2004227日 2004年度森泰吉郎記念研究振興基金 報告書

漢字文化圏の言語変容と次世代メディア 漢字を通したソシュール記号学の再考から、中国語IT用語分析へ

伊藤王樹(慶應義塾大学政策・メディア研究科 修士課程一年)

 

 

目次

 

1.はじめに −研究対象と研究目的−

2.ソシュールの言語学と記号学

3.漢字を通した記号学の再考

4.中国語の外来語分析 −コンピュータ・IT用語−

5.まとめと展望

参考文献

 

 

 

1.             はじめに ― 研究目的と対象 ―

 

 フェルディナン・ド・ソシュール(1857-1913)の学生がまとめた『一般言語学講義』に端を発する構造主義言語学やその後の現代言語学では、文字を言語学の外の要素、あるいは二次的な要素として扱ってきた。しかし筆者は言語の表記体系という狭義の文字にイメージ的思考を担う映像としての文字を加えた広義の文字を考え、それらが言語そのものと切り離せない要素であると考える。

漢字圏においては、書字=文字が言語ならびにその言語圏内の文化に根深く影響を与えている。中国語において文字とは漢字であり、日本語では漢字、ひらがな、カタカナが表記体系である(時にはアルファベットも混入する)。『一般言語学講義』の書(文字)にたいする態度は以下のようなものである。

 

言語と書とは二つの分明な記号体系である。後者の唯一の存在理由は、前者を表記することだ。言語学の対象は、書かれた語と話された語との結合である、とは定義されない。後者のみでその対象をなすのである」(『一般言語学講義』p.45 [1]

 

「書は言語学の対象ではない」という記述にみられるように、欧米から始まった言語学は、その研究対象を「話された」ものに限定する傾向がある。本論では、言語のもうひとつの主要な構成要素としての文字の機能を記号論・記号学と絡めて考察し、さらに日本語と中国語の語の生成・外来語の借用・翻訳を比較することによって検討する。データとして昨今発展著しく、絶えず新語が発生している情報技術(IT)分野の用語を用いる。

 

 

2.             ソシュールの言語学と記号学

 

 ソシュールの言語学と記号についての考えをまとめると以下のようになる。

 

2−1.言語は社会制度

 米国の言語学のホイットニーは、言語は社会制度であるとうした。ソシュールはそのことに言及しながら「言語(ラング)は、個人に言葉の能力を発揮させるために、社会が採用した必要な取り決めの総体である」(『ソシュール講義録注解』p.8)と述べている。それに対し個人のことばの能力をランガージュ、個々の発話はパロールとして、ラングとは区別している。

 

2−2.言語学は記号学の一分野だが、その中心をなす

 「言語が何はともあれまず記号体系だということは、はっきりしているではないか。(中略)だから、言語学よりも広範な記号の学問が存在すべきなのだ」(同p.19)。海洋信号、盲人や聾唖者の記号体系、文字体系などとともに言語学も記号学のひとつである。言語は社会制度であるということと組み合わせると、「言語はある社会で共有される記号体系である」と定義できる。また、先に述べたように、ソシュールは、文字は言語学の範疇ではないと考えた。

 ソシュールは言語を記号体系であると明言してはいるが、言語を他の諸記号と同列に扱ってはいない。彼は「記号学を独立の学たらしめなかったもの何だろう。それは、諸記号の中心的体系が言語であるという、まさにその事実だ。記号の本質的側面、つまりその生を知ろうとしたら、言語のなかの記号が検討されるしかない」(同p.29)と述べている。記号の性質は言語においてしか見えてこないというのが彼の主張である。

 以上のような言語と記号に関するソシュールの態度を見ると、図@のような関係図が描ける。この図は言語が記号体系のひとつであるということと同時に、言語が記号学を記号学たらしめているということを示している。もちろん、記号体系にはこの図におよそ書ききれないありとあらゆる非言語的な記号も含まれる。

図@

 

 

2−3.言語記号の二重性と恣意性

 ここではソシュールによる記号そのものの定義を扱う。

 

