2006年度 森基金成果報告書

研究課題名:イスラーム教徒の自殺抑制要因に関する比較実証研究

政策・メディア研究科 修士課程1年

小牧奈津子

0.研究概要

本研究は、自殺率の極めて低いシリアのイスラーム教徒(以下、ムスリム)の中でも大学生を対象とし、彼らの自殺抑制要因について考察するものである。ムスリムの自殺率の低さはこれまでも自殺研究で指摘されてきたが、その具体的な理由はほとんど明らかにされていない。そこで本研究では現地に長期で滞在し、文献調査とともに質問紙調査とインタビュー調査を行う。これらの調査結果をもとに、ムスリムの自殺抑制要因を明らかにすることが、本研究の課題である。

 


1.研究内容・方法

2006年3月の1ヶ月間、および2006年8月末から2007年2月上旬までの約半年間にわたり、シリアのアレッポ大学学術交流日本センターを本研究の拠点とし、フィールドワークを行った。以下、本研究の具体的な調査分析の内容、およびその方法について述べたい。

1) 文献調査

クルアーンやハディースといったイスラームの聖典を用いて、イスラームの自殺観を調査した。ムスリムの死生観や来世観についても文献調査を行ったが、日本語で書かれた文献はほとんど存在しないため、アラビヤ語の文献を活用した。文献の選定や読解は、現地の専門家の協力を得て行った。

2) フィールドワーク

シリアのアレッポ大学学術交流日本センターを本研究の調査拠点とし、同大学の学生を対象に質問紙調査と聞き取り調査を行ったほか、イスラームの自殺観や死生観、質問紙調査の結果に関して、複数の専門家に聞き取り調査を行った。なお日本人大学生としては、慶應義塾大学・湘南藤沢キャンパス(以下、SFC)と文教大学・湘南キャンパス(以下、文教)の学生を対象に同様の調査を行う予定である。

質問紙の作成にあたっては、まず学部4年時にSFCと文教、2006年3月にアレッポ大学で実施した事前調査結果を総合し、質問項目の選定を行った。この作業の後、最終的な質問紙を作成した。アレッポ大学での質問紙調査は、2006年11月に実施した。

 

 


2.シリアでのフィールドワーク結果報告

 本章では、まず第1節においてイスラームの教えにおいて、自殺や死生、来世などがどのように語られているのか、またそれらはどのような関わりを持っているのか、教えにおける自殺観や死生観・来世観の内容およびその関連性について、文献調査の結果に基づき明らかにする。

続いて第2節では、イスラームの教えにおけるそれらの諸観念が、実際に生きるムスリムにどのように息づいているのか、ムスリム達の自殺観や死生観・来世観について、質問紙調査の結果に基づき考察する。

最後に第3節では、イスラームの教えにおける自殺観や死生観・来世観と実際に生きるムスリムのそれらの諸観念は、果たしてその内容が重なり合うものであるのか、両者はどのような関連性を持っているのか、などについて、専門家に対する聞き取り調査を踏まえつつ考察したい。

 

2−1.文献調査結果報告

2−1−1.イスラームの教えにおける自殺観および死生観・来世観とその関係 −文献調査をもとに−

ムスリムの自殺観や死生観・来世観はどのようなものであり、またこれらはどのような関係にあるのか。本章においてこれを考察するにあたり、本節では、まず彼らの信仰する宗教であるイスラームの教えにおいて、自殺や死生、来世がどのように言われているのか、教えにおける自殺観や死生観・来世観について、文献調査に基づき検討する。

 

2−1−2.イスラームの自殺観

これまでも先行研究において、イスラームの教えでは自殺は絶対的な禁止であること、およびその理由として自殺がアッラーの所有権の侵害であり、不信仰の証であると言われてきた。このことは、アラビヤ語で書かれた文献においても明らかにされている。以下において、その内容を見ていこう。

マフドゥーフ・アッ=ズービィーによれば、自殺はアッラーによって創造されたこの世界に対する攻撃であり、またこの世界を消滅させようとするものであり、アッラーの下す判決や運命に対する、人間の拒絶のあらわれであり不信仰の証であるという。このため自殺は、イスラームにおいて不道徳や不信心な振る舞いとされ、禁止されるとズービィーは主張する。[1]

このような自殺の禁止は、イスラームの聖典であるクルアーンやハディースに、その根拠を求めることができる。ナージー・アル=ジャイユーシュやユースフ・カラダーウィーは、以下のクルアーンの諸節をこの根拠として挙げている。[2]

『だが、自分の手で自らを破滅に陥れてはならない。』(雌牛章第195節)『またあなたがた自身を、殺し(たり害し)てはならない。』(婦人章第29節)

一方で、イスラームのもう一つの聖典であるハディースにおいても、自殺は明確に禁じられている。ズービィーは、ハディースにおける自殺の禁止の根拠として、以下の諸節を挙げる。[3]

『多くの方法のうち、自殺という方法を、人間に与えられた時間における苦痛を調整するためにあえて選択する者は、常に苦痛を受け容れることになるだろう・・・。そして少しの苦痛を止めるために、自殺という方法をあえて選択する者は、来世において自殺者の元へ生命が戻ってきたところで、より大きな、全ての苦痛を味わうことになるだろう。』

またユースフ・カラダーウィーは、ズービィーの挙げたハディースに加えて、以下の諸節をその根拠として挙げている。[4]

『イスラーム以前(ジャーヒリーヤ時代)に、ある男がいた。その男はナイフを手にとり、自分を切りつけ、死ぬまで血を流し続けた。至高なるアッラーは、この男について “傷を負った或る男が自害した。するとアッラーは『この私の僕は彼の命のことでわたしを出し抜いた。だからわたしは彼が天国に入ることを禁じた』と申された”と言った。』『またハディースにおいて以下のように定められた。“自身を殺害した者は、審判の日に罰せられる”と。』

このように、クルアーンやハディースにおいて自殺の禁止は、章や句を変えて何度も言及されている。自殺の禁止はイスラームにおいて明白な事実として、イスラーム法学者の中で見解の一致が見られるとされている。[5]

 

2−1−3.イスラームの生命観の内容および、自殺観との関連性

ここまでイスラームの自殺観について考察してきた。このようなイスラームの自殺観の背景には、イスラームの生命観や死生観・来世観の存在がある。まず、イスラームの生命観の内容および、それと自殺の関連性について見てみよう。

ジャイユーシュは、クルアーンを「人間の権利と許可を法律において定め、その範囲内で人間が、現世において彼の人生や心を、喜びあふれ実り豊かなものにするためのもの」であるとした。加えて、「人間の生命の神聖さや偉大さという、人間の生命に関する全ての理解の側面を、完全に包括している」ものであり、「人間に、生き続けることの意味や生きることの摂理を与えるものであり、あらゆる敵意から生命を保護するだけの、確かな知を人間に与えるものである。この知は、人間が生命をコントロールできるようにし、危機や苦痛に際しても、生命を保持するためにあらゆる努力をするようにさせるものである。」と評価している。

