2004年度森泰吉郎記念研究振興基金による研究助成
海外の大学等との共同学術活動支援
研究課題 外国語教育政策の基盤構築研究−ドイツ語の場合−(2)
研究代表者 平高史也
研究組織 平高史也(政策・メディア研究科・教授)
藁谷郁美(政策・メディア研究科・助教授)
桑原武夫(政策・メディア研究科・助教授)
木村護郎クリストフ(上智大学外国語学部・専任講師)
太田達也(総合政策学部・専任講師)
アンドレアス・リースラント(玉川大学・講師)
的場主真(ドイツ・ヴィッテン・ヘルデッケ大学・講師)
安井綾(学習院中等部教諭)
石司えり(政策・メディア研究科修士課程2年)
加藤周作(政策・メディア研究科修士課程1年)
1. 研究の背景
日本語母語話者が実社会でどのように外国語を使用し、どの程度の能力が求められているかに関する研究は皆無に等しい。大半の外国語は社会における使用の実態が把握されておらず、目標と需要が不明確なまま教育が行われている。本来はこういった調査研究の成果にもとづいて、カリキュラムやシラバス、教材などが開発されるべきであろう。本研究はこうした研究の欠を補い、今後の日本における外国語教育政策の基盤構築に資するものである。
こうした問題意識に導かれ、昨年度はベルリンで日本人7名にアンケートとインタビューを行うなど、パイロット調査を実施した。その結果、調査前の予想に反して、渡航前にドイツ語をまったく学習せずにドイツにわたっている日本語母語話者もいることがわかった。また、ドイツに行くと、日本語が難しく思えてきたという答えが意外に多く、自分や母語を相対化し、意識化している被験者も少なくないことがわかった。こうしたデータはこの種の言語調査の必要性を裏づけるものでもある。
また、昨年度のパイロット調査で、日本人留学生の外国語能力に関する調査研究が少ないことも明らかになった。SFCドイツ語研究室では、すでに数年前から海外研修参加者の渡航前後のインタビューデータの分析を行っているが、本プロジェクトでは、加えて海外研修参加者の言語行動のドメイン分析と交換留学生に対するアンケート調査を実施することにより、義塾はもとより日本の大学や高等学校、留学生を海外に派遣する機関にとっても役立つようなデータの収集を始めることにした。
2. 研究目的
本研究の目的は次の3点にまとめられる。
@海外で外国語を使用する日本語母語話者の言語使用・能力の実態の解明。
A日本における外国語教育政策の基盤構築。
B日本における外国語教育の改善に関する提言。
3. 研究計画
本研究は、昨年度の研究を受けて、次の課題に取り組んだ。
(1)本調査用の調査票作成
昨年度のパイロット調査をもとにして本調査用の調査票を作成した。この調査票は義塾の交換留学生向けのものである。
(2)アンケートと聞きとりによる言語使用・意識に関する調査
2004年9月にドイツ語圏にわたった義塾の交換留学生10名にメールで第1回アンケート調査を行った(調査は2005年秋までの1年間に3回実施する予定である)。この調査では、自己申告によるドイツ語等の外国語能力の測定、接触場面における言語使用(いつ、どんな場面で、誰に対して、どの言語を使って何を達成しようとするのか)などを扱った。
(3)海外研修参加者の言語行動ドメイン調査
2004年の夏季休暇中にドイツ語圏の大学で夏季ドイツ語研修に参加した学生11名にドイツ語圏での言語行動に関するアンケート調査を行い、接触場面における言語使用と言語行動のドメインに関する研究を進めた。
(4)春季海外研修参加者に対するインタビュー調査
2005年の春季休暇中にドイツの大学で春季ドイツ語研修に参加する学生7名に2005年1月にインタビューを行い、それを録音録画した。録音データは文字化する。帰国後の同年4月にも同様のインタビューを行い、渡航前後のドイツ語能力の変化を記述する予定である。また、この学生たちには(3)に記した言語行動のドメイン調査も行う予定である。
4. 研究の成果
3.で記したように、継続中の研究が多いため成果の検証にはまだ時間がかかるが、言語行動ドメイン調査の結果はまとめることができた。[i]
2004年夏にドイツ語海外研修に参加した13名に、帰国後の9月30日にアンケート調査を行った。そのうち2名を除く11名(表1)から回答を得た。いずれもドイツ語の学習時間は最大で250時間程度である。
表1:2004年度ドイツ語海外研修参加者
氏名 |
性別 |
研修先 |
研修期間 |
YH |
男 |
ミュンスター大学 |
8月9日〜8月26日 |
TT |
男 |
ミュンスター大学 |
8月9日〜8月26日 |
YN |
女 |
ミュンスター大学 |
9月6日〜9月24日 |
YU |
女 |
ウィーン大学 |
8月30日〜9月17日 |
RO |
女 |
ウィーン大学 |
8月30日〜9月17日 |
JM |
男 |
バイロイト大学 |
8月28日〜9月17日 |
YY |
女 |
ボン大学 |
8月3日〜8月27日 |
TG |
男 |
ドレスデン工科大学 |
8月16日〜9月3日 |
YS |
女 |
ミュンヘン大学 |
8月2日〜8月27日 |
HY |
男 |
フライブルク大学 |
8月4日〜8月27日 |
YT |
女 |
ハイデルベルク大学 |
7月30日〜8月26日 |
5. 結果
5.1 場による分類
研修参加者の行動の場は、ドイツ語学習に関わる場とそれ以外とに大別できる。前者は研修先の大学の構内であり、後者はそれ以外の空間となる。それをここでは各々「学習の場」と「学習以外の場」と呼ぶ。Council of Europe(2001)でいえば各々EducationalとPersonalに相当しよう。「学習の場」も「学習以外の場」も言語行動が行なわれる「空間・場所」によって細分化できる。
次に、「空間・場所」でどんな「言語行動」が行なわれ、どんなことが「話題」になっているかについて見る。回答の記述は一様ではなく、すべての回答に「言語行動」、「話題」が記されているわけではない。また、対話者が明記されている場合もあるが、考察の対象とはしない。このように、海外研修参加者の行動を場→空間・場所→言語行動→話題というように細分化していって得られたのが表2である。この表からは参加者のドイツ語圏における言語行動のおよそのイメージが浮かび上がってくる。表2のカッコ内の数字は記述者の数を示す。
表2:ドイツ語海外研修参加者の言語行動と話題
場 |
空間・場所 |
言語行動 |
話題 |
学習の場 |
教室 |
自己紹介(2) |
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授業で発言・提案(2) |
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授業全般、授業最終日 |
