眼球運動計測は,現在でもヒトの「注意対象」を推定するために利用されている.ヒトの眼は周辺部に比べ中心部の方が特徴抽出能力が高いため,通常我々は,興味深い視覚入力を網膜中心窩で捉えようとする.任意の視対象を網膜中心窩で捉えるためには,眼球運動と身体運動を利用することができる.特に眼球運動は大多数の人々にとって簡単かつ単純な運動であるため,頻繁に利用される.したがって,眼球運動を解析すれば,文字通りヒトが「何に注目しているのか」を知ることができるのである.眼球運動を利用した注意対象の推定は,ヒトの振る舞いを解明する研究や,ヒトに「親切な」コンピュータインタフェースを実装するために利用されている.これらの研究は主語が異なるが目的語は同一である.すなわち,前者は「研究者」,後者は「コンピュータ」が,それぞれヒトの注意を推定することによって目的を達成しようとしている.ヒトの注意対象を知ることは,研究者にとってもコンピュータにとっても有益な手段と成りうるのである.
ところが,既存の注意推定手法は,静止した視対象への注意を推定するものがほとんどであり,運動する視対象への注意を推定するには,まだまだ不充分な手法しか存在しない.そこで,本研究はこのような現状を踏まえ,運動する視対象への注意を推定する新たな手法を提案し,構築する.具体的には,「トラッキング」という眼球運動の状態を定義し,これを眼球運動データから検出することにより運動視対象への注意を推定する手法を構築する.
日常生活においては,運動する視対象に注意を向ける場面は多々存在すると考えられる.そのような場合におけるヒトの注意対象が,より詳細に推定できるようになれば,それはヒトと研究者,あるいはヒトとコンピュータの距離を縮ませ,より快適な社会が実現すると考えられる.
トラッキングとは,眼球が視対象を追跡する状態を指しており,ヒトが日常的に利用する行為である.高速で運動する視対象への注意を推定するには,トラッキングの検出が必要になる.トラッキングの検出手法はこれまで提案されておらず,したがって提案手法には充分な需要があると考えられる.トラッキング検出が特に有用なのは,視対象の速度が10deg/sec以上である場合である.この速度は,25型テレビ(横幅が約50cm)の画面を3秒かけて横方向に横切る視対象を,画面から1m離れた位置で眺めている場合の視対象の速度にほぼ等しい.実生活においては,これ以上の速度を持つ視対象をトラッキングする機会があることは充分考えらる.したがって,この点からも提案手法の需要は大きいと考えられる.
トラッキングは現象として明確であるため,上手く定式化を行えばデータから検出することが可能になる.具体的には,トラッキングは「時間的な位相差を含みながら,眼球位置データと視対象位置データがほぼ同一の軌跡を描くこと」ということになる.本研究では,トラッキングがこのような「データの形」として定義できることを利用して,これを検出するアルゴリズムを構築する.
本研究においては,眼球が視対象を追跡している状態を「トラッキング」と呼ぶ.ヒトが運動視対象に対して注意を払っているとき,しばしばトラッキングが行われることがわかっている.本研究の提案手法は,トラッキングをデータから自動的に抽出するものである.本研究は,トラッキングをデータ形式から「視線位置データの系列と視対象位置データの系列が時間的にはズレながら,ほぼ同一の軌跡を描いている状態」と定義する.トラッキングの抽出は,Dynamic Time Warpingと呼ばれるデータの前処理手法を用いたのち,類似度ベースマッチングを行って実践する.Dynamic Time Warpingは視線と視対象の時間的なズレを吸収する.類似度ベースマッチングは2系列間の距離=非類似度を計算することによって,それらが類似であるかどうか判定するアルゴリズムの総称であり,これを用いることによって視線と視対象の軌跡がほぼ同一であるかどうかの判定が行えるようになる.
提案手法の妥当性を検証するために,以下に記すデータ計測実験を行い,獲得したデータに対してトラッキングの検出を行った.
獲得したデータにアルゴリズムを適用した結果,被計測者が任意の視対象に注意を払っている場合,そうでない場合に比べて「トラッキング」がより多く検出されることが解った.一方,従来の手法である注視の検出では,被験者が何に対して注意を払っているのか推定することができなかった.したがって,トラッキング対象=注意対象として推定を行う手法には,有意性があることが確かめられた.