森基金報告書

課題名:近世フランス外交—武器としての欧州統合論—

氏名:中嶋洋平

所属:慶應義塾大学大学院政策・メディア研究科後期博士課程

 

はじめに

 第二次世界大戦後のフランス外交は、ドイツの(再)強大化を抑え込み自国の安全を確保する、また(西側陣営に属しつつも合衆国に対抗しながら)ヨーロッパ政治における発言権を確保するということに主たる関心をもってきた。ヨーロッパ統合とはフランスにとって恐るべきライバルであるドイツを自陣営に引き込み、また国際政治における自国の地位を高めるための方法論という側面があった。

 もちろん恒久平和の構築こそがヨーロッパ統合の目的であるという考え方もまた正しい。しかしフランスがヨーロッパ統合論を武器にしてしたたかな外交政策を展開してきたこともまた事実である。欧州統合が主権国家が分立する国際社会において展開される以上、それは否応なしに主権国家同士の利害関係に左右され、さらには主権国家によってその利益のために利用される。このような「(フランス外交の)伝統」は16世紀末にすでに見られる。

 本基金によって今春に提出することを目標としている小論を執筆するための準備ができた。小論のレジュメをもって報告書に変えたい。小論においては欧州統合の歴史を遡りつつ、ヨーロッパ統合という政策が歴史的にフランスのような大国にとっては外交上の武器となっていった過程を見直していきたい。

 

レジュメ

. 欧州統合論の類型

 しばしば欧州統合の父と呼ばれるジャン・モネの友人で、ソルボンヌの歴史学教授であったJ.B.デュロセルは欧州統合研究において優れた業績を残している。欧州統合論は長い歴史の中で多くの先駆者達によって語られてきたわけであるが、デュロセルは統合論を4つの形態に分類している。(J.B.Duroselle, L’idee d’Europe dans l’histoire, 1965

 

1、信条(による統合)

Respublica Christianaのような宗教的信条、共産主義

2、力(による統合)

シャルルマーニュ、ナポレオン、ヒトラー
3、多様性(の中での統合)

ウィーン体制、ヴェルサイユ体制、バランスオブパワー
4、相互承認

連邦形態の欧州、欧州合衆国論、パンヨーロッパ論

 

 シャルルマーニュの企ては信条(宗教的信条)に基づくものであったが、それを現実に昇華させようとする際に力が用いられたというように、いかなる統合論も明確に4つの形態のいずれかに分けられるというわけではない。

 ただ歴史的に見れば、1から4の順番で現れてきたと言える。当然であるがそれぞれの時代によって社会背景が異なるからであり、社会背景が違えば問題の解決方法(政策)は自ずから異なってくる。

 デュロセルは欧州統合を研究する際のある種の心構えについて述べている。(J.B.Duroselle, L’idee d’Europe dans l’histoire, 1965 彼によれば欧州統合に関わる者は統合のビジョンを示す、もしくは統合を推し進める先駆者(le precurseur)と欧州統合を研究する歴史家(歴史家となっているのは彼が歴史家であったからであって、歴史家は研究者と良い換えることができる)に分けられる。先駆者、すなわちモネやシューマン、クーデンホーフカレルギー卿はただただ目の前の現実によって突き動かされて先駆者となった。もちろん彼らが歴史を知らないわけはなかったであろうが、過去に欧州統合の思想が存在したからこそ彼らが欧州統合を提唱した、というわけではない。欧州統合という政策は目の前にある問題を解決する方法として提示されてきた。しかし歴史家(研究者)は欧州統合論の系譜というものが存在するとし、そのような系譜の源流がどこにあるのかを探し求め、新たな発見を成そうとする。研究者としては大変頭の痛い指摘であるが、発見に酔いしれ先駆者と現実の関わり合いを無視し、先駆者があたかも過去の欧州統合論に従っているに過ぎないと考えるようなことは慎まなければならないだろう。

 

. 初期欧州統合論

 ヨーロッパという呼称は紀元前12世紀にはすでに見られたのであるが、あくまでもある種の「地政学的表現」として、漠然とした範囲を指し示すものでしかなかった。ヨーロッパはあくまでもアジアの西側にある付属物(un appendice)なのであり、ヨーロッパの境界は果たしてドン川なのか、ヴォルゴ川なのか、ウラル山脈なのか、はたまたコーカサス山脈なのかと揺れ動いていた。(J.B.Duroselle, L’Europe Histoire de ses peuples, 1990

