研究概要

研究計画の段階では、以下の4つを提示した。これに沿った形で報告を行うことにする。

  1. 新しいネットワークリサーチ手法の模索
    →研究計画では3番目に提示していたが、本報告ではまず先にこの部分を展開する。Weblogというものが、多様な解釈をはらむ技術人工物/ARTIFACTまたは情報行為であることから、研究対象として同定しづらいという背景が存在する。そこでネットワークリサーチ・スタイル:「リサーチQ」の分析などで用いられている方法を採用し、日本語ネット空間上の"Weblog"をめぐる言説行為をテキストマイニングにかけ、そのイメージ分析を行った。
  2. Weblogコミュニティにおける情報流通・共有の発展のモデル化
    →ここでは、既存のインターネット上のサイバースペース・コミュニケーションの研究、CMC研究(特に、MLやBBS)とblogとの比較を行った上で、はたして「なにがblogを今までのものと特徴づけているのか、そしてblogが普及した(していくであろう)のか?」という問いをめぐって研究を行った。そこでblog間明示的相互リンクプロトコルである1)「トラックバック track back」と、XML技術の応用であり、セマンティックェブ技術の萌芽ともいわれるblogサイトのメタデータ、2)「RSS(RDF Site Summary)」というふたつの技術に着目し、仮説構築を行った。
  3. Weblogツール・サービスといった、blogコミュニケーション環境のもたらすダイナミクスと、今後の可能性の考察
    →ここは本件給の実践応用編ともいうべき部分である。抽象的に表現すると、通常インターネット上でのコミュニケーション、特にhtmlを用いたものは、「非同期・非同場(時空ともに非-同時空性をもつ)」というものが中心的であったのだが、今回は同時同場的にネットワークメディアを用いる試みを行った。そこで行ったものは以下:1)ハイパーネットワーク2003別府湾会議での「議事録BLOG」:別府湾会議BLOG 2)SFC BLOG普及プロジェクトTriggersの一環から、「授業blog」:「ネットワーク社会論」、「ネットワークコミュニティ
  4. Weblog現象の国際比較分析 ―とくに日米ネットコミュニティ比較
    →ここでは、ワーキングペーパー(というのもおこがましい、ごく草稿メモレベルのものになってしまうが、)として、次のケース比較を構成することとする:
    1.日米の個人サイト現象の比較(なぜ米国の個人サイト現象は日本のものよりも<先に>巨大化したのか)
    2.日本の中における「内発的展開を見せてきた個人サイト現象(WEB日記・テキストサイト)」と、近年の「輸入された外発的blogブーム」の比較―「イノベーション的技術仮説」の暫定的棄却
    3.日米ともに社会的に巨大化したネットコミュニティの比較:米国のblog / 日本の2ちゃんねる―blogと匿名掲示板のコミュニティロジックに共通するものの発見

1. 新しいネットワークリサーチ手法の模索

もともとの研究計画では3番目に提示していたが、本報告ではまず先にこの部分を展開することにする。

今年もblogの話題は事欠かなかった。たとえば米国では、マスメディアレベルで話題性が顕著だったものとしては、イラク戦争時の反戦世論ムーブメントのなかで、イラクの市民の手による戦時中blogである “Where is Raed?”が話題となった。また大統領選での、「民主党候補ハワード・ディーンのblogを活用した選挙活動&選挙資金獲得戦略」が注目を集める、といった具合である。また日本でも2003年はblog普及元年と業界では言われている。大手ISP/SI・ベンチャーによるblogサービスの開始が相次ぎ、IT系のメディアではすっかり定着したトピックとなった感もある。

さて、そもそもWeblogの研究というからには、Weblogという対象がなんであるか、ある程度確定していなければならないわけであるが、しかしそれは、たとえば電子メールやBBS(電子掲示板)、インスタント・メッセンジャーなどに比べると、非常に多義的で曖昧な意味をはらむもの(つまり、人それぞれ、違う意味づけや異なるバックグラウンドに基づいた把握を行っていることが多い)となっていることが、一般に知られている。通常、Weblogといえば、movable typeなどのhtml更新ツールや、ココログ(ニフティ)やDoblog(NTT-DATA)などといったASPのこと、つまり「新しい技術」を指すのが一般的であるが、そこにはさまざまな「想い」がこめられたり、読み込まれたりする状況がここ1年見られたのである。

