2004年度森泰吉郎記念研究振興基金「研究育成費」研究報告書
研究課題: 開発途上地域の製造業種比較による賃金決定要因分析
慶應義塾大学大学院政策・メディア研究科修士課程1年
ネットワークガバナンスプログラム JANPプロジェクト所属
80425018 沼理恵
※ 本研究は、今年度の調査から得られた知見を検討した結果、森泰吉郎記念研究振興基金助成申請の際の研究計画の方向性を転換すべきという結論に至ったことを予め断っておきたい。本報告書では、申請時の背景・目的・調査予定項目を述べた後、実際の調査から得られた知見とそこから導かれた新たな研究課題について述べる。
研究概要(申請時)
本研究の課題は、タイにおける製造業の賃金決定要因について、ジェンダーという要因と、ジェンダーという視点だけでは不可視化されてしまう他の要因との関係を明らかにすることである。
近年急速に経済発展を遂げ、GDPの約60%(2003年現在)を製造業が占めるタイにおいても、開発に関する政策課題として製造業の若年女子労働者が置かれている低賃金労働への関心が高まっている。「被雇用者の生活の安定」という包括的な研究の第一歩として、本研究では賃金決定要因を探る。
本研究では、従来のジェンダー論が前提としていた「資本制」と「資本に搾取される女性」という単一なモデルでは捉え切れなかった多様性に着目する。そして、製造業の中でも男女の賃金格差に顕著な違いが現れるタイの飲料製造業(格差がほぼないか女性の方が高給)と電子機器産業(女性賃金が男性賃金の6割5分ほど)において、@企業形態のあり方、A被雇用者の特性、Bジェンダーとを比較し、それらの賃金決定要因を調査、分析する。それにより、賃労働のジェンダー分析をより豊かにし、女性のみならず男性をも含んだ包括的な製造業の労働条件改善という長期的な政策課題に寄与できる。
研究の背景(申請時)
1.女性と製造業
1980年代以降急速な経済発展を遂げているタイの製造業は、GDPにおいて約60%を占め、被雇用者数も約16%と、農業の約35%に次ぐ割合を占めている(2003年現在)。こうした中、特に輸出志向型といわれる製造業では、女子労働者が日本の「女工哀史」のような劣悪な環境での低賃金労働に従事しているとして、UNDP(国連開発計画)などの国際機関やタイ政府においても、開発に関する政策的課題として関心が高まっている。
2.「資本に搾取される人間」としての女性
上述のような製造業の女子労働者の状況について、近代化論の中ではこのようなジェンダーギャップは省みられることはなかった。それに対して、ジェンダー研究の立場からはM.ミースなどに見られるような資本主義世界経済における女性労働分析がある。それによると、途上国の製造業を支える新国際分業は、生産コストを限りなく抑制するために必然的に「労働力の女性化」の進展を随伴するものであるという。新国際分業の中で開発途上地域の女性は再生産労働を担うべき主体とされ、再生産労働を抱えた「生産者」として家計補助並みの低賃金での被雇用者になるという。このように、ジェンダー論の分析の中では、女性は「資本に搾取される人間」として捉えられてきた。
3.問題提起
しかし、資本主義世界経済における「資本制」の形態は決して一つではない。一口に「資本制」といっても、例えば伝統的な地場産業や企業あるいは組織形態とどのように結びついたかによって多様性を持つものである(1)から、女性労働を組み込む形態も多様性を持つ。また、「資本に搾取される」女性という視点では、同じような低賃金状態に置かれる男性の分析が不可能となる。
その上で、タイの製造業における業種別男女の月あたり賃金格差をみると、以下の表が示すように必ずしも女性の月あたり賃金が男性より圧倒的に低い状況ではなく、産業間で顕著なギャップが見られることが分かる。このことは、賃金決定に関して、ジェンダーだけでは説明しきれない要因が存在することを示唆しているといえる。
表:製造業業種別月あたり賃金、女性平均/男性平均 (1:対等、1>:男性賃金高、1<:女性賃金高)
製造業業種名 |
1991年 |
1992年 |
1993年 |
1994年(除・国営) |
1995年(除・国営) |
全業種平均 |
0.7425 |
0.7854 |
0.8189 |
0.8036 |
0.8269 |
飲料 |
1.1916 |
1.0146 |
1.1600 |
0.9487 |
1.1657 |
電気機械 |
0.5879 |
