森基金報告書2004

 

浅古尚子

政策・メディア研究科修士2年

ネットワーク ガバナンスプログラム

学籍番号 80331047

 

1

研究・活動の概要

 

【テーマ】エコツーリズムの持続可能性と地域アイデンティティの関わり

【当該研究・活動の目的】

 本研究では、マスツーリズムによる自然破壊、地域コミュニティへの負荷等の反省から1980年以降に登場したエコツーリズムを取り上げる。エコツーリズムは「ホスト地域の文化的アイデンティティを損なわず、可能な限り環境の保全に努力するように、地元の人々とゲストとの相互理解に至るような観光形態(CIPRA1984)」とされており、実際の現場では観光客であるゲストと受け入れ側であるホストの間で、地域資源とそれにまつわるイメージが取引されている。 

 これらはホスト側にとって自分たちが生活する広義での環境そのものであり、ごく自然なものであり、本稿では「地域アイデンティティ」と統一して表現していく。この地域アイデンティティは本来流動的に構成されていくものだが、エコツーリズムによってゲストに対しある程度の頻度で取引される中で、その本来の意味が固定化、矮小化されてしまい、ホストに違和感や抵抗感をもたらすことがある。最終的にはこれが引き金となりホストの意欲が減退し、活動が停止するケースも起きていることが、こうした現象は筆者が日本の農山漁村でフィールドワークする中で多々見受けられた。これは地域活性化の意味を込めてエコツーリズムを運営している主体にとっては大きな課題となっている。そこで本研究ではこの現象を「地域アイデンティティのステレオタイプ化によるリスク」と呼び、こうした事態を予防もしくは低減させるための仕組みを検討することを目的とする。

 今回は、ステレオタイプ化のリスクが起きていた沖縄県伊良部町事業Aのケースの追跡調査、援農隊プロジェクトの実施、および沖縄県東村エコツーリズム協会へインターン生として参与観察を行った。

 

【スケジュール】

日付

場所

内容

8月14日(土)

21日(土)

伊良部町

サトウキビ農家のキビ植え作業

事業A関係者への聴き取り調査

8月22日(日)

名護市

「がじゅまる自然学校」大嶺氏インタヴュー

8月23日(月)

名護市

名桜大学 新垣裕治助教授インタビュー

8月24日(火)

東村

「有限会社やんばる自然塾」インターン開始

慶佐次湾マングローブカヤックツアー参加

島袋徳和氏インタビュー

8月25日(水)

有銘にて崎山氏インタヴュー

慶佐次湾マングローブ自然観察ツアー参加

8月26日(木)

島袋徳和氏と意見交換

地域活性化センター堀氏と交流

事務所番

平良にてエイサー交流会

8月27日(金)

川田のガイド仲村盛夫氏インタビュー

エイサー練習

8月28日(土)

ウンケー(お盆のお迎え)墓参り

近所の主婦にインタビュー

エイサー練習

8月29日(日)

事務所番

「あまんだまん」山城氏インタヴュー

8月30日(月)

東村企画観光課 仲嶺真文氏インタヴュー

エイサー本番 (休業)

8月31日(火)

るるぶ「じゃらん」撮影協力

野生生物保護センター見学

メローグリーン高江見学

送別会

9月1日(水)

「やんばる倶楽部」島袋氏インタヴュー

商工会インタビュー

「フォレスト東」比嘉夫妻インタビュー

「やんばる自然塾」月例ミーティング参加

 

 

ステレオタイプ化のリスクが起きてないケースとして

 

 2004年8月23日(月)〜9月1日(水)の10日間、沖縄県北部の東村でエコツーリズムの中核を担う事業社「有限会社やんばる自然塾」にて「エコツーリズムを学ぶインターンの学生」という立場で参与観察を行いながら、行政、その他事業者に対してインタヴュー調査を行った。

 本ケースの特徴は地域住民のエコツーリズムに対する受容度の高さである。地元民への意識調査によると「エコツーリズムに対する認知度」は1999年(平野)の74.7%が2003年(仲村)には13%増加「エコツーリズムに対する意向・態度」は「積極的に参加、協力したい」と答えた人が約11%増加し、18.4%となっている。この4年間で着実に地域社会に受け入れられるようになっていった東村の取り組みの実態を探っていく。

 

●事業概要

 1999年に村内の農業者、漁業者、商工会など村民を会員とした「東村エコツーリズム協会」が行政の支援もあり設立された。以来、国の天然記念物に指定されているマングローブ林や、海、山の資源を活かしたカヤックツアー、トレッキングツアーや、地元の生活を紹介する料理教室などを実施している。現在6事業社、29名が活動。インターンをしたやんばる自然塾では、年間3500名ほどを受け入れている。村には年間26万3千人の観光客が訪れる。

 

●「自分にしかできないこと」への自負

 やんばる自然塾でのインターン初日、筆者も慶佐次川河口のマングローブ林でカヤックを体験した。有銘湾へと流れ込むココア色の川の両岸には、蛸の足のような根を持つマングローブの林が広がり、その間を縫うようにしてパドルを漕いで行く。この日はガイド(22歳男性、今帰仁村出身)と、神奈川から来た家族4人、京都、名古屋から来た女性2人組、そして鹿児島から来た女性1人の計9名で、4艇のカヤックを利用した。最初に全員で自己紹介をし、ツアーに期待することをシェアする。ガイドは自分のあだ名を披露し、気軽に何でも聞いて下さいと雰囲気を和ませた。

 

 やんばる自然塾は2002年に法人化(有限会社)し、現在は7人の常駐スタッフが働いている。1人を除いて全員が東村出身であり、うち5人は25歳以下の若者だ。これは自然塾の創始者である島袋徳和氏の「若者の流出を少しでも食い止めるために、外部の即戦力のガイドは雇わないで、あえて地元の若者を採用して育てる」という方針による。約10日間に渡って彼らと活動を共にして来た。朝8時に集合し、5時に解散するまでの間、多い時はガイドひとりにつき1日24人のゲストを迎え、炎天下の中初めて顔を会わせる人に終始笑顔で干潟の生物の説明や、自分の祖先がしていた遊びを語っている姿は生き生きとしていた。しかし精神的にかなり負担があるのではないだろうか。「確かに、もてなすという意味ではハードだけど、前にやっていた仕事と比べればずっと楽しい」そう語ったのはこの春から正規スタッフとして働く28歳の青年だ。彼は本土の大学を卒業した後、東村の最寄りの都市である名護市で設計師として働いていたが、昼夜逆転のデスクワークに癖々していたという。「もともとここで生まれ育ったし、自分にしかできないことだから、やっぱりいいよね」と笑顔を漏らす。「名護で勤めていた時は、地域のまつりごととかあっても休むわけにはいかないけど、ここは地元のスタッフばかりだからそういう日は休みにできるから気が楽」と生活リズムを崩さず等身大で事業に取り組む姿勢からは別段不満や抵抗感は見受けられなかった。この背景には経済的収益や、ゲストとの関係構築についてなど様々な要因があることは確かだ。しかし、発足以来5年間もの間事業が継続し、現在も一定の集客数を集め、離脱するスタッフがいないことから、地域アイデンティティのステレオタイプ化はある程度起きていても、それに対する飽きや抵抗感は生まれていないことがわかる。ツアーで扱うマングローブ林、そしてゲストに語るうちなーぐち(沖縄弁)混じりの「普段の自分の生活」を肯定的に受け入れ、楽しんでいる様子である。では、こうした状況がいかにして成立しているかを、地域の背景を踏まえながらみていきたい。

 

 

地域背景

1、数字で読み解く東村、行政の方針

 ここでは、地域の歴史的位置づけ、統計的データにみる現況など地域の背景をおさえる。

表:東村の統計 出所:東洋経済新報社 都市データパック2004地域経済総覧2005

面積

81.79km2

0-14

14.7%

1次産業

47.7%

人口密度

24/km2

15-24

11.5%

2次産業

18.8%

世帯

803世帯

25-64

48.2%

3次産業

33.5%

人口

1,962

65-

25.6%

 

人口増加率

-0.15%

 

 

