2006年度 森泰吉郎記念研究振興基金 研究報告書

 

 

麻酔ナビゲーションシステムにおける、分散ベイジアンネットワークを用いたアドホック推論エンジンの構築

 

政策・メディア研究科

後期博士課程

白鳥成彦

 

 

今研究では麻酔ナビゲーションシステムにおける推論エンジン部分を昨年度までに構築した分散ベイジアンネットワークとアドホック推論エンジンを統合したベイジアンネットワークレイヤーモデルの構築を行うことで実現していく。アドホック推論エンジンを構築することで、手術におけるその場の状況に応じてベイジアンネットワークが再構成され、麻酔科研修医はその人の経験に即した自分だけの手術情報を入手することができる。

 

 

Introduction

 

麻酔ナビゲーションシステムとは、麻酔科研修医が手術においてミスを起こすことなく乗り切るための情報を提供する学習用のナビゲーションシステムである。今研究では麻酔ナビゲーションシステムにおける推論エンジン部分を昨年度までに構築した分散ベイジアンネットワークモデルに対してアドホック推論エンジンを統合させたベイジアンネットワークレイヤーモデルを構築することで行っていく。アドホック推論とは外科医の状況や患者の状況等によってさまざまに手術状況が変化する中で、その場の状況に応じてベイジアンネットワークが再構成され、推論が行われていくことである。今回構築したベイジアンネットワークレイヤーモデル(BNL)とは昨年構築した分散ベイジアンネットワークに対して、アドホック推論を追加するために、活動理論に応じてベイジアンネットワークを3種類に分割したモデルであり、目的を表すアクティビティベイジアンネットワークモデル、実際の行為を表すアクションベイジアンネットワークモデル、無意識的な操作を表すオペレーションベイジアンネットワークモデルの統合で構成されている。BNLモデルによって、1つの目的に対して、さまざまな行為モデルを割り当てることができるために、その場の状況に応じたアドホックなベイジアンネットワークモデルを構築することが可能になる。

 

アドホック推論エンジンを用いた麻酔ナビゲーションシステムを、麻酔科医が手術中に利用することで、その人の経験に即した自分だけの手術情報を入手することができる。例えば、研修医1年目には、難しい医学的情報ではなく、とりあえず医療的危機を起こさないための最低限の情報を提供する。また、ある程度経験をつんだ研修医には、これまで経験した手術情報に即した形で、自分が起こしそうなミスや指導医から指示された内容を含んだ情報がシステムから提供される。

 

 

研究背景

 

手術中、麻酔科医は麻酔行為自身が持つ不確実性と手術室における情報環境の複雑さのために、ヒューマンエラー、技術的エラー等を引き起こし、そのエラーが複数絡み合い重大な麻酔事故が引き起こされている。麻酔活動が持つ不確実性とは、麻酔医が対応する患者状態の不確実性から起因する。患者の状態は、モニター個々のノイズを持つ数字からの不確実な予測でしかなく、さらに、その患者自身も遺伝等の先天的要素、外科的行為の介入等の後天的要素により不確実性を有することになる。以上の不確実性に加え、手術室における情報環境の複雑さが起因となり麻酔事故が引き起こされている。

 

 以上のような不確実性から起こる麻酔事故に対し、修士研究より引き続いて麻酔ナビゲーションシステムの制作を行っている。麻酔ナビゲーションシステムとは、手術室において麻酔医の活動を強化:オーグメンテーションするための道具である。この道具:システムを麻酔医が手術中に利用することで、麻酔事故が未然に防がれ、麻酔医はより多く麻酔活動を濃密に経験し、実体験を通して麻酔知識を学習していくことができる。

 

 2005年度は麻酔ナビゲーションシステムを設計するためのエンジン部分である、手術室における麻酔科医の行動を分散ダイナミックベイジアンネットワークを用いてモデル化を行った。2006年度は麻酔ナビゲーションシステムを実装段階へ移行するためのプロトタイプコンセプトを手術室内で麻酔エンジンとして実装するフェーズへと移行する。具体的には、実際に麻酔医が通常の行為の中で利用する道具のハードウェアデザインと麻酔意思決定に関連する全ての情報を意思決定にふさわしい情報に変化させるためのソフトウェアデザインに分けることができる。今年度は、後者のソフトウェア部分に焦点を当て研究を推進し、これまでのハードウェアサイドの研究とインテグレーションを図った。

 

 

関連研究

 

現在までにも、医療における思考支援ソフトウェアシステムとしてMYCINを代表とするエキスパートシステムが存在してきた。エキスパートシステムは特定の与えられた領域における専門家をシミュレーションするコンピュータ支援システムとして、医療界において1970年代から利用されてきたシステムである。このシステムには多くの種類が存在するが、多くのシステムは専門家における意思決定の流れをif-thenルールを用いて記述していき、コンピュータ内に表現された知識空間を利用してユーザーに必要な情報を提供するというシステムである。

 

しかしながら、エキスパートシステムは麻酔活動を支援する道具としては有用なものにはなりえない。大きな問題として麻酔における意思決定の不確実性をあげることができる。落合は麻酔医における意思決定は、エキスパートシステムで採用された決定的な論理では表現できず、もっと不確実性で曖昧さに満ちたものであることを麻酔医のためのシミュレータエンジンの開発を例に出して述べている。麻酔医の活動、身体的な知識は感や経験に大きく左右され、決定的な論理では表現できないのである。

