慶應義塾大学 政策・メディア研究科 修士2年 バイオインフォマティクスプログラム
慶應義塾大学 先端生命科学研究所

木下綾子 (E-mail: ayakosan@sfc.keio.ac.jp 学籍番号: 80231630)


 

臨床・医学応用に向けた ヒト赤血球全代謝モデルの構築

はじめに

病理状態や強度の酸化ストレス侵襲時など、細胞の異常状態では、正常状態で活性の低い経路が活性化されて 重要な役割を果たす可能性がある。
これまでに我々は、ヒト赤血球の主経路を含むモデルを用いたG6PD欠損症のシミュレーションから、 還元型グルタチオン生成経路、酸化型グルタチオン排出経路がG6PD欠損症の細胞内代謝の維持に非常に重要であることを示した。
この結果は同時に、異常状態を再現して病理解析などに応用する場合、シミュレーションモデルは経路の活性化 などによるあらゆる可能性を表現している必要があることを示唆していた。
そこで、ヒト赤血球に含まれるあらゆる代謝経路を網羅的に調査し、全代謝モデルの構築を行った。 全代謝モデル構築には、中山洋一氏、柚木克之氏と共に開発した動的/静的ハイブリッドモデリング手法を用いた。

ヒト赤血球全代謝モデルの経路図

動的/静的ハイブリッドモデリング手法

動的/静的ハイブリッド手法は、代謝反応に焦点を当てたモデリング に必要な情報を大幅に削減し得る手法として提唱されたモデリング手法である。 この新たな手法を用いることで、成熟ヒト赤血球細胞内の既知の代謝 反応経路をほぼ全て含んだ大規模なシミュレーションモデルを構築している。
この手法において、量論係数のみの情報でモデリングする静的部分で 経路を表現する際、いくつかの条件を満たしている必要があると考えられる。 我々が現時点で考えているハイブリッドの静的部分で表現できない反応の 条件を以下に挙げる。

(1)応答の鈍い反応
ハイブリッドの静的部分に、本来あるべき時間遅延が表現されないため に誤差が蓄積する。

(2)アロステリック効果、強い制御の働いている反応
静的部分では周囲の流束以外の情報を考慮しないため、当然外からの 制御は表現され得ない。これについては酵素データベースなどから情報を 抽出して判定するか、文献を各酵素についてあたって調査する方法を試みている。

(3)迅速に平衡に到る反応
周囲と比べて非常に迅速に平衡に到り、実際の細胞内での 物質の濃度比を一定に保つ反応を 静的部分に含めると、平衡かつ定常の条件を外れた際に 平衡定数による物質の濃度比が正しく 制御されなくなる可能性がある。

量論関係以外の要素によって流束が決定されるような 経路は静的部分で表現できず、反応速度式など動的な表現をする必要があると 言うことができる。
また、静的部分で表現する経路内に”ボトルネック”となる反応が含まれないこと と言い換えることもできる。 これらの反応は上の条件を満たす反応経路の入出力流束として表現される。
上記の条件は定性的な条件であるが、大規模な系を考えると定量的な指標が 不可欠であろう。
ボトルネックとなる反応を探すには各反応の連関を考慮して系全体を包括的に測定する 必要があり、その決定は非常に困難である。また、状況に応じて ボトルネックとなる反応は変化する可能性もある。
我々は、このボトルネック反応を 代謝制御理論に基づいて 算出したFlux Control Coefficient(FCC)で 表現することができないかと考え、それを用いて ハイブリッドアルゴリズムにおける静的表現への適用条件を検証した。 ハイブリッドアルゴリズムを用いたプロトタイプモデルでは定常状態を 仮定しているため、定常状態まわりでの系の性質を定量的に表現することが できる代謝制御理論は有効であろう。
Flux Control Coefficient(FCC)は一般に以下の式で与えられる。

この係数は、反応の活性の変化を包括的に表現しており、 その後の系に流れる流束に与える影響が大きければ大きいほど この値が1に近づく。 ここで、最も重要な定理(summation theorem)と結合定理(connectivity theorem) モデルを使って得た結果を実際の実験系で測定するために、 より現実的な手法を検討する必要がある。 このFCCを直接測定することは、酵素の精製段階を 含むことや、ある酵素活性のみに微少なPerturbationを与える必要が あることを考えると、大規模な系に対しては現実的とは言いがたい。 そこで、代謝物質量の微少変動に対する応答を局所的に、個々の 反応ごとに見ることのできる弾力性係数(Elasticity)と経路情報行列から FCCを求める方法を適用することにした。
Elasticity は以下の式で表現される。