たとえば、Weblogを「情報発信ツール」としてのみみなすプラグマティックな論者は、「Weblogをするな」と呼びかける。ひとびとが、Weblogという輸入単語がかもし出す目新しい雰囲気に踊らされ、ただそれをガジェット(おもちゃ)として試して、すぐ飽きてしまうような状況にいらだち、「本質的な意味での」blogは、ツールどうこうの部分ではなく、情報発信・編集の行為の道具(手段)でしかないのである、とする見方である。また一方では、「Weblogをしろ」と叫ぶものもいる。これは、blog=自律した個人によるオンラインジャーナリズムという「崇高な期待」をかける論者からすれば、blogで昔ながらの「くだらない個人生活を暴露しただけの日記」を書かれ公開されることが不満でならず、もっとblogを使いこなすべきである、blogを使いこなすだけのリテラシーが足りない、としてついそう叫びたくもなるようだ。もしくは、Weblogなんて言葉を使って喜んでいるのは、恥ずかしい無知である、とみなす立場も根強い。blogツールと名前は目新しいが、日本のネット界でも日記更新ツールの類は開発・利用されてきた長い歴史があり、技術だけでなく、コンテンツ・書き手・特有の文化も形成されてきた。そこで、なにをいまさらWeblogなどと騒いでいるのは、なにをいまさら、とする見方である。

このような多様な解釈をはらむのは、新しい技術の登場の際に見られる現象であることは、技術社会学ではよく知られており、研究の対象となっている。そこで、このようにWeblogをめぐる複雑で曖昧な状況を踏まえて、まずはWeblogという研究対象を研究者の都合で勝手に囲い込む前に、その言説行為のイメージ分析を施してみることにしたい。すなわち"Weblog"という「外来語」的な存在が、この1年、人々の多様なインタープリテーション(解釈)をはらみつつ受容されていったプロセスを、SFC政策メディア研究科ソシオセマンティクスプログラム:ネットワークリサーチ・スタイルなどによって行われているテキストマイニングの手法を簡易的に用い、コミュニティごとのweblogをめぐるイメージの把握を行ってみることとしたい。

●添付資料:PDF:テキストマイニングから見る、日本のウェブコミュニティにおけるWeblogのイメージの変遷と齟齬

2. Weblogコミュニティにおける情報流通・共有の発展のモデル化

前節にてblogのインタープリテーションの多様性を確認したが、ここでは、既存のインターネット上のサイバースペース・コミュニケーションの研究、CMC研究(特に、MLやBBS)から見るblogという現象の不思議から見ていこう。

CMC研究の文脈では、ネットコミュニティが巨大化するときに伴う破綻リスクとして、次のような事柄がよく指摘されてれてきた。たとえば、荒らしなどによるノイズの増加。情報過多による機会損失であったり、玉石混交。そしてメディア・リテラシーやボランティアの作法(=ネチケット、などと言われていた)を持たないユーザの大量参入などといった、「インターネットの大衆化問題」である。これらはすべて、マスメディアやFace to Faceのコミュニケーションとは異なる、サイバースペースのもつ匿名性(非身体性=肩書き・組織・世間を強く意識することのない「自由な」言説活動を可能にする条件)に由来するなどと、常識的にはみなされてきた。

しかしblogは、少なくとも米国に限っていえば、「マスメディアに匹敵する」と当のマスメディアによって言及されることも増えてきていることからもわかるように、一瞥するだけではその実数も計りきれないほどに規模も巨大化し(100万は超えているといわれている)、平行して社会的な認知も高まってきているといえる。これをして、ただやみくもにblogサイトの数が増えているものと考えるのではなく、blog同士を一種の社会的集団・巨大なコミュニティとして支える論理の存在、つまりインターネットの「大衆化問題」を解決する論理がそこにはある、と考えるのが自然だろう。

