2004年度森泰吉郎記念研究振興基金「研究育成費」報告書 (2.21.2005

 

「カタカナ語の英語学習への応用可能性 −教授法考案と実践−」

慶應義塾大学大学院政策・メディア研究科修士課程1年

田中珠理

 

【もくじ】

     56回日米学生会議日本代表参加報告

     2004年春学期

「カタカナ語の英語学習への応用可能性 −語彙の習得−」

     2004年秋学期

メタ言語能力に注目した言語教育のすすめ −文法訳読式教授法を評価する−」

     主要論文

(1)   Nation, I. S. P. (1990):Teaching and Learning Vocabulary: What is Involved in Learning a Word, Boston: Heinle & Heinle Publishers, pp.29-50

(2)   Johnson, Jaqueline S. and Elissa L. Newport (1998): Critical Period Effects in Second Language Learning: The Influence of Maturational State on the Acquisition of English as a Second Language. Cognitive Psychology, 21, 60-99.

     今後の研究展望

     参考資料

 

【第56回日米学生会議参加報告】

・日米学生会議とは

2004年7月25日〜8月21日、第56回日米学生会議に日本代表として参加した。本年は創立70周年を迎え、ハワイにて記念式典が開かれた。

日米学生会議とは、日米学生会議(Japan-America Student Conference−JASC)は、日本初の国際的な学生交流団体である。米国の対日感情の改善、日米相互の信頼回復を目指し、「世界の平和は太平洋にあり、太平洋の平和は日米間の平和にある。その一翼を学生も担うべきである」という理念の下、1934年に発足した。近年、日本と米国は世界の中でも政治的、経済的に主要な役割を担っており、それだけに世界に対する貢献が求められている。日米学生会議は、日米関係を考察するとともに、両国をめぐる様々な事柄について、多角的に検討してきた。

本会議では、日本と米国から同数の学生が約一ヶ月にわたって共同生活を送る。本会議中の主な活動としては、分科会活動、フィールドトリップ、そしてフォーラムなどが予定されている。また、会議全体を通して、日米両国の参加者間の相互理解を深めていきたいとも考えている。会議で得られた成果は、長期的な社会的貢献、社会還元が期待されている。

 

     56回日米学生会議

テーマ:Re-evaluating the Japan-America Relationship: Civic Commitment to Global Issues −今、再考の時―日米関係と私たちの使命−

開催地:ハワイ(7月25日〜8月1日)

        サンフランシスコ(8月2日〜8月4日)

        ワシントンD.C.(8月4日〜8月12日)

        プリンストン(8月12日〜8月21日)

参加者:日本代表39名、アメリカ代表40名、計79名

分科会:教育、南北問題、グローバル経済システム、メディア倫理、国際政治と日米、社会と科学技術、アイデンティティと市民活動、社会問題と制度

 

     私の役割

所属分科会:社会問題と制度 (「移民」分野担当)

研究テーマ:アメリカのバイリンガル政策について、日米における言語教育政策の比較

 

     社会問題と制度分科会

<分科会の目的>

グローバル化など社会の構造変革の只中で、日米両国は多種多様な社会問題を抱えている。そして両国の市民はこれらの社会問題のために、先が見えない不安感を抱きながら生活している。日本と米国では文化的背景も社会構造も異なるが、現行の社会制度や政策の中に、見直すべきものが多く存在している点は共通している。私たちは、まずこの現状を客観的に把握し、環境の変化に応じた対策を模索し、迅速に制度を改善していく必要がある。着実に人口減少社会に突入している日本。しかし、その社会保障制度は未だに人口構成の変化に対処できておらず、対応不十分なうちにより本格的な少子化、高齢社会を迎えようとしている。また米国でも、エスニシティ問題を筆頭に人口構成の変化が原因で様々な社会問題が表面化しつつある。また手口が悪化する凶悪少年犯罪が日本でも米国でも多発している。これら人口構成の変化や女性の社会進出など脱工業化に伴う諸問題に着目した当分科会では、日本とアメリカの文化、社会制度を比較しながら、両国が抱える社会問題の解決法について考察していく。焦点を当てるテーマは社会福祉、医療保険制度、育児問題、少年犯罪、移民政策などである。

<活動内容>

1.分科会スケジュール (主な討論のトピック)
 7月25日 自己紹介、具体的なテーマやスケジュール設定
 7月27日 導入:高齢社会 Introduction: Aging / Aged Society
 7月28日 医療保険 Health Reform
 7月29日 フリーター “Freeter” or “Job-hopper”
 7月30日 移民政策 Immigration Policy
 7月31日 (アルムナイとジョイント)同性結婚 Legal Issues Behind Same-sex Marriage
 8月5日 (Center for Immigration Studiesからスピーカーを招いての対談)移民政策
 8月9日 (スピーカーを招いての講演および対談) 愛国法 Patriot Act
 8月10日am 少年犯罪 Juvenile Crime

pm (法務省のOffice of Juvenile Justice and Delinquency Prevention訪問)

 8月14日 児童虐待 Child Abuse
 8月15日 フォーラム「人口構成の変化からみる社会問題と制度」

2. 討論内容
2.1 移民

移民問題は、主にアメリカの移民制度と日本に入国する移民の二つ視点から話し合った。

ワシントンDCではCenter for Immigration StudiesよりJohn Keeley氏(Director of Communication for CIS)をゲストスピーカーに迎え、アメリカ国内の違法滞在者が年々増加していること、2001年の同時多発テロ以降の移民政策についてなど、移民の現状についての説明があった。現在は移民への積極的な対策が練られていないが、これからは、この問題を無視することはできない。一方、日本国内の移民制度としては、長時間低賃金労働が問題となると同時に、労働内容にも注目した。多くの人がやりたいとは思わないような肉体労働の請負口として移民が利用されること、そのことから生じる差別・人権問題などが挙げられた。