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コースの世話役に質問(2) |
エクスカーションの集合場所、寮の保証金の返還日 |
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合唱を教えてもらう |
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事務室 |
コースの受付(2) |
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課外活動の申込み(2) |
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寮 |
入寮時の説明(3)、 管理人に挨拶、管理人との会話 |
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|
退寮時のチェック(2)退寮についての相談 |
退寮について |
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共同キッチン(2) |
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世間話 |
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鍵を忘れて助けてもらう |
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学食 |
食券カードの購入(2) |
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最初の学食、学食 |
料理の中身 |
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休憩時間・ パーティー |
クラスメートとの休憩時間の会話(4) |
自分、日本語、家庭、専門分野、総合政策学部とは、週末の予定、天気、将来、雑談(2) |
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パーティーでの会話(2) |
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学習以外の場 |
空港・機内 |
チェックイン(3) |
通路側・窓側の別 |
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入国審査 |
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空港で迎えに来てくれたスタッフの人に会う |
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機内(2) |
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駅 |
乗車券の購入(6) |
日時、行き先、片道・往復の別、座席指定 |
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乗船券の購入 |
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空港で初めての乗車時 |
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中央駅から研修担当者に電話 |
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車内 |
会話 |
乗客と空席をさがす、 日本の話 |
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パスポート確認 |
行き先を問われる |
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電車でスーツケースが見当たらず車掌に相談 |
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バス |
乗車券購入(2) |
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定期券購入(2) |
2種類のどちらがよいか相談 |
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料金を質問 |
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乗車 |
行き先と目的地まで行けるか |
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路上 |
道聞き(5) |
学生寮(2)、コンサートホール、インフォメーション、駐車場への道 |
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重い荷物を持っていたら、階段の前で助けてくれた |
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荷物運びの手伝い |
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ホテル |
チェックイン・チェックアウト |
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貴重品を預ける |
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翌日の目的地について質問 |
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博物館 |
博物館入館(3)、チケット購入 |
学割について(3) |
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美術館で声をかけられる、荷物を預けるようにいわれる |
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友達と博物館・美術館に行く |
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係に質問 |
待ち時間 |
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郵便局 |
ハガキを送る(2) |
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小包を送る |