では、それは果たしてなんであろうか。簡便に表現していこう。まず、1)個人単位でトレーサブル(追跡可能)に情報発信を行い、信頼性を付与・判別する宛先を確保した上で、2)いったいどの情報(発信者)が信頼に値するのかという「評判情報」(情報に関する情報)を明示化し流通させていくこと。ここでは米国に限らない例を出していくが、たとえばアンテナ被リンク数、トラックバックの数量、アクセスランキング等、ウェブ上に明示されるパラメータ的存在である。そしてむしろ重要なのは、以上の援護を受けつつ、3)段落リンク・記事単位URLといったサイトの記事単位でのモジュール化と、4)トラックバックやはてなキーワードリンク、blogポータルサイトなどの、個人サイト間をつなげる新しいリンク形成を通じた「出会い・気づき Awareness」の機会(=偶発性)の上昇である。ただ情報接触機会が増えてもパンクするだけだが、自身のblogに流れ着いてくる情報・リンクからネットワークをのばしていくことで、無理なく偶発性を受容可能とする土壌ができた、というものである。

→代表的なblogツールに実装されているblog間明示的相互リンクプロトコルである「トラックバック track back」と、XML技術の応用であり、セマンティックェブ技術の萌芽ともいわれるblogサイトのメタデータ「RSS(RDF Site Summary)」の両者が、blogというのもを今までの個人Webサイト行為から差異化づけていることを説明するのに最適なものとしてみなし、記述を行った。

●添付資料:PDF:トラックバックとRSSの解説

ここから仮説として提示されるのは、以下のとおり。

  • インターネット上の言説資源のトレーサビリティ付与&モジュール化仮説
  • アウェアネス(認知)機会の向上仮説
  • 信頼財(blog間言語行為インタラクションの支援を支えるもの)の形成仮説

本論執筆時点では、結論はまだ出せない状況で、ここではあくまで(敢えて)仮説提示に留めさせていただいている。というのも、仮にトラックバックがblogの普及に寄与しているかどうかを調査するにしても、技術発展の著しいゆえもあって、「対象のサンプリングの問題、比較の検定の問題(日米blogの間で比較する?トラックバックが実装されていないツール同士で比較する?)」が生じてしまう。(技術発展といえば、RSSというメタデータは「標準化」で現在混戦状態であり、最近Atomという形式が優勢化する、などと状況の変化は著しい。)

また、blogというものが普及しだしているといっても、それが「トラックバックやメテデータといった技術的・アーキテクチャ的な進化」が因果的にもたらしているものであるのかどうかについては、今後の研究の課題である。というのも、対抗仮説として、「blogに飛びついているのは、高度情報-消費社会において一定量存在する、情報発信を積極的に行う「イノベーター・アーリーアダプター」(≒ITオタク)層だけである。結局普及しているように見えても、それはあくまで一時的・局所的な流行現象に過ぎない、とする見方も可能であるからだ。とすれば、ハイテク/IT製品のマーケティングで話題にされる「キャズム(by ジェフリー・ムーア)」を超えて汎社会的に定着することはなく、ブームは近々冷却を迎えることになるかもしれない、という醒めた視点を取ることも可能であろう。

現在、この部分を突き詰めるべく、大規模なblogユーザへのアンケート調査・インタビュー調査と、blog間リンク構造のネットワーク分析、そしてコミュニケーション分析を準備中であり、来年度の研究へと継続させたいと考えている。

3.Weblogツール・サービスといった、blogコミュニケーション環境のもたらすダイナミクスと、今後の可能性の考察

ここは本件給の実践応用編ともいうべき部分である。抽象的に表現すると、通常インターネット上でのコミュニケーション、特にhtmlを用いたものは、「非同期・非同場(時空ともに非-同時空性をもつ)」というものが中心的であったのだが、今回は同時同場的にネットワークメディアを用いる試みを行った。

具体的には、研究費支援を基に、日本でのネットワーキングの殿堂的カンファレンスである「ハイパーネットワーク別府湾会議」に参画し、会議進行とリアルタイムで議事をblogにのせ、会議進行の裏側でオンライン・ディスカッションを行うというものである。

これについては、読売新聞夕刊版で報じられたほか、また政策空間第6号にて報告を行っているため、そちらを参照されたい。

添付(リンク)資料:

政策空間第6号:情報技術が「知識を創る会議」をもたらす
石橋啓一郎(国際大学GLOCOM 助手・研究員)/濱野智史(慶應義塾大学政策・メディア研究科修士課程)

(今回の試みで、)
効果1) 聞き逃してもblogですぐ参照できるので、参加者が緊張を持続させる必要がない。
効果2)参加者が議事の中で意見を言い逃しても、自由に発言して記録に残せる。
効果3)会議終了と同時に記録が完成している!

