へ行くに連れ,移動砂丘が減少し,半固定砂丘,固定砂丘の比例が高くなる.移動砂丘には三日月型が最も多く,複合三日月型や盾状砂丘がその次となる.高さ約10-15m, たまに30mを超えるものもある.

 固定砂丘が活性化される当初は小さな箇所だが,徐々に広がっていくと長い線状砂丘となる.線状砂丘が連ねたものは巣状砂丘という.

 ディエンジは主に西拉木倫河(老哈河より上流の西遼河),老哈河沿岸の氾らん台地に分布する.ディエンジは地勢が平坦なため,面積の大きいものは殆ど農地に開墾されている.砂丘間のディエンジは面積が小さく,排水も良くないため,塩害が起こりやすく農地としての利用価値が低い.

2-2 コルチン砂地の略図(背景:エンカルタ総合大百科2003より)

 

2)水系

 コルチン草原は,西遼河と嫩江流域に属し,西遼河がコルチン砂地を通過する.河川が降水と山間部の地下水によって補給されるため,年間または季節降水による流量の変化が大きい.最近数十年,水利施設の建設が進んだため,地表水の使用が増加する一方である.農業灌漑用水が全体の75.6%,牧業用水が19.8%,工業用水が4.6%を占める.地表水が大量に利用されると,河川流量が著しく減少する.その結果,西遼河水系は,本支流とも断流しているものが多い.例えば,西遼河通遼水文局では,1952年から1965年まで年間平均流量が12億m3以上あったが,1966年に0.931億m3に激減し,1975年以降は,洪水期間を除いて,年中断流している.河川の断流は下流への水供給を図絶えるだけでなく,裸出した河床が砂塵の供給源ともなり,河岸砂丘帯を活性化させるきっかけとなることが多い.

 コルチン砂地は表層が砂によって覆われているため,透水性がよく,良好な貯水条件を持っており,地下水は豊富である.後旗では平均して50-100mの滞水層があり,厚いところでは100mを超える.地下水位は一般に1-2m程度で浅い.ディエンジ地では排水がよくないため,潜水が地表に溢れるところも多い.しかし,近年,乾燥が進み,地下水の採集も増えているため,地下水位が年々下がる傾向にある.

3)気候

 コルチン草原はチョウアル河(白城付近.図2-1参照)から北は寒温帯湿潤気候に属する.チョウアル河より南部の地域は中温帯半湿潤気候,半乾燥気候に分類され,大陸性気候帯である.モンスーン気候の影響で,降水量の年間変化が大きい.コルチン草原の年間降水量は,図2-3に示すように南北が高く(約450mm),中部が低く(約330-400mm)となっている.後旗の南部地域は通遼市区より年間30mmほど高い. 降雨は6-8月に集中し,一般に250-300mm降り,年間降水量の70-80%を占める.冬季,春期の降雨が非常に少ない.

2-3 通遼市の年平均降水分布

 冬季は蒙古高気圧の影響で,北西の風が強く,寒く,雪も少ない.夏期は太平洋副熱高圧帯の影響で南東の風が多く,雨も多い.春・秋期は蒙古高気圧と太平洋高気圧が入れ替わる時期のため,北西の風と南東の風が交互に現れる.年間の風向頻度としては,北西の風が50%以上を占める.春期は風の強い季節であり,同時に雨の少ない乾季でもある.強い西風あるいは北西の風が砂を南東方向へ移動させる.一方,コルチン草原の東部地域では,春に南西の風もよく吹く.南西の風がまた砂を西北方面へ移動させる.北西の風と南西の風の分かれ目は赤峰市と通遼市の境界付近の老哈河一帯に現れる.したがって,コルチン砂地が西から東へ扇状に展開しているのは春に吹く北西の風と南西の風が交互に作用した結果である.

 後旗においては,年間降水量が450mm前後,日照時間が2860時,平均気温が6℃,積温は3000〜3200℃,無霜日数は148日となっている.後旗においては,年間南風が卓越するが,冬・春・秋に北西の風も多い.とくに,後旗の東部地域では,南東の風が北西の風よりも卓越するため,三日月方の砂丘の両翼が北西方向を指していることが多い.

