2005年度 森泰吉郎記念研究振興基金 研究者育成基金 修士課程報告書

開発途上地域における高齢者問題に関する研究』

政策・メディア研究科 修士課程1年 80525068 槌屋 洋亮

 

概要

本研究では、年金・医療介護など、国家レベルでの社会保障制度が未整備な状態にある一方で、急速な経済発展による社会変化の只中にあるベトナム都市部における高齢者の生活と家族関係について考察する。この考察を通じて、現在開発途上にある地域において高齢者自身が身体的・経済的に何を問題としており、またそれに対して彼らをとりまく家族関係がどのような役割を果たしているのかを提示することが、本研究の主題である。今年度は研究の第1段階ということで、上記の問題設定に至る背景の整理、および、それに基づく予備調査をベトナム中部都市フエにて行った。

 

背景と問題認識

「開発途上地域における高齢化」は、2002年にスペインのマドリッドで開かれた「高齢化に関する世界会議」においてはじめて政策的課題として世界的に認知された。同会議で採択された「高齢化に関するマドリッド国際行動計画[i]」(以下「国際行動計画」)において、主に人口学的な知見から今後顕在化する途上国の高齢化に関して、先進国との比較のうえで 1)経済開発と同時に人口高齢化が進行していること 2)途上国の高齢者の大半は農村地域に居住していること 3)途上国では多くの高齢者は複数世代同居世帯で生活している、以上の3点の違いが指摘されている。このことから、同行動計画によれば、先進国と開発途上国では、高齢者に対する政策措置が異なり、従来の先進国のように福祉政策による対応を図るのではなく、経済開発との関連の中に位置づける必要があるとされている。

一般的に高齢化といえば、身体的・経済的な観点から高齢者の生活を支えるために社会全体でその負担(コスト)をどう払うのか、という点が問題となる。成熟社会では、高齢化問題に対して年金制度、医療制度を始めとした各種社会保障を整備することで対応してきた。一方で「国際行動計画」においては、世界規模での高齢化への対策として、1)「高齢者が国家の開発プロセスに完全に参加し、その利益を享受すること(高齢者と開発)」 2)「高齢期にわたる健康と福祉の増進」 3)「高齢者が活動可能であり、かつ高齢者に対して支援的な社会環境の整備」 という3つの優先的な課題が掲げられている。

だが、開発途上地域における高齢者の生活問題についての議論の多くは、人口統計による予測の枠組みの中で行われているのが現状である。人口統計からの予測では、比較的早くから途上国における高齢化についての議論がされている[ii]一方で、現在高齢期を迎えた人々自身が「何を」問題としているかという点は、経済的・身体的な観点からもあまり明らかになっていない。そもそも「国際行動計画」も例外ではなく、多くの途上地域における高齢者問題といえば、「将来経済発展を遂げ人口構造が変化することによって大きな問題となるだろう」というのが基本姿勢であり、その根底にあるのは「国民国家(国民社会)を基礎単位とした経済発展の中で、高齢者に対する社会保障制度の設計を如何に行うか」という問題認識である。ここには、途上国の高齢者自身が自らの生活のうえで何を問題としており、その対応策として有効な生活基盤は何なのかという点が抜けているのである。

 

問題設定

一方で社会保障制度が未整備なまま、一方で急速な経済発展・社会変化を経験するだろうと予測が立つ中で、現在生きている高齢者自身は、経済的・身体的に生活を安定化させるうえで「何を」問題としているのか。そして、彼ら自身が問題とする点に対して、「何が」有効な生活基盤として、どのように機能しているか。本研究では、1985年以降の市場経済化による激しい近代化の只中にあるベトナムの都市部を対象とし、高齢者自身への聞き取り調査・参与観察といったフィールドワークを通して、上記の問題を明らかする。考察に当たっては、本研究で検討するのは以下の2つの点である。

 

1 ベトナム都市部で生活する高齢者自身は、「何を」問題としているのか

2 高齢者自身は「何を」重要な生活基盤と考え、それはどのように機能しているのか

 

この点については、「特にベトナムでは、現在高齢期を迎える人々は先進国と同様の問題(経済的支援、身体的介護など)に加えてベトナム戦争の後遺症として戦争被害や、特に高齢の女性の多くは未亡人である[iii]という、ベトナムに特殊な問題を抱えている。これらの普遍かつ特殊な身体的・経済的な問題に対して有効な生活基盤となり、高齢者の生活安定化に寄与しているのは、ベトナムの伝統的な家族関係[iv]に基づいた非高齢者世代による経済的・身体的な側面での有形無形の支援である」という仮説を立てる。

 

予備調査

 

調査地の選定

今回、以下の点から中部都市フエを調査地として選定した

1)統計的観点から:1999年の時点で、Thua Thien-Hue省の総人口(約104万人)のうち、60歳以上人口[v]の割合が9.7%と、ベトナム全体の60歳以上人口の比率(8.1%)よりも高い水準にあること。都市部(フエ市)での総比率は若干落ちる(8.6%)が、女性の60歳人口の比率は、都市部・農村部ともに軒並み高い水準にある。