 

これら不確実性を簡易な確率モデルを通して表現する手法がベイジアンネットワークを利用した手法である。(Pearl 1988; Russell and Norvig 1995) ベイジアンネットワークモデルはノードと呼ばれる状況を表す命題郡、ノード間のリンク、条件付確率とによってあらわされるグラフィカルな確率モデルである。条件付確率を用いて適切な数値内で不確実な行為をモデル化することができるために、医療診断や自然言語処理等で利用されてきている。また、コンピュータの高速化により、多数のノード表現が可能になってきたために、現実味のあるアプリケーションとして展開されてきている。今研究においても、昨年度はベイジアンネットワークを利用し、麻酔科医のダイナミックな活動を分散ダイナミックベイジアンネットワークによってモデル化を行った。(白鳥成彦 and 奥出直人 2005, 2006)

 

分散ダイナミックベイジアンネットワーク構成図

 

しかし、麻酔医が手術室内でする行為はそれぞれの麻酔科医の目的と経験により違い、また、そのときの医療データにより大きく違うために、事前に設定された1つのモデルでは表現することが難しい。さらに、麻酔科医の意思決定は、麻酔科医自身だけで決定されるのでなく、外科医や患者など他の行為者に影響を大きく与えられている多次元モデルである。このように麻酔科医の行為は目的や、経験によってさまざまに異なり、多数の行為者が関連する多次元的なモデルである。しかし、通常の単一なベイジアンネットワークモデルでは、最初に問題空間とノードを決定してしまうために麻酔科医の行為の特徴である状況性と多次元性のモデル化が非常に難しくなる。

 

 現状の研究と目的であるシステム間の問題点を整理すると以下になる。

 

・単一なベイジアンネットワークモデルでは麻酔科医の行為の特徴である状況性と多次元性のモデル化ができない

 

 

Concept

 

以上の問題を解決するために、ベイジアンネットワークレイヤーモデル(BNL)を利用し、状況に応じてベイジアンネットワークが再構築されるアドホック推論エンジンを構築する。BNLモデルはアクティビティ、アクション、オペレーションという3種類の抽象度が違うベイジアンネットワークを統合したモデルとなっている。アクティビティベイジアンネットワークモデルとは今回のシステムを利用するグループとユーザーの目的を表すベイジアンネットワークである。次の、アクションベイジアンネットワークモデルとはアクティビティモデルで表現された目的を達成するために行うユーザーの行為を表すモデルである。オペレーションベイジアンネットワークモデルとは行為がどのような無意識的行為(操作と呼ぶ)から行われているかを表すモデルである。3種類の抽象度を変えたベイジアンネットワークを統合したモデルがBNLモデルである。

 

ベイジアンネットワークレイヤーモデル

 

BNLはシステムを利用するグループとユーザーの目的を表すアクティビティベイジアンネットワークと、ユーザーの行為を表すアクションベイジアンネットワークと、行為がどのような観察から行われているかを表すオペレーションベイジアンネットワークの統合で構築されている。アクティビティ、アクション、オペレーションそれぞれのレベルのベイジアンネットワークで、推論が可能であり、独自に推論結果(事後確率)を求めることができる。

 

BNLを用いることで手術において麻酔活動を表現する一定のベイジアンネットワークを最初に構築するのではなく、外科医や患者の状況や手術の進行具合等、手術中のコンテキストに応じてベイジアンネットワークを再構築し、コンテキストに応じたベイジアンネットワークモデルを構築するものである。このように、ベイジアンネットワークの再構築をアドホックに行うことで、ユーザーの目的と経験、システムを利用する時の医療データに応じた形で柔軟に、その人に即した形でベイジアンネットワークを構築することができる。(白鳥成彦 and 奥出直人 2006)

 

 2006年度の研究は慶應義塾大学湘南藤沢キャンパスにおいて、ソフトウェアプロトタイプの作成を行うとともに、慶應義塾大学医学部麻酔学教室と東邦大学医学部麻酔学教室の医学部サイドの協力の下、実際の手術室での実証調査、医師とのコラボレーションを踏まえてナビゲーションシステム研究を進めてきた。

 

 

 

Reference

 

Pearl, Judea. 1988. Probabilistic reasoning in intelligent systems: networks of plausible inference. San Mateo, California: Morgan Kaufmann.

Russell, Stuart J., and Peter Norvig. 1995. Artificial Intelligence: A Modern Approach. 2nd Edition ed: Prentice Hall, Inc.

白鳥成彦, and 奥出直人. 2005. 分散ベイジアンネットワークを用いた麻酔データベースの構築:曖昧な麻酔プラクティス表現と麻酔ナビゲーションシステムの構築を通して. Paper read at 25回医療情報学連合大会, 11.24--26, at Yokohama, Japan.

———. 2006. ダイナミックベイジアンネットワークを用いた麻酔行為の表現. Paper read at 64回人工知能基本問題研究会, October 30-31.

———. 2006. ダイナミックベイジアンネットワークを用いた麻酔行為の表現: 麻酔ラーニングナビゲーションシステムの構築を通して. Paper read at 2006年人工知能学会全国大会, June 5-9, at Tokyo.