4)土壌

 コルチン砂地においては多様な土壌が見られる.東北部には少量の黒カルシウム土が分布し,大興安嶺の沖洪積扇状地には黒カルシウム土,南部丘陵や台地には褐色土と黒ボク土が発達する.中部の沖積平野には風砂土,丘間低地では草甸土,古河道には湿性土が見られる.東北部に大量の塩カルシウム土になっている.母質が砂のために,特殊な土壌(黒ボク土系の砂土)が形成されているところもある.

 沼地の土壌は腐食質層の厚さが20-60cmで,比較的に肥力が高い.細砂,粉砂が主な組成となっており,農地として開拓される砂漠化されやすい.ディエンジ地の表層は厚さ0.5mほどの粘土や粉砂によって構成されて,下層は砂礫となっている.

5)植被

 コルチン砂地の原生草地は乾性・半乾性の植物種によって構成されていた.ここはかつて中国北方独特の疎林草原として,様々な原生植物が生育しているという.代表的な植物種として,大果楡(Ulmus Macrocana),白楡(U. Pumila),元宝機(Acer TRuncatum),山査(Crataegus Pinnatifida),山杏(Prunus Sibirica),胡枝子(Lespedeza Bicoir),鼠李(Rhamnus davurica),鉄幹HaoArtemisia Gmelinii),麻黄(Frohedra sinica),冷ハオ(Artemisia frigida),羊草(Aneurocepidium chinese),隠子草(Cleistogenes polyphyila),線葉菊(Filifolium sibiricum)等があった.よく発達した疎林草原の植物群落は豊かな組成を持ち,喬木,灌木,草本の三層構造もはっきりし,被覆率がそれぞれ30%,40%,70-80%に達する.地面は鬱蒼とした草によって覆われ,牧草生産力は4000〜5000kg/haにも達していた.

 しかし,最近百,二百年以来,これらの原生植皮は著しく破壊された.緑豊かな疎林草原景観が砂丘と低地が交錯する典型的な乾燥・半乾燥の砂漠化となっている.移動砂丘があたり一面に広がるところも少なくない.二次植皮は原生植皮と比べて,喬木層が消失し,草本層が退化し,灌木層が強烈に発達する.主要な植物種は砂地植生と乾性植物に取って変えられている.代表的なものとして,黄柳(Salix gordejevii),杠柳(Periploca sepium),小葉錦鶏児(Caragana microphylla),達烏里胡枝子(Lespedeza davurica),差芭嗄蒿(Artemisia halodendraon),白草(Pennisetum centraasiaticum),棉蓬(Corispermum),蒼耳(dilutum Xanthiu, sibiricum)などがある.砂漠化が進めば,群落の植物種が少なくなり,群落そのものも発達が悪い.植皮率が10〜40%となれば,生産高が300-3000kg/ha程度で,中でも家畜に食べられる牧草がもっと少ない.

 コルチン砂地の植物被覆は降雨条件によって大きく変化する。降雨の多い年は砂丘間の低地のみならず,移動砂丘の上にも沙地草本植物が多くしがみつくようになる。

コルチン砂地の植物景観というと、後旗南西部の端に位置する「大青溝」という自然保護区を特別に言及しなければならない。大青溝は100mほどの花崗岩の谷に,ニレ科やモンゴリナラが高木層を優占し,アンズ,クワ,サンザシといった樹木が中低木層を形成するいわば冷温帯落葉広葉樹林である。谷の外の沙地では,降雨量が少なく、土壌も未発達な乾燥・半乾燥土地であるが、大青溝の中では雨季には朝晩に霧も発生する。このような地形や土壌や水分条件によって,大青溝の中で独特の微気候が形成され、緑豊かな空間となっている。

 コルチン草原の北部には典型的森林草原景観として,北方原生林が広がり,夏期と秋季の天然牧場となっている.中部地区は西遼河乾性草原平野と松(花江)嫩(江)草甸草原である.固定または半固定砂丘では植生被覆が40%〜70%程度である.

 

2.3 コルチン砂地の開発歴史

 コルチ草原は農耕文化と遊牧文化が交差する地帯である.前述したような地質,気候,水条件は砂漠化に基礎的な環境を提供した.しかし,砂漠化の発端と進行はそこに度重なる人間の活動と密接に関係する.

 唐(618-907)以前,コルチン草原の西部,すなわち,老哈河より西には森林草原,東には疎林草原が広がっていた.当時,地表に各種の植物によって覆われ,裸出する砂丘はなかったという.老哈河より西の地域に大量の原生林が分布し松が繁茂したため,“松漠”と呼ばれていた.遼(916-1125)のときに,ここは平地松林とよばれ,広さ数千kmに及んでいた.老哈河より東の地域は湖沼の多い疎林草原であった.それは現在の後旗の土地景観からも想像できる.