その上でジャイユーシュは、このようなクルアーンに基づくイスラームの刑法は、「人間が自分自身を殺すことを禁じており、個人の生命の保護のほか、その平安のための妨げとなるものに対して、厳しい罰則を定めている」と論じている。この根拠として、ジャイユーシュは以下のクルアーンの一節を挙げている。

『そのことのために我(アッラー)はイスラエルの子孫に対し、掟を定めた。人を殺した者、地上で悪を働いたという理由もなく人を殺す者は、全人類を殺したのと同じである。人の生命を救う者は、全人類の生命を救ったのと同じである(と定めた)。』(食卓章第32節)

このように、イスラームにおいては生命の保護や尊重が重要なものとして語られているため、「この法律は人間が、自分自身の生命を守ることを義務付けるものであり、自分自身を滅ぼしたり傷つけたりすることを禁止するものである。」[6]と主張する。

ユースフ・カラダーウィーもまた、イスラームにおいて生命が与えられることは、人間が抱えざるをえない罪や重荷、また逃れられない牢獄のようなものではなく、愛すべきものであり、喜ばしい祝福であると評価している。カラダーウィーはその根拠として、以下の聖預言者の言葉をハディースより引用する。[7]

《よい人間とは、長生きをし、またよい行いをする者のことである。》《あなた方の誰も、死が自分の元へ訪れる前に、死を願ってはならない。なぜならもし彼が死んでしまえば、彼の行いは終了してしまうからであり、彼の長生きに対する信仰は終わってしまうからである。》《あなた方のうち誰も、死を願ってはならない。なぜなら、よい人間はおそらく現世においてよりよい行いを続けるだろうし、悪い人間は現世においてそれを悔い改めることがおそらくできるだろうから。》

以上の内容をまとめると、イスラームにおいて、生命が与えられることはどんな状況においてもすばらしいことであるといえる。このため死を願うことや、まして自ら命を絶つことは、このような喜ばしい祝福であり愛すべき生を破壊することであり、イスラームの生命観から考察すれば禁止されるべき行為である、と評することができるだろう。

 

2−1−4.イスラームの来世観・死生観の内容および、自殺観との関連性

本節では、イスラームの来世観・死生観の内容および、それと自殺観との関連性について考察したい。イスラームにおいて来世と現世における死生は密接なつながりを持っている。来世はイスラームにおいて、六つの信じるべき事柄のうちの一つであり、これを信仰することはムスリムの義務である。ムスリムにとって現世の生は、来世を生きるための試練の宿であり、限りあるものに過ぎないが、来世における生は永遠であり、非常な重要性を持つ。カラダーウィーは、来世における生の重要性について、以下のクルアーンの諸節を引用している。[8]

《言ってやるがいい。“現世の歓楽は些細なものである。来世こそは(アッラーを)畏れる者にとっては最も優れている。”》《この世の生活は、偽りの快楽に過ぎない。》

しかし、来世の生の重要性が強調されるからといって、現世の生が重要でないわけではない。むしろイスラームではその逆であり、来世の生があるからこそ、現世の生が重要とされる。来世における生のあり方については、個人の現世における言動や行動、考えなど、全てが計算の対象とされ、審判が行われる。審判の日における精算の様子について、サラージュ・アッ=ディーンは以下のクルアーンの諸説を引用する。[9]

《本当に我々は主に返り、その後に我々には精算が行われる。》《天にあり地にある、凡てのものはアッラーの有である。あなたがた自身の中にあるものを、現してもまた隠しても、アッラーはそれとあなたがたを精算しておられる。アッラーは、おぼしめしの者を赦し、またおぼしめしの者を罰される。アッラーは凡てのことに全能であられる。》

サラージュによれば、クルアーンの多くの章句において、審判やこれの恐怖、また審判の日に向けて準備を行うことや、審判を畏れる者に対する奨励、審判の日を忘れる者やこれを畏れない者に対する警告の話が語られている。この審判に対する畏れとは、人間の現世におけるどんなに些細な行いも、全て審判おいて裁かれる対象になる、ということに対する畏れである。[10]

このように、来世の生を重要視するムスリムにとって、個人の現世における生のあり方は、非常に重要な意味を持つものである。[11]真に来世を信じている者にとっては、現世がいかに厳しく苦難に満ちたものでも、これを神からの恩寵として受け止めた上で、神の道を正しく生き抜いてこそ、来世におけるよき生が保障されるからである。[12]ズィービィーは、現世における忍耐の重要性について、以下のクルアーンをその根拠として挙げている。[13]

《完全によく耐える者たちに対しては、我(アッラー)は彼らにヒサーブなしで報いる。》《本当に、困難と共にある者は、容易である。》

対して、不幸を前にしてこれに忍耐できず簡単に絶望してしまい、自分たちを滅亡へと駆り立てる者は、不信心者や異教徒、信仰の弱い者であるとカラダーウィーは主張する。カラダーウィーはこのような者たちについて描写した、以下のクルアーンの諸節を挙げている。[14]

《もしわれが人間に親しく慈悲を施して味わしめ、その後それをかれらから取り上げれば、きっと絶望して不信心になる。》《だが不幸に見舞われると、落胆し絶望してしまう。》《災厄が襲えば、絶望してしまう。》《また人びとの中に偏見をもって、アッラーに仕える者がある。かれらは幸運がくれば、それに満足している。だが試練がかれらに降りかかると、顔を背ける。かれらは現世と来世とを失うものである。これは明白な損失である。》

このような死生観・来世観において、自殺者はイスラームの教えを遵守せず、自分達を滅亡へと駆り立ててしまった不信心者とされる。そのため彼らには来世で大変な苦痛が待っていると言われる。[15]自殺者の来世における処罰について言及されたものとして、ズービィーは以下のハディースの諸節を引用している。[16]

《高いところから飛び降りて自身を殺す者は、火獄の中で永遠に高いところから飛び降り続ける。また毒をあおり、自身を殺す者は、火獄の中で永遠に毒を飲み続ける。そしてナイフなどのとがった鉄で自分を刺す者は、火獄の中で永遠に自分の腹を刺し続ける。》《多くの方法のうち、自殺という方法を、人間に与えられた時間における苦痛を調整するためにあえて選択する者は、常に苦痛を受け容れることになるだろう・・・。そして少しの苦痛を止めるために、自殺という方法をあえて選択する者は、来世において自殺者の元へ生命が戻ってきたところで、より大きな、全ての苦痛を味わうことになるだろう。そして現世で自殺したのと同じような方法が、彼に繰り返される。火獄では、彼は(現世で)犯した罪を新たに犯すことを命令される。彼は山にのぼり、同じことを体験する。彼の頭はバラバラになり、彼の骨は粉々に砕け散る。そして再びこのような破壊が、永遠に繰り返される…。》