●「やんばる」地域とは

 東村は、国頭村、大宜味村と併せて「やんばる3村」と呼ばれている。「やんばる(山原)」という言葉は、「山々が連なり、森が広がる地域」を意味し、沖縄北部を示すといわれている。アクセスは本島にありながら不便で、大宜味村まわりで那覇から2時間を要する。歴史的には小琉球時代より近世にかけて、「原始的な」「非文化的な」「政治・経済の中心から隔絶された」地域として位置づけられ、やんばる人として同地域に住む人々は婚姻の際にマイナスの要因を背負ってきたとされている。戦後は資源開発の対象地域、都市の過剰人口を吸収できる地域としての位置づけが生まれた[1]。一方で、同地域がもつ豊かな自然に対する肯定的評価が芽生えたのもこの時代であるとされている。近年、自然そのものの価値認識が高まり、保護対象地域としての側面が現れてきた反面、雇用不足と過疎の進行から開発が必要な地域であるとされ、相反する方向性が顕在化した。1995年に開通した大国林道建設の是非や、基地施設の受け入れ問題に関わる議論が活発になされている一方で、世界的にも貴重な動植物の生息地としてやんばるの自然的価値が大きく高まって来ている。こうした中で、東村にエコツーリズムが導入されていった。

 

●人口推移と特徴

 東村の人口は1923年の村誕生以来3、000人台を維持していたが、1950年の3,481人をピークに減少を続け、過疎化に歯止めはかかっていない[2]。行政はその対応として、総合計画の具体化や過疎地域活性化計画をはじめとした活性化政策を総合的に推進していくことで就業機会の創出を図り、若年層の定着を促進していくとしている[3]

 総人口に占める65歳以上の人口が23.6%(1998年)と高齢化が高く、東村役場は、今後福祉や医療の充実を図りながら生涯学習などの振興を図り、高齢者が生きがいをもてる地域環境の創出を目指している[4]

 

●産業構造の推移と村民所得

 東村における就業者数は、1970年から現在までの約30年間はほぼ1,000人程度で推移してきたが、現在では約5%減少している。また産業間での労働人口の移動については、1975年に一時的に第一次産業から第二次産業への流入がみられる。その後、第一次産業は1985年の600人をピークに減少しており、第二次産業は1990年まで減少傾向にあったものの1995年には増加している。サービス業を中心とする第三次産業では、この30年間ほとんど就業数に変化はみられない[5]

 東村は山林資源に恵まれ、第二次世界大戦前の経済活動の中心は林業であったが、燃料が石炭から石油に変わった1950年頃を境に山地開発が進められ、丘陵台地への耕地拡大によってパインとさとうきび栽培が著しく伸びた。現在は生食用パインを中心として県全体の1/3のパインを生産しているが、近年の農作物輸入自由化の流れの中でその生産額は激しい減少傾向にある。全就業者数のほぼ半数を占める農業は東村の基幹産業として重要な役割をもつことから「交流型農村1.5次産業」を進め、第一次産業を基盤としながら観光を取り入れる方向性が模索されている。

 また、1人あたりの村民所得は沖縄県全体平均の約217万に対し177万と大きな格差を抱えている[6]。村民アンケート[7]によると、企業誘致による大型雇用を求める声が約40%、あくまで農業地域としての発展と交流による活性化への要望が約60%となっており、今後は農業の振興を補完する産業の育成が課題となっている。

 

●自然環境についての課題

 自然環境に関し、平成8年3月に刊行された『第3次東村総合計画基本構想』では、村内の農地はほとんどが山地の傾斜地であるため、赤土等が流出しやすく、そのことによる川や海の汚染を防止することが緊急かつ重要な課題とされている。村民アンケートによると、森林資源の利用について開発(約15%)よりも自然と調和した有効利用を求める声が79%と高くなっている。これは米軍演習林による森林破壊や赤土流出、辺野古沖の基地移転計画などこれまでの開発による生活環境への影響を踏まえてのことだと予測される。

 

●東村の財政状況

 東村の歳入合計は約21.2%の自主財源で、残りの約78.8%は依存財源によって構成されている[8]。財政指標の推移をみると、自主財源の割合が年々減少し、地方交付税や公庫支出金などの依存税源の割合が増してきていることがわかる。また、演習林保有などの不利な条件を補うための北部振興基金など例外的な助成金も多く、比較的優遇された位置にあるといえる。

 

2、行政上のエコツーリズムの位置づけ

 

●東村役場

 「第三次東村総合計画基本構想」は平成8年度を初年度として平成17年度を最終目標年次として策定されている。この計画では、前述した課題に対する対応として「交流型農村」を目指した事業を打ち出している。中でも「慶佐次ヒルギ林周辺公園整備」「村民の森長期整備構想」など、エコツーリズム事業者がメインで利用するフィールドの整備が既に行われた。また、対米請求権による予算を利用して東村人材育成事業を実施した。1995年に東村エコツーリズム協会が設立された後、現在は商工会議所内に協会の事務窓口を設置し、1名の女性職員が「旅の案内人(内閣府補助)」として任務にあたっている。

 

●沖縄県、環境庁

 環境庁はやんばるの自然環境保全計画の調査を実施した折にエコツーリズムに言及している。これは平成14年度末を目処に、米軍北部訓練場の大半の返還が合意されている状況に鑑みて行われた調査である。また、広域移動型エコツーリズム調査も沖縄開発庁と共に実施し、エコツーリズムフィールド整備の基本となる情報を整理した。

 

 

事例検証

 

1、地域のエコツーリズム関係者(東村エコツーリズム協会と地域外の事業者)

 東村の資源を利用して直接エコツーリズムに携わる業者は、地域出身者で構成される団体・個人が6事業者、地域外から利用する事業者が3件ほどある(図5−4参照)。そのうち設立以前から慶佐次マングローブ林を利用して修学旅行生を受け入れ、地元事業者のロールモデルとなっていたホールアース自然学校は、環境負担金制度を自主設定しゲストひとりの利用につき200円を慶佐次区に支払っている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


図:東村のエコツーリズム関係者(筆者作成)

 

2、導入のプロセス

表:東村における「エコツーリズム」の変遷(筆者作成)

段階

 

出来事

第一段階

1996-1999

萌芽期

慶佐次区長(W氏)と有志による「夢づくり21委員会」発足

役場が村内6地区に地域活性化委員会をおく

役場でカヌー購入

第二段階

1999-2003

発展期

東村人材育成事業ワークショップ

W氏によるカヌー購入民間事業者第一号「やんばる自然塾」創業

東村ツーリズム協会発足

第三段階

2003-現在)

安定期

やんばる自然塾法人化

スタッフ独立 2事業者増える

 

<第一段階 萌芽期「慶佐次21夢づくり委員会」>

●地域リーダーの取り組み

 平成7年当時、慶佐次区長をしていたW氏と有志が「夢づくり21委員会」を発足させた。W氏は慶佐次区出身だが、観光の専門学校を卒業後、県内で12年間旅行代理店に勤め、その後ホテルに3年勤めた。しかし長男だったこともあり「地元で花木をする仲間が増えたので、足を洗って農業でもしようか」と考えUターンをする。以来「やんばるは都市と比較してあまりにも過疎化とか、交通の便が悪いとか、悪い面だけ強調されていたけれども、やんばるにはやんばるの良い所がたくさんあるのだ」という思いを強くし「自分なりの地域おこしの考えをもつようになった」という。折しも1995年、バブル崩壊の時期で既存の観光産業が打撃を受ける中、順番制になっていた区長の役が廻ってきたのを契機に「発想が前向きで、やろうと決めたらその方法をきちんと考えられる人」6、7人を地域住民から集め、様々な考えをビジョンとしてまとめる形で作業をしてきた。この時点ではまだ「エコツーリズム」という言葉は出てこなかったが、慶佐次のマングローブなど自然を活かした形で地域おこしをしていきたいという思いは共有できていた。

 ここでの特徴は、本土の研究グループの力を借りたワークショップ[9]を数回にわたり行ったことだ。これによってW氏は「カルチャーショックを受けた。地域にない人材をいかに入れるかということを考えるようになった。頭はむこう(本土のグループ)の方が切れているし、しがらみもない」と外部の人材に対する価値を見いだすようになり「後は、どこに地域の主導権を残せるかということ」という考えに至った。