■さらに、いくつかの副次的な効果が得られた。例えば、コメントのつき方で会議全体のなかでの議論の焦点が見えてきたり(多くの人が注目する話題には多くの人がコメントする)、またblogのシステムを利用することで、他のblogサイトとの関係も作ることができた。記録を取るのは重い負担だったが、今回の試みでは、他参加者からすぐにコメントを得られ、不正確な部分を補ってもらうことができるおかげで、内容を吟味する時間が不十分でも議論を先に進めることができ、リアルタイム性を確保できるといった効果もあった。
■しかし、より重要なことは、知識生産の方法を大きく変えられる可能性があることだ。『スマートモバイル・ワークショップ』のチャットの例も含め、このような情報技術を使った追加的コミュニケーションによって、通常の議論とオンライン上での議論・情報交換が並行して進み、相互に影響しあうことで、これまでの議論の方法とは違う境地に入る可能性がある。もう少し具体的に言えば、第一に、議論を「濃く」する可能性がある。議論は議事録を振り返りながら、より緻密に行うことができるし、一方で時間の関係で発言できない人の議論を載せていくこともできる。この手法は、会議が進むにつれ、議論が互いに参照し合い、影響し合うのを助け、かつ会場からの議論を吸い上げて議論に吸収するのを助ける。このことによって、多くの人が参加する会議でも、短時間で議論を煮詰めることができるかもしれない。第二に、「情報を交換する」会議から、「知識を創る」会議へと質的な変化が起こる可能性がある。交わされた情報や議論はその場で加工され、共有され、必要があれば訂正され、その場にいる人に承認される。会議が終わった頃には、お互いに出し合った情報を記録したものではなく、その場で議論して生まれた知識が出来上がっている、という風になるかもしれない。
・読売新聞夕刊(掲載日時:2003.09.09, 記事タイトル:ブログ、会議に活用 会合の様子、ネットで生中継→アクセスすれば質問・提案可)から該当部分を引用
■大きな会合などで、論点や質疑応答内容をパソコンで逐次、打ち込み、プロジェクターでスクリーンに映し出すことで、参加者全員の理解を高めるという試みが一部で行われている。これを一歩進めて、インターネットのページにリアルタイムで流し、参加者がその場でコメントを書き込み、司会者はそれも参考にしながら議事を進めるというネット時代を象徴する新たな手法が登場した。(島田範正)
■この試みを実施したのは、先月末、大分市で開かれたハイパーネットワーク社会研究所(公文俊平理事長)主催の別府湾会議。参加者のほとんどがノートパソコン持参なのに対応して、会場にはネット接続のための無線LANが特設された。
同時に、特設サイト「別府湾会議BLOG(ブログ)」の設置が告知された。ブログは本来、簡単に発信できる日記型個人サイトのこと。ただ見せるだけでなく、アクセスした誰でも、コメントを書き込んだり、「自分もこんな関連記事を書いている」と知らせる「トラックバック」機能がある。
■会議では、国際大学グローコムの石橋啓一郎研究員、慶応大学大学院生の浜野智史さんの二人が、発言内容を次々と打ち込んだ。ページの冒頭に「質問・訂正・感想・ツッコミ・関連話題などなど、どしどし投稿してください」と参加者に呼びかけ、記録の途中でも「この項目を落としました。どなたか補足を」と書き込み、協力を仰いだ。
(中略)会津泉ハイパー研副所長によると、これに似た試みは八〇年代半ばのパソコン通信の時代に実施されていたが、最近はその応用が停滞していたという。今回、ブログを使ったことについて「より簡単、便利に使えることがわかった」としながらも「会議でのグループウエアとして応用するためにはもっと使いやすくするべきだ」と話している。

