森基金研究成果報告書

政策・メディア研究科 修士課程1年 

Network Community Project所属

80424208 伊藤文

研究課題:「社会的ネットワークが個人の国家意識・問題理解に与える影響」

 

□研究概要□

 

 本研究では、国ではなく市民が主体である団体を媒介として、国政に市民が声を挙げられるシステム・意識の活性化を目指し、現存の活動分析を行う。

社会における種々の問題解決を目的として活動している団体の、活動形態や広報手段などを分析することによって、それが社会へ浸透する可能性を考察するとともに、活動に関わる人々の意識を質的に調査し、活動のネットワークが個人の意識に与える影響も検討したい。

 

2004年度研究成果□

 

研究概要の精緻化

 

〔研究手法〕

  現在、国内外で種々の社会問題解決をテーマとして掲げ、勉強会・意見交換・情報提供・サイト運営などを行っている団体を対象に、活動の内容や普及状況、運 営戦略、影響力、活動上の問題点、参加者の意識形成(または変容)過程を質的に調査する。具体的な活動内容として、対象としている社会問題が火急に個々人 の生活に利害関係を与えないような問題を扱っている団体を調査対象として考えている。

 

〔具体的研究方法〕

  活動のテーマや手法を選定基準として、いくつかの市民団体を選び、その団体の参加者を対象に質的調査を行う。調査内容に関しては、はじめから国家に対する 具体的トピックに絞って質問をすることはせずに、彼らが活動を通して得ている価値観や、社会問題に対するアプローチ方法、ネットワークを通じた他者理解の 方法など、広範な価値観を聞いてみる予定である。それらの質問を通して、活動が個々人の国家観、外部者理解に与える影響を考察したい。さらに、活動形態や 広報戦略も調査項目に加え、現代社会における需要のされ方も研究したい。

 

〔研究の背景〕

     その1: 国家に対する意識の低下と、新たな国家主義の台頭。

     その2: その一方で、全体主義という形に回収されない新しいナショナリズムが、見えてきそうな現状。

 1990年代、日本で話題になった「ナショナリズム議論」に関して、その背景と今後の展望を探ること、それが、本研究の発端である。「新しい歴史教科書をつくる会」に代表される、歴史修正主義の台頭、政治の世界で進展を見せる再軍備の動き、1990年に法制化された日の丸・君が代など、いわば戦後リベラル派を脅かす事柄が次々と誰の目にも見える形で顕在化したのが90年 代であった。このような現象に対して、政治制度的なアプローチや歴史的なアプローチをするだけではなく、国民の意識レベルでの分析を試みることの必要性を 感じ、テーマを設定した。国民一人一人の意識に焦点をあてることで、よりミクロなレベルで現象の社会的背景を分析することができると考えたからである。

  大学生を対象に個々人の意識を分析した卒業論文に続き、本研究では、種々の社会活動に関わる人々の意識を通じ、ネットワークの存在が人々の意識に与える影 響を分析したい。具体的には、社会問題に対する意識の持ち方、他者に対する眼差しの違い、国家に対する意識などを分析対象として考えている。テーマを直接 「ナショナリズム」に限定することはせずに、幅広い対象を設定することで、より広範な範囲での個人の意識について分析することができる。その上で、調査結 果を元に、最終的には、本来の関心であったナショナリズム議論に対する、国民意識の側からの何らかの考察を与えるのが目標である。

 

Research Questions

     種々のネットワーク活動を通すことによって、国家・社会問題理解・他者理解に関する意識は変化するのか。

     個人の問題意識は、個人の利害の範囲を越えることはないのか。また、個人の利害を越える場合、いかにして越えるのか。さらに、国境を越えたそれは、存在するのか。

     ナショナリズムは、生活から乖離したイデオロギーでしかあり得ないのか。

     活動が現在とっている活動形態、広報戦略の実態と、今後の可能性はどのようなものか。またそれは、市民一人一人の関心に沿った形で展開されていると言うことができるか。

 