 

●ホールアース自然学校によるマングローブツアーの実施

 時を同じくして、静岡県の富士山麓を拠点に1982年から活動していたホールアース自然学校が、旅行代理店からの依頼によって沖縄での修学旅行プログラムづくりを始めた。1999年には慶佐次のマングローブをフィールドと定め、当時区長であったW氏と交渉しツアーを実施した。その際に出きたのが「環境負担金制度」である。これは、地域の自然資源を「お借りするお礼」としてゲストひとりにつき200円分を地元に還元する仕組みである。現在ホールアースの沖縄での受け入れ人数は年間5、000人に達するので、約100万円程度がフィールドに還元される。しかし、沖縄分校のU氏は、お金の用途に関し地域との協定が結ばれているわけではないことが難点だと指摘している。ともあれ、この負担金制度は今も東村ツーリズム協会の事業者に継承されている。

 こうして、村外の事業者が修学旅行の受け入れを中心に成功している姿を目の当たりにしたW氏たちは、エコツーリズムがビジネスとして成り立つことに確信を持つようになっていく。

 

●役場が総合計画基本構想で着目

 一方東村では、平成6年度に「企画観光課のF課長の熱意もあって」役場が試しにカヌーを6艇購入した。続く平成8年には『第3次東村総合計画基本構想』において農業と並行して「自然との共生」「都市との交流促進」を掲げた。同年慶佐次地区を含む村内6地区すべてに地域活性化委員会をおいて地域マップづくりを行い交流拠点施設の整備に乗り出した。同年商工会も観光開発委員会を立ち上げ、新しい「交流事業」に対し支援の姿勢をみせた。

<第二段階 発展期「東村エコツーリズム協会発足」>

●行政による人材育成事業

 そこで、東村は平成11年度沖縄県対米請求権地域振興助成事業を利用し、エコツーリズムガイドの育成を始める。ここで指導に当たったのが、ホールアース自然学校のU氏等である。現在エコツーリズムのガイドを専業とするE夫人(47歳)は当時を振り返ってこう語る。

 

「最初は『商工会や役場さんがその後のケアーも全てヘルプしてくれる』という思い込みがあって『研修も行かしてくれるし、お客さんもとってくれるし』と参加していた皆が思っていたんだけれど、最後に『さあ自動車で言えば免許証は本免まであげましたから、あとは自分の運転次第でやってください』と言われた時に、みんな『は?!うそでしょう、どうすんのどうすんの』となって、年配の方はやめてしまったりして。ゆっくりゆっくり育ててくれて、ある時期になったらお客さんを連れて来てくれて、という感じかと思っていたのに。東村もガイド養成して、役場のスタートも同時で、他にエコツー協会の前例もないし、ほんとに順番が同時だったの」

 

 この時参加していたのは、現在はガイドとして活躍するJ氏、W氏ら14名。役場も、民間も、協会もスタートが同時であったことが、初期のガイド同士の絆を後々に深めることになる。

 

 この時点で既に、W氏は自ら三艇のカヌーを購入し、「やんばる自然塾」と銘打って体験ツアーの受け入れをはじめていた。そこで、E夫人と夫のE氏のふたりは新米ガイドとして参加し「ガイドの練習をしながら、生活もさせてもらった」という。しかし自然塾の初年度の収益は150万、前年までの農業によるW氏の収入の10分の1に落ち込んでしまった。しかしW氏は「癒し系産業のニーズはあると確信していたし、修学旅行というマーケットも存在することがわかっていた」ため諦めなかった。

 

●東村エコツーリズム協会発足

 第一期のガイド養成が終わると、東村エコツーリズム協会が設立された。協会の理事には役場の経済課長、企画観光課長が名を連ねることになるが、当初は役場から「時期尚早ではないか」と反対があった。しかしW氏をはじめとする民間事業体と今後の方向性は「交流型農村の実現」という意味で一致していたので、最終的には納得し発足に至った。初代会長には地域内で利害関係がない[10]という理由で村当時ホールアース自然学校沖縄事務局の代表をしていた本土出身者が就任した。

 ガイド養成講座を受けていた全員がエコツーリズムについて駆け出しであったため、協会内で毎月23日に「エコツアーの日」と決め様々なノウハウをシェアして行った。初期に協会のコーディネーターとして着任したのは名護でエコツアーを実施している本土出身のG氏だった。E夫人さんは、この時のG氏が持つ「外からの視点」が重要だったと振り返る。

 

「彼らの視点からみれば、私たちが見慣れたものも驚き発見が一杯で、私が『ここでお金払う人いるの?!』と驚いた所が今人気スポットですからね。彼らをそういうところ連れて行くと、アダンの葉っぱをとってハブのおもちゃを作ったり、砂浜でネイチャーゲーム[11]をやったの。漂流物で顔をつくって自己紹介をしたり、シートレイルをしたりしましたよ」

 

 初期ガイド養成講座修了者は、外からの視点や新しい遊び方の習得など、周囲の自然に対する思いを新たにし、「やんばる自然塾」を核にして成長した。同時に協会の場を利用してノウハウを共有した。これに伴い、ゲストの受け入れ数も着実に拡大していく(平成10年約1万6000人から、平成12年には約7万5000人へ[12])。

 

<第三段階 安定期「やんばる自然塾からの独立」>

●新たな事業者の誕生

 「東村では、エコツーリズムで食べて行けるらしい」この噂を聞きつけた村出身の若者が、村に帰ってくるようになる。2001年、L氏(当時25歳男性)は東京の仕事を辞め慶佐次で飲食店の経営と、子供の頃からの遊び場だったマングローブツアー始める。また、同じような噂を聞きつけた者たちが、「やんばる自然塾」のガイドとして働き始めるようになる。

 そして2003年7月、スタッフが8人にふくらんでいた「自然塾」は有限会社として独立することになる。この意図をW氏は「法人にすると経理をはじめとして経営を透明にしないといけないから、他の事業者や地域の人に信頼されやすいから」だという。また「親戚や子供がスタッフにいる場合に、代表の考えをしっかり伝達しないとダメなのだけど、個人で取り組んでいた場合それがうまく行き届かないところがあった」点も、「これを機会に指揮系統をはっきりさせる」ことで克服できたという。

 しかし、法人化に伴い思惑が異なったスタッフは、それぞれ独立して事業を開始した。ひとりはW氏の従兄弟であるD氏、もう一方はそれ以前からほぼ独立していたE夫妻である。そして自然塾は新たに地元から3名の若者を採用することになった。3名のうち2名は血縁関係者である。「最初にガイドの話を持ちかけても誰もやらなかった」ことを考えると、ここでも血縁や地縁関係が重要な基盤となっていることがわかる。しかし、そこに甘えずに法人化によって「全く客観的に経営をみている」という。そして現在、初年度の収益150万の40倍、6、000万円の収益をあげるまでになった。

 

●修学旅行の受け入れ拡大

 そして現在、「自然塾」では年間3、500人の受け入れを行っている。その内訳の60%が修学旅行生である。修学旅行生を受け入れるメリットは、安定した収入が期待できる(前年までに予約が入るため)ことと、体験学習した子供たちのリピート率が高いこと(親同伴などで再訪)が挙げられるが、デメリットとしては通常8人に1名でガイドをつけるところを、20名に1名という対応になり、安全管理とガイドのサービスが手薄になる問題がある。そして一度に最高20艇までカヤックを出すため、マングローブ林の破壊につながるのではないかという指摘がなされている。また、全ての事業者が修学旅行の受け入れを同時期にした場合の自然保全状況も懸念が残り、近い将来に人数制限や時間帯制限などのルールづくりが求められている。今後は、ある程度の雇用と地域の活気の好循環を維持するための限界採算点はどこにあるのかを検討し、修学旅行受け入れ制限のルールづくりが必要だろう。