また、移民に対する言語教育政策という観点からも活発な議論がされた。アメリカではかつてバイリンガル政策が積極的に実施されたが、カリフォルニア州で、1986年に州憲法に英語を公用語とする条項を追加しようとする住民提案(提案63)が通過し、1998年には事実上バイリンガル教育を廃止する提案(提案227)が、住民投票の結果可決されて以来、バイリンガル教育には否定的な態度である。その後、2002年には、マサチューセッツ州においてもバイリンガル教育が廃止される。日本で行われているバイリンガル教育(加藤学園など)を例に挙げ、日本国内でのバイリンガル教育の必要性についても討論した。

2.1 高齢社会

米国についてはThe Two Percent Solution: Fixing America's Problems in Ways Liberals and Conservatives Can Love (Matthew Miller: Public Affairs; 1st edition: September 2, 2003)を参考文献に、@4000万人以上の保険非加入者のうち80%はフルタイムで働いていること、A先進国は平均GDPの9%を医療費にあて、全国民が保障対象であるのに対し、米国は14%をあてているが、なおもれている国民がいること、B1960年代には教育やインフラにかけられていた政府予算の7割が、現在では社会保険、医療費にかけられていること、など統計について考察した。米国では今から10年以内に7600万人が定年を迎える。また、予算の割り当てなど選挙攻略は投票率が高い高齢者層に影響される問題性についても取り上げた。同様に、日本では米国以上の速さで少子高齢化が進み、人口は激減している。労働者と65歳以上の高齢者の比率は1995年に5:1であったものが2020年には2.3:1という比率になる事が予想される。人口置換値が2.08である合計特殊出生率が、今年は全国平均では1.28を記録し、東京都では1.0を下回った。このような問題の原因や解決策について話し合った。高齢社会の結果、労働力不足、市場減少、経済停滞、貯蓄減少による先進国の後退などの可能性について討論した。また、策として医療制度や教育の充実、女性の社会進出に伴う労働と育児、社会や家庭の問題といった当分科会の方向性について話し合った。

2.2 医療制度

事前のペーパーで医療制度をテーマに取り上げた双方の参加者が中心となって、日米の医療制度の違いについて話し合い、現存する問題点を確認、分析した。高齢社会、医療費上昇、相次ぐ医療ミス、臨床医育成に不向きな医学教育など、日本の医療は多くの問題を抱えており、国民の関心の強さも加わって、近年医療改革の気運が高まっている。しかし一方で、日本が今後の改革において目標と位置づける米国もまた、深刻な問題を抱えている。米国は世界一高い医療費にも関わらず皆保険制がなく、実に4400万人にも上る無保険者が存在する。医療という特殊な領域においては、市場原理が必ずしも最善の選択ではな
いということを教えてくれる。ラウンドテーブルでは両国が有する種々の医療問題の原因を分析し、改善策を模索した。

2.3 フリーター

「フリーター」とは、定職に就くことを希望しているにもかかわらず、パート・タイムや無職といった状況にある15歳から34歳の若者のことをいう。その数は増加する傾向にあり、現在その数は日本において417万人に及ぶとするデータまである。不景気による会社の正社員削減、いわゆる「パラサイト・シングル(free-loaders)」の増加等、若者を取り巻く環境は厳しくフリーターの増加を助長している。フリーターの増加から、将来の日本の生産力低下、低収入家庭が増えることによる出生率の低下等が懸念される。社会問題分科会では、これらの解決策を模索すべく議論を深めた。

 

     分科会と研究課題の関連 −言語能力とバイリンガル−

Cumminsは言語能力の質の違いをBICS (Basic Interpersonal Communication Skills・日常言語能力)と、CALP (Cognitive Academic Language Proficiency・学習認知言語能力)という概念を用いて説明している。BICSは、非言語コミュニケーションが豊富な日常生活で使われてコンテキストさえ与えられていれば、学びやすい能力のことである。一方、学問分野で使われて認知能力を伴うのがCALPである。この考えに基づくと、学習言語習得は日常会話習得よりも時間がかかる。日常会話習得はだいたい1〜2年かかるといわれる。また、Developmental Interdependence Hypothesisを提唱し、L1L2が独立しているBICSに対し、CALPL1L2が相互に依存しているという主張から、CALPL1からL2に転移可能でL1での達成度がL2に影響するため、バイリンガル教育におけるL1教育の重要性を説いた。

ここで忘れてはならないのが、二言語併用の関係である。第二言語を獲得しても、第一言語を消失してしまっては、バイリンガルの定義には当てはまらないのである。斉藤兆史は著書「英語達人列伝―あっぱれ、日本人の英語」の中で、日本の開国後、日本人初の女子留学生として渡米した津田梅子に言及し、彼女は英語獲得には成功したが、母語である日本語を喪失してしまったので、バイリンガルの成功例ではないと説明している。

CumminsBICSCALPの概念を踏まえ、新しいカリキュラムの必要性を痛感する。第二言語環境に置かれた低年齢の学習者はまずBICSを身に付けるようである。このことから、言語レベルは、脳の発達と深く関係していると考えられる。従って、英語教育をする際には、脳の発達を考慮し、年齢に応じたカリキュラムを提案すべきであると考える。

以上のことを踏まえ、日本語話者の英語学習者にとって、最も効果的な言語教育を考えるのが、修士課程における、私の最大の研究課題である。今回の日米学生会議に参加して、今、日本の英語教育に求められるものは何か、ということを改めて、考えた。更に、英語での意思疎通に苦しむ日本側参加者の話を聞くことで、実際に必要とされるコミュニケーション能力のレベルを実感した。これは、今後、私が実践の場に応用できる英語教授法を提案するにあたって、非常に重要な経験であったと思われる。