0.6002 |
0.6574 |
0.6908 |
0.6518 |
(出所)ILO, 国際労働経済統計年鑑2000より作成
さらに、長期的な雇用問題を射程に入れると、被雇用者の生活の安定は賃金だけで決まるものではない。例えば雇用契約が更新できなければその被雇用者の生活の安定は脅かされることになるし、住宅供給といった福利厚生はその被雇用者の生活の安定を大きく左右するだろう。このような生活の安定を支える様々な要因も視野に入れる必要がある。従って、「女性は低賃金である」という一面的な分析ではなく、業種間格差、ジェンダー以外の要因、賃金以外の福祉に射程を広げる必要がある。
研究目的(申請時)
以上の問題提起を受け、途上国で増加しつつある輸出向け製造業における被雇用者の生活の安定の包括的分析と向上のための政策提言を長期的な研究課題としつつも、今年度はその中でも主要な要素を占める賃金決定におけるジェンダーとそれ以外の要因を分析することに注力する。事例として、タイの製造業の中でも男女の賃金格差が殆どない飲料製造業と、女性の賃金が男性の6割強ほどでしかない電子機器製造業とを比較し、ジェンダーという賃金決定要因と、その視点だけでは不可視化されてしまう他の賃金決定要因との関係を明らかにすることを目的とする。@当該産業の企業形態のあり方、A被雇用者個人の持つ特性(職歴、スキル、学校教育、出身、年齢など)、Bジェンダーという3要因がどのように賃金を決定するか、その説明を試みたい。それにより、従来の賃労働におけるジェンダー分析をより豊かにし、射程外であった男性をも含めた包括的な製造業の労働条件改善への政策的含意を明らかにすることが出来る。
調査内容の予定
1.調査課題・対象者
上記の目的を達成するために、以下のA〜Cに関して、データは@統計データ、A統計データでは押えられない具体的なデータを用い、具体的なデータは現地での聞き取り調査によって収集していく。タイ政府の統計データは必ずしもきちんと整備されているとは言えず、量的データを補うためにも聞き取り調査が必要となるからである。
A. 製造業業種の企業形態について
各々の企業がどのような形態であるかを調査することで、各々の労働市場の展開の同質性と異質性を見ることができる。具体的には、以下の項目について、文献調査・工業省のデータと聞き取り調査を平行して行っていく。
・主に文献・工業省データ調査を行う項目
@親会社と下請け会社の間の関係:垂直統合か、水平統合か
A資本所有形態:タイ系資本か、外国系資本か
B雇用規模
・主に聞き取り調査を行う項目(各企業の人事担当者に一人20分ほどのインタビューを予定)
@企業内役職の男女人数比
A企業内賃金体系:年功給体系、職能給体系、職務給体系、業績給体系のいずれの体系であるか、
B昇進制度:女性にも開かれているか
B. 雇用者の雇用方法・基準
雇用者がどのような基準によって採用を決定し、賃金を決定しているのかについて聞き取り調査をする。各企業の採用担当者に一人20分ほどのインタビューを予定している。
@求人の時期:通年採用なのか特定の時に採用するのか
A求人の方法:求人情報の出し方
B採用基準:特に重視している基準、採用の最低基準
C契約年数:何年単位で契約を結ぶのか、契約更新はあるのか、あるのだとすれば更新のための基準はあるのか
C. 被雇用者の持つ特性
雇用者側だけでは事実認識に関する誤差が残る可能性が高いため、その誤差を明らかにし、雇用者は把握していない被雇用者の特性を詳細に探るために行う。両業種の被雇用者(男女共)に以下のような聞き取り調査を行う。対象者は、各企業において職位ごとに男女共3名ずつ、一人30分ほどのインタビューを考えている。
@基礎情報:性別、教育レベル、年齢、出身、職歴、当該企業での雇用年数など
A求人情報をどこで手に入れたか:広告のようなもので知ったのか、知人からの情報に頼っているのか
B採用時のインタビュー内容
C受け取り賃金:現在の賃金、昇給の有無
D昇進経験:昇進回数、どれだけ勤務してどう昇進したか
E再生産労働への従事の程度:家庭内における家事、子育てなどの再生産労働への参加の具合
Aによって、企業形態とジェンダーの関係を把握する。ジェンダーと昇進制度(男女の差があるかないか)・賃金体系(賃金支払いの際に何を重視しているか)が産業別の格差の基礎になるだろう。BとCによって、被雇用者が持つ共通する要素とそうではない要素を特定することで、いかなる個人的特性があるときに被雇用者がジェンダーという要因以上の賃金決定要因に左右されるかを特定することが出来る。
