私の修士課程における研究目的は、より精密な心室筋細胞・電気生理学モデルの構築、及び、心室筋虚血状態におけるシミュレーション解析すなわちin silico実験(コンピュータ上に構築したモデルを用いて薬物投与などの様々な条件下での振る舞いを予測し、細胞の機能や役割を分析する実験)である。

    はじめに

    心筋細胞には、膜電位や筋収縮といった、多くの事象を統合的に眺められるシンプルな出力があり、またパッチクランプ法による単分子の膨大なデータがある。しかし、心筋細胞内の機能と要素間の相互作用、心筋代謝、興奮連関において、未だ解明されていないことは多く、その機能解明が求められる。

    虚血とは、血流の減少による酸素や糖分の欠乏を入力刺激とし、拍動や収縮力の異常を出力とする現象と捉えられる。ATPの産生、消費の両側面を含むモデルを用いることで、細胞レベルでの虚血を俯瞰的に解析できることが期待され、虚血がもたらす細胞内の機能や諸要素の相関関係の変化について、入力・出力を含めた範囲での解析を試みたい。

    心室筋細胞の虚血状態時における病態解析に向け、春学期はKATPによる心筋保護作用の関わりについてイオンチャネルを中心に検証を行った。その過程、及び、結果より得られた考察と問題点については、後述する。また心室筋細胞の虚血状態のシミュレーションを実現する上で、ATPの動態を動的にモデル化することは欠かせない。そこで秋学期には、心筋興奮−収縮モデル(以下、 Kyoto model)[1][2]を用いて、心室筋細胞の虚血状態のシミュレーションを実現するために、エネルギー代謝経路の実装に取り組んだ。Kyoto modelは、筋収縮等のATP消費について精密なモデル化がなされているので、消費を相補するATP産生モデルとして、酸素や糖分を受け取ってATPを産生する、解糖系、TCA回路、酸化的リン酸化経路を中心としたエネルギー代謝経路の実装を行った。細胞膜による基質の輸送調節や、ミトコンドリア膜による還元当量の輸送調節機構が統合されて、心臓はいついかなる状態においても基質を至適に利用できるようにエネルギー産生速度を調節する。ATP産生から消費されるまでの一連の作用とバランスをE-CELL System上に構築し、活動電位形成との相関を検証した。


    研究背景

    種々の細胞の協調により、心臓全体が電気的にうまく統御され、収縮−弛緩をリズミカルに繰り返すことができる。心筋細胞のモデリングには、パッチクランプ法のデータを用いることができる。パッチクランプはin vivoで単分子の挙動を測定できるため高精度のモデルを構築できる。

    私たちは、京都大学の野間昭典教授のグループによりすでに構築されているKyoto modelをE-CELL System上に構築し、イオンチャネルの電気生理学的要素、筋小胞体のCa2+ハンドリング、筋収縮、エネルギー代謝を実装することにより、昨年度までに心臓収縮に大きく関与する心室筋細胞の特徴的な活動電位のシミュレーションを実行する環境を得た。




    〜KTPチャネルの活性化と細胞内要素の相関に関する検証〜

    心筋虚血とその発生機序

    心筋虚血とは心臓を養う血管の動脈硬化等により、心臓に十分酸素が供給されない状態を指す。(よく心臓発作と言うが、完全に動脈が閉塞して心筋の一部が壊死してしまった場合を心筋梗塞と言い、狭心症はその前段階であり、放っておくと心筋梗塞になる可能性が高い病態である。

    細胞の酸素消費量が増加するにつれて、1個の心筋細胞の中心部に酸素不足領域ができ、それがミトコンドリアの代謝を抑制する。心筋では、酸素分子は細胞表面から細胞中心まで約10ミクロンの距離を拡散すればよいのだが、この距離は、酸素分子にとって長い道のりであり、従って、特にこの道のりの終着点である細胞中心部に位置するミトコンドリアでは、酸素需要が高まると、拡散による酸素供給が追いつかなくなってしまうのである。


    心筋虚血とATP感受性Kチャネル

    ATP感受性Kチャネル(以下、KATPチャネル)は、心筋虚血性変化に非常に関連のあるイオンチャネルである。このチャネルは酸素欠乏により、細胞内ATPが減少すると、活性化されるという特性がある。そのために心筋細胞の静止膜電位レベルが過分極し、膜抵抗が減少するとともに、心筋活動電位の著明な短縮が起こる(以下、APD)。しかし、虚血初期には心筋活動電位の短縮が起こるが、静止膜電位は脱分極する。この時点では心筋の細胞内ATPはまだ減少していないともいわれているので、組織の酸性化や局所でのKイオンの蓄積などがこれらの変化の主たる役割を果たしているのかもしれない。実際、心筋虚血のどの時点でATP感受性K+チャネルが活性化されるかは明確ではなく、また、先行する軽い虚血がその後に起こる大きな虚血による障害を減少させるという現象(preconditioning)に、KATPチャネルが関与しているといわれている。