 W氏は「地域活性化、つまり雇用を生み出す意味で、修学旅行はマスツーリズムに陥らないギリギリの手段だった」という。修学旅行であれば学校の環境教育の方針に訴え、人数や内容などをホスト側が操作できる可能性が大きい。よって大手旅行代理店と専従の契約をすることは避けつつ、受け入れを行ってきた。これはW氏自身が観光業界にいたこともあり、代理店は基本的に「利益を追求するためにしか来ない」ことを理解していたため、エコツーリズムと呼べる状態を保つため「(人数や頻度などを)縛られ」ないようにするためである。

 

 

●ツーリズム協会の活動停滞

 各事業者同士順調にゲストの受け入れ数を延ばす中、ツーリズム協会の活動は停滞気味である。かつての「エコツアーの日」は無くなり、自然保全状況管理のためのマングローブ林の定点観察も行われていない。この要因としては現在の会長が「やんばる自然塾」のスタッフであるV氏と、副会長が「フォレスト東」のE氏であることから、事業が忙しく手が回らないということが考えられる。また、各自が自信をもったためこうした場の必要がなくなったとも考えられる。しかし「ネタばらしになる」という考えや、事業者に対し事業者が直接意見を言うことが「干渉になるのでは」という考えからくる協会を利用する抵抗感がみてとれることから、事業者同士が互いを「ライバル」と考え、少なからず競争心が芽生えている。修学旅行規制、外部参入者規制に関して様々な意見を集約し、合意形成が必要な今、この停滞は大きな課題である。

 以上、地元のキーパーソンが行政と方向性を同じくし、協力を得ながら外部の視点を利用しつつ、「エコツーリズム」という活動を展開する基盤の整備と発展を同時に達成するプロセスと、現状を辿ってきた。次に、こうしたプロセスに事業を担う個々人はどのような現実認識で参画してきたのかを検討する。

 

3、「エコツーリズム」という選択

 

●取り組みへの意欲、動機

 各事業者のエコツーリズムに取り組む思惑は異なっている。はじめから地域社会の活性化を強く意識している人もいれば、収入源として、余暇として、生き甲斐として、様々な意味を見いだして参画している。ここでは、個人の当時の生活認識と「エコツーリズム」という選択肢が密接に関連しており、これが活動を持続させるに至る要因を探る。

 

「地域おこし」こそが必要である

 W氏の場合、自身のバックグランウンドである観光を踏まえつつ、「区長」という立場で「地域で話されていたこと」「地域の中でこうした方が良いということ」をまとめ、「生活空間として活気のある地区をつくって行きたい」という思いが強かったようだ。その過程で、自然を保全し活かす観光産業の育成という方向性が見え、タイムリーにノウハウと確信を提供してくれたのがホールアース自然学校であった。彼の発言の端々には「地域の主体性」という言葉が出てくるが、これは観光産業に関し、人材・情報の量と質という点で外部(都会の人)に地域が劣る傾向にあると体験的に学習してきたからである。よって「どのように他所と連携していくか、どう知恵を取り入れるか」ばかりを考えていたという。また、彼が成果として主張するものは主に2点あり、ひとつは行政との密な連携(民間がリードしてきた)という事実であり、もう一方は地域の雇用、経済効果が生まれたことである。このことからW氏のいう「主体性」とは換言すれば、これまではトップダウンでしかありえなかった行政政策に対し、地元民が協働・リードするまでに力をつけているということと、第一次産業、第二次産業(公共事業)中心の生活から、村民自ら市場にアクセスしてビジネスを起こせるほど力をつけている、という事実に他ならないのではないか。

 この「主体性」を実現させる手段として、「エコツーリズム」を導入したといえる。また、こうしたキーパーソンが存在したことで、後に続く血縁・地縁関係者が生活に密着した個人的な動機でエコツーリズムを選択することが可能になったといえる。

 

「家族を大切にできる仕事がしたかった」

 一方、E夫妻の認識は角度が違っている。E氏(42歳男性)は元々JAに勤めていたが、名護市で金融担当になってから帰宅も遅くなり、子供との距離が生まれたうえに体を壊してしまった。そんな折、元々JAの理事であったW氏を見知っていた繁正さんは、土日だけガイドの手伝いをするようになった。これがきっかけでJAを辞職。E夫人が東村のエコツーリズム人材養成講座に参加し、大学時代のワンダーフォーゲル部の経験を活かして山と川を中心としたガイド活動を始めた矢先のことだった。そして自然塾が法人化する際にふたりで独立し「フォレスト東」を立ち上げた。では、JA職員からガイドという転身に戸惑いは無かったのだろうか。

 

「つらい思いは一度もしたことないの。多分今やっている人はすべてそうよ。やろうと思えばみんな副業でできるから。私たちの場合はたまたま彼が仕事やめただけで。自然塾さんはガイドをしながら生活もさせるという形だったので、必死になるんですよ、お金もらっているのにお客さんに変な説明できないと思って」

 

 E夫人は、自分たち家族の生活を考えた時、ガイド業が収入源としてもライフスタイルとしても最適だと確信していた。この二重の意味を込めて、無心でガイドの腕を上げようと邁進する様子が窺える。「自然塾」での手伝いは厳しかったが、やる気がそがれることはなかった。

 

「これでWさんがお金だけとってやっていったら続かないですよね。こんな未熟な私がいいの?!て。普通の人が8時間以上働いて得るところを半日で稼いでしまいますからね」

 W氏は中間マージンをとらずガイドに賃金を渡していた。これは自然塾を通じて昼食や物品の注文があった際も同じである。マージンはとらず、地域にできる限り経済的にも還流させることを心掛けていた。W氏はマージンをとらない理由を、地域住民の反発を防ぐためと、ガイドを村内で育成するためだと説明する。

 

「地域でやっていく仕組みづくりのため、よそからガイドを調達するつもりはなかったから。ガイドをやって稼げることを証明しながら育成するしかなかった」

 

「お弁当を頼んでも、料理教室をしてもマージンはとらないようにして、電話代の取次ぎ費用で500円だけもらうようにした。ただで取り次ぐのも向こうの負担になってしまうからね」

 

こうした環境の中で、E夫人をはじめとする地域住民からガイドが育って行った。

 

「頂いたお金というのは、自分が成長していく指標ですよね。どれくらいが相場かなんてわからなかったけれど、自分のひとりよがりにならないような、来て下さった方に何かが残るようなものにするために重要なものだと思います。逆に何度も来て下さる方にはサービスできるし」

 

 エコツーリズムは自分たちが食べて行くために必要なツールではあるが、必ずしもお金儲けのためではなく、都会からくるゲストにかりそめの「やんばる」を提供するものでもない。こうした思いはやんばる自然塾に関わる中で深まって行った。収入源以外の目に見える成果が彼らに自信を持たせていったのだ。

 

「東村がテレビやメディアに出るので子供たちが元気になりました。(私たちガイドが)子供を総合学習の時間に山にいったり海に連れて行ったりしますが、(子供たちの)反応が違いますよね、それまでは他所から偉い人を連れて来て話をしてもらっていたので、あまりフィールドは知らないけど環境問題を話すという形ですが、私たちは昔の自分が遊んだ場所に連れて行って、『ケガしたらこれ使ってよー』とか言いますから子供たち自身が『あ、自分の住んでいるところに教えてくれる達人が一杯いる』と認識して、自分も将来こういうことしたいと思うようになりますよね。エコパークにつとめているお父さんお母さんも多いですし。グリーンツーリズムでも人が外から入ってくるので、人に慣れますよね、今まで『誰、誰』と騒いだのが、誰でも声かけて。よそ者に対する慣れがあるとやっぱり活性化しますよね。閉鎖的だった所がオープンになると、おじい、おばあは元気になりますよね。特に慶佐次は、(共同売店の)机でお弁当食べているおばあなんかいますよね、観光客がくると『(パイナップルを)こんこんとしてごらん、これは美味しいよ』とかやりますからね。今まで身内としか話したことがない人たちが交流の楽しさを覚えるわけね」

 

 ガイドたちの念頭にあるのは、地域が漠然と抱えていた「徐々に人が減って行く中での閉塞感」である。ホスト社会が「よそ者に対する慣れ」によって様々な側面で活気づくことを歓迎している様子がわかる。ツアープログラムはゲストのためだけでも、自分たちのためだけにあるのでもなく、地域社会の子供や老人たちが「元気になる」ために活かして行けることに気づいた。このことは彼らに活動に対する自信を持たせ、今日までの取り組みに正当性を与えている。