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切手の購入 |
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ショップ |
市場・露店で買物(2) |
日本の話 |
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パン屋・肉屋で買物(2) |
肉・パン等の細かい種類 |
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スーパーで質問(2) |
トイレ、寮の場所 |
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スーパーで袋をもらう |
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本屋で本を探す |
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試着 |
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映画の切符の購入 |
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土産店で話しかけられる |
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Tax Freeについて |
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カフェ・ レストラン・ファーストフード店 |
昼食、お茶(4) |
食物の名前、料理について、具の種類と大きさ |
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注文(4) |
メニューの意味 |
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会計(2) |
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車内の食堂・車内販売 |
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ケバブを買う |
トッピング |
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レストランなどで相手がおごると言った時 |
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インターネットカフェ |
店員に質問 |
利用方法、@の入力方法 |
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支払い |
|
表2を見ると、調査をしなくても予測できる、いわば型どおりの言語行動が大半を占めていることに気がつく。例として「学習の場」の「寮」と、「学習以外の場」の「駅」を取り上げると、学生寮で生活をするのだから、多くの場合、入寮時には寮での生活について説明を受けたり、退寮時には部屋のチェックを受けることは予測できる行動である。同じように、駅で切符を買うというのも予測できる行動といえよう。それに対して、寮での世間話や列車内での会話(日本の話)は内容がまったくわからない。また、記述のしかたによるのであろうが、「共同のキッチン」だけでは、キッチンの使い方の説明なのか、あるいは共同キッチンで他国の学生と世間話をしたのかがわからない。この問題は調査の方法によって解決できる。「鍵を忘れて助けてもらう」という行動も予測できないことではないとはいえ、展開によっては話の内容まで予測することは難しい。
表2にまとめられた行動や話題は、制度的なコンテクストと共振して生じる行動であり、比較的把握しやすいものといえる。それに対して、制度的なコンテクストを選ばない話題がある。5.2ではそれを観察する。
5.2 話題による分類
表2には次の2つの難点がある。一つは「言語行動」の中にすでに話題が含まれているものがあることである。例えば「クラスメートとの休憩時間の会話」という言語行動にはその会話の内容や話題は示されていない。一方、「スーパーのレジで寮の場所を聞く」というのは道聞きの言語行動で、目的地である「寮の場所」が話題となっているから、言語行動と話題が渾然一体となっているもので、この2つを明確に分けるのは難しい。もう一つは、そもそも話題という要素が表2には必ずしもそぐわないという問題である。Fishmanのいうcongruentではない行動や話題がこれにあたる。例えば、表4の「日本について」はいろいろな場所や場面で話題になりうる。事実、表3でも「日本について」は「車内での会話」でも「市場・露店で買物」をしているときでも話題になっている。道を歩いていても、コースの休憩時間でも「日本について」が話題になることはあるだろう。したがって、表2のように、場から出発した分類では、「日本について」という話題がどの程度扱われたのかは見えにくい。そこで、本節では話題は別に取り上げることにした。表3に挙げるのは表2には適合しにくい話題である。
表3:ドイツ語海外研修参加者の話題
雑談 |
週末の予定 |
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天気の話題 |
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昨日何したか |
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たわいもない話 |
自分について |
自己紹介(2) |
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日本で自分が何をしているか |
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将来の話 |
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専門分野(総合政策学部とは何を学ぶところなのか) |
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ドイツに来た目的 |
日本について |
日本語の話(2) |
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日本の文化 |