    目的 

    @KATPチャネルは京都モデルでは、正常な心筋細胞は2333個中、1個分位の電流しか発生させないため、生理学的環境下では活動電位にほとんど影響を与えないチャネルである。ほぼ正常な状態では機能してないのにこれほど発現しているのはなぜなのか。

    AAPDには細胞内Na濃度増加により活性化されるK+チャネル(IKNa)の開口とKATPの活性化が関与しているらしいのだが、その発生機序とはいかなるものなのか。

    BKATPチャネルはミトコンドリアにより産生されたATPの需要に直接関係するチャネルのひとつであるが、他にSRのCa2+-ATPaseやNa+/K+ pumpのNa-KATPaseがあげられ、これらのチャネルとKATPチャネル活性化との相関はいかなるものなのか。

    CATPを正常量より減少させていくことにより、モデルでKATPチャネルの活性化を再現することはできるか。また、ATP減少度はKATPチャネルの活性化にどのような影響を及ぼすであろうか。以上の疑問を解決すべく、KATPチャネルがどの時点でどのように活性化され、その生理的な役割が心筋虚血傷害の軽減にどのような効果をもたらすのか、シミュレーション解析を行い、その解明を目指す。



    結果 (1)

    Figure1: Membrane potential by CC method

    ATPの減少に伴うMembrane potentialの挙動の変化を示す。Current clamp methodによる心室筋の活動電位である。Membrane potentialは0相、1相は正常な状態とほぼ変化なく、2相からずれ始め、3相で再分極した時には、正常な細胞よりも早く過分極し、活動電位の短縮が見られる。ATP濃度が4e+3mMの時の活動電位は正常濃度の時と一致し、3e+3mMにした時はAPDが起こっているので、その間にAPDが起こるか起こらないかの境界があると考える。



    Figure2: The current of KATP channel by VC method

    KATPチャネルのVoltage clamp methodによる電流を示す。ATP濃度が1e+3mMの時の電流量はnormal cellの約30倍であることがわかった。ATP濃度の減少により、KATPチャネルが活性化したことがわかる。







    Figure3: The current of Na+/K+ pump by VC method

    Na+/K+ pumpの電流量の比較を示す。ATP濃度が減少するに伴い、Na+/K+ pumpの電流量が増加していくことがわかる。








    Figure4: The current of SR Ca2+Uptake by VC method

    SR Ca2+Uptakeの電流の比較を示す。0.1msecの時のATP濃度とSR Ca2+Uptake チャネルの電流を表に示す。このようにチャネル電流量はATP濃度の減少に伴い増減する傾向は見られなかった。






    考察 (1)

    @ ATP濃度減少に伴い、KATPチャネルは活性化し、活動電位が短縮することが確認された。これは心筋細胞内のATP不足により、KATPチャネルが活性化され、心筋の活動電位の持続時間を短縮したと考える。

    A 電位依存性チャネルである、ICaL、INa、IKr、IKs、IRK1、ICaT、Na+/K+ pump、Na+/Ca2+Exchangerはすべて、第2〜3相付近での電流発生時間幅の短縮が見られた。これは膜電位によってフィードバックがかかったと考える。

    B Na+/K+ pumpもNa+/Ca2+ ExchangerもATPに依存した調節機能をもつ。今回、ATP濃度の減少に伴う電流量の増加を確認することができた。

    C 一方、SR Ca2+Uptakeは仮説に反し、ATP濃度の減少に伴い、電流量が増加することはなく、むしろばらつきが見えた。活動電位を短くすることでCa2+の流入を抑え、ATPの消費を極力抑えようとする心筋保護作用が働いていると考えられる。しかし、細胞内のCa2+濃度の抑制やAPDやKATPチャネルの活性化との相関が見られなかった。




    〜ミトコンドリア・エネルギー代謝経路モデルの実装〜

    心筋細胞のミトコンドリアについて

    ミトコンドリアの最大の機能は、電子伝達系によりミトコンドリア膜間腔(内膜・外膜間)のプロトン濃度を高め、濃度勾配によるミトコンドリア内へのプロトンイオンの排出を駆動力として、ATP合成酵素によりATPを産生することである。