2)都市部の特徴:本研究が考察対象として重要となる家族関係が、ベトナムにおいて変化し、希薄化するのは都市からであるという認識が背景にある。また、市場経済化以降、特に北部ハノイ、および、南部のホーチミン・シティと比較して、経済発展の進行度合いが遅れていることから、「これから経済発展を遂げることで、諸々の社会変化を経験する」という位置づけが可能である。

 

調査概要

日時:2005821日〜917

場所:ベトナム中部フエ(下記聞き取り調査を行った)

調査対象:フエ都市部に居住する60歳以上の男女

手法:半構造化インタビュー(あらかじめ質問項目を用意し、その質問項目をインタビュー形式で聞き取る)

収集データ:フエ在住の60歳以上の高齢者計9人への聞き取りデータ、現地の生活環境等を視覚的に把握するための画像・映像データ(今回の調査が初めてであったことによる)、その他観察に付随する記録

 

収集データの基礎統計

年齢:60代→4人 70代→5

性別:女性→5人 男性→4

出身地:全員フエ近郊

教育状況:高等教育(大学もしくは短大卒)→4人 中等教育(高校もしくは中学卒)→2人 

初等教育→1人 未就学者→1

 

質問項目

@     基礎的質問:生年月日・出生地・年齢・性別・最終学歴・職業(就いた事ある仕事)・年金の受給状況

A     過去の家庭環境・家族構成:両親の生年月日・住んでいた場所・仕事・教育状況 兄弟姉妹の人数・生年月日(生まれた年)・年齢・教育状況(最終学歴、卒業年次)

B     現在の生活環境・家族構成:結婚した年 妻の生年月日・年齢・仕事をしている場合はその内容・教育状況(最終学歴・卒業年) 子供の数・構成・教育状況・職業・所在地等 同居人の有無

C     過去の経験:職業経験、教育状況、兄弟姉妹・両親の職業経験・住んでいる場所、ベトナム戦争中の体験(未亡人化、従軍経験、身体的・精神的被害の有無など)

D     現在の生活についての評価:子供からの支援についてどう考えているか 現在/将来に向けて不安に思うことは?

E     その他:年金を受給しているか、何か公的に経済的な支援を受けているか、地域組織の活動へのコミット状況など

 

考察

今回の調査で得られた大きな発見は以下の3点に集約される

 

1.年金の受給と過去の経験(戦争体験、職業・教育経験など)
ベトナムの年金制度は、1995年以前は軍人・政府の役人・公務員に対してのみ支給されるものであった。今回調査した9人については、1995年以前から受給しているのが3人(男性2人、女性1人)、1995年以降は3人(全員女性)、そして非受給者は2人(ともに男性)であった。1995年以前に受給している3人は、ベトナム戦争中に北ベトナム側(現体制側)の立場から参加していた軍人、あるいはそれをささえる組織等で活動していた。逆に非受給者の2人は、戦争中は南ベトナム側の軍人として活動していたのが1人、1人は戦争には参加せず日雇い労働に従事していた。また受給者の3人は全員大学卒であるのに対して、非受給者の2人はそれぞれ高卒・小学校卒業と、教育水準は低いことがうかがえる。これに対して、1995年以後の受給者と以前の受給者の間には、それほど明示的な差は見られなかった。

2.家族との関係
9人全員が、彼/彼女らの子供たちと同居をしているか、あるいは兄弟姉妹と同居しており、子供から経済的・身体的支援を受けている。彼らはほぼ例外なく、2人以上の子供を持っており、子供たちのうちの幾人かは、サイゴンやハノイ、フエの近くにある中部最大の都市ダナンやクイニョンで働いており、彼らへ経済的な資金を送っている。また、子供が女性(娘)の場合、結婚したら夫の家にすまなければならないという「伝統」が残っており、そのために彼らの子供が、フエの外へ移住するケースが多く見られた(結婚のため海外へ移住したケースもあった)。

3.現在の生活の評価
調査した9人のほとんどは、将来の生活に対して「ほとんど不安はない」と答えた。しかしながら、インフォーマントの反応は様々であり、明確な形で「不安がない」という印象をうけることは無かった。以下、解答の一例を示す。

・「息子2人とはいつまでも一緒に暮らしていたい。もし彼女が1人ですまなければならない状態になったときのことを考えると時々孤独を感じ、悲しい気持ちになる。」(Bさん)
・「今不安なことは無いが、生活が息子達に依存してしまっていることにはあまり満足していない。」(Dさん)
・「生活は、息子が少し送金してくれて、あとは年金で月50VNDもらっている、だけど十分ではない。」(Fさん)
・「背中に痛み、高血圧などを抱えており、ケアしてくれる子ども達がいなくなったときのことを考えると少し不安になる」(Hさん)

いずれも「不安はない」という解答をする根拠に子供からの経済的・身体的な側面での支援、あるいは精神的なつながり等を挙げている。特に子供が全員娘の人は、娘全員が結婚して家からいなくなってしまったとき、誰が自分の介護をしてくれるのかという点に対して不安を抱えていることが伺える。