 コルチン草原の砂漠化は遼(916-1125)に始まったと言われている.遼は契丹人が建設した遊牧民の国家であった.しかし,彼らは唐のときにすでに農作技術を持ち,生活方式も遊牧から農業へ変わりつつあった.王朝が興起する時に,中原地域ではちょうど紛争が多かった.そこで,彼らは南下し,大量の漢民族の人を捕虜として連れかえり,コルチン草原に安置させて,土地の開拓に従事させた.その結果,荒涼とした草原に,無数の集落が現れるようになった.

 コルチン草原の表土が薄く,表層下は粉砂で構成されているため,農耕作によって表層を壊すと,たちまち流砂が流れ出し,砂漠化を引き起こすことになる.移民政策が紀元10世紀初頭に始まり,10世紀中程まで続いたという.11世紀に入り,つまり,大規模な土地開拓から50年たつと,砂漠化がかなり深刻になった.当時,宋国の使節が遼国を訪れるときに,よく流砂によって支障をきたしたという.

 農業耕作は金(1115-1234)に入ってからも変わらなかった.その結果,砂漠化の被害で,一部の州や県を撤廃せざるをえなかった.金はモンゴル人の侵入を防ぐために,コルチン草原の北部に大きな堀を掘っていたそうである.また,堀に沿ってお城もたくさん作られた.堀と城の構築がいっそう森林の伐採と土壌の破壊を進め,砂漠化を加速させたと推測される.

 元(1206-1368)と明(1368-1644)ではコルチン草原がモンゴル人の牧場となり,農業耕作がほとんどやめていた.半乾燥・半湿潤地区としてのコルチン草原は,人間の破壊が止まれば,森林や草原が自ら回復することができる.遼や金によって活性化された移動砂丘は殆ど固定砂丘または半固定砂丘に変わり,砂漠化地域がまた森林草原地帯に戻った.

 しかし,清(1644-1911)に入ると,草原の砂漠化が再び始まった.その発端は清朝がモンゴル族の各旗に土地開拓を奨励したからである.コルチン草原の農地開拓は清4代目(北京に入ってから2代目)の皇帝,康煕によって提唱された.康煕帝の母親と祖母が共にコルチンの出身であった.そこの貧困を解消するために,土地の開拓がよい方法と考えたからである.1689年以降,康煕帝は幾度も朝廷要員をコルチン草原に派遣し,モンゴル族に農耕技術を普及させたという.

 康煕年代の農地開拓はコルチン草原の固定砂丘を再び復活させ,牧業の生産まで支障をきたした.その後の乾隆帝は開拓を全面的に禁止する政策を打ち出したが,利益を得た蒙古王族は朝廷の政策を無視し,漢族をどんどん移入させ,農地の開拓を進めた.嘉慶帝に入るときには,もう草原の農地開発はとめようのなかった.結局,既成事実を合法と認めざるを得なかった.

 19世紀40年代に入り,アヘン戦争の後,朝廷は財政危機を打開するために,蒙古王族に強制的に牧場を譲らせて,農地に転用させた.この政策上の大転換は農地の開拓をコルチン草原全域に蔓延させた.大量の移民を管理するために,開拓地域において奉化(フェンファ)県,懐徳(ファイド)県,双山(ショワンサン)県,遼源(リャオユァン)県などが新たに設置された.

 遼と金のときと比べ,清の草原の開発は遙かに規模が大きく,移入した漢族人も多かった.その結果,元の時代以来,自然に回復していた森林草原は再び破壊され,コルチン草原の大規模な砂漠化が始まった.今日のコルチン砂地の砂漠化はそのときに由来するものでもある.

 中華民国(1911-1949)の時代には,戦火から逃れた難民が多くて,砂漠化も止まらなかった. 1931年以降に日本からの開拓団もコルチン地域に入り,組織的な土地開拓を進めた.日本開拓団が駐屯した地域,例えば,現在のカイルー県北部なども,砂漠化被害の大きい処である.

 

2.4 新中国以降の農業政策と砂漠化の進行

 中華人民共和国が1949年に建国した. “人が多いほどいい”というスローガンのもとで,1950年代から1970年代までの30年間に,中国の人口が爆発的に増えた.