このように、イスラームでは個人の現世における生と来世における生はつながっているため、現世でどのような生活を送るかが、来世の生を決める上で非常に重要とされる。真に来世を信仰するムスリムにとっては、「永遠の生が与えられる来世にこそ真実の生がある」[17]のであり、彼らにとって現世における苦難を解決するために自殺を選択することは、不信仰の証であり考えられない行為であるといえる。

 


3−1.質問紙調査結果報告

3−1−1.ムスリム達の自殺観および生命観、死生観、来世観とその関係 −アレッポ大学生を対象とした質問紙調査から−

 ここまで、イスラームの教えにおける自殺観や生命観、死生観、来世観の内容とそれらの関係について、文献調査に基づき考察してきた。その結果、イスラームの教えにおいて自殺は厳しく禁じられていること、またそのような自殺観の背景には、イスラームの生命観や死生観、来世観があり、これらは密接なつながりを持っていることを確認した。

 では、実際に生きるムスリム達において、これらの諸観念の内容はどのようなものであるのだろうか。イスラームの教えにおけるそれらの諸観念は、実際に生きるムスリム達の中でも息づいているのか。また、それらがムスリムの自殺を抑制させる要因となっているのだろうか。本節では、実際に生きるムスリム達を対象に行った、質問紙調査の結果に基づき、これを考察したい。

 

3−1−2.調査概要

(1)        対象者:アレッポ大学に通う大学生212名(平均年齢:21.38歳、偏差は2.27歳)

(2)        調査実施日:2006年11月

(3)        調査方法:アレッポ大学機械工学部、教育学部にてランダムに質問紙を配布したほか、同大学日本センターにて日本語を学ぶ学生を対象に、質問紙を配布した。配布にあたっては、一人当たり5部ずつ持ち帰り友人等に配布をお願いした。(300部配布・回収率71%)

(4)        質問紙の構成:質問紙は、以下の7項目からなる。

@     フェイスシート(性別、学部、学年等)

A     「自殺観・死生観・来世観」に関する質問項目(全て「はい:1・わからない:2・いいえ:3」の3件法)

B     自殺念慮の程度を測定(「たくさん:1、時々:2、今までに一度くらい:3、全くない:4」の4件法)

C     将来の自殺志向性を測定(「はい:1、わからない:2、いいえ:3」の3件法)

D     自殺についての話を耳にしたことがあるか否か(2件法)

E     自殺について学んだ年齢(5件法)

F     自殺について学んだ手段(6件法)

(5)        対象者の概要:以下、質問紙の回答結果を報告する。(「自殺観・死生観・来世観」に関する質問項目は除く)

Ø       フェイスシート:

ü         性別:男86(41%)、女126(59%)

図1:男女比

ü         学生の所属学部:質問紙の配布場所が機械工学部と教育学部だったこともあり、両学部の学生が多い(文47、機械工学42、教育47、経済7、法6、理科15、薬3、農21、電子工学11、建築5、情報工学4、医3、技術工学1、合計212名)

2:学部別割合

ü         学年:4学年に所属する学生が最も多い(1学年38、2学年44、3学年34、4学年67、5学年23、6学年2、不明4)

3:学年別割合

ü         対象者の宗教:ムスリムが大半である(キリスト教徒15、ムスリム197)

4:宗教別割合

ü         居住形態:家族と同居している者が大半を占める。(家族と同居183、友達と同居26、1人暮らし3)

 

5:居住形態別割合

ü         自殺の話を耳にしたことがあるか否か:ないと回答した者が大半であるが、あると解答した者も4割にのぼる。

6:自殺の話を耳にしたことがあるか否かの割合

ü         自殺について知った年齢:6歳から15歳までで8割を占める。

7:自殺について知った年齢別割合

ü         自殺について学んだ手段:テレビなどのメディアおよびクルアーンが多い。

8:自殺について知った手段別割合

 

3−1−3. 調査結果

 1)自殺念慮および将来の自殺志向性の割合

  まず、質問項目3・4(自殺念慮および将来の自殺志向性)について、男女・学部・学年・宗教別にそれぞれの割合および、質問項目との関連性について検討した。結果は以下の通りである。

Ø       男女別:

@     自殺念慮:男女ともに、自殺念慮を全く抱いたことがない者が大半である。2変数(性別・自殺念慮)の積率相関係数の有意性検定の結果、性別は自殺念慮に対して影響を与えていないことがわかった。(t = -0.577, df = 210, p-value = 0.5646)

9:性別に見た自殺念慮

A     将来の自殺志向性:男女ともに「ない」と回答する者が圧倒的多数を占める。2変数(性別・将来の自殺志向性)の有意性検定の結果、性別は将来の自殺志向性に対して影響を与えていないことがわかった。(t = 0.2275, df = 210, p-value = 0.8203)

 

10:性別に見た将来の自殺志向性

Ø       学年別:

@     自殺念慮:自殺念慮を否定する者の割合が、どの学年においても大半である。2変数(学年・自殺念慮)の有意性検定の結果、学年は自殺念慮に対して、ごく弱い影響を与えていることがわかった。しかしこれは6学年の学生の影響であり、一般的に見て学年は自殺念慮に影響を与えないといえる。(t = 1.9808, df = 210, p-value = 0.04891)

11:学年別に見た自殺念慮

A     将来の自殺志向性:将来の自殺志向性を否定する者が、どの学年においても大半を占めている。2変数(学年・将来の自殺志向性)の有意性検定の結果、学年は将来の自殺志向性に対して、影響を与えていないことがわかった。(t = 0.5222, df = 210, p-value = 0.602)

12:学年別に見た将来の自殺志向性

Ø       学部別:

@     自殺念慮:各学部とも、自殺念慮を否定する者が大半である。2変数(学部・自殺念慮)の有意性検定の結果、学部は自殺念慮に対して、影響を与えていないことがわかった。(t = 0.8347, df = 210, p-value = 0.4048)

13:学部別に見た自殺念慮

A     将来の自殺志向性:各学部とも、将来の自殺志向性を否定する者が大半である。2変数(学部・将来の自殺志向性)の有意性検定の結果、学部は将来の自殺志向性に対して、影響を与えていないことがわかった。(t = -0.7458, df = 210, p-value = 0.4566)

14:学部別に見た将来の自殺志向性

Ø       宗教別:

@     自殺念慮:自殺念慮を否定する者の割合が、両宗教とも大半である。2変数(宗教・自殺念慮)の有意性検定の結果、宗教は自殺念慮に対して、影響を与えていないことがわかった。(t = -0.4129, df = 210, p-value = 0.6801)

15:宗教別に見た自殺念慮

A     将来の自殺志向性:キリスト教徒においては、将来の自殺志向性を否定する者とわからない、と回答する者の割合が半々である。2変数(宗教・将来の自殺志向性)の有意性検定の結果、宗教は将来の自殺志向性に対して、非常に大きな影響を与えていることがわかった。(t = -4.1885, df = 210, p-value = 4.133e-05)すなわち、キリスト教徒のほうが、ムスリムよりも将来の自殺志向性について肯定する傾向がある、と言える。しかし、この結果に関しては、キリスト教徒のサンプル数そのものが非常に少ないため(15名)、統計的な誤差が出る可能性が多いにある。そのため、この結果を一般化することはできないだろう。