 

「収入源が必要だった」

 さらに、D氏(36歳男性)の場合はより現実的な問題としてエコツーリズムを選択している。6年前、那覇での仕事を辞め離婚してUターンをする際にエコツーリズムは「即現金になるという魅力がある」と考え、従兄弟であるW氏の誘いもあり参加した。元々自然も好きで、ボーイスカウトに入っていたため抵抗はなかった。しかし「ゆくゆくカヌーはやめるつもりです。4、5年後には。それが今できないのでカヌーをやっているんです。カヌーはもう現金収入のため」と言い切る。両親の持つ畑を活かし、花木栽培に力を入れるという夢があるからだ。また「こっちに来て右も左もわからない時、仲間ができたという意味でよかった」と東村で生活して行く上で必要な収入、人間関係を得る上で「エコツーリズム」が利用できたと考えている。

 

「子供時代の遊びを仕事にできると思った」

 L氏の場合、東京で仕事をしていたが故郷である東村がエコツーリズムによって「人の出入りが激しくなっている」という噂を耳にし「どうせこちらに引き戻されるつもり(一人っ子のため)」だったことと、「子供時代の遊びで稼げるならばそれ以上の幸せはない」との思いがありUターンをした。「近くに転がっている手漕ぎボートみたいなやつを使って小さい時からマングローブで遊んでいました。今と違って子供社会がありましたからね。マングローブの中に入ってカニを捕ってきたり、海の近くで崖を登って遊んだり、シュノーケリングしながら貝を捕って食べたり。最終的には何かを食べるのが遊びになっていましたね。子供の頃の遊びが一番楽しい遊びですから」Uターン後は自宅で飲食業を開業する傍らでカヌーツアーを行っていたが、予想以上に申込数が多く2003年から本格的に取り組むようになった。では、「子供の頃の遊び」を「仕事」にしてしまうことに違和感はなかったのか。以下のコメントからは、どうしても避けられない「仕事」に対して生じる飽きを低減させる工夫が窺える。彼の場合、異なる環境に身をおき新しい視点を得る努力をしている。

 

「自然に慣れてしまわないこと。これが当たり前になってしまうと、その良さを伝えられなくなってしまうのではないかと思います。気持ちを維持するのが非常に大変なので、僕はあっちこっち全く違う環境に入ってみたり、同じマングローブでも違いをみつけてみたり、探究心というのは常に持つようにしています」

 

「趣味が高じて」

 J氏(57歳男性)の得意分野は山歩きである。本職は花木生産で、3月に村で開催されるつつじ祭りでの販売を目的に14年前から生産を開始した。元々山の花に興味があり、自分の花を売る際に「あっちの山にはこんな花が咲いている」などと紹介をしているうちにツアーガイドを頼まれ、少しずつ知り合いベースでゲストを案内するようになった。「副収入にしたいからというのは最初はなくて、余った時間があるわけさ。私も日曜日は空けてあちこち行きたいと思っていて、そのうちやんばるを紹介したり写真撮影したりしようと思っていたの」と開業の動機を語る。「お金儲けばかりじゃないですよ、自分も山を歩けるし、何回も来てもらった方が色んな話ができますしね、花ばっかり見せるんじゃなくて、やんばるの良さとさ、気持ちの切り替えをしてもらうというのが目的だからさ」結果として現在は収入の5分の1をツアーガイド料が占めるまでになった。

 

 以上から、地域全体を考えた上でエコツーリズムを選択した人、日常生活の延長線上で取り組みはじめた人に二分されることがわかった。特に1)生活に関しての実利的な側面がある(現金収入、地域社会との人間関係)2)生業として地域社会に認められている というふたつの側面が今日までガイド業を継続させるのに関わっていると考えられる。

 

4、ゲストとの関係性

 ではこうしたガイドは、ゲストをどのように位置づけ関係性を持っているのだろうか。インタヴューしたガイド全てが、一定のサービスを提供する「お客様」ではなく、より人間的な付き合いを求めていることがわかった。以下、具体的にみていく。

 

「お客さんお客さん」ではないはず(E夫人)

 

「まあ皆楽しんでやっているからね、純粋な沖縄の人間は趣味半分ガイド半分というかんじで、親戚が周りにいるしね。内地からきた方が一生懸命やっているの比べると、私たちは遊んでいるように見えるかもしれませんねえ。内地の方は『お客さんお客さん』とやっている感じですね。私は自分のホームグラウンドでやっているので『汚すなら帰れよー』といった感じですし」

 

 あくまで自分はガイドである前に地元生活者であり、ゲストの行為によって地元が犠牲になるような妥協はしたくないという意思が伝わってくる。

 

「地域を含めて沖縄の現状はきちっと伝えます。表側だけではなくて。今海岸の埋め立て問題があって、非常に変なことが起きています。『沖縄の経済は3Kと呼ばれているけれど、何かわかりますか?』という質問から始まって。『Kといえば、基地、観光、公共工事ですよね、見た感想はどうですか?基地についてどう思いますか?あと観光の問題はどうですか?工事も一杯見たと思いますけれど、みなさんの地域はどうですか?もしここに住むとなったら皆さんにとって観光はどう思いますか?公共工事がないと失業率があがってしまうという現状があるんです。たとえば今テトラポットを置いて、砂が消えてしまって、白い砂を買って来て入れたりして、流れも変わって思わぬ影響があったりね。赤土はアダンが流出を防いでくれて、珊瑚のおかげて元々白い砂があったのに、すっかり変わってしまって。危ないから護岸を高くしたらまったく海が見えなくなってしまってね。海側に植物が今ないですよね、だから砂が直接集落に入って来てしまって大変な害なんですね』こうした話はしますよ。『最近新聞で見たんですけど、沖縄の都市計画がどんどん拡大になっているそうですよ』とかね」

 

 ゲストと「地域に住むもの」同士として関係を築いていくために、自分たちの置かれている状況を伝え、それに対する意見やゲストの出身地域の状況についての知識を活発に吸収している様子が、以下の意見からわかる。東村が抱える基地の問題もさりげなく話題にするここでの彼女は「地域に詳しい案内人としての地元民」を脱し「“ガイド”を入り口に、地域の生活者として課題を共有しようとするひとりの人間」となっているのではないか。

「『玉辻山からアメリカのゲリラ基地が見えるんですが、そこにハリアパット(水陸両用ヘリ)が来そうなんですよ』と青写真を説明したりします。1980年代にその青写真ができているんですよ。それはヘリ基地反対の方の集会で頂いたんですけれど。こういう話をしないと『なんとなくやんばるは守られている』ということになってしまいますからね。たとえば『普天間基地がなくなるとこっちに影響が出てくるんですよ』ときちんと説明して、『理想郷ではないんだよ』と」

 

では彼女は、なぜこのようなコミュニケーションを行えるようになったのか。

 

「なりゆきですよ。この辺の宣伝をしたいと思って植物や保護の話もしていたら、新聞も書物も読むし、これは沖縄だけの問題じゃないなあと。話がどうしてもトータルになりますね、みなさんよく沖縄のこと知っているので『私はやっぱり知りません』とならないように、自分の思っていることはまとめておかないと。アンケートでも『環境の啓蒙活動をしていますか』と聞きますよ、ここだけで話をしていてもひとつですから。子供たちには難しいので話の中身を変えてね。くる人は県外か県内かですね。たとえば明日は北海道からいらっしゃいますが『そこには原発があるか』とか、その地域のことは全然知らないですから、共通するところ、違う所をおさえておきますよ。私たちが沖縄の環境だけ訴えてもひとりよがりですからね。やっぱりいわれると嬉しいですよ、違うところに言って『沖縄の基地はどうですか、色々影響があって大変でしょう』とか。『よく知っていますね!』となりますよ。そこからまたお互いに会話がひろがりますよね。ただの観光客じゃなくて、そこに住むもの同士としての会話ができるので、また来て下さいますよね」

 

