2004年度 森泰吉郎記念研究振興基金
報告書

政策・メディア研究科
修士課程2年 吉野実岐子
学籍番号:80333297
 

 1. 研究テーマ/RQ/仮説

研究テーマ:「場と人のデザインルール-東京・神楽坂を中心に-」

RQ1:<まち>の主体はだれか?
RQ2:まちの雰囲気醸成に主体はどのように関わっているか?
仮説1:<まち>の主体(=そこで起きていることの当事者)は住民以外の在勤者・住まずに関与する人も含まれ、いくつかに分類される。
仮説2:まちの雰囲気醸成には「住んでいて」「まちづくり」には関与していない主体が、雰囲気を感じさせる文化醸成という点から最も重要である。

2.研究概要

本研究は、生活圏であり公共空間である<まち>に長時間滞在する人は、<まち>によりデザインされているのでないか?という問題意識のもと始まった。住みやすい<まち>・居心地の良い距離感のある<まち>とはどういったものか?<まち>の雰囲気はどのようにして、誰が主体となり、保ち刷新していくのであろうか?補足的に以下も考えた。<まち>は作れるものなのか?その土地に住むこととその土地に長時間滞在することはどのような違いを持つのか?

以上の問題意識のもと、以下3主体 @在住者・A在勤者・B地域コミュニティにコミットする在住でも在勤でもない人、に注目し、フィールドワークを行うものである。地域力の指標としても注目されるSocial Capital(ロバート・D・パットナム)や地域とそこに関わる人が歴史の中で内包していく経路依存性(ダグラスC. ノース)を踏まえながら、各々の主体における 1.<まち>の領域の認知図とその変化 2.各々のネットワーキングにおける特徴 3.各々の持つ価値観の共通点 4.Bにおける過去の地縁・血縁の可能性 などを検討し、最終的に地価のような数値では表しえない雰囲気の指標を示すことを目的とする。そうすることで、<まち>に<いる>人々の「生きられた」日々に最もダイレクトに関わってくるのに、決して見えない雰囲気をつかさどる場所の力は何なのかを示唆する。

※ <まち>の定義は以下
※ 本報告書内で、3主体全てを指す場合、<いる>人といういい方を用いる。

 3. 研究対象及び研究目的

研究対象は以下3地域である。神楽坂・四谷荒木町・麻布十番(いずれも東京)。メインケースとして取り上げる神楽坂に対し、残り2地域は神楽坂に対する比較対象として取り上げる。現れる現象、特に住としての安全性にも共通点があるので妥当だと考える。

まず、本研究で対象とする<まち>は、都市部を前提とし、商業地域・ビジネス地域・住宅地域を徒歩圏に持ち合わせる区域とし、行政区画ではなく人々の意識するまちをさすものである。<まち>において神楽坂はしばしば領域についての発話が見られたことや、住みやすいまちといわれていること、歴史・文化資源のあるまちだと考えられていることから、対象として選んだ。

 4. 研究背景

東京・神楽坂はJR山の手線の真ん中、外堀沿いに位置し、江戸時代の切り絵図を参考にして歩ける稀有なまちだ。江戸以来、善国寺(毘沙門天)の門前町として発展し、大正時代には花街としての最盛期を、戦前は銀座を凌ぐ人だかりともなった商人のまちでもあり、未だ粋な風情を感じさせることで知られる。リセ・フランコ・ジャポネや東京日仏学院等フランス関連機関の存在により、フランス人(例:ノエル・ヌエット(版画家))が日本一多く住み、フレンチ激戦区でもある。1991年にはまちづくりの会が、95年にはネットを使うという意味で当時としては先進的だった、ニフティサーブ都市計画フォーラム合同「神楽坂まちづくり」フォーラムの開催など、古きを大切にしながらも新しいものも積極的に取り入れていく場だ。96年に新宿区が策定した「都市マスタープラン」によれば、区内でも人口減少率・移動率が低く定住性の高い地域であり、100年以上続く老舗本店も数軒存在する。在住・在勤者にとってもマーケットとしても魅力的な場だ。急な坂ゆえ(現在は削られた状態)近代以降の開発から逃れたこと、戦前は水のきれいな神田川沿いに位置し(その後水路変更)、染物や印刷〜出版等の産業発達が見られ、震災・戦災の被害(後者は人的なもののみ)が比較的少なかったといった、地理的・歴史的要因もこのまちの発展要因だ。第二次世界大戦での死者は一桁に留まるとされており、焼け野原になった神楽坂(御茶ノ水〜本郷がすっきりと見渡せたそうだ)には以前の住民の多くが戻った。また関東大震災後には、被害の大きかった日本橋の商人が多く流入し、このまちの発展に貢献した。だが、このまちが今もなお在住・在勤者を中心に、自発的にデザインされ、ほとんどのコミュニティをボランティアによって運営してきた歴史を持つことに注目し、このまちの内包する構造に迫る。私自身は、2002年の「まち飛びフェスタ」へのボランティア参加が、このまちのコミュニティに出会う契機であった。03年より「かぐらむら」という主に神楽坂内部に向けての情報誌、さらに04年からはNPO粋なまちづくり倶楽部のスタッフとして、神楽坂に関わってきた。

麻布十番は神楽坂同様に、門前町として発展してきた町だ。伝説によると、善福寺は天長元年、弘法大師によって開創されたとされている。善福寺の山号は「麻布山」、住職の姓は「麻布」であるという。
現在の麻布十番界隈が発展し始めたのは江戸時代の中頃からで、徳川幕府が、名暦の大火後の救済事業の一環として古川の改修工事を行い水運の便が良くなったこと、「芝」にあった馬場の移転したことが、十番の発展に大きく寄与したようだ。
「十番」という地名の由来も、一説によると、古川の改修工事の際に河口から十番目の工区としたためであると言われている。また、もう一説には、将軍綱吉が現在の南麻布界隈に別荘を建てた際に、水運のために川さらいを行い、人足の10組目をこの地区から出したことによるとされている。 江戸時代後半に商業が盛んになると、十番においても数多くの商店が創業され、現在まで商いを続けている老舗も多い。