16:宗教別に見た将来の自殺志向性

Ø       ムスリムの自殺念慮および、自殺志向性の回答結果についての検討:

上述したとおり、キリスト教徒はサンプル数が少ないため、これとムスリムを統計的に比較するのは困難である。そこで、これ以降はムスリムのみを対象に、彼らの自殺念慮や将来の自殺志向性について検討したい。以下の図は、それぞれムスリムの自殺念慮および、自殺志向性の割合を表すものであるが、彼らの大半は自殺念慮・将来の自殺志向性ともに否定している。

20:自殺念慮(ムスリム)      図21:自殺志向性(ムスリム)

 しかし、それでも自殺念慮を抱いたことがある者は、程度の差があるにせよ、全体の約20%にものぼる。また、将来の自殺志向性についても、これを肯定、またはわからないと回答する者は全体の13%を占める。この値は、イスラームが絶対的に自殺を禁じていることを踏まえて考えた場合、非常に高い数値であると言えるのではないだろうか。

 

 2)自殺観・来世観・死生観の分析

  続いて、自殺観・死生観・来世観に関する調査結果の分析を行う。手順及び方法は以下の通りである。

@     項目の選定:「自殺観・死生観・来世観尺度」は全57項目からなる。このうち、項目5、10、14、19、22、23、24、45、48、49の10項目は、全体において質問項目の共通性が低かったため削除した。この10項目を除く47項目について項目間相関係数行列を算出し、それに基づき因子分析を実施した(主因子法、バリマックス回転)結果、因子負荷量が得られた。まず、その累積寄与率の図が以下の図1である。

17:累積寄与率(横軸は因子、縦軸は固有値を表す)

1を見ると、第2因子において固有値の急激な変化が見られる。このことから、現段階では第2因子を因子数として仮決定する。次に、相関行列の計算結果として得られた因子負荷量を見ると、第1因子の寄与率は0.527274となり、全項目分散のうち約12%の説明率であった。そこで、第2、第3因子と累積寄与率を求めていった結果、第9因子までの累積寄与率は24.38517となり、全項目分散のうち約52%の説明率を得られた。以上の9因子で、全体の50%を超える説明が可能であることが判明したので、本調査における因子数は9に決定する。

A     因子の抽出:抽出された9因子の内容は、以下の通りである。各因子における項目の採択にあたっては、因子負荷量0.4以上を基準とした。

(1)        1因子:来世肯定因子(この因子は、「来世における生は、現世における生よりも非常に重要である。」「来世における生は、永遠の生である。」「私は、来世を信じている。」など、来世の存在を肯定する因子である。しかし来世に関する項目の中に、項目36「自殺をすることは、大きな罪である」が含まれているのは興味深い。シリア人にとって、自殺をすることが罪であるとする考えと、来世に対する肯定は、同じ種類の内容であり、同じ方向性を持っていることを示していると言えるだろう。)

(2)        2因子:生の尊重因子(この因子は、「命は大切なものである。」「私は、生きることの価値や意味がわからない。(逆転項目)」「大きな困難に直面しても、人間は生きるべきである。」など、この世で生きることや生命を積極的に肯定し、またそれを尊重する因子である。)

(3)        3因子:手段的容認因子(この因子は、「自殺は、困難な問題を解決する一つの手段である。」「人間は問題に直面したとき、自殺以外の方法で問題を解決するべきだ。(逆転項目)」など、人間が生きる上で問題にぶつかったとき、自殺を人間に許された、問題の解決手段として容認する因子である。)

(4)        4因子:絶対的否定因子(この因子は、「自殺は、禁じられた行為である。」「自殺をすることは、本人の自由なので、他人がそれを止めることはできない。(逆転項目)」「自殺は法律で禁止されていないので、しても構わない。(逆転項目)」など、自殺を、法律で禁じられているか否か、また自由の領域であるか否かに関わりなく、絶対的に否定し禁止する因子である。)

(5)        5因子:自殺称賛因子(この因子は、「自殺は、勇気ある行為である。」「自殺をすることは、大きな罪である。(逆転項目)」など、自殺を称賛できる行為とする因子である。)

(6)        6因子:消極的容認因子(この因子は、「人が自殺を考えるのは、自然なことである。」という項目によくあらわれているように、自殺に対して、積極的に容認もしないが、肯定もしない。しかし、「私は、どんな困難な状況にあっても、自殺をしない。(逆転項目)」という項目から察するに、どちらかといえば自殺を消極的に容認する因子といえる。)

(7)        7因子:道徳的否定因子(この因子は、「自殺は、道徳的に許容できない行為である。」「自殺は、社会において許されない行為である。」など、自殺を道徳的に許されないものとして、否定・非難する因子である。)

(8)        8因子:社会的否定因子(この因子は、「自殺は、家族や友人を悲しませるので、してはいけない。」「人間は、生きる義務がある。」など、他者や社会との関係を踏まえた上で、自殺を否定・非難する因子である。)

(9)        9因子:逃避的否定因子(この因子は、自殺を「自殺をすることは、責任逃れである。」「自ら死を選ぶことは、人生からの逃げである。」とし、自分の責任や人生から逃げる行為であるとして、否定・非難する因子である。)

B     因子得点に基づく個人の分布:図2は、因子得点に基づく個人の分布の様子を表している。横軸は因子1、縦軸は因子2である。大半の者が、因子1と因子2の考えを肯定していることがわかる。

18:因子得点に基づく個人分布図

また、図3は、因子得点に基づく個人の関係性を示した樹形図である。個人の回答結果に大きな差が見られず、大半が似たような回答内容であるため、回答結果の差異に基づくクラスターが形成されず、全体が大きな固まりになっていることがわかる。

19:因子得点に基づく樹形図

 

 3)「自殺観・死生観・来世観」と「自殺念慮」の関連性の検討

  「自殺観・死生観・来世観」の分析結果と、「自殺念慮」の回答結果をもとに、両者の相関関係を分散分析に基づき考察した。その結果、9因子全ての内容と、自殺念慮との間には、相関関係が見られないことがわかった。

通常であれば、自殺念慮を抱く者ほど、自殺に対して肯定的である、また自殺念慮を否定する者ほど、自殺に対して否定的である、といった仮説が立てられる。この仮説は、先行研究においても実際に相関関係があるとして、支持されたものである。[18]また、先行研究において示唆された、来世観と自殺観の密接な関連性を踏まえて考えた場合、来世観(因子1)と自殺念慮の間には、何らかの相関関係があると予想できる。