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日本のこと(3) |
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日本の料理・調味料、「納豆」 |
挨拶 |
感謝の気持ち |
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相手の好意を断る時に失礼にならないように断る方法 |
質問(インストラクション) |
洗濯機のある場所と使い方 |
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コンピューターの電源が入らず聞いた |
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レンタルサイクルを借りる |
電話 |
航空会社のコールセンターに電話し、空港までのシャトルバスを予約 |
表3にまとめられた話題の多くは、今回の調査では把握しにくいものであり、事前に参加者がこれらの話題を扱うかどうかについても予測が立てにくい。雑談に含まれる話題や日本についての話題はほとんど無限に近いくらい多岐にわたっている。質問(インストラクション)にあがっているものも表3では数は多くはないが、お金のおろし方をはじめとする銀行の利用のしかたやその他の電化製品の使い方などが入ってくる可能性はあるだろう。表2の寮での世間話や列車内での会話は内容がわからないのと同じで、話題を軸にして分類しても、詳しい内容をとらえて教材化のもとになるデータを提供するのは困難であろう。
6.考察:接触場面にもとづく外国語教育の可能性と限界
アンケート調査の結果を場面による言語行動と話題の2つの観点から観察した結果、どちらのカテゴリーをとっても、予測できる、いわばスキーマに則った言語行動と、そうした枠に収まらず、調査によっても把握が難しい言語行動や話題があることがわかった。これが教材やシラバスの開発に影響を及ぼす。
スキーマに則った言語行動は教材も作りやすいし、学生もモデル会話を覚えておけば、対処できることも少なくない。事実、ボン大学の研修に参加したYYは大学の事務室の受付でのコメントに「スケッチに出てきたことばかりだったのでスムーズに答えられた」と記している。スケッチというのは、私たちがSFCで作成した教材の会話文を指す。
このように、学生のドイツ語圏での言語行動は、調査しなくてもある程度の予測を立ててシラバスを描き、教材を開発することはできる。さらに、接触場面をリストアップし、話題を設定するだけではなく、ネウストプニーが述べるように、「実際の行動をビデオかすくなくともカセットテープレコーダーで記録し、そのフォローアップ・インタビュー」[ii]まで行えば、場面や話題だけではなく、語彙や表現まで記録することができるから、より詳細なデータが得られる。
問題は予測できない場面や言語行動、話題、Fishmanのいうcongruentでない場合である。このケースは、いくら学習者の言語行動を観察しても接触場面の目録が拡大するだけで、予めシラバスや教材として与えることはできない。
では、そうした問題を解決するにはどうしたらよいのだろうか。一つは調査をもう少し精緻化し、細かい目録を用意して回答を求めることである。今回はもともと海外研修の参加者が「どんな場面でドイツ語を使った(使わなかった)か」を調べようとしただけのものだったので、「場面(状況、場所など)」、「話し相手(身分、国籍、母語などわかる範囲で)」、「備考(表現できたこと、できなかったこと)」の3つのコラムを設けただけの、簡単な調査票を作成したにとどまった。今後は、いつ、どこで、どんな状況で、だれに、どんな言語を用いて何についてコミュニケーションをとっているのかが把握できるような調査を工夫しなくてはならない。ただ、それが実現しても、被調査者は研究者ではないので、均質な回答は得られないことは覚悟しなくてはならない。
第2の解決法として、外国語教育への還元を視野に入れるのであれば、そうした言語行動をとったことによって目的が達成できたのかどうか、また、それは何故かといった点についての回答を求めることによって、教材やシラバス開発を目的とした言語行動調査は精密なものにすることができる。この点は今回の調査でも考慮されており、備考欄に「表現できたこと、できなかったこと」を記すように指示した。表現できなかったことの例をいくつか挙げてみよう。こうした例は今後の外国語教育・学習に還元することができるだろう。
●一回券は買えたが、一日乗車券が買えるかまでは聞けなかった(バス)
●ICEを使う際、レールパス以外に別料金がかかるか聞けなかった(駅)
●数字の聞き取りが難しい(駅)
●hin、zurückという表現に戸惑った(駅)
●左利き・右利きが分からなかった(雑談)
●こみいった話はついていけなかった(自己紹介)
●メニューの読み方や意味がわからない(レストラン)
このように失敗例を挙げさせて目録を精緻化させたところで、教材が学習者の行動を常にカバーするというようなことはありえない。どこかで学習者は教材もシラバスも振り切って旅立っていく。そのときにあらゆる語彙や表現が身についているわけではない。しかし、それでも未知の言語の世界を泳ぎ切るだけの力はついていないといけない。そのためのストラテジーや話題に関する知識を養っていく手段を提供し、それによって、学習者が自律できるようにするのが外国語教育の課題であろう。
ここでは、ドメインを構成する要素がcongruentからincongruentになるにつれて、外国語教育研究に資するはずの言語行動も複雑化することを指摘した。今後はその複雑化した段階における外国語教育の対応について考えていきたい。
7. 今後の課題
3.で記した(2)〜(4)の調査は継続中なので、ひきつづきデータを収集する。アンケートとインタビューの両者のデータがそろえば、ドイツ語行動の分析をマクロ・ミクロの2つのレベルで行うことができるので、それを視野に入れた研究活動を続けたい。
8.参考文献
ネウストプニー(1995)『新しい日本語教育のために』大修館書店
Council of Europe(2001)Common European Framework of Reference for
Languages: Learning, teaching, assessment.
Fishman(1972) “Domains and the
Relationship between Micro- and Macrosociolinguistics.” Directions in Sociolinguistics. The Ethnography of Communication.
ed. by Gumperz, John J. & Hymes, Dell. pp. 435-453.