 

予備調査の知見と問題点

予備調査の結果から、ベトナムの高齢者は生活を維持し安定化させるうえで、自分の子供やあるいは兄弟姉妹からの経済的・身体的な支援が、大きな役割を果たしているということが分かった。その背後には、過去の職業経験、教育状況、戦争体験による、社会保障制度の恩恵にあずかれるかどうかが左右されている現実があることがうかがえた。この「伝統的」家族関係が、経済発展と社会保障制度の整備、あるいは社会変化の過程で必要とされなくなり、むしろ弊害となる要素が顕在化していくのか、それとも何らかの形で変容されつつも維持され、高齢者の経済的・身体的な支援の上で大きな役割を果たすものとして機能しつづけるのか。この点が、今後検討すべき課題として浮かび上がってきた。

問題点としては、高齢者自身が「何を」問題と考えているのか、具体的な知見が得られなかったこと、またそれを引き出すための質問ができなかったことが挙げられる。この点については、次回の調査の際に活かすべき課題となる。

 

今後について

 

以上が、本研究の現在までの報告である。今後は、予備調査で得た知見と課題を具体化し、314日〜27日の間に同様にフエで調査をすすめていく。また、高齢になった両親を抱える非高齢者層への補助的なインタビューも行い、同じ世帯内における親世代(=高齢者層)と子世代(非高齢者層)の両方の側面からの家族関係の考察を行い、その互助的な機能を把握することを行う。さらに、今後はハノイにても同様の調査を行い、「これから発展していく都市」としてのフエと、「ある程度の経済発展を遂げている」ハノイの間での相違点を考察することとを検討している。

 

森基金の用途について

 

援助いただいた基金は、主に昨年夏の予備調査における渡航・滞在費用に、また調査に必要な機材、書籍等の購入に当てた。

森基金からの多大な援助によって、予備調査を行うことができ、また必要な機材・書籍等をとりそろえ、研究のうえでも大変有意義であった。ここに謝辞をもうしあげます。

 



[i] 「高齢化に関するマドリッド国際行動計画」については、http://www.un.org/ageing/coverage/action.pdf(英文)、および、http://www8.cao.go.jp/kourei/program/madrid2002/plan2002.html(日本語)を参照

[ii] 嵯峨座(1997)および阿藤(2001)

[iii] ベトナム統計局(General Statistical Office of Vietnam1999年発行の人口センサス(1999 Population and Housing Census)によると、ベトナムでは60歳以上の女性のうち50%が夫を亡くした(Widowed)人である。これは当時ベトナムの60歳以上人口の中で約30%の割合を占め、世代別・性別に比較してもその数は飛びぬけて高い。(GSO 1999)

[iv] Fitzgerald(1972=2002)によれば、ベトナムには中国から儒教思想の影響を強く受けており、村落における人間関係(地主と小作農の関係)や、あるいは家族関係(親子関係など)の中にそれが「伝統」として根付いている。特に農村社会におけるこの「伝統」(「パトロン−クライアント関係」)の経済的な側面について、Scott(1976:1999)は「生命維持倫理機能(モーラル・エコノミー)」の観点から、Popkin(1979)は市場経済と合理的選択の観点(ポリティカル・エコノミー)からそれぞれ擁護・批判し、その機能の有効性について論争が行われている。本研究ではこれらの先行研究を踏まえ、ベトナムの「伝統的」な儒教思想を基盤とした人間関係を考察対象とし、それがもっとも象徴的に現れる場として「家族」があると考える。

[v] 本研究で、国際連合およびWTO(世界保健機関)の定義に基づき、調査対象の「高齢者」を60歳以上としている。

 

 

参考文献

Fitzgerald, Frances. 1972 Fire in the lake: The Vietnamese and the American in Vietnam War. Vintage Books.

James C. Scott. 1976 The moral economy of the peasant : rebellion and subsistence in Southeast Asia. New Haven : Yale University Press (ジェームス・C・スコット著 ; 高橋彰訳『モーラル・エコノミー : 東南アジアの農民叛乱と生存維持』東京 : 勁草書房, 1999)

Samuel L. Popkin. 1979 The rational peasant : the political economy of rural society in Vietnam. Berkeley: University of California Press

GSO (General Statisitcal Office of Veitnam) 1999 Population And Housing Censusu Sample Result

・阿藤誠『グローバル・エイジング−成熟の証か衰退の始まりか−』金子勇編「講座社会変動8 高齢化と少子社会」pp.36-67

・五島文雄・竹内郁雄編『社会主義ベトナムとドイモイ』アジア経済研究所 研究双書No.446  1994

・嵯峨座晴夫「人口高齢化と高齢者:最新国勢調査から見る高齢化社会」東京・大蔵省印刷局 1997

・中野亜里「ベトナム 工業化・近代化と人々の暮らし」三修社 1998

・「高齢化に関するマドリッド国際行動計画2002」( 英文 http://www.un.org/ageing/coverage/action.pdf  日本語http://www8.cao.go.jp/kourei/program/madrid2002/plan2002.html )