  しかし、本調査の分散分析の結果からは、これらの仮説は全て支持されなかった。つまり分散分析の結果からは、自殺念慮と自殺観や来世観の間には、全く相関関係が見られないといえる。

 

4)「自殺観・死生観・来世観」と「将来の自殺志向性」の関連性の検討

「自殺観・死生観・来世観」の分析結果と、「将来の自殺志向性」の回答結果をもとに、両者の相関関係を分散分析に基づき考察した。その結果、9因子全ての内容と、将来の自殺志向性の間には、相関関係が見られないことがわかった。これは、上述した9因子と自殺念慮の関連性と同様である。

この、9因子と将来の自殺志向性についても、自殺念慮との関連性と同様に、通常であれば、将来の自殺志向性を肯定する者ほど、自殺に対して肯定的である、といった仮説を立てることができる。この仮説もまた、先行研究において実際に相関関係があるとして、支持されたものである。[19]また、来世観と自殺観の関連性を踏まえても、この仮説は支持するに妥当な仮説であると言えるだろう。

しかし、本調査の分散分析の結果からは、こうした仮説は全て支持されなかった。つまり分散分析の結果からは、将来の自殺志向性と自殺観や来世観の間には、全く相関関係が見られないといえる。

 

 5)「自殺観・死生観・来世観」の各質問項目と「自殺念慮」および、「将来の自殺志向性」の関連性の検討

  3)および4)の結果から、自殺念慮および将来の自殺志向性と、9因子の間には、相関関係が見られないことがわかった。この9因子は、自殺観や来世観、死生観の各質問項目を、因子分析した結果、得られた因子である。では、因子として各質問項目をまとめてしまうのではなく、これらを単体として扱った場合、自殺念慮および将来の自殺志向性との関連性はあるのだろうか。

  本調査では、「自殺観・死生観・来世観」の各質問項目と、「自殺念慮」および「将来の自殺志向性」の関連性について、それぞれ積率相関係数に基づいた有意性検定を行い、検討を行った。以下、その関連性について明らかにしたい。

Ø       イスラームの教えと、実際に生きるムスリム達の、自殺観や来世観、死生観の内容の検討:

「自殺観・死生観・来世観」の各質問項目と、「自殺念慮」および「将来の自殺志向性」の関連性について検討する前に、実際に生きるムスリム達の、自殺観や来世観、死生観の内容について検討したい。まず、自殺観に関する質問に対する回答結果を見てみよう。

22:質問項目1の回答結果     図23:質問項目29の回答結果

どちらの質問に対しても、「はい」と回答する者が大半であり、自殺を禁じられた行為であると捉える者、自殺をすることは大きな罪だと考える者が、それぞれ全体の88%、91%を占める。しかし、「わからない」「いいえ」と回答する者も、それぞれ24名、17名存在しており、これはそれぞれ全体の12%、9%を占める。数値としてはそれほど大きなものではないにしろ、従来のイスラームの自殺観を踏まえれば、これらの考えはムスリムとして非常に特異な考えであるように思える。

続いて、来世に関する質問に対する回答結果を見てみよう。

24:質問項目45の回答結果

 「はい」と回答する者が大半で、ムスリムの多くが来世を肯定しているが、それでも来世の信仰を否定する者もいる。来世の信仰に対して、「わからない」もしくは「いいえ」と回答する者が、計6名(全体の4%)存在するのは、来世に対する信仰がイスラームの六信の一つであることを踏まえると、多いように感じられる。

 最後に、死生観に関する質問に対する回答結果を見てみよう。

25:質問項目30の回答結果     図26:質問項目44の回答結果

 

両項目とも、生きることの価値や意味を見出し、大きな困難に直面しても生きるべきであると考えている者が大半であり、質問項目30は全体の77%、質問項目44にいたっては全体の96%を占めている。しかし、生きることの価値や意味を喪失している者も、全体の23%を占めており、また困難な状況においても、生きようとする意志がさほど強くない者も全体の4%を占めている。自殺念慮と項目30や44の相関関係が高いことは上記した通りであり、このまま生きる意味や価値を喪失する者や、困難な状況においても生きるという強い意志をもてない者が増えていけば、自殺念慮を肯定する者も増えていく危険性がある、と言えるだろう。

 

Ø       「自殺観・死生観・来世観」の各質問項目と「自殺念慮」の関連性の検討:

「自殺観・死生観・来世観」の各質問項目と、「自殺念慮」および「将来の自殺志向性」の関連性について検討したい。まず、各質問項目と自殺念慮の関連性について検討する。47項目のうち、自殺念慮と1%水準で有意に相関関係が認められた項目は、1、4、5、6、11、13、14、20、25、26、28、30、32、34、35、42、43、44、47の計19項目である。(このうち、1、4、6、11、14、26、35、42、43、44の計10項目については、負の相関が認められた。)

正の相関関係が認められた、5、13、20、25、28、30、32、34、47の項目の内容を検討していこう。これらの項目は、「自殺をすることは、人間の権利である」「自殺をすることは罪ではない」「私は、生きることの価値や意味がわからない」「自殺は、困難な問題を解決する一つの手段である」など、自殺を容認したり、肯定的に捉えたりする内容である。これらの質問項目に対して「はい」と回答する者、つまり自殺を容認したり肯定的に捉える者ほど、自殺念慮を抱いているといえる。

対して、負の相関関係が認められた、1、4、6、11、14、26、35、42、43、44の計10項目の内容は、「自殺は、禁じられた行為である」「私は、どんな困難な状況にあっても、自殺をしない」「人間は、生きる義務がある」「自殺をした人間は、天国に行くことができない」など、自殺を禁じたり否定する内容である。これらの質問項目に対して「はい」と回答する者ほど、自殺念慮を否定するといえる。

これらの結果を踏まえると、自殺観と自殺念慮の間には、非常に有意な相関関係があることがわかる。9因子として質問項目をまとめてしまった場合、因子と自殺念慮の間には全く相関関係を見出すことができなかったにもかかわらず、因子を質問項目単体として扱い、有意性検定を行った場合、非常に強い相関関係があることが、この結果からいえる。

Ø       「自殺観・死生観・来世観」の各質問項目と「将来の自殺志向性」の関連性の検討

続いて、各質問項目と将来の自殺志向性の関連性について検討する。47項目のうち、将来の自殺志向性と1%水準で有意に相関関係が認められた項目は、1、4、5、7、9、11、13、15、18、20、25、26、28、29、32、33、35、40、41、45、47の計21項目である。(このうち、1、4、7、9、11、18、26、29、33、35、41、45、の計12項目については、負の相関が認められた。)

正の相関関係が認められた、5、13、15、20、25、28、32、40、47の計9項目の内容を検討していこう。これらの項目は、「自殺は、人間の万能性を示す手段である」「自殺をすることは罪ではない」「私は、生きることの価値や意味がわからない」「自殺は、困難な問題を解決する一つの手段である」など、自殺を容認したり、肯定的に捉えたりする内容である。これらの質問項目に対して「はい」と回答する者、つまり自殺を容認したり肯定的に捉える者ほど、自殺念慮を抱いているといえる。