【江戸期に創業された十番の代表的な老舗】
更科 そば 天明4年 / 酒井 陶器 文政8年 / 中村屋 ざる(雑貨)嘉永3年 / 永井 薬 安政3年 / 村野 畳 文久元年 / 石崎 綿(布団)文久3年 / 豆源 豆 慶応元年 / 小林 玩具 慶応3年

 5. 研究目的

都市計画においても、また行政区画においても、<まち>は領域の境界がきっちり決められ、商業地域とビジネス地域はどちらもマーケットでお金を回している人々の集まりであるのに、別物として捉えられているこのことに疑問をもち、認知図に各主体の考える神楽坂の領域を書き込んでもらった。

東京・神楽坂は、古い歴史・文化という経路依存性を孕むものを場所の特徴として強く持つ一方、参与観察時<まち>の人々は祭りなどのイベントの際に「どこまでが神楽坂か?」という話し合いをしていた。古くからの町名が徒歩10分歩く中で7もメインストリート沿いに見られるような<まち>では、メディアの報道する神楽坂の領域と、人々の発話に見られる神楽坂の領域に大きなズレが見られる。
例えば、一般的には神楽坂として認識される矢来町の人々は、「矢来の人間である」という言い方をし、また神楽坂の他町に住む人々も「あそこは矢来だしなぁ」と神楽坂と言うべきかどうか迷いを見せることが多い。能楽堂のある矢来は他の町名以上に、自発的に名前を呼ばれる回数が多い。また、坂下と坂上では、花街vs新内のように文化を異にする。これらは通りすがりの外部者には分からない、暗黙のものとして共有されている。3つの異なる文化圏の存在が、領域についての発話と各主体の描く認知地図から読み取れる。神楽坂というコモンズに入り込める人ほど、文化圏を意識している。

<まち>は @企業と違いステークホルダーが明確でない A<まち>に入る際、企業のように明らかなコストをかけた審査は行われない B<まち>のために活動したところで、お金になるわけでも、業績が企業での仕事のように、キャリアにおける市場価値として評価されるわけでもない。C実際に地域経済に貢献しているのは、殊に都市部においては @在住者よりむしろ A在勤者やBであるケースもある。
といった領域の不明確さがもたらす問題がいくつか指摘できる。神楽坂では、まちづくりブームがくる90年以前より、3主体=<いる>人のまちへの意識が高かったといえる。明治以降、車の交通規制や地下鉄の誘致などインフラ面も含め、常に行政より先にこのまちに<いる>人たちが動き、自主的にまちを運営してきた歴史を誇る。時代により、中心主体は、花街の人⇒商人(70年)⇒住民(現在)と変化しているが、non-paidで人々が<まち>のために動いてきた歴史を持つ。しかしながら、参与観察している限りにおいては、その仕事ぶりは(企業のように)効率性や実現性を重視したスピードあるものだ。

 6. 調査及び研究手法

調査方法は、参与観察とインタビューである。参与観察は神楽坂のみ、以下2団体において行った。2004年2月より関わるNPO粋なまちづくり倶楽部と2003年1月より関わる地域メディアかぐらむらでボランティアスタッフという立場をとっている。また汐留においてフィールドワークを行っていた時期もある。

インタビューは2004年春から現在にかけて、@在住者・A在勤者・B地域コミュニティにコミットする在住でも在勤でもない人 の3主体に対し続けてきた。春は事前調査の色合いが強かったが、結果的に1人当たり2時間を基本として対面(一部メールにて補足)で行っている。現在までで約40名終了している。最低でも50人はこの春でインタビューし終える予定だ。バイアスをかけないために、参与観察団体からではないルートで対象者を引っ張ってくるなど、現実的にできうる範囲でバイアスに配慮した。麻布十番と四谷荒木町に関しては、現在インタビューをすすめているところである。

研究手法は、飲食店分布やネットワーク図などを作成し、データの提示とする一方、エスノグラフィーを用い、今まさに<まち>で生きている人の言説を提示することとする。 今までに分かったコモンズとしての神楽坂をイメージ図としてまとめた。

7. 今後の調査方向性

引き続きインタビューを行いながら、価値観や領域の調査を進める。また数値的なデータを集め続け、最終的にどの主体がどういうネットワークを形成し、そのことがどう<まち>を変えていっているかを示す。

 8.参考文献

1 「都市・建築・不動産 企画開発マニュアル 2004〜2005」エクスナレッジ 2004
2 「哲学する民主主義―伝統と改革の市民的構造」ロバート・D. パットナム (著) 河田 潤一 (翻訳) NTT出版 2001
3 「Institutions, Institutional Change and Economic Performance (Political Economy of Institutions and Decision)」Douglass North (著) Cambridge University Press 1990
4 「Neighborhood Tokyo (A Study of the East Asian Institute Columbia University)」 Theodore C. Bestor (著) Stanford Univ Press 1989
5 新宿区観光協会
6 神楽坂通り商店会
7 商店街ネットワーク
8 神楽坂料理飲食業組合
9 新宿区商店会連合会
10 新宿区役所
11 経済産業省 商業統計
12 総務省統計局
13 麻布十番商店街振興組合
14 港区役所


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Last updated on 28thFeb,2005