 

     日米学生会議の報告関連

2004124日に、日本にて、第56回日米学生会議の報告会、及び70周年記念式典が開催された。各分科会の報告に引き続き、私は、日本側参加者の代表として、スピーチをした。報告書が作成された他、ホームページにも詳しい報告が記載されている。(http://jasc-japan.com/

日米学生会議に参加し、多くの高い意識を持った仲間に出会い、非常に貴重な経験をした。自分の目で見、肌で感じ、自分の言葉で質問をしたことが何よりも印象的である。自分の研究へのよい勉強になったと同時に、今まで、なかなか勉強することのなかった国際関係や外交についても学んだ。今回の経験は、今後、私の人生の中で、非常に大きな影響を与え、将来、必ず世界で活躍しようという原動力になることは間違いないだろう。

 

 

【2004年春学期】

「カタカナ語の英語学習への応用可能性 −語彙の習得−」

 

春1. 研究背景 ―カタカナ語への注目

 文部科学省の戦略構想「英語が使える日本人」に追い討ちをかけられるように、近年、英語教育への関心は高い。それに伴い、カタカナ語は今まで以上に注目を浴びている。文部科学省が掲げる英語教育の新構想では、中学と高校での達成目標が具体的に設定されている:

中学卒業段階:挨拶や応対等の平易な会話(同程度の読む・書く・聞く)ができる

              <中学卒業者の平均が英検3級程度>

高校卒業段階:日常の話題に関する通常の会話(同程度の読む・書く・聞く)ができる

              <高校卒業者の平均が英検準2級〜2級程度>

具体的な数値で学習目標を提示するか否かについての議論は別にし、国際化が進む社会での英語の重要性が更に強調される結果となったことはまず間違いのないところだろう。

鈴木佑治氏は昨年、著書である「カタカナ英語でカジュアル・バイリンガル(NHK出版)」で、カタカナ語を積極的に取り入れた英語学習を推奨した。著者は、カタカナから英語への移行に気が付くことさえできれば、それはバイリンガルへの第一歩だとした。一方、国立国語研究所は日本語本来の美しさや、意味がわかりにくい外来語の使用による混乱を懸念して「わかりにくい外来語をわかりやすくするための言葉遣い」の提案を開始した。2004年7月までに計3回の提案がなされている。この提案のきっかけとなったのは、ある官僚がカタカナ語のわかりにくさを指摘したことだが、意味が充分に理解されないまま過剰に使用されるカタカナ語の現状に警告をした。以上二つは、カタカナ語を推奨する立場と、それに相反する流れの代表例である。

 カタカナ語が英語学習に及ぼす影響は賛否両論である。否定的影響と肯定的影響をまとまると以下のようになる:

<否定的影響>@カタカナ語として輸入された際に生じる本来語との音韻的相違

 A本来語との意味の相違による混乱

 B英語以外の言語からの借用語を英語として誤用

<肯定的影響>@単語増強に貢献

              A単語を知っていることが英語学習において、早期の自信を導く

以上の意見を踏まえた上で、本研究では、カタカナ語の特徴を最大限に生かし、積極的に英語学習に応用していく具体的方法を吟味する。

 

春2.研究内容

2.1       ソシュールの記号論

ソシュールの第3回一般言語学講義を輪読し、ソシュールの記号論の基礎的概念を学んだ。ソシュールは講義の後半で、“In the end, the principle it comes down to the fundamental principle of the arbitrariness of the sign.(出来事が最終的に戻る原理は、記号の恣意性という根本的な原理である)”と言い、言語が恣意的であることを強調した。

「言語の恣意性の問題は言語単位の画定と直結する」(穴戸, 1996)。言語単位を明確に定義することは非常に困難である。というのは、語の区切りを規定する絶対的なルールはなく、言語内での規則が適用されるからである。それこそが言語の恣意性であるのだが、言語の単位を了解した者同士でなければ、話が通じ合わないことになる。ソシュール(1991)は、語をどのように画定するかについて、波の比喩を用いて、以下のように説明している:

「二つの無定形なかたまり。水と空気の比ゆ。大気の圧力が変化すれば、水面は一連の語単位に分解される。(中略)この鼓動は、思考とそれじたいでは無定形なあの音連鎖との和合、何なら交配を表すと言ってもいい。それらの結合は、一個の形態を生みだす。」

更に、「記号は連続するがゆえに、いつも変化する状態にある」と言い、波が周りの状況によって変化すると説明する。次に、波を音連鎖としてとらえた時に、区切る場所によって意味が変化してくる例を以下に挙げる:

kurumadematsuwa  (1)車で待つわ

                 (2)来るまで待つわ

上記の例は、「くるまでまつわ」を音の連鎖として考えた時に、語を区切る位置によって、二通りの意味の解釈が可能であることを証明し、特定言語を使用する際にも、恣意的な問題が発生することを示唆する。同様の現象を外国語で考えてみると、言語がいかに恣意的であるかがわかる。私たちは、全く知識のない外国語を聞くときに、語の単位としての区切りを理解できるわけもなく、一連の音連鎖としてしか認識できないのである。

 音連鎖と恣意性の関係は以上のように考えることができるが、語の単位というのは、果たして極めて恣意的であり、同一言語内での意味の確定も恣意性が関係してくる。ソシュールはこのように特定のものに意味を与えることを空間の「分節化」と言った。このようにして、同一のものでも、言語によって分節化するところが異なる事実を説明する。よく例に挙げられるのが、虹の色である。全く同じ虹を見ても、色の分節化が各言語によって異なるため、何色の虹かという問いに対して、唯一の答えは期待できない。日本語では二次は7色である。しかし、言語学者H. A. グリースによると、ショナ(Shona)語では3色、バサ語(Bassa)では2色、英語では6色になるという。虹の色の認識の違いは、文化的要因や習慣が大きく影響していると考えることができるが、いずれにしても、言語の恣意性を説明するのに大変わかりやすい事例である。以上のことを踏まえ、外国語を学ぶという観点から語彙の単位との関係を考察する。