また、ここでの「議事blog」の試みのいわば授業版として、筆者も参加するSFC BLOG普及プロジェクトTriggersの一環から、「授業blog」を授業TAとして立ち上げた:

blogでの課題提出を義務付けた完全blog型実験授業の「情報通信文化論」とは違い、それほどラジカルなblogの応用とはならなかったが、これについては、また別の形でまとめて報告をおこないたい。

本研究報告と関係する部分としては、このようにblogがSFCというキャンパスで普及するにしたがって生じた、あるトラックバックをめぐる事件について次節にて取り上げたい。前節にて、blogの利点をオープンな「トラックバックやRSS(メタデータ)」などの存在による情報流通プラットフォームの生成として仮に記述したが、そのケースでは、それが逆に「意図せざる結果」をまねく結果となってしまった、象徴的な事例としてみなせるのである。

4. Weblog現象の国際比較分析 ―とくに日米ネットコミュニティ比較

本研究計画の段階で企図していたものは、「日本にはWeblogという単語が輸入される前から、「個人ニュースサイト」というきわめて類似した形態のサイトが若者を中心に隆盛していた。これはほとんど定義的にはblogと同じものなのだが、日米を比較したとき、明らかにムーブメントとしての規模の差と、温度差が見られる。一体これはなにを意味するのであろうか。」という問いであった。本論は現在論文として準備中であるため、おおまかな輪郭を描画するにとどめることをお許しいただきたい。

そもそも、「個人ページでWEB日記的なものを公開するという習慣は、日本のほうがいちはやく先に定着した」とよく語られる。しかし、それではなぜ後発であるはずの米国"blog"という個人サイト形態のほうが、「マスメディアに対抗する巨大なムーブメント」と当のマスメディア上で騒がれるほどメジャーな存在に展開するにいたったのだろうか?なぜ、日本での先行的blog的存在といえるであろうテキストサイトは、米国のそれほどには巨大化しなかったのだろうか?

(これを調べるのは簡単で、新聞記事データベースでテキストサイトなどの単語がひっかかることはめったにない。過去のサイトログなどは失われていることが多く、データ取得は困難を極める。ただし、「テキストサイト大全」という書籍の形で残っているものがかろうじて研究。またほかにも類似的な存在(アングラ的、オルタナティブメディアの香りを漂わせるもの)として貴重な資料となっているのは、河上イチロー「サイバースペースから攻撃」「サイバスペースからの挑戦状」、またムックとして、「ネット・トラヴェラーズ(年刊シリーズ)」などがある。さらにアカデミックなリソースとして、CMC研究の文脈から、「WEB日記研究」の成果が蓄積されており、その知見との連結がおこなわれる。cf.日本ウェブログ学会附属図書館http://www.akaokoichi.net/weblog/library.htm)

→つまりここで問題となるのは、日本・米国の個人サイトがここ数年において辿ってきた歴史過程・いうなれば微分係数である。そこでまず仮説としては、

  • 日本の個人サイトがアングラ・オルタナ・サブカルチャー段階を突破し、一種社会現象化するまでには至らなかったのは、第2節で検討したような、「技術的要素(モジュール化、サイト間明示的相互リンク、メタデータ、信頼財形成)」存在しなかったためなのであろうか?

ここでは詳説しないが、このすべてが少し形式は違えど日本の個人サイトコミュニティでも達成・醸成されており、仮説は棄却されることとなる。

となれば、単純な論旨展開に従うとすると、それは技術的要因ではなく、「blogコミュニティ内部の文化的要因」「blogコミュニティ外部の社会的要因」(そしてその境界面における、外部から内部へユーザコミュニティ取り込み・拡大の動き)に拠る、とひとまず考えることはできよう。たとえば、911という社会的事件を受けて(コミュニティ外部要因)、ジャーナリストなどのすでに名のある記者がblog界に進出してくることで、サブカルチャー色が薄れることで社会的認知度と信頼度も高まる(コミュニティ内部要因)、といった具合である。しかしそのような記述は、日米を比較するにしても、あまりにもコントロールできない変数が多すぎるため、実証的なケーススタディとしては困難をきわめてしまう。