 大量のひとを養えるために,革命家たちも康煕帝と同じ考えを持っていた.つまり,草原での農地の開拓の政策がとられた. 1950年代以降,内蒙古自治区において4回にわたる農地開発のブームがあった(烏蘭図雅,2000).第1回目は 1949-1952年の戦争復興期である.土地制度が改革され,農地開発を戦争復興の効果的な方法として取られた. 第2回目は1959〜1961年の大躍進運動である.当時,内蒙古自治区は“食料,野菜,飼料”を3つとも自給しようという方針を打ち出し,全自治区において土地の開拓と食料の増産が推進した.コルチン草原は水条件がよいため,内蒙古の穀倉地帯と見なされ,食料の増産が特に強力に進めた.1961年には自然災害に遭い,その復興のために,政府としては,農民に自由に農地を作らせるほか方法はなかった.第3回目 1966〜1976年の文革期間中で,一貫して食糧優先の政策が取られた.この期間中に,軍隊や政府機関や企業なども草原に入り,牧場を占拠して農地の開発を行ったという.60年代末期に通遼市で最高の農地面積(63.47万ha)を記録した.

 近代以前の農地開発は主に河の沿岸などの土地の肥沃なところで行われた.しかし,1950年代に入ってから,そういった河川沿岸域はすでに開発が尽くされていた.そこで,農地の開墾はトウジ,ディエンジ,沼地まで対象とすることにした.トウジはすなわち固定または半固定砂丘であって,表層の土壌が非常に薄い.それを農地にしても,1〜2年の耕作で砂丘が活性化され,農地としての価値がなくなる.沼地の開拓は土地を風食にさらされることになる.こうした農業に適さない土地での耕作に関して,現地では“1年目はたがやして,2年目はすてて,3年目は砂丘となって”と言われている.ディエンジを農地にした場合,排水が良くないため,水分の蒸発で塩類が表層にたまりやすい.それで,土地はすぐに塩害を受けることになる.

 第4回目の大規模開発は1980年末から始まり,20世紀まで続く.“豊かになろう”という流れに乗り,草原が益々農地に作り変えられた.通遼市の耕地面積は80年末に47万haだったが,1996年に54万haとなり,年間0.75万haの速度で増加した. 但し,表2-1からわかるように,後旗においては,1980年代以降に農地の面積が殆ど変化なかった.烏蘭図雅(2000)の研究でも同様なことが報告されている.

 コルチンでは,農業活動と共に放牧も盛んであることを忘れてはならない.図2-4は通遼市国営系農場の1948〜1997の年末家畜数を示している. 1950年代から1990年代まで,大小様々な家畜の年末保有頭数も増加する一途にある.特に 1980年代以降,国営系農場の山羊の伸びは凄かった.国営系農場はコルチン砂地全体を代表するものではないが,社会的情勢が同じなかでは,民間でも同様なことが起きたのではないかと推測できる.背景には1980年代以降,内蒙古などの温帯草原地域では,農業よりも牧業が適するというふうに考えられ,牧業を奨励した結果である.これによって,草原が過放牧され,広域にわたって草原の砂漠化が加速されたと思われる.

 

 

 

2.5 農業政策が砂漠化進行に与えた影響の定量的分析方法

 以上に述べたように,コルチン砂地の砂漠化の進行には,気候や地質などの自然条件と,人間による土地利用の方式が重なった結果である.中でも,最近50年間の農業開発が固定砂丘や半固定砂丘を広域にわたって活性化させたことに影響が大きいと推測した.しかし,このような人間活動による砂漠化は,コルチンの土地に,いつの時期に,どのような分布で起きていて,政策要因とは具体的にどれだけの関連性があるかについては,限られた統計データでは,説明できない.そこで,我々は過去にある地図データや衛星画像を用いて,それを空間的に捉えることにした.