同一のものを指す母語の分節と外国語での分節が、一対一で比例する場合、外国語学習者は、新しい語彙の名前を覚えることで解決する。日本語と英語での例を挙げると、日本語話者が「えんぴつ」を英語で「pencil」だと理解することで、英語の語彙を学んだことになる。この場合は、空間の分節化の方法が両言語で共通のため、外国語学習者が、分節化において苦労するとは考えがたい。しかしながら、母語の分節と外国語(目標言語)の分節が同様でない場合は、学習者の混乱が予想される。たとえば、日本語にはたくさんの芋の種類がある。種類があるということは、それだけで、違うものとしての存在が認められているということになるので、異なる名前が付けられるはずである。ソシュールは、言語の「差異」に注目した。“It is only through the differences between signs that it will be possible to gibe them a function, a value.(記号に機能や価値を与えられるのは、記号の差異でしかない)”と主張する。従って、芋の差異を認識している日本語には「サトイモ」「サツマイモ」「ナガイモ」「ジャガイモ」など豊富な名称があるが、「ナガイモ」に値する英語は私の知りうる限り存在しない。英語の母語話者が「ナガイモ」という日本語を理解するためには、今までもしかしたら目にしたことがなかったかもしれないナガイモを目の前にし、差異による新しい分節を覚えることになるのである。このように、外国語を学ぶということは、外国語の分節を学ぶということだと言うことが可能ではないだろうか。

 

2.2       カタカナ語と英語の分節

日本語話者にカタカナ語を英語と関連付けて考えるという提案をするにあたり、注意すべき点がある。カタカナ語として輸入された借用語は、多くの場合、英語と全く同一の意味を持たない。借用語の意味が本来語と異なって用いられる例は、英語のtrainerで、主に「訓練者」と「運動用器具」の意味があるが、日本語でトレーナーといえば、この他に長袖のシャツを指すことが多い。英語では別にsweat shirtという言い方がある。第二に、日本語で限定された使われ方をしている例がglamourである。グラマーは日本語では女性の容姿を形容する場合のみに使用するが、英語では男女、物を問わず「魅力、有名」なものを指す。第三に、洋服のサイズを表すフリーサイズは日本語での意味が本来の英語の意味よりも拡大して認識されている例である。これは日本語的感覚から生まれた和製英語で、本来語で使用されるfree「自由な、固定していない」の意味を拡大し、あらゆる体格の人が自由に着用できる大きさとして理解している。英語では”one size fits all”と表示される。以上のように、日本語としてのカタカナ語には、日本語独特の分節が適用されているために、カタカナ語=英語という公式は成り立たないことが多い。英語学習においてカタカナ語を活用させるためには、カタカナ語と英語との違いを学ぶことも重要なポイントになってくるはずである。

 

2.3       語彙の習得

ソシュールが定義した重要な概念の一つに「ラング(langue)」と「パロール(parole)」がある。同じと解釈される抽象的な音の連鎖をラング、個々の人の話す一回一回の具体的な音の連鎖をパロールと言った。ソシュールは、音と発話を問題に取り上げているが、語彙の習得という視点から、ここでは、同じ意味を持つ語彙として解釈される抽象的なものをラング、それをもとに学習者が生産する語彙(派生形など)をパロールと考えて、ソシュールのラングとパロールの考え方を応用したい。つまり、レキシコンの中に入っているものをラングとし、実際にレキシコン外に語彙として出されるものをパロールと定義する。

更に、語彙学習法として、オンライン教材を提案する。

 

2.4       形態素

形態素とは、意味を持つ最小の単位のことである。一つの語は形態素によって構成されており、語彙を細かく考える時の単位になる。形態素は言語学上以下のように分類される:

(1)   Inflectional morpheme (屈折形態素)

接辞が付いている語幹の意味が変化しない

品詞が変わることはない

     ex) 複数形のs、三人称単数形のs、etc.

(2)   Derivational morpheme (派生形態素)

接辞が付いている語幹の意味が変わる

品詞が変化する

ex) 「〜する者、物」の-er、反対の意味を表すun-、in-、dis-

これに加え、形態素の性質を次のように分類することもできる:

(ア)Bound morpheme (拘束形態素)

単独では存在し得ない

ex)「再」の意味を持つre-

recycle: re- + cycle

(イ)Free morpheme (自由形態素)

単独で成り立つ

ex) green, book, happy, etc.

 

2.5       オンライン教材による学習サポート

上記のような形態素の何がレキシコンには入っているのかを考える。母語話者にとって何がレキシコンに入れられているのかを考えた時、外国語としてその言語を学ぶ学習者にも同類の形態素がレキシコンに入るよう、サポートをすれば有効ではないかと考える。そこで、サポートの媒体としてオンライン教材を提案する。オンライン教材の利点は、特定の指導者が学習者の前で指導をしなくても自発的に学習ができること、オンライン環境さえ整えば、時間などの制限なくアクセスできることなどである。これらの利点を最大限に活かし、オンライン教材に形態素をのせ、学習を補助する。オンライン教材作成時に最も注意すべきは、形態素を通した学習法は、あくまでも、学習者本人が語のルールに自分で気が付くことが重要なので、そのための最小限のサポートを提供する媒体として定義する。

教材作成のコンセプトを整理すると以下のようになる:

