修士論文

研究課題:

昨今、インターネット上での個人の情報発信・共有を支援するwebアプリケーションとして、『Weblog(ウェブログ)』と呼ばれるイノベーション現象が注目されている。現在、米国をはじめとして世界中において、そしてこの日本社会での普及も進み、特に米国ではマスメディアに匹敵する影響力を持つヒュージ・ネットコミュニティ現象として認知されつつある。本研究では、以下の3点の連関に焦点をあてる。1)その普及・発展過程の要因・メカニズムを(技術)社会学的に検討した上で、2)今後、社会にとってより望ましい形でそれが発展・定着するための社会学的・経営学的条件を洗い出す。さらに応用的問題として、3)ウェブログという情報プラットフォームが、メディアビジネス・情報財(コンテンツ)ビジネスの分野において何を可能にするのかを分析・提言する。

 内容:

 先行研究においては、「常時接続環境をインフラとして成立してきた、本格的なネットジャーナリズムの台頭形態」あるいは「LinuxやNapsterに続く、コミュニティ・ソリューションのマスメディア篇」などと当初沸騰的に語られていた『Weblog(ウェブログ)』という勃興間もないイノベーション現象を、まずは社会科学の対象としてキャプチャすべく探索的なアプローチを試みた。

 1. Weblog普及過程ケースの日米国際比較を通じて、Weblogの技術的-CMC論的な普及要因の仮説を検討した。そこでの仮説は、「トラックバックtrack back」とよばれるblog間相互リンクプロトコルと、RSS/Atomなどのblog間標準メタデータという二つの技術に着目 した上で、blogのアーキテクチャ的が支援するレシプロカリティreciprocality(双方向性)、トレーサビリティ(言説の追跡可能性)、モジュラリティが、従来のインターネット空間における情報過多(文脈過少)と信頼不足を補填したという結論を導きだした。

 2. ただし上記のイノベーションは日本では異なる機能(不全)を果たすことが確認され、また独自の発展を見せていることが観察された上で、Weblogというコミュニケーション現象の社会的構築性―すなわちイノベーションは単線的な技術発展の連続としてではなく、その普及・発展過程を下支えする「文化的要因」との相互作用を孕むということ―を観察した。

 3. またその社会構築性のコロラリーとして、特にここ1年日本社会での普及過程において、次のような興味深い現象が確認された。すなわち、

 ・ Weblog的なものが日本では米国とは異なる形で受容されていく、あるいは、「テキストサイト」と呼ばれる日本において先行的に存在していた個人ホームページカルチャーの集団から「抵抗」された事象を受けて、普及学者E.M.ロジャーズの理論を消化した社会学者・宇野善康の言葉を借りれば「異文化屈折」が発生していると表現できる点。

 ・ その結果として、ジェフリー・ムーアのいう「キャズム(=マーケティング論で経験論的に確認されている、ハイテク製品がクリティカル・マスを突破し普及曲線を駆け上がる前に横たわる「溝」のこと。ハイテク製品の生死は、このキャズムを乗り越えるかどうかにかかっているとされる)」が、日本社会のWeblog普及過程に現在すると思われる点。

上記3点が本研究の現時点での到達点である。

 このWeblogを今後どのように日本社会において定着implementationしていくだろうか/させていけばよいのか、よりよい形を実現するには、いかなる「文化的・社会的翻訳」を行えばよいか、といった問いに取り組むこととしたい。問いは大別して以下の3点に分けられる。

1. Weblog普及と発展の要因・メカニズムの(技術)社会学的検討

具体的には、『Weblogの普及過程』の比較にとどまらず、比較対象の枠を拡大することになる。いささか曖昧な定義ではあるが、「マスメディアに匹敵すると認知されるまでに巨大化し、無視できない社会的現象を引き起こす規模に至っている」という意味での『ヒュージ・ネットコミュニティ現象(、あるいはハワード・ラインゴールドのいうところの「スマートモブズSmartMobs現象」)』を日米比較する。

そこで矛先にあげるのは、日本の2ちゃんねると呼ばれる巨大な匿名掲示板群とそこでのサブカルチャー行為・現象である。一見すると比較するのがためらわれるほど大きなアーキテクチャ的・文化的な差異が見られる両者である。さらに一般に匿名掲示板に比べblogのほうが後発の「高機能」と単純に理解されており、それは比較ではなく進化プロセスの差異でしかないという認識も一般的だ。また他国間のため、ケース比較するのは非常に困難が予測される。しかしそれでも本研究はこの問いを重視したい。というのも所見によれば、先行研究をサーベイすることで把握される、2ちゃんねるが達成しているコミュニティの作動論理には、blogと共通して実現されているコミュニティの巨大化を支える論理が存在するからだ。この仮説の検討を行うことで、なぜ・いかにしてこのような大きな差異のあるアーキテクチャが、異なる社会で同様に巨大化し続けているのか、という問いからより深い社会学的意味を引き出す。