 砂漠化の拡大は流動砂丘をコアとして、半流動砂丘、半草地、低地草地へと空間的に拡大していることがASTERなどの衛星画像によって確認された。そして、過去の地理データと目視で比較した結果、移動砂丘はいくつかの時期に形成され,拡大されたこともみられた。それらの地理情報を図2-5のように時間軸に並べると,政策の影響と何らかの形で対応が取れるのではないかと推測する.砂漠化に関するこれまでの研究といえば,フィールドでの砂漠植物の調査や衛星画像による土地被覆の変化の抽出に関するものが多く、政策の影響を含めた時空間的調査と分析が行われたものがない。特に50〜60年代の人民公社運動や70年代の文化大革命期間中に起きたことはこれまでに公開された資料が少ないため,ベールに包まれた。

 

2-5 研究方法

 

コルチン砂地の土地景観は移動砂丘、水域、低地(水田、樹林地、低地草地)で代表される.これらの景観区分を本文ではエコトープという。砂漠化の拡大は固定砂丘の活性化と拡大,水面の枯渇、樹林や草地の消失といった現象として現れる.そこで、我々は移動砂丘をコアエコトープとして捉え、異なる時期の地理データを時間軸に並べて,その分析と処理から地域の土地被覆マップを作成し,各時期の移動砂丘を抽出する.抽出した移動砂丘の変化を各時期の農業政策と比較し,その影響を考察することができる. 具体的には,次のように研究を進めることにする.

(1)図2-4に示すように1960年代と1970年代のCORONA偵察衛星写真、1980年代,1990年代と2000年代のLANDSAT/TM画像を用いて、各時代のエコトープマップを作成する.

(2)各時期のエコトープマップから移動砂丘を抽出し,面積の拡大を定量的に評価する.

(3)2000年の衛星データで作成した土地被覆マップを現況エコトープマップとし,移動砂丘をコアエコトープとし、面積、周囲長、連結性などを算出する(図2-5の@)。

(3)各時代のエコトープマップを現況マップと逐一比較して、現況コアエコトープが形成された時期を特定する(図2-5のA)。

(4)過去の土地被覆マップをそれ以降の各期マップと比較し、移動砂丘が消滅する時期、あるいは拡大していくパターンを抽出し、砂丘が空間的に拡散する形態を分析する(図2-5のB)。

(5)以上に抽出された各期の砂丘の種類、数、位置、面積、周囲長、連結性などの景観特性を統計的に考察し、農業政策との関連性を考察する。

 

3.データの整備

 研究プロジェクトで入手した対象地域のデータを時間順に表3-1に示した.データによっては,時期や精度の問題もあるため,同一に処理できないものも多い.このことも考慮しながら,各データの特徴を簡単に説明しておく.

3.1 画像データ

 CORONA, Landsat,JERS-1,ADEOS,ASTERなどの衛星画像データを数多く取得した.1960年代には1961.0912のCORONAがある.1970年代には1973.12.25のCORONAがあるが,縮尺が小さいこと,冬に撮影されたため,解析処理に利用できない.

 Landsat TMは古いものは1984年,新しいものは2000年とある.また,撮影時期は5月はじめ,6月,7月,8月,9月下旬にばらついている.これらのデータは,時系列変化のメインデータとしての利用と,参照としての利用がある.メインデータとしては,同じ季節,同じ条件で撮影されたものがよい.このことから,1988年,1994年,1995年,2000年は9月に撮影されたため,メインデータとして利用することにする.1984年のものは7月に撮影されたが,最も古いTMデータとしては重要である.1990年はそれと同時期のものであり,比較としては使ったほうがよい.

 JERS-1とADOESの両センサはTMより解像度が高いが,6月に撮影されたもの,バンドスペクトルがTMと違うことを考慮して,今回利用しないことにした.また,ASTER画像は2000年以降に提供されていること,TMとバンドスペクトルが違うこと,同じ年に,9月撮影のTMがあることを考えて,今回の研究でも利用しないことにした.

3.2 地形図データ

 対象時期を戦後にしたため,戦前の地形図を使わないことにした.また,1981年のロシア製の地形図は10万分の1あるが,土地被覆区分に関して,情報量が乏しいことから,使えなかった.

 

 以上のことから,画像データや地図データに関しては,1950年代のものがなく,1970年代のものも質が良くなかった.最終的に,解析は1961年のCORONA画像,1984年,1988年,1990年,1994年,1995年,2000年の計7時期をメインデータとして,分析に利用することにした.これら7時期以外のデータも,必要に応じて,参照データとして引用することがある.