〔研究テーマの設定〕

     「ナショナリズム」を研究の発端として選ぶ理由

 

1990年 代以降、「ナショナリズム」としてメディアで取り上げられ、議論された事柄は、国旗国歌法や有事法制の制定、新しい歴史教科書をつくる会の教科書、靖国神 社問題、ワールドカップサッカーのサポーターなど、幅広い。これを見ただけでも「ナショナリズム」という言葉の捉えどころのなさがよく分かるのであるが、 概念が広く扱いにくい問題をここであえて選ぶ理由は以下の3点である。

まず、そのテーマが私たちの日常生活からかけ離れているがために、ともすれば国家主導の政治になりやすいこと。これは、1999年に法制化された国旗国歌法の例を見ても分かる。国旗国歌法制化に関して、反対意見を持った人間は少なからずいたのであるが、その法制化は市民に議論する機会を与えない程に急であった。

地 方自治で扱われるような問題に比べ、国家のあり方に関わる上記のようなテーマは、個々人の関心の対象となりにくいことは事実である。そこに議論の余地が含 まれているとしても、解決主体は国家になるのが自然の流れであり、市民一人一人は、意識を持ちにくいのが実情であろう。また、そのようなトピックに対し、 半ば強制的に意識の涵養を目指すことは、逆に画一イデオロギー的になってしまうことも考えられる。このような、いわゆる民主主義の矛盾の一つをどのような 形で解決することができるのか。実際問題、市民一人一人が国家の根本的なあり方に関するテーマに関心を持つというのは、理想に過ぎないのか、そのような点 について考えてみたいと思い、このテーマを設定した。

2点 目に、私たちの生活とかけ離れているという事実の一方で、ナショナリズムは、私たちが暮らす、国家というシステムの根幹に関する問題であること。グローバ ル化が進み、国家を越えた市民活動が広がりを見せる昨今、国家の基本的枠組みであるナショナリズムにこだわることは時代錯誤とも取れるかもしれない。しか し、グローバリゼーションの進展は、私たちが国家に対する意識を軽視してよいということを意味しない。国民国家の持つ暴力性・排他性は、これまでにも多く 指摘されてきた。グローバル化が進み、市民の活動範囲が広がった現在であるからこそ、国家に対する責任を持ち、国家と国家の良好な関係を構築してゆくのは 市民の役割とも言えるのではないだろうか。このような観点からも、ナショナリズムと市民の関係について着目したいと考えた。

3点目は、現代の日本における議論の不足である。先述のように、1990年 代から、いわゆる戦後リベラリズムを脅かす事柄が目立って起こるようになった。それに呼応するように、国内メディアにおいては「ナショナリズム」議論が熱 くなったが、主要な議論を見るかぎり、それは、既存の価値観をなぞるだけのものが多い。その結果、現状分析が甘いだけではなく、有効な将来展望に欠ける論 調になってしまっている。実際の市民の声をもとに現状を分析し直し、さらに市民活動という新しい視点を加えることで、日本の「ナショナリズム」議論に具体 的に展開可能な解決策を提供することがねらいである。市民の活動に着目する具体的理由は、次項で述べたい。

 

     市民活動に着目する理由

 

  現状では、上記の、政治が国家主導になりがちであるという点と同時に、特に、上述のようなテーマに関し、市民一人一人にも、特に若年層において、無関心が 広がっているという問題が考えられる。テーマが身近に捉えにくいだけでなく、積極的に情報収集を行わない限り、私たちが提供される情報は限られており、ま た偏ったものになりがちである。このことは、興味を持ちにくいトピックに対する、さらなる意識離れをもたらしていると考えられる。この問題に対する解決の 一手段として、NGONPOなどの市民活動に着目する理由として、以下の2点を挙げたい。