・学習者自身がことばの規則を発見できるような教材開発が目標

・学習者の知的興味をくすぐるものにする

・最終的には英語のみに終わらず、ことばそのものへの興味、関心につながると理想的

・ことばの奥深さ、楽しさに注目した教材を提供したい

 

春3. まとめ

 今学期を通して、ソシュールの記号論の基本的考え方を学び、私自身、改めてことばの不思議や奥深さに気づかされたように思う。記号論を、個人的に「語彙の習得」という観点から考えた。本ペーパーでは、語彙の習得の中でも特に外国語の語彙を学ぶことを中心に、ソシュールの理論の応用性を論じた。

 今後の課題としては、オンライン教材実現へ向けて、具体的に語彙を収集することである。6月には、国立国語研究所による第3回「わかりにくい外来語をわかりやすくするための言葉遣い」の中間報告が公表された。世の中に溢れるカタカナ語に、今まで以上に注目し、最新かつ細心の注意を払って、言葉の変化に敏感でいたいと思う。

 

【2004年秋学期】

「メタ言語能力に注目した言語教育のすすめ −文法訳読式教授法を評価する−」

 

秋1.序論

1.1       研究背景

 本研究は、メタ言語能力の育成という観点から、言語学習を再定義することを最終的な目標とする修士論文の一部、特には基本的概念の整理という位置づけをする。研究対象とするのは、日本国内にいる英語を学習する日本語話者である。その中でも特に、英語学習初心者に的を絞って議論を進めるのは、最近の日本の「早期英語教育論」の対象となっているのが小学生だからである。英語の義務教育開始が中学校一年生である現在、早期教授法としては、従来から変わらず提唱される歌やクイズなどを使った方法と、中学校での文法項目の前倒しが挙げられる。英語学習の初学者、かつ日本語話者であるという特徴を活かした理論的な教授法が提案されてきたか疑問に思うところである。

日本の言語環境は、公用語としてこそ定められてはいないものの、標準的に日本語が使用されており、現状では外国語と言った場合には「英語」を思い浮かべる人が多い傾向にあるようである。しかし、日常生活において、日本語が使えれば何不自由なく暮らすことができるため、カナダのケベック州のように英語とフランス語、というように他言語を必要とするような環境にはない。つまり、日本は英語においては、English as a Foreign Language(英語が話されていない環境で英語を外国語として学ぶこと)という立場を取っている。一方、英語が話されている環境に他の母語を持って、第二言語としての英語を学ぶことをEnglish as a Second Languageというように分類することがある。日本は、明らかに前者、EFLの環境である。このことから、普段触れる機会の少ない他言語を習得することは、動機付けにおいても学習能力においても容易ではないことが予測できる。したがって、学習者の既知の情報を充分に引き出し、かつ英語学習の動機付けを維持できるような学習法を考案する必要性があると考える。本研究では、現在日本国内で最も需要のある英語教育を事例として取り上げ、メタ言語能力を育成するとは具体的にどのような指導をすることなのかを考察したい。

 

1.2       研究意義

 近年、日本では早期英語教育について活発な議論がなされることが多くなった。そのきっかけとなったのが、小学校及び中学校に導入された「総合的な学習の時間」である。この時間は、「国際理解教育」の時間として、英語を学ぶ時間を取ってもよいという定義である。しかし、小学校から英語を学ばせる本来の意味は何であろう。本研究は、その意義が英語の習得にあるのではなく、言語にメタ的な意識を持たせることで、ことばそのものに興味を持つこと、ことばで遊ぶ楽しさに気付くことではないか、という視点で議論を進める。本研究の成果が早期英語教育論に代わる新しい言語教育論の一端となることを期待する。

 

秋2.メタ言語能力の定義

2.1       メタ言語とは

 言語について語る言語をメタ言語(metalanguage)という。メタ言語に対して普通レベルの言語を対象言語(object language)ということがある。言語を客体化し、言語に省察を加える能力、メタ言語を操る能力をメタ言語能力という。

 メタ言語能力は早い段階で出てくる。岡田伸夫(2001)は、著書の中で、Clark(1978)によると、わずか2歳で以下に挙げるようなメタ言語能力が発揮されるということに言及している:

a) 自分の発音、語形、語順を自発的に訂正する

b) 適切な語の選択、発音、スピーチスタイルに関する質問をする

c)  他人の話し方に関してコメントする

d) 言語構造と機能(文法性、意味、適切性、ていねいさなど)に注意を払う

e)  ことばに関する質問をする

つまり、メタ言語能力の活性化とは、このように、自身の話すことば、あるいは周りの人が話すことばに関心が向くことである。第一言語を話すようになり始めたばかりでも、メタ言語的レベルで、ことばに関心を持つようだ。

 これに対し、大津由紀雄(1997)は、「学校英語教育がほんとうにやらなくてはならないこと」の中で、自らが考える英語教育の第一義的目的の一つを、「母語教育としての『国語』教育と連携して、学習者に言語の面白さ、豊かさ、怖さを気付かせる」こととし、これが、「言語に関する意識、メタ言語意識(metalinguistic awareness)の発達促進とその実践的効果を指す」と提案している。以下、この提言の理由を同著作から引用する:

 

メタ言語意識は、言語能力の発達と並行して発達していくものであるが、母語だけでなく、外国語の学習を行うことによって、その発達をより促進する効果をもたらすことができると考えられる。その理由として、次の二点をあげることができる:

理由1)外国語は母語よりも客体化しやすい

理由2)外国語と母語との構造的差異により、学習者が言語の構造的特性に気づきやすい

 

母語獲得の時点でメタ言語能力は発揮され始めるが、外国語学習によって、更にメタ言語意識が高まるというのである。次章以降、大津、及び「awareness of language」を主張したHawkins(1987)の具体的指導例とその理論を紹介する。

 