2.調査対象地
ランプーン県ムアン郡バーンクラーン区、北部工業団地(NRIE)
NRIEは、バンコク一極集中の緩和のためにタイ政府が打ち出している地方中核経済圏構想の重要な拠点である。NRIEには比較すべき2つの業種があり、調査の対象として最適である。NRIEで展開するタイ系資本、外国系資本企業をそれぞれ2企業ずつ、4企業調査する。具体的な調査者は上記のとおりである。
実際に行った調査
夏期休暇と冬期休暇を用い、タイ北部に調査に伺った。
調査日時/対象地/対象者
・第一回予備調査:2004年8月16日〜9月21日
対象地:タイ国ランプーン県ムアン郡M行政区第8村(L村)[1]
対象者:村住民16名(男性11名、女性7名)[2]
・第二回現地調査:2004年12月22日〜2005年1月9日
対象地:@タイ国ランプーン県ムアン郡M行政区第8村(L村)
ANRIE内の宝飾系の外資(イスラエル)工場
対象者:@住民新規追加対象者12名(男性5名、女性7名)[3]
A企業内アドミニストレーション部、女性ISOマネージャー(HR経験有)
調査内容
@第一回予備調査
NRIE内の企業からインタビュー許可が下りなかったため、L村住民から具体的な労働条件などを伺うことにした。
L村住民への調査項目としては、個人の基礎情報を中心に聞き取りを行った。項目は、収入(労働条件などを含む)、家族構成、毎日の生活のしかた、学歴、職歴、当時のその選択の理由(進学、就職に関して)などである。
A第二回調査
NRIE内の企業1社からインタビュー許可がおりたため、その会社自身とNRIE内の企業全般に関して、被雇用者の特性(学歴・住まいなど)とその歴史的変遷、賃金体系、福利厚生、仕事の内容、採用戦略などを伺った。
L村の住民(特に若い人中心)には、予備調査の際に入手したデータを基に、より詳細なライフヒストリーの聞き取りを行った。また、新たに12名の方にお話を伺った。
調査地概要:M行政区L村
M行政区はチェンマイ市内からスーパーハイウェイを南下して約40分のところにある。NRIEへは車で約10分、NRIEに勤めるL村の方はほとんどバイクで通勤している。
M行政区は全部で10の村から構成されており、それぞれの村に村長(プーヤイバーン)及び村長の互選による区長(ガムナン)が置かれている。特徴としては、村ごとに土地利用が顕著に異なる点である。農業用地が全体の土地利用の半分以下である区が二つ(第3区と4区)[4]あり、そこはNRIEに勤める人のためのドミトリーや商店・洗濯屋などが多くあり、町のような様子である。田んぼをやっている村は第6村のみである。L村はM区でもっとも農業用地が多く、8割が農業用地である。L村の主な農産物として、昔は米、大豆、ピーナツがあったが、ラムヤイが来てから[5]は殆どラムヤイ畑に変わった。 今はラムヤイの他にしいたけ、にんにく、チリ、野菜が作られており、有機肥料の製造も行われている。
M区全体の詳細な人口統計は以下の通り。合計14151名(男性6577名、女性7534名
18歳以上人口10530名)、世帯数5273世帯で、流入者は4000名[6]である。L村は合計1376名(男性620名、女性756名)、うち農業人口はラムヤイ189名野菜120名[7]、世帯数は439世帯となっている[8]。
考察−研究の方向性の転換
1.企業内の労働環境・労働条件と被雇用者の反応
実際にインタビューの許可が取れた工場が1社のみであったため、L村の方々が働いている企業の実際の労働環境についての話も交えて記述する。
第一回の予備調査の段階で、L村においてNRIEの様々な業種に勤める方々の話を聞くうちに分かったことは、一般のアセンブリーラインで働く被雇用者(ワーカー)は、業種(電気機械系、宝飾系、食品系)に関係なく、そして男女も学歴も関係なく、政府の定める最低賃金(一日138バーツ、宝飾系企業女性ISOマネージャーの話によると2005年は141バーツ)で働いているということである。つまり、男女の賃金格差は事務系のポジションでの違いということになると考えられる。しかし、宝飾系外資企業では、HR部門のほとんどは女性で、機械での作業をする人間は男性というすみわけはできているが両者での給料の格差はないというのが女性マネージャーの言である。ワーカーに関しては、企業側としては賃金を安くできるからというよりは、管理しやすく真面目に働いてくれるから女性が欲しく、そのため女性ワーカーの争奪戦が繰り広げられているという。また、L村の方々に、男女の賃金格差について伺ってみると、ほとんどの方は賃金格差があるとは思っていないし、雇用機会が不均等で問題だとも感じていないことが分かった。