「修学旅行はあまり好きではない」

 また、大人数の受け入れが必須となる修学旅行については、収益のためには受け入れる必要があるが、危険管理が不徹底であるということと、人間関係が希薄であるという意味で抵抗感を覚える人もいる。

 

「修学旅行ガイドの手伝いに行ったんですけど、ちょっと事故があって。やはり不安があったものですから、自分の見れる範囲でやりたいと思ったんです。ケガは大したことはなかったんですけど、落ちた高さが6メートルはあったので、不幸中の幸いでした。前から安全管理は徹底していましたが、大人数になるとガイドの数はやはり足りないかなと。お客様というよりは『友達になる』としてしかみていないので。まあ利益追求だけじゃないですね」(D氏)

 

「修学旅行も受け入れてはいますけど、動きが機械的な感じがしますね。はいこれやって、と時間に追われていて、あまり好きではないですね。本当はある程度生活のためというのはありますし、ひろげていかないと、安定のためにもやらねばならないですが、その点は悩みますよね。ボクはひとりふたりのお客さんでやる方が好きなんです。最高は一日一回80人くらいですよ、それでもうちは少ない方ですよ」(L氏)

 

「一緒に考えて、それでツアーを組む」

 無機質な人間関係を避けるべく、ガイドたちはそれぞれゲストの個性に合わせた時間の過ごし方を考えている。J氏の場合は、ゲストと新たにプログラムを作り出すこともある。

 

「町の人なんだけど、那覇の。毎週くるのよ、二年間は毎週お金つかってくれたの。月に2回ずつは必ず100%よ。(中略)この二年間で一緒に山に入って『今度はこういうところも見たいなあ』って言ってくれて、一緒に考えて、それでツアーを組むとその人がまたお金払って入ってくれるのよ」(J氏)

 

「小さいお子さんがいる時には2週間前に予約して下さいと言っていて、創作しますよ。価格は創作の面では値段のつけようがないので、お客さんとの話し合いで決めますけど、安いんじゃないですかね、自分の趣味も半分ですからね、創作の場合は。これまでも色々やりましたが、海にいってちょっとした仕掛けをつくって、ひとつの生き物の動きを観察して、子供に書かせたりしましたね」(L氏)

 

5、地域住民との関係性

 では、ガイドたちは地域住民とどのような関係性を築いているのだろうか。そしてそれはプログラムや運営にどのように関与しているのだろうか。

 

「細かい意見を一生懸命聞きますよ」(J氏)

 J氏は地域住民が地元を散策する際にガイドとして本領を発揮しつつ、常に自分の未熟さを意識し知識吸収に取り組んでいる。

 

「家庭の主婦グループが多いのだけど、35歳から45歳の間でさ、元々お友達だから自分が案内やっているのを知っていて『今度参加させてー』といってくるわけ。『私と一緒に楽しい話をしながらいいところ見ましょう、今日は時間があるから』って、ツアーが決まっている時に入ってくれるの。お金も決まった料金でもらっているわよ。(中略)『これがエコツーリズムよ』なんて説明はしないけれどもうわかるわけさ。夫人グループ6人くらいで年に何回かね。その人たちが名護のお友達とか連れてくるのよ。『また次のチャンスに時間つくってくる』って言って、本当にくる訳さ。同じところに行くのよ、年間通して変わるから、変わったところの話をするのよ」

 

「彼女たちから新たに知識も入れたりしますよ『こういうの入れたら』と言われたらさ。だってプロよ家庭の主婦は、山の自然にしても植物にしてもなんでもプロ、もうたじたじよ、言葉詰まっちゃって返事できないと『じゃあ次回の課題としてまた返事します』ってちゃんと言わないと、本当適当なこと言えないし、嘘も通じないし」

 

 このように地元の意見を尊重する背景には過去の苦い経験があった。

 

「昔ずばり言われたのさ『山荒らし!』って。現にお客さんが後で(山に)行って(草木を)採るわけよ、そういうの周囲の人もわかっているわけ。だから細かい助言を一生懸命聞きますよ、『パインの話を入れてアピールして頂戴』って言われて、調べて話すとお客さんも喜ぶし、それから山仕事の歴史とか、川田(地区)の歴史とかね」

 

ゲストのセレクション「相手が自然に対して、この活動に対して理解があるのか?」

 J氏の経験は他のガイドにも共通している。限りある資源や地域の治安に対し、ゲストたちがきちんとモラルを有しているかは、地域住民の不安を解消するために重要なことだと考えている。L氏の場合は「出身地(本土か県内か)からみて、自然を壊す人か、壊さない人かを判断」する。J氏の場合は最初の説明の時に「もし採ったら今度からはずします」と驚かす。やんばる自然塾の場合は、環境負担金制度の存在を説明することで保全意識を喚起し、ツアー料金を高めに設定し本当に体験したいという意思のある人のみを受け入れるように工夫をしている。

 

役場と商工会がバックあるから、信じてもらえる(E夫人)

 商工会に協会の事務局があり「村お墨付き」の感覚があるため「しっかり地域を守ってくれている」と考えている地域住民が多いのではないかとE夫人は考える。

 

6、“エコツーリズム”との距離感

 ステレオタイプ化のリスクが起きた事例では、ホストの「エコツーリズム」など外部から流入した発想へ対する咀嚼が不十分であった。東村の場合はどうだろうか。

 

「自分はエコツーリズムをやっているという意識は無い」(D氏)

 

「自分の中ではエコツーリズムをやっているという意識はありません、僕は『体験』をやっていると思います。エコツアーの受け取り方は人それぞれ違うと思いますが、普通自然を見て色々するというもののようですが、僕はエコツアーをする人間もエコじゃないといけないと思うんですよ、かといって僕は環境について関心をもって生活しているわけじゃないですし、本当はガソリン車に乗らないといけないと思うんですが、僕はディーゼル車に乗っています。」

 

 個人の中で「エコツーリズム」検討した結果「体験」と再定義している様子がわかる。一方で地域を美しく維持する事がゲストを招き入れることに繋がることを学び、戦略的に保全活動に取んでいる。

 

「エコに対する意識が上がって行く、ということはありますよ。道のゴミや海岸の荒れているところも掃除したりしましたし、お客さんのためというか、こっちが荒れると観光客も来なくなるし、こうしたことが地域のためになればいいんじゃないかなと思って」

 

「時には食べてみることも大切だと思います」(L氏)

 

「エコツーという言葉はやるまではわからなかったです。エコツーって難しいですよね。僕自身はあまり好きじゃないんですよね、日本のやり方では。自然に配慮といっても、自分のやり方がどこまで正しいかわからないので、『自然体験』ということでやっている感じですね。山の中に入ってみたり、生き物触ってみたり。エコツーでは生き物触ってはダメなんですよね確か。触ってみないと良さはわからないですし。時には食べてみることも大切だと思います。勿論全部無くなるようなことはしませんけど」

 

「自然に対する考えはさほど変わらないと思いますよ。マングローブがあるから色んなものがいて楽しいな、無くなったらやだなという気持ちは小さい時からありますよ。赤土をとめているとか、それがないとダメな理由はわからなかったけれど、言葉は知っていましたよ。大人になってある程度勉強して、子供の頃から生き物のことが好きだったので、何かいればこれはなんだろうと思って調べるし、種類とかそういうのはほとんどこの仕事をする前に習得しているんですね。機能は業界に入って勉強しましたけど」

 

 このように、所与のエコツーリズムのコンセプトと、地域社会で個人が自前に育ててきた認識との間に差を見いだし、納得の行く方法でプログラムを設定していこうとする様子が窺える。こうした背景には、養成講座ややんばる自然塾での経験を通じ、「エコツーリズム」という自然との新しい関わりの意義を検討する余地があったこと、そして独立する上でその意義を更に検討する必要があったことが考えられる。新しい関わりであるがゆえに、その意義を自ら考えざるを得ないのである。

 

「外の環境意識を、受けいれるか受けいれないか」(E夫人)

 

「『受けいれるか受けいれないか』という気持ちの前に『わからない』というのがあるので、わからないぶん素直に受け入れることができたのが今のガイドをしているメンバーだと思います。自分のフィールドですから大切にしたいというのがありましたし、不法投棄のゴミを一生懸命とってトラックで運んだりね」

