まとめ:アレッポのスークにおけるピスタチオの値段交渉
牧田 直哉
政策・メディア研究科修士課程1年
グローバル・ガバナンス・プログラム所属 80332490
本稿は2003年8月〜2004年1月に筆者が行ったフィールドワークをもとに作成したアレッポのスークに関する調査報告である。
Ø アレッポの歴史と現在の構成員[1]
まず歴史的側面であるが、考古学的な研究から、アレッポは紀元前3千年以前より交易都市として機能していたことが明らかにされている。また地中海の東岸に位置することから、遠く中国と繋がる交易路、いわゆる「シルクロード」の重要な中継地として栄えてきた。このことからわかるように、アレッポは何千年もの間、様々な地域からやってくる隊商を受け容れてきた都市である[2]。
現在もアレッポはシリア北部地方の商業地として重要な位置を占める。アレッポの街で仕入れられた商品は市内のみならず、周辺の小都市や農村、クルド人が多く住んでいるシリア東部の諸都市に卸される。また東欧、西アジア諸国を中心にアラブ圏外との貿易も盛んである。そしてアレッポの主力商品のひとつが今回取り上げたピスタチオ(フストク・ハラビー)である 。以下、ナッツ店における取引について述べつつ、値段交渉がどのような位置付けにあるのかを考察する。
Ø ダイナミズムを許容するシステム
アレッポ旧市街のスークのナッツ店においては、卸売と小売の間には明確な線引きが存在しない。各店舗はグラム単位からトン単位まで、買い手の要求に応じて販売している。本来スーク内のナッツ店は卸売が基本であるが、スーク外のナッツ店の値段が高いために消費者も足を運ぶのだという。卸売、小売間の線引きが曖昧な点は言い換えれば、スークに来た者は誰であれ、消費者にも買い付け商人にもなれる可能性があるということである。ナッツ店は現金か信頼のおける保証人さえあれば、誰に対しても卸並みの大量の販売を行なうという。実際店舗を持たない人間がナッツ店から買い付けた商品をアラビーエと呼ばれる台車で販売している光景は街中でよく見られる。この販売方法はシリア政府によって禁じられているが、職の無い人々の生活のために黙認されている。アラビーエによる販売は、貧困による欠乏を逃れるための一手段である。
Ø 値段を決定する存在としての「人」
前述した通り、スークのナッツ店は元々卸売の場である。そのため多くの店舗には値段表示が無い。店舗との関係が長い得意先の商人に対しては、時価に応じた値段と販売量を確認するだけで合意が成立するため問題にならない。しかしながら一見の買い手にとっては面倒なこととなる。品物を確かめた上で値段交渉を行なわなければならないからだ。
アレッポのスークにおける商人のイメージはとても悪い。金儲けのためなら何でもやる、というイメージは、この街の人たちが悪口を言う時に使う「あいつはタージル(商人)だ」という言葉から見て取れる。事実、商品の瑕疵や虚偽を恒常的に行なう商人が一部存在するため、買い手は信頼関係のない商人に対して自分の利益を護るための自衛手段を準備しなければならない。すなわち、買い手にも売り手同様、取引する商品を見極める能力が必要不可欠なのである。
実際の値段交渉を観察するとそのことがよく分かる。買い手は商品であるナッツを目でよく確かめ、手にとり、時に味見することで値踏みする。売り手の言う販売価格が不満であれば値段交渉となるが、語気の強い言葉が交ざることがしばしばあり、互いが互いの上に立とうという交渉術が見て取れる。
このようにスークにおいて人は売り手、買い手どちらの役割であれ、取引に「参加」する人間にはその能力を十分活用する存在であることが求められる。さもなければ不当な損害を被り欠乏するおそれがあるからである。
Ø よい商人とは?
さて、スークではナッツ店のみならず、多くの店舗の店頭に計量器が置かれている。「信用のおけない商人」から商品を買う際、基準となるのが量り売りの機械である。頼んだ商品を目の前で袋に詰め、量ることで買い手は納得する。売る側も買い手の納得する方法を提供するに越したことはないため、この方式を取っている。ナッツ店の店頭には天秤ばかり、電子計量器などが設置され、注文に応じて袋詰された後計量される。
実はこの「正しく量って売る」ということに関しては皆非常に意識が強い。なぜならば、アレッポの多くの人々が信仰するイスラームにおいて、測量の虚偽は厳しく戒められているからである。イスラームの聖典であるクルアーンでは、量をごまかすことで有名だったマドヤン族がアッラーに滅ぼされたという記述がある[4]。これ以外にも正しい測量について述べた聖句は多い[5]。
またアレッポの人々が非難する商人の悪さの対極には、イスラームが明確に示す「良い商人像」がある。そこで示されているのは、商品の瑕疵や値段の虚偽をせず、適当な利潤で商品を提供する商人である[6]。取引には公正さが要求され、特に貸借関係においては無闇に取り立てず、人間を欠乏に追いやらないことが求められている[7]。規範によって守られるべき人間が守られていないと認識することで、人は損害を被るのではないかと警戒する。こうした価値観が背景にあることが、スークにおける人を、能力を十分に駆使する存在にさせているのである。
Ø まとめ
以上見てきたように、スークにおいて人は欠乏に陥らないために個々が高い能力を保持し、駆使しなければならず、この点は売り手、買い手双方に共通していることが明らかになった。その原因として、実際のスークで人々が損失を被らないために努力しなければならない点、商行為において守られなければならないはずの人間が守られていないという意識について指摘した。アレッポの人々はこうした状況を認識し、自らを適応させることによって損害から逃れようとしている。つまりスークへの参加の前提条件として、人は自立した存在でなければならない。そして、ナッツ店における値段交渉は自立と利益保護の手段である。
[1] これ以下の内容は特に注があるものを除き、筆者が2003年8月〜2004年1月にアレッポで行なったフィールド調査による。
[2] アレッポのスークの歴史に関する詳細は黒田美代子(1995)『商人たちの共和国』藤原書店 第1章を参照されたい
[3] 人間の安全保障委員会(2003)『安全保障の今日的課題』 朝日新聞社 77頁
[4] 『聖クルアーン』フード章84-86
[5] 『聖クルアーン』慈悲あまねく御方章9、量を減らすもの章1-3も参考。ただしこれらの聖句は商行為のみに向けられたものではないとされている。
[6] この点については奥田敦『前掲』164頁を参照されたい
[7] 『聖クルアーン』牝牛章280