2004年度森泰吉郎記念研究振興基金 研究成果報告書

ポスト冷戦における日本の対外政策
−常任理事国入り意思表明と国際貢献の姿勢から−

政策・メディア研究科 修士課程2年
桑野鉄史 

研究活動の概要

 今年度は、修士論文執筆の準備(文献調査や枠組みの設定等)および、一部の執筆を行った。本報告書では、現段階の修士論文のテーマおよび進捗状況を簡単に紹介する。助成金申請時は上記の研究タイトルであったが、現在は「日本外交における平和主義と現実主義の相克 −常任理事国入り意思表明過程から−」と改題し、執筆を行っている。

研究要旨

 本研究では、ポスト冷戦の日本外交論における「平和主義」と「現実主義」の内実を明らかにする。そのために、1994年に日本が行った常任理事国入りの意思表明過程を明らかにする。

 はじめに第一章では、日本にとって常任理事国入りが持つ意義を整理することによって、常任理事国入り問題が如何なる文脈から、平和主義的議論を含み、また現実主義的な議論を帯びるようになったのかが考察される。常任理事国入りがすなわち、日本にとって軍事的な貢献、負担をもとめるものではない、との解釈がなされつつも、実際の論調としては、常任理事国入りと軍事的な貢献が絡められていたことがしめされるのである。
 次に第二章では、常任理事国入り意思表明にあたり、外務省が主導的な役割を果たしていたことが確認される。二章では、先行研究で示されている、通説的な理解を確認されるのである。1960年代より、外務省は常任理事国入りを省内一致の目標、宿願として取り組んできた。やはり、1994年の意思表明においても、外務省が主導的な役割を果たし、各政治家、政策担当者に働きかける形で意思表明作業は進んでいった。またこの章では、宿願としてのインセンティブに加え、カンボジアPKOなどで示された国際協力に対するパッケージ能力に対する自信、認識が外務省に存在したこと、それらが意思表明にあたっても影響をもたらしたことが示される。
 第三章では、当時の国内経済の不況が常任理事国入りに与えた影響を考察する。内政が外交を規定する、という認識論的出発点をもとに、「不況ゆえに経済中心の外交から、政治的役割を担う外交方針にシフトチェンジが生じたのではないか」という問い立てに対し反駁を加える。確かに、不況は経済外交見直しのひとつの理由とも評価できる。しかしながら、当時、経済外交の代替としての政治力の拡大という視点ではなく、経済外交の拡充と共に、ひとつの柱として国際貢献の形態を日本外交は模索していた。
 第四章では、意思表明に対する与党間の調整、合意過程から河野副総理兼外相の一任に至るまでに、どのような議論を経たのかが明らかとなる。たとえば、社会党の自衛隊合憲、日米安保堅持というポスト冷戦の国際環境認識は、従来の平和主義的議論とは異なる側面を有することとなる。また、連立政権という国内状況、保革対立の解消という文脈において、従来の平和主義=憲法9条、現実主義=日米安全保障とう基軸ではなく、「国際貢献の形態をいかに考えるか」という点がひとつの論点となっていた。以上の考察を行う中で、常任理事国入り意思表明というひとつの形が表出される一方で、閣僚間に存在していた「足並みのズレ」の実態が明らかとなるのである。

研究の目的

 本研究の目的は次の二つである。第一の目的は、1994年に日本が行った常任理事国入り意思表明の背景と過程を明らかにすることである。1994年の意思表明過程に、ポスト冷戦の国際環境認識がどのように反映されていたのか、国内政治状況がどのような影響を与えたのかを考察する。
 第二の目的は、意思表明過程の分析を通じて、アクターの言説から「平和主義」と「現実主義」という「量的ないし質的規模に関する二者択一的な論争」の実態に迫ることである 。「現実主義」と「平和主義」との論争は、当分今後の日本外交の進路と密接にかかわるであろう。意思表明過程の考察を通じて、冷戦終焉後の日本外交における「現実主義」と「平和主義」の相克の内実に迫ることが、本稿の第二の目的である。