    ミトコンドリアによるCa2+取り込みは、内部が負に分極しているミトコンドリア膜電位に依存しており、これを行う分子はmitochondrial Ca2+ uniporter (mCU)と呼ばれている。一方、Na+依存性にミトコンドリアからCa2+を排出する蛋白もあり、これはmitochondrial Na+/Ca2+exchanger (mNCE)という。もう一つ、mitochondrial permeability transition pore (mPTP)と呼ばれる透過性の高いチャネルがある。mPTPは生理的条件下では開口しないことはわかっているが、未だ解明されていない点も多い。その他に、Rapid uptake modeと呼ばれる、細胞質のCa2+濃度の振動に応じて働くトランスポーターがある。また、Na+非依存性のCa2+排出機構があるとの説もある。



    ミトコンドリア・エネルギー代謝経路モデル

    Figure5: モデルに組み込まれている電気生理学的なミトコンドリアの代謝作用の過程、及びそれらの相互作用の構造図

    心筋細胞・ミトコンドリアにおける、生体エネルギー特性の調節についてのthermokineticなモデルである[3]。

    モデルはTCA回路、酸化的リン酸化およびミトコンドリアのCa2+の取り込み、電子伝達について実装した。

    本モデルは、ミトコンドリアの膜電位、Ca2+濃度、NADH、ADPおよびTCA回路の中間物質の時間変化率を12の微分方程式で表現している。代謝作用の抑制、アデニン・ヌクレオチドトランスロケータ−、及び、Ca2+の変化等においてミトコンドリア内の働き、相互作用の予測を可能とする。尚、モデルは定性的に半定量的にミトコンドリアの生物エネルギ-学、Ca2+のダイナミクス、及び呼吸調整に関する実験のデータを再現している。

    今回、このモデルをE-CELL System上に移植した。尚、現段階において、本モデルは既に構築した心筋細胞モデルとの連結は行っていない。



    実装結果

    以上に述べた点を踏まえて、E-CELL System上にて、心筋細胞、ミトコンドリアにおけるエネルギー代謝経路の実装を行った結果、ミトコンドリアにおける、TCA回路、酸化的リン酸化およびミトコンドリアのCa2+の取り込み、電子伝達の各物質において定常状態を達成した。それらの値を以下に示す。


    Table1: Steady State Parameters


    考察 (2)

    今回、消費を相補するATP産生モデルとして、酸素や糖分を受け取ってATPを産生する、解糖系、TCA回路、酸化的リン酸化経路を中心としたエネルギー代謝経路の実装を行った。今後、既にE-CELL System上に構築したKyoto modelに連結し、ATPが産生され、消費される一連の過程の表現、心筋細胞内が虚血状態に陥る過程やその状態の再現、また、それに伴う細胞内の諸要素の機能変化や相関関係を検証するためのシミュレーション解析を行っていく上で、今回の実装は大きな意味を持つ。


    展望

    今回、本モデルは既に構築した心筋細胞モデルとの連結は行っていない。今後、基質供給、代謝作用の抑制、およびCa2+の変化に関しての振る舞いを検討していく。さらに、システムの本質的なコントロール特性に対する新たな見識の獲得を可能とするような心筋細胞とミトコンドリアのエネルギー代謝が一体になったモデルの構築を目指す。

    参考文献・参考URL



    2003年度学会発表

    [1]Miyamoto, S., Naito, Y., Yoneda, M., Ishinabe, S., Sarai, N., Matsuoka, S., Noma, A., Tomita, M.,
    Electrophysiological Simulation of Ventricular Cell Using E-CELL System and in preparation for construction ischemic state model.,
    First IECA Conference on Systems Biology of E.coli(2003 Tsuruoka)

    [2]Motohiro Yoneda, Shoko Miyamoto, Yasuhiro Naito, Sayaka Ishinabe, Nobuaki Sarai, Satoshi Matsuoka, Akinori Noma, Masaru TomitaModel Construction of the Energy Metabolism Pathway in Myocardial Cell, International Conference On Genome Informatics.(2003 Yokohama)

    [3]Miyamoto, S., Naito, Y., Yoneda, M., Ishinabe, S., Sarai, N., Matsuoka, S., Noma, A., Tomita, M., 虚血状態のシミュレーションに向けた心室筋細胞モデルの拡張., 第26回日本分子生物学会年会.(2003)