2−3−1. 言語記号の二重性

言語記号は聴覚映像と概念の二重構造である(図A−1)。聴覚映像とは、例えば[ki](木)という音の心的印象であり、「木」の心的概念である(図A−2)。「われわれは概念と聴覚映像との結合を記号(signe)と呼ぶ。しかし一般の慣用では、この名称は聴覚映像のみを示す」(『一般言語学講義』p.99)。言語記号に限らず一般的には 記号=表現 と捉えられがちである。しかし、ソシュールの定義する記号とは、表現とその表現が指し示す内容の両面によって成り立っている。彼はその性質を紙に例え、ハサミで紙の表を切ったつもりでも必ず裏も切れるように、記号の二重性は切っても切れない関係であると説明した(『ソシュール講義録注解』p.19)。図A−3の発想とは違う点が重要である。つまり、記号は概念を示す指標ではなく、記号そのものが二重構造なのである。

 

図A−1

 

図A−2

 
 


 

 

 

 

 

 

 

 

図A−3

 
 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

2−3−2. 記号は恣意的

ソシュール記号学のもうひとつの重要な特性は恣意性である。「木」という概念は[ki]と呼ばれる必然性はなく、文化が違えばtreeであってもarborであってもよい。ある社会における約束事(コード)によって[ki]treearborが木という概念を表すということが保証されているにすぎない。

 

 2−3−3. 記号は差異の体系

  「言語には差異しかない」(『一般言語学講義』p.166)。言語記号の意義は、一見して図A−1,2のような聴覚映像と概念の二重構造のみの中でおこるかのようである。しかし一つの言語記号の価値は他の言語記号(全く違う記号や、意味の隣接した記号など)との対比でしか生じない。ソシュールによれば、言語は差異の体系である。

 

 

3.             漢字をとおした記号学の再考

 

 この項では、ソシュールの記号と言語の定義を、漢字をとおし再解釈する。

 

3−1.漢字は恣意的か

 漢字を記号であるとするならば、ソシュールの記号学では漢字は恣意的であるとしなければならない。しかし漢字は恣意的には徹しきらない。漢字の映像そのものが意味を持ち得るからである。漢数字における一、二、三、四、五が完全に恣意的記号であるとするならば、一が2を示して、三が1を示してもなんら不自然ではないということになる。しかし、漢数字の映像は(特に一〜三において)数字概念に関する人間の経験と密接に関連しているため、完全に恣意的な抽象記号ではない。

ソシュールは『一般言語学講義』(p.98)で集団的慣習としての記号も恣意的であることを説明する個所において「天使に拝謁するときに地にひれ伏して九揖するシナ人のことを想われよ」と述べている。この九揖という言葉は、「九」の漢字の人間がひざまずく格好の象形によって表現されている。訳者がたまたま九揖という字を当てたことによって、記号の恣意性を説明しようと用いた例が、漢字の非恣意性をも示す結果になっている。

 

3−2.漢字を加えた言語記号の概念図

 言語記号の概念図のシニフィアンに漢字の映像を加え、さらに日本語における漢字の音と訓のシステムを加えた図を以下に示す。

 

 

図B−1

 

図B−2

 
 


        

 

図B−3

 
 


 

 

 

4.              中国語の外来語分析 −コンピュータ・IT用語−

 

4−1.漢字と外来語

 

 漢字は形態素文字であり、それぞれの文字が意味と音の両方を表すことが可能である。この漢字の特性を現代的な使用に基づいて分析する際には、新しい語が生成される仕組みを知ることが有効であると考えられる。

例えば外来語の場合、中国語では漢字のみで訳すため以下のような3通りがあげられる。

 a.表意的:          ファーストフードfast food 快餐[kuai cang]

 b.表音的:          チョコレートchocolate    巧克力[qiao ke li]

 c.表意+表音的:  ハッカー hacker          黒客[hei ke]

(便宜的に発音は中国語のローマ字表記(ピンイン)を用いる)

 一方、近年日本語では外来語をカタカナ表記するケースが多い。200012月の国語審議会答申における「外来語・外国語増加の問題」の項に次のようなくだりがある。「外来語・外国語は固有の機能や魅力を持ち、各分野で使われているが、その急速な増加及び一般の社会生活における過度の使用は、社会的なコミュニケーションを阻害し、ひいては日本語が有する伝達機能そのものを弱め、日本語の価値を損なう危険性をも有していると言えよう」。答申の「外来語」とは「カタカナ表記の外来語」のことである。このような問題が提起されるほど、カタカナ表記の外来語はひとつの社会現象になっている。

日本語と中国語の外来語・新語の形成過程において、以下のような仮説が立てられる。1)日本語はカタカナ表記があるため、表音的な外来語・新語が形成されやすい。2)中国語は漢字表記のみであるため、表意的な外来語・新語が形成されやすい。3)中国語の漢字は日本の漢字に比べ、表音的役割が大きい。以上の仮説を外来語・新語の多い情報技術(IT)分野の用語の分析から検討する。