対して、負の相関関係が認められた、1、4、7、9、11、18、26、29、33、35、41、45、の計12項目の内容は、「自殺をした人は、来世において恐ろしい罰を受ける」「人間は問題に直面したとき、自殺以外の方法で問題を解決するべきだ」「自殺をすることは、大きな罪である」「私は、来世を信じている」など、自殺を禁じたり否定する内容である。また、来世を肯定する項目も含まれている。これらの質問項目に対して「はい」と回答する者ほど、自殺念慮を否定するといえる。

これらの結果を踏まえると、自殺観と自殺念慮の間、また来世観と自殺念慮の間には、非常に有意な相関関係があることがわかる。9因子として質問項目をまとめてしまった場合、因子と自殺念慮の間には全く相関関係を見出すことができなかったにもかかわらず、因子を質問項目単体として扱い、有意性検定を行った場合、自殺観や来世観と将来の自殺志向性の間には、非常に強い相関関係があることが、この結果からいえる。

Ø       「自殺念慮」と「将来の自殺志向性」間の相違の検討

以上の結果から、「自殺観・来世観・死生観」の各質問項目と「自殺念慮」および「将来の自殺志向性」の間には、非常に有意な相関関係があると言える。では、「自殺念慮」と相関関係のある項目と、「将来の自殺志向性」と相関関係のある項目では、内容にどのような差が見られるのだろうか。両者間で相関関係の異なる項目は、以下の通りである。

ü         「自殺念慮」のみに認められる項目:6、14、30、34、42、43、44の計7項目(このうち、6、14、42、43、44の計5項目は、負の相関関係が認められる)。これらの項目は、「命は大切なものである」「自殺をした人間は、天国に行くことができない」「私は、生きていることを嬉しく思う」「大きな困難に直面しても、人間は生きるべきである」といった内容であり、自殺が生に対する尊重や称賛といった視点から、否定的に捉えられている。

ü         「将来の自殺志向性」のみに認められる項目:7、9、15、18、29、33、40、41、45の計9項目(このうち、7、9、18、29、33、41、45の計7項目は、負の相関関係が認められる)。これらの項目は、「自殺をした人は、来世において恐ろしい罰を受ける」「人間は問題に直面したとき、自殺以外の方法で問題を解決するべきだ」「自殺をする人は、忍耐が足りない」「自殺をすることは、大きな罪である」「私は、来世を信じている」といった内容であり、自殺が罪や罰、来世の存在との関係性から、否定的に捉えられている。

ü         「自殺念慮」と「将来の自殺志向性」間の相違:以上の結果をまとめると、「自殺念慮」においては「生に対する尊重や称賛」といった観点から、自殺が否定的に捉えられているのに対して、「将来の自殺志向性」においては「自殺が罪であり、そのため来世において罰を受ける行為である」といった観点から、自殺が否定的に捉えられている。もちろん、両者はともに重なり合う部分が大きいが(例:「自殺念慮」も「天国に行くことができない」という観点から否定される)、両者の間の相違を考慮すると、自殺念慮は現世における生の尊重といった観点から否定される傾向が強く、対して将来の自殺志向性は自殺が罪であるため、自殺をすると来世において罰を受ける、という、来世との関係性から否定される傾向が強い、と言える。

Ø       「自殺観・来世観・死生観」の各質問項目間の相関関係

ここまで、「自殺観・来世観・死生観」の各質問項目と、自殺念慮および将来の自殺志向性の相関関係を見てきた。では、各質問項目間の相関関係はどうなのだろうか。しかし、全質問項目(47項目)の相関関係を算出することは非常に困難である。そこで本調査では、文献調査の結果を踏まえて、特に自殺を罪または禁止された行為であるとする考えと、来世に対する考えおよび、生命や人生を肯定・尊重する考えとの間に、相関関係が見られるか否かについて、積率相関係数に基づき有意性検定を行った。

ü         自殺観と来世観の間の関連性:

       項目1(「自殺は、禁じられた行為である」)と項目45(「私は、来世        を信じている」)の相関関係:両者の間には、非常に強い正の相関関係が認められた。つまり、「自殺を禁じられた行為である」と考える者ほど、「来世を信じている」と回答している、ということである。(t = 6.2668, df = 210, p-value = 2.058e-09)

       項目4(「私は、どんな困難な状況にあっても、自殺をしない」)と項目7(「自殺をした人は、来世において恐ろしい罰を受ける」)の相関関係:両者の間には、非常に強い正の相関関係が認められた。つまり、「自殺をすれば、来世において恐ろしい罰を受ける」と考える者ほど、「どんな困難な状況に置かれても自殺をしない」と考えている、ということである。(t = 5.9392, df = 210, p-value = 1.174e-08)

       項目45(「私は、来世を信じている」)と項目46(「自殺をした人は、死んだ後も苦しむことになる」)の相関関係:両者の間には、非常に強い正の相関関係が認められた。つまり、「来世を信じている」と回答する者ほど、「自殺をすれば、死後も苦しむことになる」と考えている、といえる。(t = 8.5761, df = 210, p-value = 2.220e-15)

       以上の結果から、自殺観と来世観の間には、非常に強い相関関係が存在すると言える。

ü         自殺観と死生観の間の関連性:

       項目29(「自殺をすることは、大きな罪である」)と項目30(「私は、生きることの価値や意味がわからない」)の相関関係:両者の間には、強い負の相関関係が認められた。つまり、「生きる価値や意味を見失っている」者ほど、「自殺をすることは大きな罪である」とは考えず、自殺を容認する傾向にある、ということである。(t = -3.3134, df = 210, p-value = 0.001085)

       項目13(「私は、社会において無価値な存在である」)と項目29(「自殺をすることは、大きな罪である」)の相関関係:両者の間には、非常に強い負の相関関係が認められた。つまり、「社会における自分の価値」を「認めている」者ほど、「自殺をすることは大きな罪である」と考えている、といえる。(t = -4.7387, df = 210, p-value = 3.962e-06)

       項目29(「自殺をすることは、大きな罪である」)と項目41(「人間は、誰もがこの社会において重要な存在である」)の相関関係:両者の間には、強い正の相関関係が認められた。つまり、「人間は誰もが社会において重要な存在だ」と考える者ほど、「自殺をすることは大きな罪である」と考えている、といえる。(t = 2.8922, df = 210, p-value = 0.004229)

       以上の結果から、自殺観と死生観の間には、非常に強い相関関係が存在すると言える。

ü         死生観と来世観の間の関連性:

       項目44(「大きな困難に直面しても、人間は生きるべきである」)と項目45(「私は、来世を信じている」)の相関関係:両者の間には、強い正の相関関係が認められた。つまり、「来世を信じている」者ほど、「大きな困難に直面しても、生きるべきだ」と考えている、といえる。(t = 3.9484, df = 210, p-value = 0.0001073)