 

 


3-1 プロジェクトで収集した地理データ一覧(下線のものは本文中の解析に利用)

データ

時期

識別番号

精度

メディア

入手方法

CORONA

1961.09.12

1965.08.26

1973.12.25

ミッション:9022

ミッション:1023-2

ミッション:

25ft

25ft

 

フィルム

USGS

Landsat

1984.07.10

Path: 120/Row:30

TM: 30m

デジタル

HEOC

Landsat

1988.05.02

1988.09.23

Path: 120/Row:30

TM: 30m

デジタル

HEOC

GLCF

Landsat

1990.07.11

Path: 120/Row:30

TM: 30m

デジタル

HEOC

Landsat

1994.09.08

Path: 120/Row:30

TM: 30m

デジタル

中国RSC

Landsat

1995.09.11

Path: 120/Row:30

TM: 30m

デジタル

HEOC

JERS-1

1995.07.24

1996.08.23

Path: 100/Row: 228

Path: 100/Row: 228

OVN:20m

デジタル

HEOC

ADEOS

1997.06.24

Path: 1220/Row: 430

AVM:18m

AVP:10m

デジタル

HEOC

Landsat

1999.06.02

2000.09.24

Path: 120/Row:30

TM: 30m

デジタル

HEOC

中国RSC

ASTER

 

2000.08.24

2001.06.24

2002.06.27

2002.10.17

2003.06.14

 

2000.08.24

Granule: ASTL1B-

0008240300330204230115

0106240253470206250001

0206270247100207130007

0209220253130210170083

 

ASTER_DEM

20020703151329.tif

 

VNIR:15m

SWIR:30m

TIR: 90m

デジタル

財団法人資源・環境観測解析センター(ERSDAC)

地形図

1981-ロシア製

1932-戦前

図番:K-51-28,29,40,41

図番:張立他拉

1:10万

1:5万

画像

紙複写

OMNI

慶應日吉

統計情報

1994

2000

2002

カンチカ鎮村別牧業基本調査(6月末現在)

村単位

 

 

紙複写

現地政府

人口統計

農地統計

家畜統計

中国統計局

中国統計局

中国統計局

内蒙古

通遼市

後旗

CD-ROM

書籍

紙複写

書籍付録

書籍

後旗政府

行政地図

1980

村の行政境界

1:10〜30万

書籍

現地書店

降水量

1987-1999

1961-1986

2000

通遼気象局ガンチカ鎮点

中国気象局通遼点

中国気象局通遼点

月別

日別

日別

ファイル

 

現地研究者

気象局Web

 


3.3 統計データ

 画像データの解析結果を解釈し,政策との関連性を検証するためには,地域の農業・牧業活動を示す統計データが不可欠である.対象地域だけの統計を得ることができなかったが,人口,農地面積,家畜数の3種類に関して,内蒙古自治区,通遼市,後旗の3レベルでデータを集めた.

 

3-2 内蒙古自治区の人口推移(1949-1998)

年次

年末総人口

農作総面積

家畜総頭数

年次

年末総人口

農作総面積

家畜総頭数

単位

万人

Kha

万頭

単位

万人

Kha

万頭

1949

608.1

3896.0

304.3

1974

1705.2

4963.0

752.3

1950

659.9

4238.0

331.1

1975

1737.9

4909.0

766.8

1951

686.6

4697.0

372.5

1976

1769.2

4807.0

748.7

1952

715.9

4949.0

430.3

1977

1798.1

4781.0

715.3

1953

758.4

4776.0

442.5

1978

1823.4

4824.0

659.3

1954

801.5

4849.0

494.7

1979

1851.8

4881.0

685.3

1955

843.0

4886.0

514.7

1980

1876.5

4797.0

681.3

1956

896.6

5310.0

496.9

1981

1902.9

4662.0

678.9

1957

936.0

5279.0

450.5

1982

1941.6

4641.0

708.0

1958

986.1

5055.0

468.1

1983

1969.8

4631.0

694.7

1959

1062.5

4870.0

537.2

1984

1993.1

4631.0

698.2

1960

1191.1

5750.0

553.5

1985

2015.9

4549.0

736.6

1961

1163.1

5799.0

550.5

1986

2040.7

4556.0

751.3

1962

1171.8

5446.0

568.1

1987

2066.4

4474.0

730.8

1963

1215.4

5261.0

628.3

1988

2093.9

4559.0

734.6

1964

1253.7

5342.0

664.6

1989

2122.2

4576.0

718.6

1965

1296.4

5281.0

716.2

1990

2162.6

4722.0

707.5

1966

1329.6

5100.0

680.4

1991

2183.9

4768.0

699.8

1967

1371.0

5102.0

680.9

1992

2206.6

4854.0

690.2

1968

1411.0

4971.0

679.8

1993

2232.4

4868.0

685.7

1969

1460.0

4993.0

665.1

1994

2260.5

4925.0

682.4

1970

1491.0

5084.0

689.1

1995

2284.4

5079.0

708.3

1971

1555.0

5035.0

712.2

1996

2306.6

5291.0

734.9

1972

1602.9

4998.0

717.2

1997

2325.7

5838.0

714.0

1973

1651.1

4989.0

738.2

1998

2344.9

6027.0

677.3

 