2.2     大津の「メタ言語能力の発達の促進」論

 大津(1987)は、学習者のメタ言語能力の活性化を目的として、日英語を比較した時のあいまいさにかかわる子どものメタ言語能力を調査した。調査内容の概略は次のようである。

 小学校1年生から中学校1年生の各学年6人ずつ、計42人を被験者として、実験を行った。実験内容は練習セッションとテストセッションと統語論セッションに分かれ、練習セッションでは一つの図形(もしくは文)を二通りに解釈できることを確認した。テストセッションでは、「たろうくんは じてんしゃで にげた はなこさんを おいかけました。」という文が二通りに解釈できるかを聞き、あいまいさを回避する方法を尋ねた。統語論セッションでは、被験者の文法が関係節構文を扱えるかを判断するために「たろうくんは にげた はなこさんを おいかけました。」という文を見せ、「誰が逃げたのか」「誰が誰を追いかけたのか」を尋ねた。実験の結果、5年生以上になると、テストセッションで提示された文のあいまいさにすべての子どもが気が付くことがわかった。また、2年生以下の関係節構文の獲得は、完全ではない。しかし、2年生以下でも一休さんの「このはしわたるべからず」の語彙レベルでのとんちを理解できることからも、どのようなあいまいさをどの年齢で教えるべきかという明確な結論にはもう少し議論を要する。

 更に大津は、同様に、名詞の前に修飾表現が置かれた時の両者の意味的な関係にも、制限的用法と非制限適用法のあいまいさがあると指摘する。具体的には、「きみたちを苦しめる宿題」という節の意味を:1)宿題の内の「きみたちを苦しめるもの」と捉えるか、2)「宿題=きみたちを苦しめるもの」と解釈するか、あいまいである、ということだ。日本語にのみ触れていてこの現象に気付くことはもちろん可能だろうか、ここで、外国語(英語の場合は、関係節の制限的用法VS非制限的用法)の文法体型と比較すると、前述した、母語と外国語の双方の学習によってメタ言語能力は更に促進される、という結論に達することができる。

 以上が、大津が主張するメタ言語能力の発達の促進論である。これは、英語以外の言語にも広く通用する認識の仕方であって、今後日本の言語教育を考える上で、画期的な視点になると思われる。大津は、このようなことば遊びを積極的に取り入れ、メタ言語能力を養う指導をしていくべきだと主張する。

 

2.3       Hawkins”awareness of language” approach

 Hawkins1987)は、生徒に文法はおもしろいと思わせるための文法探求活動を色々工夫している[1]。彼が提案するのは、言語意識を活性化するための「文法探求アプローチ(exploratory approach to grammar)」である。具体的指導法を以下に挙げる。

 まず、教師は下記のような文を与え、生徒とそのパートナーにどのような順序で修飾語を並べ替えたらよいかを考えさせる。

                  blue

She put on her    cosy       blouse.

    nylon

                  old

パートナーと自然な語順で合意できないときには、次に、問題文を大人に見せて、並べ方の好みを聞く。もしくは、教室で合意の取れている文に挿入句を入れるとき、大人はどこに入れることを好むかを尋ねる。このように指導する結果、生徒がことばに意識的に注意を向けることができると思われる。岡田は、「言語には今まで意識したことがなかった規則あるいはパタンがあるということ、自分たちは無意識にその規則に従っているということ、文法の知り方には意識的な知り方と無意識的な知り方の二つがあるということなどを意識することになる。(p.107)」という。重要なことは、「この種のタスクを課す目的は、ことばに対する好奇心を喚起し、ことばに対する感受性を培うことであり、個々の特定の文法規則を教えることではない」という点である。更に、彼独自の視点は、たとえば、「名詞句の中では、形容詞が名詞句に先行する」というルールを導く過程で、生徒に文法用語を自由に作らせることを歓迎していることである。Honda & O’Neil (1993)も同様に、生徒がオリジナルな文法用語を作り出すことを歓迎している[2]。7年生に規則的な複数形の-sの発音を決める規則を発見する作業をさせたとき、”sorta-like-ssみたいな音)という用語を考え出したという。

 Hawkinsは、言語意識アプローチに基づき、中学校の母語(英語)のカリキュラムと外国語のカリキュラムを統合することを提唱している[3]。更に具体的にいうと、規則に支配された創造性(rule-governed creativity)、言語の普遍性、社会との関わりなどを示す現象をカリキュラムに取り入れることにより、学習者の言語意識を活性化することができるのではないかと考えている。

 

 以上、大津と、Hawkinsの考えるメタ言語能力の育成のための具体的な言語指導例を提示することで両者の関係を活発化させることが、言語運用能力を育成することにつながる可能性があることを示唆した。筆者の目標は、この指導理念を日本の言語学習環境で実現化させることである。したがって、本研究では、次に、日本で伝統的に使用されてきた代表的な教授法の一つ、文法訳読式を取り上げ、メタ言語能力育成という観点から評価したいと思う。これは、小学校の「総合的な学習の時間」が中学校の文法指導の前倒しになることを懸念する筆者が、文法指導ではない方法を新しく提案したいと思い、その考えをサポートすることを目的としている。日本古来の文法訳読式教授法を取り上げるのは、日本国内で最も定着している教授法としてこの教授法が小学校でも適用される可能性があるが、メタ言語能力育成の視点からは改善する余地があると考えるからである。

 