また、NRIEで働くということは、かなりの高所得になるということも分かった。実際は最低賃金+OT(時間外就業)分が支給され、OTの時給は平日で1.5倍、休日は2倍ほどである。また、福利厚生もきちんと整えられており、政府の定める保険や退職金にあたる制度もしっかり運用されていた。その他、一ヶ月皆勤したら出る特別ボーナスや勤める期間によるボーナス、昼食代や交通費も支給されていた。したがって、その他の仕事に比べ、NRIEで働くということは結果的にかなりの高所得になる(月でおよそ10000バーツ、貧困層とされる人々は約4000バーツ程度)。
実際L村在住の現在もNRIEに勤めている方も、労働環境に関して不満はないという方が多かった。ただし、かつてNRIEに勤めていて辞めた方は、給料などよりもむしろ「仕事がつまらない」「自分でビジネスをやりたかった」という理由で仕事を変えていた(女性の場合、健康を害したという意見もあった)。さらに、「NRIEのそばにあるL村」の住民の中でも、工場を積極的に人生設計に入れている人といない人の違いが顕著であった。例えば、私と同じ20代前半の女性は、将来の進路を考える際に「工場で(ワーカーとして)働く」という選択を全く考えていなかったのに対し、20歳前後の男性は工場で(ワーカーとして)働きたいと考えていた。つまり、賃金が高いことばかりが彼ら/彼女らの職業決定要因になるわけではない。また、当然なのだが、工場の傍の農村だからといってみんながみんな工場で働いているわけではないし、働きたいと思っているわけでもない。
2.【個人の生活の安定化】と【「働くこと」の選択】という視点へ
工場で実際に働いている/いた人が特に男女の賃金格差や雇用機会に問題を感じていないということ、NRIEという高水準の所得が得られる労働環境にもかかわらずあっさり辞める人がいるということ、同じ村の中でも様々な人間が工場労働に対し様々な思惑を抱いているということを知るうちに、私は研究の問いを変える必要があると考えるようになった。
なぜなら、私の問いでは現場の生活をうまく切り取れないからであり、さらに「工場労働者」とカテゴライズすることで、工場の傍に住みながらも工場労働をしたくないという選択をしている人間の生活を切り捨ててしまうことになるからである。この点は、今回のフィールドワークがなければ気づけなかった点である。
調査をしながらその反省が日増しに強くなるにつれて、私はL村において工場を積極的に人生設計に入れている人といない人の違いが気になるようになった。例えば、先に述べたような20代前半の女性と20歳前後の男性との「働くこと」の選択肢の想像の仕方/選び方の違いである。そこで、現在「急速な工業化や教育の普及などによって、従来の生活環境が徐々に変化しつつある農村において、個人は、変化する社会環境の何をチャンス(選びうる選択肢)として捉え、人生を組み立てようとしているのか」という観点から、もう一度村人のインタビュー情報の整理を行っている。
最後に、森泰吉郎記念研究振興基金への感謝の言葉を述べて本報告を終えたいと思う。どうもありがとうございました。
[1] 村の名前を出すことへの倫理問題を考慮し、本報告においては伏せることにする。修士論文執筆までにこの問題を解決する。
[2] 年齢分布/男性:20、20、20(21)、23、30、36、42、49、54、56、59
年齢分布/女性:16、20、27、32、41、49、57
※年齢を□で囲ってある方が現在も工場で働いている方々、下線を引いてある方がかつて働いていた方々。注3も同様。
[3] 年齢分布/男性:19、24、27、30−A、36−A
年齢分布/女性:19、23、24、27−A、29、41−A
[4] 以下M行政区に関する数値やデータは、特に断りがない限り「M行政区仏暦2546(2003)年度開発計画書(タイ語資料)」より抜粋している。
[5] あるラムヤイ農家は20年以上前(NRIEが来る前)に変わったと言及している。
[6] 婚姻による流入、労働のための流入を含む。
[7] ラムヤイ専業と、ラムヤイと野菜を兼業している人がいる。
[8] 2004年6月現在、L村村長より聞き取り。