 

4−2.情報技術(IT)分野の用語分析

 情報技術関連の用語は近年の新語・外来語がほとんであるため、一般の辞書よりもインターネット上の用語集が圧倒的に語彙数が多く、実際の使用に適したものになっている。そのため、資料はインターネット上の辞書サイトから収集した(資料元は最後の参考文献・資料参照)。なお、辞書サイトに掲載されていなくとも、一般に広く使用されていると思われる用語に関しては、検索エンジンで使用度を確認したうえで、追加した。

 収集した中国語の語数は1119語である。その内、表意的につくられた後は982語、表音的につくられた語は13語、表意+表音的につくられた語は47語であった。

例:

 a.表意的:          インターネトInternet        互聯網 [hu lian wang]

 b.表音的:          Eメール e-mail             伊妹児 [yi mei er]

 c.表意+表音的:  検索エンジン search engine  万維網 [wan wei wang]

 

一方、それぞれの中国語に対応する日本語は1000個以上がカタカナ語であった。また、表音的に漢字を用いた語は皆無である。

 以上のことから、先にあげた三つの仮説は、日本語と中国語のIT関連用語を比較した上では正しいとみることができる。

 

1)日本語はカタカナ表記があるため、表音的な外来語・新語が形成されやすい

2)中国語は漢字表記のみであるため、表意的な外来語・新語が形成されやすい

3)中国語の漢字は日本の漢字に比べ、表音的役割が大きい

 

 

5.             まとめと展望

 

 以上、ソシュールの記号学を再考し、文字の映像面を言語記号の一要素として捉らえなおし、中国語と日本語の情報技術用語を比較することで、それぞれの言語における漢字の役割を検討してきた。今後は継続的に資料の採集を続け、精密な分析を重ねていく。具体的には、それぞれの語のインターネット上での使用頻度を調査したうえで、再度日本語と中国語の漢字の比較をするつもりである。

 また、漢字が言語に与えるインパクトの検証の一例として、2002年9月に中国におけるイスラーム系民族の漢語使用状況を調べたが、2004年3月には、イスラーム系文化のなかに生きる華人の漢語使用状況を調査するため、インドネシアのジャカルタにてフィールドワークを行う予定である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

参考文献・資料

 

橋本萬太郎、鈴木孝夫、山田尚勇 1987『漢字民族の決断 漢字の未来に向けて』大修館書店

高名凱・劉生[土炎] 鳥井克之・訳 1988『現代中国語における外来語研究』関西大学東西学術研究所

丸山圭三郎 1983 『ソシュールを読む』 岩波書店

鈴木孝夫 1999『日本語と外国語 鈴木孝夫著作集5』岩波書店

鈴木孝夫 2000『閉ざされた言語・日本語の世界 鈴木孝夫著作集2』岩波書店

鈴木佑治 2000『言語とコミュニケーションの諸相』創英社 三省堂書店

高島俊男 2001『漢字と日本人』文春文庫

 

ソシュール,フェルディナン・ド 1940『一般言語学講義』岩波書店

ソシュール,フェルディナン・ド 2003『一般言語学第三回講義』 エディット・パルク

ソシュール, フェルディナン・ド・ 前田英樹 訳・注 1991『ソシュール講義録注解』法政大学出版局

 

 

SUZUKI, Takao. 1969. “A SEMANTIC ANALISIS OF PRESENT-DAY JAPANESE with Particular

Reference to the Role of Chinese Characters” THE KEIO INSTITUTE OF

CULTURAL AND LINGUISTIC STUDIES(鈴木孝夫 1969『現代日本語の意味論

的分析』慶應義塾大学言語文化研究所

Saussure, Ferdinand de. 1972. Course in General Linguistics. Open Court Classics

 

 

雑誌

1990『月刊しにか』創刊号 特集「漢字文化圏を考える−いま、なぜ漢字か?」大修館書店

 

ウェブサイト

文部科学省国語審議会 http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/12/kokugo/index.htm

株式会社グローバルデータ−日中英オンライン辞書http://www.globaldata.co.jp/dictionary/index.htm

中国語パソコン辞典http://www.qiuyue.com/



[1] 引用のページ数はオリジナルのフランス語版のページ数。邦訳は小林秀雄1940。