経路情報行列には、Flux Elementary Mode の情報が必要である。 Flux Elementary Mode はReversible/Irreversible を考慮した、全通りの流束 の通り道を表現している。 これ E-Cell System version3 のルールファイルから算出することを 可能にし(本研究は、環境情報学部4年 北山朝也、同4年 海津一成 両氏の協 力による。)、実際のテストモデルに適用してみた。
Flux Elementary ModeとElasticity行列からFCCを求めた結果、 いくつかの解糖系律速酵素と言われる酵素に高いFCCを見いだすことができた。 今後は、これらの指標を用いて、静的表現に適用可能な 経路が具体的にどのような指標値をとるかを実証実験を通して 検証する予定である。
反応活性の立ち上がりの遷移時間に関する考察については、 Trasient Time Coefficient で表現される係数を用いることを検討している。

代謝制御理論の最も重要な定理である summation theorem, connectivity theorem を適用できるため、応用性が高いと考えられる。

外部環境の考慮

赤血球は非常に効率よくかつ高速に酸素を取り込み、抹消組織に 分配することが知られている。その働きの大部分をヘモグロビンが 担っているが、一部の代謝物質がヘモグロビン酸素親和性を巧みに調節している。 また、ヘモグロビンの状態によって代謝の挙動自体が大きく変化する 可能性が本研究中で示唆された(修士論文第2.2章参照)。

しかし、酸素分圧(ヘモグロビンの状態)と代謝状態を関連づけ、 生体内の酸素運搬能における代謝の役割を説明した研究はこれまで 行われてこなかった。 酸素分圧を加味したシミュレーションモデルを構築し、 CE/MSの結果と比較することで、ヘモグロビンの状態の変化が 実際の代謝にどのように関係していくのかを知る手がかりになると考えられる。 更に、実際の生体内での赤血球細胞を再現するためにはヘモグロビンの 酸素飽和度を表現する必要があると考え、これを実装した。

まず、酸素分圧によるヘモグロビンの酸素飽和度の変化を考慮に 入れるため、ワシントン大学が発表した Hill式型の ヘモグロビンの酸素度予測モデルを E-CELL System に実装した。 このモデルの特徴は、二酸化炭素分子(CO2)と、酸素分子(O2)の 競合を考慮したモデルになっていることである。 また、2,3DPG 濃度による飽和度の変化、温度、pHの変化も考慮されている。

E-CELL System 上に実装したヘモグロビン酸素飽和曲線

pH の小さな上昇と温度の下降が飽和度を急激に上げることから、 pH や細胞内温度の安定性を守る機構が 厳重になっているのもうなずける。 2,3DPG の他に ATP や ADP といった物質が ヘモグロビンのアロステリを変える働きを持つことがわかっている。 今後これらの物質が与える影響についても調査を行う。

 


2003年度成果発表

·  刊行物

木下綾子 中山洋一 末松誠 冨田勝
「ヒト赤血球の大規模なコンピュータシミュレーション」
血液・腫瘍科 2003 47(2):149-157

·  国際学会口頭発表

Kinoshita A, Nakayama Y, Yugi K and Tomita M. ``Computer simulation of whole metabolic system in human erythrocyte''
Okinawa International Symposium(Okinawa, Japan 2003/10)

·  国際学会ポスター発表

Kinoshita A., Hikosaka K, Adachi S, Nakayama Y and Tomita M.
``Hybrid Modeling and in silico Analysis of Human Erythrocyte''
1st IECA Conference on Systems Biology of E.coli (Tsuruoka ,Japan 2003/6)

Kinoshia A., Nakayama Y, Katsuyuki Yugi and Tomita M.
``Computer simulation of whole metabolic system in human erythrocyte''
Okinawa International Symposium(Okinawa, Japan 2003/10)

·  国内学会ポスター発表

木下綾子 中山洋一 末松誠 冨田勝
「ヒト赤血球の代謝シミュレーションモデルの構築と病態解析への応用」
第65回日本血液学会・第45回日本臨床血液学会(大阪 2003/8)

木下綾子 彦坂圭介 中山洋一 末松誠 冨田勝
「ガス代謝を考慮したヒト赤血球の全代謝シミュレーションにむけて」
第26回分子生物学会(神戸 2003/12)


Ayako Kinoshita / ayakosan@sfc.keio.ac.jp