 

 外から「エコロジー」を押し付けられるというよりゼロから知り、それが「地域住民」として「ガイド」として2重の立場で考えた時、どのような意味があるのかを自前の文脈から熟慮した結果が、前述したE夫人の考える「ありのままのやんばる、沖縄」をゲストに対し知ってもらおうという方向性に繋がっているのではないか。

 

7、事業スタイル、協会のルール、村外の事業者をどうすべきか

 

自分裁量でやりたい (Wさん、Eさん)

 やんばる自然塾では昨年の法人化に伴い、8時出社5時退社、月給制、持ち回り休日制をとっている。しかし、自然塾から独立した2名は共通して「会社に勤めると融通がきかない」「元々会社に入るつもりはなかったので、外部の職員でいいよと、せっかくサラリーマンやめたのにまたサラリーマンになるから。自分の時間だったら3時間でも4時間でも自由ですから」という理由で「お勤め型」運営スタイルから離脱した。しかしシーズン中はやんばる自然塾の修学旅行受け入れの手伝いは行う。こうした個人運営の場合、自分裁量で取り組めるものの、大人数の受け入れは難しい。また、スタッフが血縁関係などを基に増えた場合、取り組む理念の共有や動機づけが追いつかない場合もある。

 

村外のエコツアー業者は排除すべきか

 村外のエコツアー業者が東村のフィールドを利用することに対し、村内のガイドからは2通りの態度が見られた。

 

1)基本的には排除、しかし条件付きで受け入れるべき 

 

「私たちは、自分たちのガイドのイメージを大切にして、責任をもってやりたいですよね。危ない所に連れて行ったり、料金を安くしたりしないようにね」

 

「ここに永住するつもりで、ここの今いるガイドに配慮できる人なら歓迎です。そういう人なら集落の行事にも参加してくれるでしょうし、そうすれば周囲の目も協力してやろうということになるでしょうしね」(E夫人)

 

 実際、本土から移住した若い夫婦がガイド業を始めることに異論はない様子である。ここで重要なのは、自分たちと同じように地域に根を下ろした「生活者」の視点があれば、生活空間としての自然資源を乱用することもなく、地域住民への無作法も起こさないため、地域住民の協力を得ることができ、よりゲストにも地域にも喜ばれるガイドを行えるという自分自身の成功体験が背景にあることだ。問われているのは出自ではない。

 ホールアース自然学校は、当初慶佐次マングローブカヤックツアーを開発し、フィールドとしても利用していたが、地域住民を優先させたいという理由から拠点を名護に移した。当時なされた会話の中には「ここに住んでくれるなら私、土地を貸してもいいわよ、でもね、ただホールアースの一職員で東村のフィールドを使うなら許さないわよ」(J氏)というホスト側の確固たる態度が窺える。

 

2)排除すべきではないが、ルールは必要

 

「外からもくれば(業者が参入すれば)、色々なガイドがいるのでお客さんも選べる」L氏は、自分が東京のコミュニティで受け入れられた経験を織り交ぜて主張するものの、「1日何業者までといったガイドラインをつくらないとダメ」という。競争や差別化が生まれることでゲストに飽きられず長持ちする状況を生むという目的を達成する前に、自然資源が枯渇してしまっては意味がないので、利用規程を決めるべきだと考えているD氏も同様に「ある程度ルールに沿うようなものであればいいのでは」と考える。その上で「東村の業者だけでこのフィールドを使おうというのであれば、それは大きな間違いだと思う」と断言している。双方とも自分たちの生業であるガイド業を存続していくための提案である。

 

 近年Uターンをした2組は「外部から自然利用の条件つきで受け入れ、市場を活性化すべきだ」とするのに対し、元々の住民組は「生活者になるのであれば出自は問わない」としている点が興味深い。これには、元々の住民が長きに渡り堆積している地域の規範の力を「生活者」に対しては発動できることを熟知しており、それがある場合には制裁として、ある場合にはツアーに活かせるコンテンツへと変化する経験があるからではないか。逆に新規Uターン者は、自ら経験したことのある「地域に馴染むための苦労」に対する思い入れもあるが、市場が外に開かれて行くことで競争力の高いプログラムづくりができるのではないかという期待がある。

 

 

考察 

 ステレオタイプ化に対しホスト側に心理的な抵抗が生じていた伊良部町、伊平屋村との違いはどこにあるのだろうか。

 

【役割の固定化に対する効果的な取り組み】

1、ゲストとの“生活者”同士としての関係性づくり

 東村では、ガイドは「地域生活者としての視点」を持ち、その立場をゲストに開いていく。たとえば「やんばるは自然が多く守られている」というイメージを前提に訪れてくるゲストに対して、現実的な米軍演習基地や環境破壊の話題を提供し、意見を求めることで個人と個人の関係に落とし込む。「なるべく自分の考えは押し付けないようにしていますよ。『自分だったら嫌だろうな』と思うので。せっかくきたのにずっと温暖化の話よりは(中略)『こんなに暮らしと結びついてこんなに島の人たちが大切にしてきたんだ』と思う方が『ずさずさと歩いて来てしまって悪かったなあ』となりますよね。だから私がそこに行った時、どんな話をされればそこが好きなるかなと考えて話しますよ(E夫人)」とあるように、相手の立場に立つ話法によって「ガイド」「お客様」の役割を固定化しない、ある意味ステレオタイプ化を永遠に先延ばしにする工夫をしている。

 

2、「既存の生業を切り売りする」のではなく「ガイドという新たな生業を生み出す」

 昔から馴染み深い周囲の自然を「カヤック」や「トレッキング」といった新しい方法で利用するのが東村のエコツーリズムだ。これらの手法は地域住民にとってもガイドにとっても非日常であり、特にガイドはその非日常を生業化するために、知恵を吸収せねばならない。たとえばそれは養成講座であったり、先に取り組む地域内外の事業者からであったり、協会主催の「エコツーリズムの日」にあるような仲間同士の勉強会を通して身につけることができる。よって「既存の生業を切り売りにする」という感覚よりも、「ガイドという新たな生業を生み出す」という意味で、新しい取り組みを行うため自分の日常を再構築する心構えを持ちやすい。外から与えられた「エコツーリズム」の発想についても、どのような位置づけで生業に再文脈化していくのかを真剣に考えざるを得ない状況になる。

 

3、自分裁量で地域と共につくりあげるプログラム

 東村の場合、ガイドが中心となりゴミ清掃などの地域活動を行っている。また、地域住民が提案する内容をプログラムに反映し、毎回ツアーの評価やガイドスタッフ同士の提案会を実施している。こうした地域活動を通じ、若いガイドが老人から地域の歴史、方言の意味など教えられる。たとえば「お客さんに馴染みの場所の名前の意味を聞かれて、『シルヘラシ』っていう亡くなった人を安置する場所が昔あったんだけど、隣のおじいがいうには『体の汁を減らしていく』という意味らしかった。マングローブ林の裏の方の、そこから集落をずっと見下ろせる場所で、死んだら自分も川の土の一部になっていくんだという感覚が生まれた(W氏)」など個人的に地域と自分のつながりを確認しつつ、それをツアープログラムの語りの中に活かしている。こうして枚挙にいとまがないほど多様な入り口で地域住民から情報を得ることで、常にプログラムが更新される状態をつくり出している。結果としてゲストを飽きさせず、住民の不安をも低減することが可能である。

 

4、地域内での信頼づくり

 東村の場合、事業者同士が中間組織である「協会」という場に集まり、萌芽期に「自分たちが犠牲にならないようなあり方」を組み入れて行こうという方向性を確立した。「自分たち」というのは事業者としての個人、そして地域そのものを指す。こうした方向性を正面から考えてくれるゲストと付き合って行こうという姿勢が、環境保全金制度の開示や、ゲストのセレクション行為へと繋がっていることがわかる。