秋3.文法訳読式教授法

3.1                Grammar-Translation Method

文法訳読式教授法とは、いわゆるGrammar-Translation Methodのことである。これは、ずばり言語そのものを学ぶことに重点を置いている教授法である。その基本的なアプローチの仕方は、目標言語の文法的規則を分析し、学ぶことにある。そして、通常、指導に使用される媒体は学習者の母語である。近年、目標言語学ぶという特徴を持つコミュニカティブアプローチが主流になりつつある中、目標言語学ぶ文法訳読式教授法が、これまでに数々の国や地域で言語学習をさせ、未だに有効な手法であることを忘れてはいけない。特に、目標言語を何も知らない学習者にとっては、コミュニケーションの土台となる部分を培うことができる。語彙増強という面では非常に効果的な学習方法であるが、それに加えて、語彙の直訳のみにとどまることなく概念やイメージの翻訳の訓練にもなる。

現在のコミュニカティブアプローチ中心の言語教育の風潮の中で、まず矢面に立って非難されるのが、Grammar-Translation Methodであるが、訳読は決して日本独特のものではない。ヨーロッパでも100年から150年前までは、ラテン語及び現代語の学習語をこの訳読方式で行うことが普通だった。ここでは、日本古来の英語学習法といわれる文法訳読式教授法に焦点をあて、その歴史を追いながら内容を吟味し、上記で説明したメタ言語能力育成の教授法との接点を探す。

 

3.2                文法訳読式教授法の歴史(国内)

 江戸中期の儒学者荻生徂徠(おぎゅうそらい)が「会読」と呼ばれる、今でいうゼミの輪読のようなものを共同の勉強の場として提案したことから、その影響を受け、江戸時代の蘭学でも同様の学習法が取られた。徂徠以降、漢文の学習では、入門期はまず「素読(漢籍などを、意味を考えず、字だけを追って、声を出して読むこと)[4]」、それを卒業すると「会読」という教育課程が一般化した。蘭学では、「ガランマチカ(grammarのこと)」と「サインキタス(false syntax: 誤用文法、誤文訂正)」を繰り返す過程が素読にあたり、各塾にて会読が行われていたようだ[5]

 英学の場合、学生は、辞書を使って十分に下読みをした後、教師のもとで会読するシステムが取られていた[6]。音読とは全く関係のない訳読だったため、theを「ヘー」と発音しても「サイ」と発音しても、これによって、成績が左右されることはなかった。当時の会読・訳読をさせていたのは中浜万次郎の「英米対話捷径」にも用いられていた漢文訓読法である。以下にその一部を転記する:

 

『第一リードル挿訳巻之一』(明治5年)1ページ

The() ape(エイプ) and(エンド) the() ant(アント).  The() ape(エイプ) has(ハス) hands(ヘンズ).

     猿  及ビ              猿ガ モツ 手ヲ

                        

 

これは、「文選読み」と呼ばれたが、漢文由来の逐語訳では、How do you do?という文を「youなんじは、Howいかに、doなし、doなすか」という風に訳すやり方もあった。

 その後、明治の新幕府になると、英語を外国人のオーラルによって英語塾で学ぶ「正則英語」と、文章の意味を理解することに集中し、発音を軽視する英学塾の「変則英語」とに分けられていく。変則教授法はマイナスイメージを持った意味として使用されたが、新渡戸稲造は、自身両方の教授法を経験し、変則の欠点を挙げた上で、以下のように言っている:

 

ただオウムのように意味も考えないで、次々に英文を読んでいた正則の学生たちに比べると、変則の学生のほうが通常はるかに正確厳密に意味内容を把握していた。正則教授法は読む機械のように、常にねじを巻いて動かすことになり、正しい発音はできても、知る価値のあることは少しも習得していないという場合が珍しくない

「井村(2003):61

 

 知的訓練を英語学習の目的の一つとしていた戦前の旧制中学校や旧制高校の英語の授業はほとんど訳読中心だった。当時の英語学習の動機付けは、西洋文明への憧れと出世の手段の一つだったといわれる[7]。訳読が高い教育効果を上げたのは、おそらく意欲のある学習者のもとだったからだと思われる。訳読式の教授法が教師の安易な教授法と化した時から、衰退が始まったともいえる。井村(2003:64)はこの傾向に対して、外山正一が「ノンベンクラリの訳読は言語道断の授業法」と非難していることを紹介しながら、自らの見解を以下のように記す:訳読が完全に死に絶えた時、それとともに「正確な読み」(中略)といった日本の英文科のアカデミズムのよき伝統もまた失われるのではないか;文の構造を分析することによって獲得できる正確な読解能力、英語による英語の理解だけでは核心に到達できない、日本語を媒介にして初めてわかる英文の機微、文法訳読式にはそういった利点もあるはずである。

 

3.3                メタ言語能力との関係

  上記で井村が、文法訳読式教授法の利点の一つに「英文の正確な読解能力」と挙げているように、この教授法は、学習者のメタ言語能力を文法、具体的には統語といった面から向上させていると考えられる。つまり、文章を訳読し正確な理解をする結果、文法構造を学ぶことはもとより、母語と対比することにより、言語を客体視するので更にメタ的な意識が向上するということである。そして、Hawkinsや大津が主張する、母語と目標言語を比較する作業が言語への意識を高揚させることにつながるという点では、文法訳読式の担う役割はあるはずだ。

しかし、ここで強調したいのは、目標言語の文を読んで、それを単純に母語に変換するという従来の文法訳読をそのまま引き継ぐのでは、再び「ノンベンクラリの訳読」と非難されかねないという点だ。初めに述べた、大津の提案する英語教育の第一義的目的の一つにある「学習者に言語の面白さ、豊かさ、怖さを気付かせる」には、程遠くなってしまうと懸念する。メタ的なレベルで言語を意識化することが目標ではあるが、それは決して、文法用語や文法規則を一方的に教え込み、暗記させることではない。特に、本研究の研究対象を小学生と絞ったのは、現行の教育課程では、中学校から英語の義務教育が開始されており、小学校はその前段階だからである。言い換えれば、小学校で最優先されるべきことは、文法事項を文法用語を使って教えることではなく、学習者が母語に限らないことばへの意識を高めることだと考える。これは、日本語が通じれば不自由しない日本の言語環境において、他言語学習の動機付けを必要とする学習者にも有効な認識ではないか。