そもそも、先に筆者が技術的な要因に求めた仮説は「無能」であろうか。ここで、米国のblogと同じほどに(といっても計るべくもないし、この考えに同意しないという意見も当然ありうると思うが)「マスメディアに匹敵すると形容される規模までに巨大化する」(のように見える、もしくは、とイメージされることが多くなる)に至った“2ちゃんねる”に着目してみよう。

これは荒唐無稽の展開に思われるかもしれない。なぜならば、blog(個人サイトの大集合)と2ちゃんねる(匿名掲示板の大集合)は、あまりにも似て非なるアーキテクチャを抱えており、比較するのは当然不可能と思われるからだ。しかし私の考えでは、blogも2ちゃんねるも、より抽象化された水準で、コミュニティの巨大化を支える問題をクリアしているように思われる。ここで第2節で先述したblogをめぐる議論を引用しつつ、次いで2ちゃんねるについて展開しよう。まずはblog部分の復習的引用からである:

CMC研究の文脈では、ネットコミュニティが巨大化するときに伴う破綻リスクとして、次のような事柄がよく指摘されてれてきた。たとえば、荒らしなどによるノイズの増加。情報過多による機会損失であったり、玉石混交。そしてメディア・リテラシーやボランティアの作法(=ネチケット、などと言われていた)を持たないユーザの大量参入などといった、「インターネットの大衆化問題」である。これらはすべて、マスメディアやFace to Faceのコミュニケーションとは異なる、サイバースペースのもつ匿名性(非身体性=肩書き・組織・世間を強く意識することのない「自由な」言説活動を可能にする条件)に由来するなどと、常識的にはみなされてきた。

しかしblogは、少なくとも米国に限っていえば、「マスメディアに匹敵する」と当のマスメディアによって言及されることも増えてきていることからもわかるように、一瞥するだけではその実数も計りきれないほどに規模も巨大化し(100万は超えているといわれている)、平行して社会的な認知も高まってきているといえる。これをして、ただやみくもにblogサイトの数が増えているものと考えるのではなく、blog同士を一種の社会的集団・巨大なコミュニティとして支える論理の存在、つまりインターネットの「大衆化問題」を解決する論理がそこにはある、と考えるのが自然だろう。

では、それは果たしてなんであろうか。簡便に表現していこう。まず、1)個人単位でトレーサブル(追跡可能)に情報発信を行い、信頼性を付与・判別する宛先を確保した上で、2)いったいどの情報(発信者)が信頼に値するのかという「評判情報」(情報に関する情報)を明示化し流通させていくこと。ここでは米国に限らない例を出していくが、たとえばアンテナ被リンク数、トラックバックの数量、アクセスランキング等、ウェブ上に明示されるパラメータ的存在である。そしてむしろ重要なのは、以上の援護を受けつつ、3)段落リンク・記事単位URLといったサイトの記事単位でのモジュール化と、4)トラックバックやはてなキーワードリンク、blogポータルサイトなどの、個人サイト間をつなげる新しいリンク形成を通じた「出会い・気づき Awareness」の機会(=偶発性)の上昇である。ただ情報接触機会が増えてもパンクするだけだが、自身のblogに流れ着いてくる情報・リンクからネットワークをのばしていくことで、無理なく偶発性を受容可能とする土壌ができた、というものである。

以上の議論を踏まえ、日本の2ちゃんねるは、いかなるインターネットの「大衆化問題」を解決する論理を展開してきたというのだろうか。

2ちゃんねるでは、評判情報をぶら下げることのできる個人はほぼ存在しない。それでは一体、そのコミュニティを支える相互信頼はどうやって獲得されているのだろうか?北田暁大氏の「嗤う日本のナショナリズム」(『世界』11月号所収)でもいわれるように、それは「個人」ではなく、「内輪」に帰属することで生まれる信頼形成とひとまず表現できるだろう。つまり「2ちゃんねらー」として振舞うことは、単なる無色透明な匿名的存在になることではない。むしろあの独特な言葉遣いをリテラシーとすることで互いに「2ちゃんねらー」であることを確認しつつ、ネタ的なノリが共有できる場を絶えず維持していくコミュニケーション技法なのである。しかしそれは逆説的だが、「偶発性」の余地をもたらす。たとえば、誰の著作であるかを問わずに自由に文章やAAをコピペする作法はそのごく一例であるし、また流動性の低い(=人間関係が膠着化している)掲示板で一般に生じてしまう、「馴れ合い」や「フレーミング」といった厄介な問題を避けることもできる、といった具合である。