       項目41(「人間は、誰もがこの社会において重要な存在である」)と項目45(「私は、来世を信じている」)の相関関係:両者の間には、非常に強い正の相関関係が認められた。つまり、「来世を信じている」者ほど、「人間は誰もが社会に置いて重要な存在だ」と考える傾向にある、といえる。(t= 3.4948, df = 210, p-value = 0.0005785)

       以上の結果から、死生観と来世観の間には、非常に強い相関関係が存在すると言える。

ü         自殺観・来世観・死生観の間の関連性:以上の結果を踏まえると、これらの諸観念の間には、非常に強い相関関係が見られる。つまり、ムスリムにとってこれらの諸観念は相互補完的であり、非常に密接なつながりを持つものである、といえる。

Ø       分散分析の結果に関する考察:

以上の結果を踏まえると、やはり自殺観・来世観・死生観と自殺念慮や将来の自殺志向性の間には、非常に強い相関関係がある、といえる。では、「自殺観・死生観・来世観」を因子分析した結果抽出された9因子と、「自殺念慮」および「将来の自殺志向性」の回答結果の間には、分散分析において相関関係が見られなかったのはなぜだろうか。

これは、自殺念慮や将来の自殺志向性と、因子分析によって導き出された9つの因子との相関関係は、アレッポ大学の学生を対象にした調査結果から実証することが難しいためである。なぜなら、自殺念慮や将来の自殺志向性を肯定する者の中でも、自殺に対して否定的であり、イスラームの教えにおける自殺観を抱いている者や、来世を信仰している者がたくさん存在するためである。また、その逆に、自殺念慮や将来の自殺志向は否定するが、自殺に対して肯定的であり、来世を信仰していない、といった者も存在する。

このような場合、因子分析に基づき抽出された各因子と、それぞれの変数(この場合は自殺念慮や将来の自殺志向性)の間の相関関係を、分散分析によって導き出すには限界があると言えよう。仮に質問項目を単体で見た場合は相関が認められても、因子分析のようにいくつもの項目がまとめられて一つの因子を形成すると、相関関係がうまく検出されないこともある。この場合、質問項目や個人を個別に見ていくことが必要であり、また重要であると言える。

また、ムスリムの中で来世の存在を否定する者や、自殺に対して肯定的でこれを容認する者は、存在するとはいえ、全体から見れば圧倒的に少数である。他の大半のムスリムは来世の存在を信じており、また自殺に対して否定的で禁じられた行為であると考えているために、そうした少数の自殺予備軍とも呼べるムスリムは、多数のムスリムの影に埋没していまい、表に出てこないことになる。この傾向は、自殺予備軍と呼べるムスリムが、自殺志向性や将来の自殺可能性を認めていない場合、更に強まるだろう。

これらの結果から言えることは、質問紙調査という調査手法には、限界が存在する、ということである。質問紙調査は、調査対象者の大まかな傾向を模索するには適しているかもしれないが、アレッポ大学の学生のように、対象者の大多数に意見の一致が見られる(例:自殺に対して否定的な意見を抱く、来世を信仰する、自殺を考えない、など)状況下においては適さない、と言えるだろう。むしろ、このような調査方法を採択することによって、少数派の危険信号は、埋没してしまう危険性がある。このような危険を避けるためには、個人や質問項目の内容を、個別に見ることが必要不可欠であり、また非常に重要性であると言える。

 


4.考察 -イスラームの教えと現実の乖離‐

 ここまで、前章の第1節ではイスラームの教えにおける自殺観・来世観・死生観の内容について、また第2節ではアレッポ大学の学生を対象に、実際のムスリムにおける自殺観・来世観・死生観の内容および、自殺念慮や将来の自殺志向性やそれらの関連性について、それぞれ調査結果を報告した。これらの調査の結果、以下の3点が明らかになった。

まず1点目は、実際に生きるムスリム達の大半の「自殺観・来世観・死生観」は、イスラームの教えにおけるそれらと、ほぼ同じ内容であった、ということである。つまりムスリム大学生の大半は、自殺を罪または禁止された行為であると考えるほか、来世に対する信仰が強く、また人生や命を重視し尊重する、と言える。また、ムスリムの「自殺観・来世観・死生観」に関する各質問項目の間には、非常に強い相関関係が認められた。このことは、イスラームの教えにおける「自殺観・来世観・死生観」の内容が、非常に相互補完的で密接に関連するものであることを反映していると思われる。

続いて2点目は、大半のムスリムは自殺念慮を抱いたことがなく、また将来の自殺志向性についても否定する、ということである。このことは、イスラームが自殺を絶対的に禁止していることを踏まえると、当然の結果であるように思われる。

最後に3点目は、「自殺観・来世観・死生観」と自殺念慮や将来の自殺志向性の間には、非常に強い相関関係が存在しており、イスラーム的な「自殺観・来世観・死生観」を抱いている者は、自殺念慮や将来の自殺志向性を否定する、ということである。

 以上の結果を総合的に踏まえて考察すると、現在のところ大半のムスリムにおいて、イスラームに対する信仰心があり、イスラームの教えに基づく自殺観や来世観、死生観がムスリムの中で息づいているといえる。このため、自殺念慮や将来の自殺志向性を否定する者も多く、この社会における自殺率は未だに低い値を保っている、と言える。

しかし本調査の結果、自殺念慮や将来の自殺志向性を肯定する者、自殺を容認・肯定する者、来世に対して懐疑的・否定的な者など、イスラームの教えとは反対の諸観念を抱く者の存在も明らかになった。こうした集団は、これまで自殺の事例がほぼ皆無であったことを踏まえると、比較的新しい集団である。自殺は、その社会の様相を映し出す鏡であるといわれるが[20]、こうしたムスリムの変化は、社会のどのような様相を映し出しているのだろうか。

ムスリムにとって自殺は、彼らの信仰と密接に関わる問題である。[21]このことを踏まえると、今回の調査を通して明らかになった、イスラームの教えと反対の諸観念を抱く集団の存在は、この社会に生きるムスリム達のイスラームに対する信仰が、形骸化しつつあることを表わす一例として捉えることができる。この、ムスリムの信仰心の形骸化は、多くのイスラームの専門家が問題として指摘している。[22]ムスリムの信仰心の形骸化と自殺の関係について、フサイニー師は、以下のように述べている。

「自殺念慮や将来の自殺可能性を肯定した者、来世に対して懐疑的な者は、本当の意味でのイスラームの信仰から離れた者である。彼らは名前だけのムスリムだ。今日のムスリムは一般的に、イスラームに対する信仰が足りない。信仰のレベルが低いということは、自殺の危険もそれだけ上がるということだ。ムスリムは自殺に到達するまでに地獄の存在を考えるから、普通は自殺まで滅多に行き着かない。しかし今の一般的な、信仰のレベルが低下したムスリムは、より自殺に近づいているというのが現状である。西洋諸国ばかりを見て、それに習おうとし、物質主義を拝するようになれば、ますますこの点は上がっていくばかりである。」[23]