結果として抽出されたのは、Weblogという言葉の解釈をめぐる多様性の日米間の差異という問題である。これについては筆者修士論文に詳細を記述した。

2. より望ましい形でWeblogが発展・定着するための社会学的・経営学的条件の検討

ここでの問いは、Weblogがサブカルチャー的現象の次元からより高次へと突破することが期待されている背景を受けたものである。情報化社会を迎えれば、メディア:情報配送チャネルを握っていたプレイヤーの権力は衰退し、すべての個人が情報発信を行う社会が訪れると叫ばれ久しいが、インターネットの普及はメディアの希少性のボトルネックは取り払っても、知的-認知能力の拡大はそう容易には用意してはくれない。一方で情報過多・マスコミ不信といった社会コミュニケーションの基幹部分の機能不全への不安は解消されることなく進展している。一方でネットコミュニケーションは、いまだに児戯的な・オタク的なサブカルチャーの域を脱していないとして、社会全般からの信頼を獲得しているとはいいがたい。このような状況を漸進的に改善していくための前線として、Weblogは位置づけられよう。

そこで接続される問いとしては、第1に社会学的なものとして、情報化社会の市民成熟度の指標としての「メディア・リテラシー」の教育などの問題圏と考えられる。本研究としては、昨年度に引き続き、SFCキャンパスでのWeblog普及プロジェクト(大学内知識流通活性化プロジェクト)による啓蒙活動・情報提供・ネットワーキング機会創造の継続と、他キャンパス・他大学とのアライアンスなどの展開を行った。 

 第2に経営学的なものとしたのは、ひとつには個人・組織「間」の水平的ネットワーキング・知識交換の場として、Weblogを活用できないかといった問題意識を意味している。これは企業組織だけでなく、あらゆる組織に適用できる問題である。大学での研究成果の応用として展開したい。どのような個人、そして組織と組織間関係において、Weblogのようなパーソナルメディアは機能するのかについての知見を深めることになろう。

またひとつに、組織内での知識創造・ナレッジマネジメント(アウェアネス機会の創造)ツールとして、Weblogを利用できないかといった問題意識である。

さらに最後として、Weblogの大衆的普及を支えるblogASPサービス事業者のビジネスモデル(収益モデル)についての分析を行った。現時点では、アフィリエイト広告モデルの拡大が行われるが、結果としてコミュニティ運営母体への広告収入が中抜きされてしまう問題がある。また、ブログ上のデータをマーケティングデータとして販売するモデルはいまだ成立していない状況だが、SNSなどの個人情報をさらに集約したタイプのサービスの登場によって、この部分がどのように変わるかが注目される。

・広告収入>マーケティング

・ISP提供型:顧客確保モデル(→芸能人を登用したプレゼンス増大への投資)

・独自運営型:有料サービスモデル、ネット貨幣流通による手薄料モデル(はてな)

これらネットコミュニティビジネスに関わる事業者の持続可能性についての考察・提言は引き続き行われる必要があるだろう。

3. ウェブログという情報プラットフォームは、メディアビジネス・情報財(コンテンツ)ビジネスの分野において何を可能にするのか

 これは前節2番の経営学的問題意識をさらに拡張したもので、分節して展開したい。これは一言で言えば、「WeblogによるジャーナリズムのLinux版はありえるのか?」あるいは、「現行マスメディアとジャーナリズムの結びつきをアンバンドルし、広告ビジネスモデルに依拠しない公正なる報道と世論形成はWeblogという情報流通プラットフォームによって可能であろうか?」という問いである。

 このような問題意識は、従来は政治学・社会思想(公共圏論)・ジャーナリズム論(ジャーナリストの倫理・教育、あるいは視聴する市民の側のコミットメント・メディアリテラシー)において展開・実践されてきた。しかしそれらはマスメディアシステムの実態(「存在」)をジャーナリズムという民主主義社会の理念(「当為」)で断罪する、という図式に囚われていた。本研究では、Weblogの探求の結果得られた知見を、広く社会-情報-メディアへと一般化する試みとして、上記の問いに取り組む。

 この部分は、いまだブログ関連ビジネスの動向が分析に値するような動きをみせていないことから、次回研究へと持ち越されることとなるが、理論的な足がかりとしては、情報財ビジネスをめぐる研究が、従来の経営学である「生産と流通」の枠組みに依拠するあまりに、メディアビジネス特有である「広告ビジネス」についての視点を取りこぼす傾向にあることを確認した点にある。また広告ビジネス自体「水物」と呼ばれ、ルポルタージュをのぞけば、ほとんど経営学的・経済学的な研究がなされているとはいいがたい。 ただポイントとしては、

・個人ジャーナリズムが可能となるほどのビジネスモデルあるいはインセンティブを、個人の側あるいはメディア組織の側に提供するまでには至っていない。広告代理業のダウンサイジング、モジュール化、個人化は起こるのか。

・しかしそのためには、広告のゲーム論的にいうところの、「共通知識形成のための儀式」(マイケル・チウェ)という性格が解除される必要がある。誰もがこの商品・この現象をしっているということメタ知識を知らなければ、ジラールやボードリヤールが指摘するように第三者が欲するものを欲するという消費社会の欲望という形式の喚起につながらない。インターネット広告の多くはOneToOne的なダイレクト広告、いうなれば欲しいと思いそうなタイミングで「数撃ちゃ当る」という、いわば動物的な(東浩紀)広告モデルにすぎない。このモデルが変化しない限り、マスメディアの広告モデルはその地位をうしなわないだろう。

また、こうした問題意識を踏まえて、広告ビジネスの構造転換のためのアーキテクチャ的提案として、國領研次世代メディア研究会、生貝直人・曽根原登・坪田知己らと、「デジタル情報財流通におけるコンテンツ・メタデータ・コンテクスト・経済主体情報4層構造の提案とコンテクスト市場の設計」を発表を行った。(ORF2005 / 情報処理学会第26回電子化知的財産・社会基盤研究会、2004年12月。)