このような議論から見えてくるのは、blogと2ちゃんねるには、手段・形式こそ違えど、

  • コミュニティメンバー間の評判情報認知機会の獲得、信頼財(ソーシャルキャピタル)形成
  • ボランティアの増大>フリーライダーの増大(あるいはフリーライダーの「クチコミ伝播的」役割の寄与?(→小川・國領による@コスメの研究))
  • 流動性・偶発性の増大によるアウェアネス機会の増大
といった、コミュニティの論理(ボランタリー・コモンズ)が暫定的とはいえ確認できるのである。
*(金子「コミュニティー・ソリューション」論などを参照)これについては、現在この仮説に基づいた追加調査をおこなっている。

また以上の整理からインプリケーションとして引き出されるのは、「ムラ共同体的な内輪・世間/自立した個人で構成される社会」とよく日米社会を比較していわれるが、日本では匿名掲示板のほうが巨大化リスクを解決するには適合性が高かったのではないか、というものである。これについては、組織論・文化論との比較検討をおこなう。

そしてこの迂回を通じて、最後にいま一度、なぜ日本では個人サイトが巨大化しなかったのか、そして、これからの日本のblogブームはいかなる展開を見せていくか、その予測を立てよう。それには、この「内輪の論理」が重要なファクターを果たすと考えられる。

たとえば個人サイト運営に関して頻繁に交わされる議論として、「誰を意識して書くのか」そして「他の個人サイトへ/からのリンクに対するなんらかの躊躇・違和感を持つ」といった、サイト間の関係性意識をめぐるトピックを思いおこしてほしい。これはつまり、個人サイト間で同じノリを共有するコミュニティを形成したい、という内輪的コミュニケーションへの欲求から派生しているものと見てよいだろう(『波状言論』創刊準備号での加野瀬氏のコラム参照)。もちろんそのような仲間を求める欲求はごく自然なものだし、米国のblogにそのような欲求がないのかといえばそんなことは全くない。

ただ実際日本のblog界隈でも、いかんせんトラックバックが普及しないのはなぜかについて(特に、異なるblogツールコミュニティ間をまたいだトラックバックに関して)しばしば語られるのだが、その背景にはこの日本的な「内輪モード」が、越境的なblog間リンク行動を非活性化する方向に強く働いている。(たとえば、個人サイト間のリンクをめぐるポリシー・マナーをめぐる話題は、以前から日本独特のものとして知られている。)このような傾向が続けば、blog的アーキテクチャの利点であった「追跡性」は達成されても、それとセットで効力を発揮する「偶発性」の部分が機能不全に陥るかもしれない。このように捉えると、日本ではなぜblog型アーキテクチャが普及しなかったのかがおぼろげに見えてくるように思われる。

さらに日本でのblogの今後を占う上で、ここでケースを二つ提示して稿を閉じよう。ひとつは、

  • blogが普及したSFCで起こった、「土足トラックバック事件」。
    cf.ARTIFACT −人工事実− | Weblogに日記を載せると… http://artifact-jp.com/mt/archives/200312/weblognikki.html 「トラックバックで議論に参加するのは、土足で玄関を上がられたようで、気分を害する」といったトラックバック的コミュニケーションへの違和感こそ、まさに上記の具体的な感覚を表現しているものといえよう。
  • はてなダイアリーの受容:
    一方、トラックバックのような「自主的」な引用通知ではなく、「同じ単語を使えば自動的につながってしまう」というアーキテクチャを採用したはてなが、並み居るblogサービスをおさえて、2004年初頭の現在、名実ともにblogの世界をひっぱっている主要なコミュニティとなっていることに、この「内輪」モードをうまく取り入れたコミュニティ技術設計が寄与していると見ることができよう。
    cf.「日本人にはBlogより日記」、はてなの人気に迫る - CNET Japan .http://japan.cnet.com/interview/story/0,2000050154,20053530,00.htm

以上 (森基金報告ver.1.00)