 このような漠然とした地域概念でしかなかったヨーロッパというものをあたかも一体であるかの如く捉えられ、その統一が論じられるようになるには、脅威や圧力といったものの存在が必要であった。つまりある集団は何らかの外部集団に対し自らを差異化することによって初めて一つの集団たる自覚を持ち得る。

 デュボア(「聖地の回復について」)、マルシリウス(「平和の擁護者」)、イジー・ポディエブラト王と、初期欧州統合論の担い手達とされる名を並べてみたが、いずれも勢力を拡大するイスラム教に対抗するためにキリスト教諸国に団結を求めている。十字軍遠征の失敗、東地中海地方の拠点の喪失によって、キリスト教勢力はイスラム教勢力に対して危機感を抱いていた。イスラム勢力の攻勢(=外敵、外部圧力)によってキリスト教勢力は否応無しに団結することの必要性を自覚したのだ。

 中世のキリスト教世界には一つの世界観が存在していた。(H. Kissinger, Diplomacy, 1994)すなわち、神が天上を支配し、皇帝が世俗世界を指導し、ローマの教皇が信仰を司るというものである。神を頂点とし、皇帝と教皇が諸人民の上に君臨するという世界観は、中世的キリスト教的普遍主義と呼ぶことができるだろう。このような世界観とそれが通用する場所=ヨーロッパが結びつき、統合されるべきキリスト教圏としてのヨーロッパという概念が誕生したは、上述のような背景の下であった。

 

. 国家主権と欧州統合

 外敵に対して団結する、という欧州統合論の基本的形態がある時点で変容し始める。フランス国王アンリ4世によるLe grand dessin(大計画)はキリスト教諸国の団結を訴えつつも、前代の欧州統合論とは色合いが異なる。

 王の側近、シュリー公爵によると、この計画は「イエスキリストの名の下に諸国家、諸王家を包括した常に平和なキリスト教共和国を建設すること」を目的としていた。16世紀のヨーロッパは血みどろの宗教戦争が続いており、アンリ4世は自らが出した「ナントの勅令」の精神をヨーロッパに広げることによって相次ぐ宗教戦争を終わらせようと考えた。そしてこのためには統合されたヨーロッパが共同軍や議会、裁判所の設置することが必要だという。

 このような点においてle grand dessinは初期欧州統合論とさほど変わらない。しかしながら、仔細に分析すれば実はこの計画が先述のような中世的普遍主義的世界観に従っていないということが分かる。

 まずヨーロッパに設置される諸組織において、諸国家、諸王家は基本的に平等であり、皇帝家の至上性は認められていない。次に、内部の平和のためにキリスト教諸派が和解すべきことを訴えるが、こうしてカトリック教会の守護者=皇帝家の至上性は減退することになる。そして、王がヨーロッパの宗教戦争を終わらせようとしたのは、それがヨーロッパ国際戦争だからであり、ヨーロッパ国際戦争の影響を受けるフランス国内の動乱を抑えるためにはヨーロッパレベルで平和を達成しなければならなかったからだ。従って王にとってはヨーロッパ云々というよりもフランス国王としてフランスの国内平和を達成することが政治的最優先課題であった。

 このようにLe grand dessinは前代の普遍主義的世界観から抜け出してしまっている。しかしアンリ4世が果たしてそのことを自覚していたのかどうかは検討されねばならないだろう。新しいヴィジョンというものは常に無自覚なレベルで前代の既成概念を打ち破ってしまうものである。このアンリ4世は1610年に暗殺されle grand dessinが実行に移されることはなかった。しかしその跡を継いだルイ13世の下、宰相リシュリューによって(極めて意図的に)中世的普遍主義的世界観は完全に破壊されてしまう。

 近代、相次ぐ国家間戦争の中で、ヨーロッパの平和と安定を目的として多くの統合論が生み出されたが、いずれの場合も諸国家の平等という概念を基礎に置いているのであり、こうして欧州統合論が描く諸国家の関係は普遍主義的世界観に基づくものから主権国家の平等性に基づくものに変わった。

 アンリ4世のLe grand dessinはデュロセルが言うところの「多様性の中での統合」という統合形態の最初のケースである。では王はLe grand dessinを企てることで中世的な世界観を破壊してしまうことを意識していたのだろうか。それとも結果的にそうなってしまっただけだろうか。これは今後の検討課題である。