3-3 通遼市基本統計(中国国家統計局)

 

単位

1984

1992

1995

1999

郷()の数

191

225

226

225

村の数

2614

3032

3042

3062

行政区域土地面

km2

60020.4

 

 

71615

年末総人口

万人

254.3

326.5

337.2

354.5

農村人口

万人

 

249.3

252.1

259.8

農村労働力

万人

 

84.4

84.7

93.8

:農林牧漁業労働力

万人

 

70.2

73.9

84.4

農業機械総動力

kw

 

108.8

119.1

183.8

化肥使用量(トン量計算)

トン

 

63214

82669

122288

地膜使用量

トン

 

751

908

2183

農作物作付総面積

Ha

711205.69

872847

899597

1095691

粮食作物作付総面

Ha

 

690640

750116

871729

食料総生産

トン

 

2980437

2987470

3862028

豚牛羊肉総生産

トン

 

123994

134835

269150

国内生产总值(当年価格)

万元

 

 

 

1525061

内:第一産業増加

万元

 

 

444509

690629

    第に次産業増加

万元

 

 

 

376849

地方財政総収入

万元

 

23569

33744

57570

財政支出

万元

 

22568

23922

113718

住民貯蓄残高

万元

 

131868

258338

743302

年末各種貸付残高

万元

 

210674

736445

2201567

在校学生総数

 

 

559118

548742

1人あたり粮食占有量

kg

 

7500

6984.5

9386.8

1人あたり国内総生産

 

 

 

41968.3

1人あたり地方財政収入

 

836.3

1064.8

1721.8

万人中の在校学生人数

 

 

15611

14473.5

万人中の病院生院病床数

病床数

 

62.4

138.1

142.7

教員1人あたり負担学生数

 

 

116.5

119.4

 


3-4 通遼市家畜の変化

年次

大小家畜

大家畜

小畜

合計

小計

ウシ

ロバ

ウマ

ラバ

ラクダ

小計

ヒツジ

ヤギ

1949

54.9

42.5

29.4

10.8

1.9

0.2

0.2

12.4

5.8

6.6

31.7

1959

180.2

92.3

69.4

13.8

8.2

0.6

0.3

87.9

33.2

54.7

43.7

1969

239.2

123.9

83.0

18.0

20.7

2.0

0.2

115.2

73.5

41.7

47.4

1979

328.1

136.8

90.1

17.3

26.7

2.5

0.2

191.3

144.0

47.3

32.6

1982

318.9

127.7

86.5

17.0

21.9

2.2

0.1

191.2

153.4

37.8

110.7

*1985

 

279.3

86.6

18.2

25.1

3.3

 

146.1

 

 

 

1990

3731.5

707.5

385.3

87.8

156.8

55.3

22.3

3024.0

2075.0

949.0

522.9

1991

4220.5

699.8

376.5

89.8

154.8

58.5

20.4

3520.7

2014.9

946.0

559.8

出典: 張啓徳・王玉秀,1994,科爾沁砂地与大気環境.科学出版社:北京,pp.10.

* 高耀山・魏紹成,1994,中国科爾沁草地.吉林科学技術出版社:長春,pp.10.

 


3-4 科爾沁左翼後旗基本統計(中国国家統計局)

 

単位

1984*

1985**

1991***

1992

1995

1999

郷()の数

34

 

 

34

34

34

村の数

527

 

 

537

517

529

行政区域土地面

km2

11535

 

11481

         

         

11576

年末総人口

万人

36.2

36.6

37.4

37.2

37.8

39.4

農村人口

万人

 

31.0

26.7

30.0

28.9

29.0

農村労働力

万人

 

 

 

8.7

7.4

8.7

:農林牧漁業労働力

万人

 

 

 

7.1

6.9

8.3

農業機械総動力

kw

 

 

 

14.5

13.4

19.4

化肥使用量(トン量計算)