まず1点 目は、議論の場を、より身近な小集団に置くことで、誰もが参加しやすく、また関心を持ちやすくするという点。現在、行政改革に伴い、地方自治の取り組みと それへの市民の参加度は次第に高まっている。国政に比べ地方政治は身近な問題を扱う上に、進展が手に取って分かりやすいことは、高い参加度の一因であろ う。自らの生活に密着した地方政治と国政とを同じレベルで扱うということは容易でなく、また、フェアでもないが、議論の場を増やすこと、そしてより身近な 問題として捉えられるようにすること自体には意義があると考えられる。授業で先生が取り上げられた日本国憲法を地元の言葉に読みかえる活動などのように、 国家の基本的な部分を、身近に捉える努力を行っている活動は、市民に国に対する関心を提供する重要なツールとなりうるであろう。

2点 目は、一方的な情報提供になりがちなマスメディアや学校現場での教育に比べ、自由な情報の流出入が可能である点。実際に人が集まって行われる活動の他に も、インターネット上での情報交換など、現在はコミュニケーションの手段も多様化している。この様な手段の多様化を有効に活用し、提供側と受容側の相互的 な情報・意見交換、また、一つの視点に囚われない(日本国内の視点だけでなく、各国の視点を取り入れるなど)情報提供のあり方を実践することによって、閉 鎖的な一国主義に陥らない意識の可能性を見出すことができるのではないか。それらの活動を調査することによって、国家と共にアクターになりうる市民団体の 特徴を捉えてみたいと考える。

 

〔本研究で重視したい点〕

  国に対する意識というのは漠然とした概念であり、これから精緻化する必要があるが、単に国旗国歌法など具体的なトピックに特化した分析を行うだけでなく、 さらに広範なネットワーク活動を対象とすることで、ネットワークが人々の意識に与える影響を、より一般的に考察したい。以下は、本研究で特に重視したいと 考えている点である。

 

     これまであまり見られてこなかった、日本で暮らす個人個人の意識。

こ こにこそ、現代日本の国民意識を探る鍵があると思われるため。国政に対して、声を出さない個人は、無視できるのか、という問いに対し、そうではない、とい うことを強調したい。声を出さないことには理由があるはずであり、声を出せない、または出す気にならない理由についても検討が必要である。これを無視し て、住民参加を訴えても、物事の根本的な解決にはならないのではないだろうか。国民国家の規模がここまで大きくなった現代において、市民一人一人が平等に 国家に対する意識を持つというのは、理想論的であり、限界がある、という指摘もある。その指摘がどこまで妥当性のあるものなのか、またあえてそれに反駁を 加えることは不可能なのか、質的なアプローチを通して考えてみたい。

 

     自己完結的ではなく、社会全体に広がるような活動を構築するために必要とされているネットワークの今後の可能性の模索。

以 前の伝統的コミュニティと、現代のネットワークコミュニティの最大の相違点は、外に対する排他性の有無にあると考えられる。外部に対して開かれており、そ の内的凝集性が固くないネットワークコミュニティの性質を最大限に利用することで、「帝国主義的ナショナリズム」や「一国平和主義」と言って忌避されがち な日本のイデオロギーに風穴を開けることができるのではないか。国家という枠組みを維持しつつも、国家を越えたアイデンティティを個人レベルで構築してゆ くことが現代の日本における課題であるように思われる。

先行研究としては、吉田まみ「地域ネットワークの形成方法――『ケアセンター成瀬』の事例を通して」や、松浦さと子『そして、干潟は残った――インターネットとNPO』などの文献が、地域の問題を解決するためにNPOネッ トワークが果たした役割を質的に分析している。ここで見られる、個々人の利害関係が、地域の利害関係に還元され、問題解決に進んでいく過程を、国家という さらに大きなレベルに昇華することができないか、という点が私自身の関心となっている。老人介護や干潟の埋め立てなどの身近な問題に対する意識と、国家と いう大きな枠組みに対する意識を同じレベルで扱うことは難しいが、市民社会という公共的な場に対する意識の高まりという点においては、類似した活動推移 や、参加者の意識も見られるのではないか、と予想している。

 

