研究課題名:がんメタボローム

氏名:紙 健次郎

所属:政策・メディア研究科後期博士課程1

バイオインフォマティクスプログラム

研究成果報告書:2006年度

 

1.序論

       近年慶應義塾大学先端生命科学研究所にて開発されたキャピラリー電気泳動質量分析装置(CE-MS)を用いたメタボローム測定法1により、微生物・植物・血液・尿・組織片さらに昨年度の研究から培養細胞サンプルのメタボローム解析が可能となり、特にメタボローム解析のがん研究への応用は、がん細胞特有のエネルギー代謝機構を解明する上で非常に有用であると思われる。膵臓癌由来細胞株、特にPanc-1などはグルコース飢餓などのストレスに対する耐性が強いことが知られており2、肝臓癌細胞株であるHepG2などはグルコース飢餓状態において、大気圧酸素濃度に比べ低酸素下でむしろ細胞の生存率が顕著に高いことが知られている。これらの先行研究から、特にストレス耐性の強い癌細胞がグルコースや酸素の欠乏を感知し、ストレス環境に順応するためにエネルギー代謝機構を調節し生存性を向上させている可能性が考えられるが詳細は未知のままである。そこで、これら2種の細胞株をグルコース飢餓や低酸素などのストレス条件下にて培養し時系列メタボローム解析を行うことにより、変動の大きな物質を導き出し、ストレス条件下における代謝機構の解明を試みた。

2.手法

       Panc-1およびHepG2をそれぞれシャーレに播種し、24時間培養後に4種のストレス条件を負荷した上でさらに24時間培養を行った。ストレスは、1 g/Lまたは0 g/Lのグルコース濃度(Glc+/-)と20%または1%の酸素濃度(O2+/-)の4種の組み合わせ条件とした。ストレス負荷時を0時とし、-120361224時間後に培養液および細胞のサンプリングを行った。得られたサンプルから代謝物質を抽出し、CE-TOF/MSにより陽イオン、陰イオン、ヌクレオチド類測定用の3種の分析条件を駆使して501,000 m/zの物質を10 spectra/sでモニターすることにより低分子化合物を網羅的に測定した。解析データから、標準物質を所有し且つ中心代謝経路に関連する90種の物質について定量を行った。

3.結果および考察

       Panc-1およびHepG2の各ストレス条件下における生細胞数の変化は先行研究と一致していた。また、Glc+O2+条件ではいずれの細胞でも1細胞あたりのATP量はほぼ一定に保たれていたが、Panc-1Glc+O2-条件では12時間以降顕著に減少した。ところが、細胞数が顕著に減少したHepG2Glc-O2+およびGlc-O2-条件ではATP量の際立った減少は見られず、逆に細胞数がほぼ一定であるPanc-1における同条件下ではATP量の顕著な減少が見られた。つまり、生細胞の生存性はATP量の変化だけでは十分に説明できないことになる。Suzuki4は、グルコース飢餓状態におかれたHepG2細胞は何らかの機構でグルコース欠乏状態を感受し、カスパーゼを介したネクローシスという新規の細胞死経路により死滅するという仮説を提唱している。HepG2では細胞数が顕著に減少している状況においてもATP量が比較的安定に保たれていることから、HepG2の細胞数減少の原因としてはATPの枯渇によるエネルギー飢餓死ではなく、むしろ上記のようなグルコースや酸素欠乏の検出器を介したアポトーシスまたはネクローシスによるものである可能性が高いといえる。今後、この検出器にあたる低分子化合物の特定や、ATPに代わって細胞の生存性をより直接的に示す物質やパラメータの特定を行う必要がある。

       次に、定量した90種の物質中、条件間・細胞種間で物質量の時系列変化に顕著な違いが見られたピルビン酸、クエン酸、コハク酸、アスパラギン酸、ヒドロキシプロリン、リシン、アスパラギン、および乳酸の物質量変化に着目した。Glc-O2+Glc-O2-条件においてPanc-1ではピルビン酸量が初期段階において顕著に減少し、同時に乳酸量も低下したことから、グルコース欠乏に伴うこれらの物質の迅速な消費が示唆され、これらの物質が細胞の生存率に大きく関与している可能性が示された。これに対しGlc-O2-条件におけるアスパラギン酸やリシンの増加、Glc-O2+におけるコハク酸の増加などはいずれの細胞にも見られる特徴であり、これらの変動は各ストレス負荷時における細胞の一般的な応答反応である可能性がある。同位体標識されたこれらの物質を用いて代謝流束を調べることが、今後ストレス耐性の違いをより詳細に明らかにする上で有用であろう。

4.結論

      グルコース飢餓と低酸素を組み合わせた4種のストレス条件下におけるPanc-1およびHepG2の時系列メタボローム解析により、特にHepG2の細胞死はATPの枯渇によるエネルギー飢餓死ではなくグルコースや酸素の欠乏を感知することにより引き起こされたアポトーシスまたはネクローシスであることが示唆された。また、各ストレス条件下において細胞の生存性に大きく関与する物質群を示し、ストレス耐性に関する詳細な代謝機構の解明に向けた新たな仮説を導出した。

 

参考文献

 

1. Soga, et al. Quantitative metabolome analysis using capillary electrophoresis mass spectrometry. J. Proteome Res. 2(5), 488-494 (2003).

2. Izuishi, et al. Remarkable Tolerance of Tumor Cells to Nutrient Deprivation: Possible New Biochemical Target for Cancer Therapy. Cancer Research. 60, 6201-6207 (2000).

3. Esumi, et al. Hypoxia and Nitric Oxide Treatment Confer Tolerance to Glucose Starvation in a 5’-AMP-activated Protein Kinase-dependent Manner, J. Biol. Chem. 277(36), 32791-32798 (2002).

4. Suzuki, et al. ARK5 suppresses the cell death induced by nutrient starvation and death receptors via inhibition of caspase 8 activation, but not by chemotherapeutic agents or UV irradiation, Oncogene 22, 6177-6182 (2003).