トン

 

 

 

5759

7921

12222

地膜使用量

トン

 

 

 

32

302

56

農作物作付総面積

Ha

112358

 

116820

113620

118830

133733

粮食作物作付総面

Ha

 

 

 

101293

108740

113292

食料総生産

トン

 

 

 

358000

429444

570848

豚牛羊肉総生産

トン

 

 

 

21221

13959

21347

国内生产总值(当年価格)

万元

 

 

 

         

         

168003

内:第一産業増加

万元

 

 

 

         

60364

96003

    第に次産業増加

万元

 

 

 

         

         

25000

地方財政総収入

万元

 

 

 

1624

3355

5802

財政支出

万元

 

 

 

1619

2968

12872

住民貯蓄残高

万元

 

 

 

6304

19507

26306

年末各種貸付残高

万元

 

 

 

36007

77805

171299

在校学生総数

 

 

 

         

62293

57056

1人あたり粮食占有量

kg

 

 

 

962.4

1136.1

1448.9

1人あたり国内総生産

 

 

 

         

         

4264

1人あたり地方財政収入

 

 

 

43.7

88.8

147.3

万人中の在校学生人数

 

 

 

         

1648

1448.1

万人中の病院生院病床数

病床数

 

 

 

13.7

25.9

19.1

教員1人あたり負担学生数

 

 

 

 

12.2

11.8

*   梁宝成,1985,内蒙古自治区哲里木盟行政区画地図集,内蒙古自治区哲里木盟民政処.

** 張啓徳・王玉秀,1994,科爾沁砂地与大気環境.科学出版社:北京,pp.10.

*** 高耀山・魏紹成,1994,中国科爾沁草地.吉林科学技術出版社:長春,pp.10.

 

3.4 降水量データ

 砂漠化地域の植生量は降雨によって変化する可能性が大きい.その要因を考慮するために,対象地域の降水量データが不可欠である.今回は現地研究者の協力によってカンジカ鎮地区1987年から2000年までの降水量データを表*のように整理した.また,1961,1984と2000の月別降水量データは中国気象ネットからダウンロードした.しかし,対象地域の北界と通遼との間には20km離れている.歴年の観測ではカンジカ鎮周辺の年間降水量は通遼市区より30mmほど高くなっている.この差は砂漠化の発展に決定的な要因ではないと判断し,1961年,1984年,2000年の降水量は対象地域の外にある通遼局のデータを利用した.

3-5 科爾沁左翼後旗カンチカの月別降水量(mm)

年・月

10

11

12

年間

1961

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

1973

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

1984

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

1987

5.4

2.3

9.9

1.7

48.1

59.1

148.9

169.5

35.9

5.1

3.7

0.0

489.6

1988

1.4

1.5

0.7

13.8

33.5

29.7

59.5

156.7

121.4

26.8

0.0

0.0

445.0

1989

5.0

6.1

0.9

6.7

66.9

110.4

120.8

8.6

45.0

23.6

0.6

0.3

394.9

1990

3.1

12.0

29.9

40.0

68.0

68.9

151.2

74.5

65.8

3.3

8.0

5.6

530.3

1991

1.2

0.2

0.9

17.7

14.6

164.2

191.5

29.1

92.2

23.7

3.6

0.8

539.7

1992

0.2

0.7

5.2

12.0

34.3

77.0

212.8

77.9

32.9

25.7

11.1

2.0

491.8

1993

0.0

1.1

7.0

12.6

15.1

108.3

65.8

97.7

18.1

9.9

11.8

6.0

353.4

1994

1.0

0.1

6.9

0.2

74.5

48.2

325.4

100.6

26.7

2.8

0.5

3.2

590.1

1995

0.0

 

6.7

9.6

24.1

57.1

130.9

55.6

15.3

34.5

 

0.8

334.6

1996

0.2

0.1

24.3

11.7

39.0

65.1

101.9

70.0

16.1

14.7

11.9

0.8

355.8

1998

1.2

2.3

8.2

16.0

21.6

27.9

130.5

228.7

21.2

12.7

5.0

0.9

476.2

1999

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

369.3

2000

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

377.8

2001

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2002

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2003

0.0

0.0

2.9

1.8

24.0

68.2

44.1

96.6

13.7

38.4

3.3

0.2

293.2

但し,1961年,1973年,1984年,2000年は,中国国家気象局通遼観測点のデータを利用した.