問題の所在

 日本は、国際連合(以下、国連)、安全保障理事会(以下、安保理)の常任理事国となることを、長年の外交課題としてきた。1960年代初頭より、日本は常任理事国入りへの模索を始めてきた。事実、1969年に愛知揆一外相が国連総会一般討論演説において、安保理の構成と議決方法に疑義を呈し、演説前の記者説明において、常任理事国入りへの希望を述べたのである。 1994年には、総会の一般討論演説において、河野洋平外相が、初めて公の場で常任理事国入りへの意思を表明した。2004年に小泉純一郎首相が、同じく総会一般討論演説において常任理事国入りへの意思を表明したことも記憶に新しい。
 以上のように、長年の外交課題といえる常任理事国入りについて、公式の場で意思表明が行われたのは 1994年が初めてである。1994年の意思表明にあっては、日本外交を取り巻く環境として以下の特徴が挙げられる。第一に、国連改革の気運によって、常任理事国入りが取り上げられるようになったことである。第二に、湾岸戦争に対する一連の日本の対応への国際的批判、国際平和協力法の成立、PKOへの日本の参加などを経て、政策レベルはもとより、世論にも日本の国力に見合った国際貢献の必要性、その形態といった問題が認識されることになったことがあげられる。第三の特徴は、1993年より「55年体制」が崩壊すると連立政権が誕生し、1994年当時は自社の連携という、戦後日本政治が想定しなかった政治体制であったことである。以上のような日本外交を取り巻く環境の中で、長年の課題は公式の場での意思表明として表出されるのである。
 しかしながら、国内において、常任理事国入り、さらには意思表明自体に対して、十分な議論と合意形成が生まれていたわけではない。まず、常任理事国入りの反対、賛成はもちろんのこと、賛成派においても、どのようなプロセスを経て常任理事国のポストを獲るのかについては、議論が分かれていた。たとえば、その論点としては、国連改革を前提とするのか否か、立候補なのか推薦される形を待つのか、という点が挙げられる。また、新聞各紙は「常任理事国となったら何をするのか」に対する政府のアカウンタビリティが欠如しているとも批判している 。さらに、常任理事国となることは必ずしも武力を伴う国際貢献を伴うわけではないが、当時の国会論議、世論では、常任理事国となった場合に、軍事的貢献はどのように行うのかという点が問題の焦点として扱われていた 。
 上記のような様々な論点がある中、意思表明直後に、意思表明を「立候補宣言」とするか否かをめぐる解釈論が展開されることとなる。意思表明後の10月6日、国会答弁では、村山富市首相と竹村正義蔵相の答弁が食い違いを見せる。この食い違いを受け、五十嵐広三官房長官は、「立候補はしていない」と釈明し、日本政府として常任理入りに対する最終的な判断を示したものではないとの認識を示した 。論議の結果、意思表明は「立候補」ではなく「用意がある」と表明したのみである、との政府統一見解が翌日10月7日に示されるのである 。
 なぜ、公式の場で意思表明をするに至ったにもかかわらず、政府首脳にまで「足並みのズレ」をうかがうことができるのだろうか。そもそも、常任理事国入りへの意思表明は、「憲法の下で禁じられている武力行使に当たる行動は伴わない」ことを明確にするという条件のもとに、1994年10月20日の閣僚懇談会において、与党間では基本合意がなされていたのである 。国内の合意形成欠如は何を意味するのであろうか。本稿の問題意識はこの点にある。

研究の手法

 本研究では、「外務省主導の流れの上に、ポスト冷戦の国際環境認識、さらには保革対立の解消という国内状況が重なったために、常任理事国入り意思表明は行われたのではないか」との仮説を立てる。前述のごとく、「常任理事国入り意思表明に対して、外務省が主導的立場を担った」ということはこれまで先行研究によって明らかにされてきたものである[R・ドリフテ「国連安保理と日本」 (2000年、岩波書店)]。しかしながら、この通説的理解のみでは、日本外交論における、意思表明の意義を十分に示しているとはいえない。なぜならば、通説では、連立政権という流動的な政治であったために意思表明がなされたのか、それとも保革対立が解消されたために意思表明がなされたのか、なによりも、なぜPKOをはじめとする貢献に消極的であった社会党が与党の時に意思表明がなされたのか、という疑問に答えることができない。先述のように、実際の論調においては、常任理事国入りとPKO等の貢献姿勢が同一の場で論じられていたのである。

 ・研究の枠組み1 : ポスト冷戦における国際環境認識
 ・研究の枠組み2 : 保革対立の解消
 

研究の意義

 第一に、常任理事国入り意思表明過程を考察することで、平和主義、現実主義といった「量的ないし質的規模に関す二者択一的な論争」の実態に迫ることができる。これまでの平和主義的な経済中心の外交のみならず、常任理事国という政治的なポストを希求したという点において、これまで日本外交において明確に伺い知ることができなかったと先行研究で述べられる、「量的ないし質的規模に関する二社択一的な論争」が具体的に考察可能となるのである。たしかに、平和主義と現実主義の対立の様相はPKO法案の作成、議論過程においても伺い知ることができる。しかしながら、社会党が政策転換を行った上で、自社の連立という保革対立解消のもと実行されたという点から、当事例は意義を持つと筆者は考えている。
 第二に、日本外交を特徴づける新たな視角を提示する。日本外交論における通説的理解では、これまで理想主義は日本国憲法、とりわけ9条を中心とした平和主義的な考えであり、一方で現実主義は任米安全保障に依拠した考えとされてきた。意思表明にあたり、ポスト冷戦における国際環境が政治的かつ人的な国際貢献の必要性をもたらしたこと、さらに保革対立の解消がなされるなかでも自衛隊を如何なる形で貢献の手段とするか、という点から上記の点が論じられていることから、従来のような基本的対立の基軸に対して、あらたな示唆を与えることができる。



以上の研究を進めるにあたり、PC環境の整備、文献調査費用として当基金による助成金を利用した次第である。当基金による研究助成に深く感謝する。