言語が人々と共有でき、コミュニケーションの手段として有効であるということは、互いに共通のルールを持つからである。外国語学習においては、文法事項を一方的に与えられて覚える前に、自ら規則を発見することで、目標言語の共通のルールに気付くことができるはずだ。その過程を楽しむことが、目標言語に興味を持つこと、母語を客体視することにつながると考える。言い換えれば、自分だけの法則だったものを、他の人と共有することが、言語を意識することの第一歩となるのではないか。その過程を体験して、ことばへの意識を高揚させることが私が最終的に期待するところである。したがって、今後の展望として、このように言語への意識を喚起することを目的とした指導法を提示し、Hawkinsや大津のように、その背景にある論理を英語教育の分野に広めることが目標である。

 

【主要論文】

(1)   Nation, I. S. P. (1990):Teaching and Learning Vocabulary: What is Involved in Learning a Word, Boston: Heinle & Heinle Publishers, pp.29-50

<趣旨>

     語とは何か

     語を学ぶということは、どんな作業で、何が大変なのか

     学習負担に影響を与えている要因及びその軽減方法

(a)      学習者の英語に対する事前の経験や母語が、学習に影響している。規則的で予測可能な関係であればあるほど、移転は起こりやすい

(b)      教えるということは効果が三つある:肯定的、中間、否定的。否定的な教授法に対しては、慎重に考えるべきだ、

(c)       教師は、語そのものの複雑さには何もできないが、学習におけるその難しさと影響力を知っておくべきである。

 

(2)   Johnson, Jaqueline S. and Elissa L. Newport (1998): Critical Period Effects in Second Language Learning: The Influence of Maturational State on the Acquisition of English as a Second Language. Cognitive Psychology, 21, 60-99.

<趣旨>

     Lenneberg(1967)の臨界期仮説の構想によると、思春期前までは母語話者と変わらぬ習得過程を経るが、それ以後、急激に能力が落ちていくというものだった。しかし、本研究の結果は、7歳を境に徐々に能力が減少傾向にあることを証明する

     臨界期仮説との関連で考えうる大人の言語運用能力には、2つの側面がある:(a)大人になったからといって、言語が完全に学習できなくなるものになるわけではない、(b)大人の言語運用能力には個人差が大きい

     到着時の年齢と言語運用能力には関連性がある

     統語や形態における間違いのパターンがある:年齢はこの規則を学ぶのに影響する

     臨界期仮説は、母語習得のみならず、第二言語習得にも応用することができる

 

【今後の研究展望】

修士論文研究課題

「メタ言語能力に注目した言語教育のすすめ:ことばであそぶ能力」

 

<研究目的>

本研究の目的は、メタ言語能力が充分に発達していない学習者に、「ことば」そのものへの意識を喚起できるような言語教授法を考案することである。

 

<研究意義>

 近年、日本では早期英語教育が推進される傾向にある。小学校から英語を学ばせる本来の意味はなんであろうか。本研究は、その意義が英語の習得にあるのではなく、言語をメタ的なレベルで認識することに置かれるべきではないか、という視点で議論を展開する。従って、本研究の成果が、英語に特化したものではなく、学習者にとってことばの奥深さや楽しさに気付く一つのきっかけとなることを期待し、ことばで遊ぶ能力を養うことがメタ言語の向上に繋がることを理論的に証明したい。

 

<研究内容>

     メタ言語意識、メタ言語能力とは何か

「脳に内在化している文法という知識をいわば客体化して利用することができる」能力をメタ言語能力という(大津:1989

「言語意識の高揚」(岡田:1998)、Hawkins (1987)

     具体的な指導法の提示

 日本語に輸入されている英語の形態素(例:pre--er-man)を使い、語彙生産能力を養うような指導法を導き出す。日本語に輸入された英語の形態素が、カタカナ語を形成しているという事実を取り上げ、学習者自身が形態素の規則性を導き出すことを目的とする。

  −カタカナ語についての調査:

              カタカナ表記されるものの定義、分類(この指導法を応用し得るのはどの部類か)

              カタカナ語の収集(収集先:雑誌、各種メディア)

              低年齢層にインタビュー(特定の単語を知っているか・何か外来語を知っているかなどのカタカナ語の認知度を調査)

 英語の形態素を理解した者に、同様の役割を果たすものを日本語を始めとする他言語で考える。

     提示する指導法がどのような根拠に基づいているのか、理論付けをする。また、実験的な指導を試みて、その指導案をより実現可能なものに改善する

 

<研究予定>

     2004年度 春休み

カタカナ語の調査を行い、具体的に、どのような指導法が考えられるかを吟味

     2005年度 春学期〜夏

指導法の理論の裏づけを固める

実験的指導を試みる

夏以降、可能なところから執筆を開始

 

【参考資料】

大津由紀雄(1989):「学校英語教育が本当にやらなくてはならないこと」、『関西英語教育学会紀要』第21号より

岡田伸夫(1998):「言語理論と言語教育」『言語の科学11言語科学と隣接領域』、東京、岩波書店

石川九楊(2000):『二重言語国家・日本』、東京、日本放送出版協会

堀部秀雄(2002):『英語観を問う:英語は「シンデレラ」か「養子」か「ゴジラ」か?』広島、溪水社

竝木崇康(1990):『語形成』、東京、大修館書店

 



[1] 岡田(1998):166

[2] 岡田(1998):175

[3] 岡田(1998):175

[4] 井村(2003):p.52

[5] 井村(2003):p.54

[6] 井村(2003):p.55

[7] 井村(2003):p.64