 一方、いくら中間組織があっても、それが役場や自治会など地域内の「権威」から信頼を得られないと地域住民から受け入れられない場合もある。東村の場合、萌芽期に育んだ地域活性化という方向性をガイドが咀嚼し実際の運営に活かしていることに加え、行政にも窓口が設置され、広報活動を支援していることが地域の信頼を得る上で大きい。たとえば沖縄県竹富町西表島にも東村より早くにエコツーリズム協会が設立され、事業者がルールづくりをしていたが、2003年に某外部資本によるリゾートが町長の誘致の下実施されたため、協会と地元住民の間で大規模な抗争が起きた。このような事態を避けるためにも、常日頃から地域から信頼されている行政、公民館といった権威から認められることは重要である。

 

5、キーパーソンの方向付け

 東村では萌芽期に活躍したのは、ほんの一部の住民と理解ある役場職員たちであった。そうした人材は、自ら課題を設定し問題を解決して行こうとしていた。彼らにとってエコツーリズムは自己実現の一貫であり、決して「仕事」ではなかったのだ。

 問題は、後に続こうとする住民が能動的に、再考しながら取り組めるように、どのような環境や目標を与えるべきかという点である。やんばる自然塾のW氏は、新人に対し利益の内実を公開し信頼を高めた。同時に彼らは中間組織を通じて常に同業者や村外の講師と交流し、自ら考える場も得ることができた。E夫人が「私たちはラッキーだった」という表現をする背景には、このようなキーパーソンの方向づけがあった。

 

6、基地問題とのつながり

 エコツーリズムに取り組むことで、ガイドや彼らを取り巻く地域住民に基地問題への関心が芽生えた。実際、ガイドたちは適宜北部訓練場の話題を案内織り交ぜゲストに話し、時には反対活動家に会いに行く。特別に反対運動をしているわけではないが、W氏は「エコツーリズム推進=基地反対という構図に自然となる」のだという。いずれは演習林の後地もエコツーリズムフィールドとして利用し、基地経済から脱却するためにもエコツーリズムを定着させたいと話す。

 現在、東村では福地ダム周辺にハリアパット移設の話があるものの、まだ具体化していない。しかし周辺施設をつくる際に県や国から補助金がおりることが予想されるため、役場が受け入れの方向へ動く可能性があるという。この計画が具体化した時点で、ガイドに留まらず地域住民がどのような態度をとっていくのかは、東村のエコツーリズムが如何に自然保全と地域経済の活性化を継続的に両立できているかに左右されるのではないか。これまでW氏をはじめとするガイドが、地域住民に対して「歯を食いしばってマージンをとらずにふんばった」努力が、当初想定していた雇用創出や自然保全といった成果に留まらず、新たな地域づくり活動へと繋がる予兆が現れている。

 

.ステレオタイプ化の軽減に向けた包括的なシステム「コミュニティビジネス」の原理

 エコツーリズムで扱う資源は「コモンズ」である。つまりこの性質は、1、地域の人たちのアイデンティティに基づくものであり、2、自然資源に関しては限りがある そして 3、これまではローカルコミュニティ内で共有されていたものだ。このコモンズの利活用に関しては過去数世代の記憶を共有していた知恵を利用していた。知恵の中には、今は無くなりかけているものもある。(市場の最適規模を調整する、ルール、サンクションなど)。しかし、そうしたコモンズを扱うにも関わらず、エコツーリズムというゲストを迎え入れるオープンシステムにおいては、以下の課題が起きる。

1)      ゲストによる自然資源のフリーライディング(地域に対する負荷を押さえにくく、そのコストは地域が負担する)が起きる

 

2)文化の切り売りによるホストの意欲の減退(“偽装”することによる、疲れ、抵抗感)=半分失われていた「環境と共生した生活」復活へ向けた配慮がホストを疲れさせる。

 

3)文化の切り売りによるホストとゲストの対象物への飽き。(ゲストの要望に即して“サービス”を追求していくと、均質化が起きて廃れて行ってしまうにも関わらず、迎合してしまう。)

 

こうした課題にどのように対処して行けばいいのだろうか?

 

 3)に関し、既存の観光研究では「均質化問題を避けるためには、観光客が要望するサービスについて洞察を深め、本当に望んでいるサービスを新たに創出する努力が必要であると共に、地域の観光資源の独自性を発揮し、その価値を認識することが重要である」という表現をする。

 しかし、ゲストもホストも関係なく「コミュニティの成員」という立場になれば、「サービスをゲストに向けて創出する」のではなく「相互の関係性の創出」へと変化できるのではないだろうか。つまり、市場の競争の中で常に新規性のある商品を開発するのではなく、ある程度限られたメンバー内で求められるものの創出(域内消費)をすればいいのである。新規参入者への調整、ダンピングの防止なども、このコミュニティのルールによって制裁がなされる。「ホストは単なる好奇の対象である無人格の存在ではなく、人格的交流を相互におこなうパートナー(古川2003)」の状態へとシフトさせていくことで、2)に関する課題も軽減され、1)のフリーライディングも避けられるのではないか。

 

 そこでこうしたコモンズを扱う「相互関係を築くコミュニティ」を持続可能に作って行くために参考になるのがコミュニティビジネスの特徴である。金子は「コミュニティビジネスとは、(ローカル、ないし、テーマ)コミュニティに基盤をおき、社会的な問題を解決するための活動(p.23)とし、その特徴を以下の5点にまとめている。

 

 

1)      ミッション性:コミュニティに貢献するというミッションをもち、その推進を第一の目的とする

2)      非営利追求性:利益最大化を目指していない

3)      継続的成果:(経済的ないし非経済的な)具体的成果を上げ、活動が継続して行われている

4)      自発的参加:活動に参加する人は自発的に参加している

5)      非経済的動機による参加:活動に参加する人の動機は金銭的なものを第一とせず、むしろ、生き甲斐、人の役に立つ喜び、コミュニティへの貢献など、非経済的なものが主である

 

 

 この特徴は東村のケースと重複する。ツーリズムの場合、コミュニティの成員候補であるゲストたちは、従来の観光市場と、見えない市場の2通りに存在している。それゆえ、従来の広告宣伝媒体を如何に利用するか、それ意外の方法は存在するのかを検討しながら、既存の市場と競合しながらも、エコツーリズム独自の優位性を発揮する必要がある。そうすることで、コミュニティの規模を維持しながら事業を継続的に行っていくことができるのではないかと考える。

 

【参考文献】

古川彰・松田素二2003「観光と環境の社会学」新曜社

本間正明・金子郁容・山内直人・大沢真知子・玄田有史2003「コミュニティビジネスの時代」岩波書店

平野達也1999「日本型エコツーリズムの可能性と課題〜沖縄県やんばる東村を事例とした『地域住民』の位置づけに関する研究〜」早稲田大学大学院アジア太平洋研究科

 

以上



[1] 平野達也 1999「日本型エコツーリズムの可能性と課題〜沖縄県やんばる東村を事例とした『地域住民』の位置づけに関する研究〜」早稲田大学大学院アジア太平洋研究科p.15

[2]東村役場 2004『東村村勢要覧 資料編』p.2-3

[3] 東村役場 1996『第3次東村総合計画基本構想』p22-23

[4] 東村役場 http://www.vill.higashi.okinawa.jp/ 東村資料 基本構想より

[5] 前掲書(脚注51)p.11

[6]沖縄県 企画開発部統計課『平成13年度市町村民所得』 http://www.pref.okinawa.jp/toukeika/ctv/2001/ctv.html

[7]前掲論文(脚注53 p.19には「第3次東村総合計画」策定にあたって実施された資料とある

[8]前掲書(脚注51)p.15-16

[9] 国土庁による平成10年度地域活性化のための広域移動型エコツーリズム調査の一貫。W氏がたまたま役場を訪れた際に相談を受け、慶佐次での開催を請け負った。

[10] W氏はこれまでの区長という立場で地域活性化に取り組む中で、一部村民からの反発を浴びてきた経験から、それを「かわすため」にも村外の人間を採用したかったという

[11] 1979年、米国のナチュラリスト、ジョセフ・コーネル氏により発表された自然体験プログラム。いろいろなゲームを通して、自然の不思議や仕組みを学び、自然と自分が一体であることに気づくことを目的としている。

[12] 前掲書(脚注51)「観光入り込み客数」p.15