〔今後の展望〕

  これまでの国内、特にリベラルの側からの研究では、ナショナリズムというテーマに対し、戦争責任との関係の中で、歴史認識やイデオロギーに関する分析を行 うものが多かった。また、現代の日本人の意識としては、「公共性の喪失」「個人主義」などの文脈の中で、歴史や政治に対する無関心、他者への配慮の欠如な どが語られてきたという印象を受ける。

  それに対し、日本のリベラル派の限界として挙げられるのは、その言説それ自体が持つ「イデオロギー性」についてである。小熊・上野や、佐伯啓思、または、 カレル・ヴァン・ウォルフレンが指摘しているように、リベラル派の言説の多くは、既に、一般の市民にとっては、しばしば「体制派」ともみなされるほど、固 定的、観念的、排他的なイデオロギーであるというイメージを負っている。このことの真偽や是非は置くとしても、既存の議論が具体性を欠きがちなのは事実な のではないだろうか。この限界を脱却するために、新たな価値の創造を目指す手法として、佐伯は『国家についての考察』の中で、新保守主義という立場から、 「道徳的コミュニティの重層的な連接体」としての「国家」に対する、個人個人の責任ある意識を挙げている。佐伯は、国家を所与の概念と見ず、またその一方 で、「想像」であり解体可能な構築物とも捉えていない。その点においては、既存の議論を超える可能性を持った議論である。しかし、身近な道徳的コミュニ ティの連接体として、国家が捉えられている点については、さらなる検討が必要であろう。最終的に国家を持ち出すのであれば、結局既存の枠組みから脱却して いない印象を受ける。また、佐伯が、実際にどうやって、国家に「身近」で「道徳的」な責任を抱くようにイメージしているのかという点も、『国家についての 考察』の中では見えてこなかった。

  このような、新保守主義に見られる限界をも克服する形で、既存の国家概念に囚われず、一国内の意識に囚われないような、新しい「国家観」や社会に対する責 任の表明の仕方を探る一助として、本研究を位置付けることが、私自身の目標である。先行研究で見られるような、現在注目されているネットワークの理論を、 ナショナリズム議論の中に取り込み、新しい「ナショナリズム」論を検討したい。「右」や「左」といったイデオロギーが、自分を位置付ける上での重要なイデ オロギーとして機能しなくなった現代において、そもそも国家に対する意識は、いかにして構築されるものなのか、さらに、「トランスナショナル」な意識は、 構築されうるのか。また、それはネットワーク環境の影響を受けているのか。このような事柄を、実際に活動に関わっている人々(または、関わっていない人々 も)の、社会問題、生活、他者に対する意識、また活動戦略を定性的かつ具体的に分析することを通して、最終的に考えてゆきたいと考えている。

 

予備調査の実施

 

予備調査のインタビューから得たキーワード

 

     「情報の共有」

     「活動のネットワーク化」

     「信頼に基づくネットワーク」

     「生活に根ざした活動」

     「他者に対する想像力」

これらのキーワードをまとめ「公共性」という概念で理論化を試みることが今後の課題。

さらに、今年度は、活動を中心的に行っている方々にしかインタビューを行えなかったので、組織の下部で活動を行っている参加者に具体的な話を聞くことによって、研究課題を明らかにしてゆきたい。

 

〔参考文献〕

ウォルフレン,カレル・ヴァン, 大原進訳, 『なぜ日本人は日本を愛せないのか――この不幸な国の行方』, 1998, 毎日新聞社

小熊英二・上野陽子,  『<癒し>のナショナリズム――草の根保守運動の実証研究』, 2003, 慶應義塾大学出版会

佐伯啓思, 『国家に対する考察』, 2001, 飛鳥新社

松浦さと子編,  『そして、干潟は残った――インターネットとNPO』, 1999, リベルタ出版

吉田まみ, 「地域ネットワークの形成方法――『ケアセンター成瀬』の事例を通して」,  1998, 慶応義塾大学大学院政策・メディア研究科 修士論文