また、アッカーム師は今日、多くのムスリムの行動や生活は、イスラームの教えから離れていると指摘している。[24]この理由としてアッカーム師は、現在のムスリムが物質的な豊かさのみを追求するあまり、現世的な欲望に従属していることを挙げて、以下のように述べている。

「今の時代は見せかけの時代だ。表面的な生活は昔と比べて確かに今のほうがよくなったが、その結果として、内面的なものは軽視され、また忘れられている。現代は、内面的なものを売ったかわりに、表面的なものを買っているのだ。しかし、人間は表面的なものだけで人間であるのではない。人間は、中身があって初めて人間になることができる。だから、中身を重視するようになってほしい。重要なことは、表面的な形ではない。表面的なことだけを追及するのではなく、内面的なものに目を向けさせる道は、ムスリムにとってイスラームの教えであり、手本となるのが聖預言者である。」

もちろん、イスラームの教えと反対の考えを持つ者はまだごく少数であり、しかも彼らが皆、自殺に対して肯定的ですぐに自殺を選択する、と結論付けることは非常に短絡的である。しかし問題は、これまでほぼ皆無であったにもかかわらず、イスラームの教えといわば反対の考えを持つ集団が、シリア社会に出現し始めている点だろう。これらの考えを持つ者がこれまで自殺をしなかったのは、自殺を考えるほどの危機に直面せずにすんできただけかもしれない。彼らのイスラームに対する信仰の形骸化が進めば、彼らが今後何か大きな問題や困難に直面した時、これまでは選択肢になり得なかった自殺を、問題解決の手段として選択してしまう可能性もある。こうした者が社会において増加してゆけば、シリア社会の自殺率をこれまでと同様に、低い値に保っていくことは難しくなるだろう。これまでのように、シリアを自殺のない社会に保っていけるかどうかは、ムスリムたち1人1人の信仰と努力次第である、と言える。


5.参考文献

Ø       マフドゥーフ・アッ=ズービィー『自殺‐性別と哲学および信仰を通じて‐』ラシード社、ダマスカス、1998年

Ø       ナージー・アル=ジャイユーシュ『自殺‐自殺行動に対する心理学的・社会学的考察‐』出版年不明

Ø       ユースフ・アル=カラダーウィー『行いについて』アル=キターブ社、ベイルート、1987年

Ø       ユースフ・アル=カラダーウィー『信仰と生活』ワフバ社、カイロ、1975年

Ø       サラージュ・アッ=ディーン『信仰心‐来世およびその状態に関する知識に基づいて‐』アル・ファラーフ社、アレッポ、1986年

Ø       竹下正孝「イスラムにおける死後の世界(変動する中東)」『中東協力センターニュース』第23巻、第12号、1999年

Ø       井筒俊彦「イスラーム文化 その根底にあるもの」岩波文庫、1991年

Ø       奥田敦(加藤哲実編)「第7章 イスラームの信仰とスークの経済」『市場の法文化』国際書院、2003年

Ø       奥田敦『イスラームの人権‐法における神と人』慶應義塾大学出版会、2005年

Ø       奥田敦(山内進編)「第4章 イスラームにおける正しい戦い −テロリズムはジハードか−」『「正しい戦争」という思想』勁草書房、2006年

Ø       眞田芳憲「イスラームと自殺」『平和と宗教』庭野平和財団/庭野平和財団平和研究会編、第24号、2006年

Ø       中村真「青年の自殺に関する研究T ‐大学生の自殺観と自殺志向との関連性‐」『臨床心理学研究』第33巻第3号、1996年

Ø       上里一郎編『メンタルヘルス・シリーズ 青少年の自殺』同朋舎出版、1988年

Ø       智田文徳・酒井明夫・高谷友希・大塚耕太郎・吉田智之「自殺につながる社会的因子」『精神科』8(5)、2006年

Ø       岩波明「自殺をどのように予防するか −社会的観点から」『精神科』8(5)、2006年

Ø       北村陽英・和田慶治・北村栄一・井上洋一・山本晃「青少年自殺企図の縦断的研究」『精神神経学雑誌』第83号第6巻、1981年

 



[1] マフドゥーフ・アッ=ズービィー『自殺‐性別と哲学および信仰を通じて‐』より「自殺とイスラーム」41頁。

[2] ナージー・アル=ジャイユーシュ『自殺‐自殺行動に対する心理学的・社会学的考察‐』より「自殺と宗教」123頁/ユースフ・アル=カラダーウィー『行いについて』より「自身の保護」456頁。

[3] マフドゥーフ・アッ=ズービィー『自殺‐性別と哲学および信仰を通じて‐』より「自殺とイスラーム」41頁。

[4] ユースフ・アル=カラダーウィー『行いについて』より「自身の保護」458頁。

[5] 『自殺』「自殺と宗教」P.123〜(図書館で借りた本)

[6] ナージー・アル=ジャイユーシュ『自殺‐自殺行動に対する心理学的・社会学的考察‐』より「自殺と宗教」123頁以降を参照。

[7] ユースフ・アル=カラダーウィー『信仰と生活』167頁。

[8] Ibid,180頁

[9] サラージュ・アッ=ディーン『信仰心‐来世およびその状態に関する知識に基づいて‐』より「ヒサーブの世界」315頁。

[10] Ibid.

[11] 竹下正孝「イスラムにおける死後の世界(変動する中東)」『中東協力センターニュース』第23巻、第12号、1999年、24~25頁/井筒俊彦「イスラーム文化 その根底にあるもの」岩波文庫、1991年、49頁/奥田敦(加藤哲実編)「第7章 イスラームの信仰とスークの経済」『市場の法文化』国際書院、2003年、151頁

[12] 眞田芳憲「イスラームと自殺」『平和と宗教』(24)〔2005〕庭野平和財団/庭野平和財団平和研究会編

[13] マフドゥーフ・アッ=ズービィー『自殺‐性別と哲学および信仰を通じて‐』より「自殺とイスラーム」41頁。

[14] ユースフ・アル=カラダーウィー『信仰と生活』「不信仰者はより厳しい困難にある人々である」179頁。

[15] マフドゥーフ・アッ=ズービィー『自殺‐性別と哲学および信仰を通じて‐』より「自殺とイスラーム」41頁。

[16] Ibid.

[17] 奥田敦『イスラームの人権‐法における神と人』慶應義塾大学出版会、2005年。

[18] 中村真「青年の自殺に関する研究T ‐大学生の自殺観と自殺志向との関連性‐」『臨床心理学研究』1996年、第33巻第3号、18〜25頁

[19] 中村真「青年の自殺に関する研究T ‐大学生の自殺観と自殺志向との関連性‐」『臨床心理学研究』1996年、第33巻第3号、18〜25頁

[20] 「メンタルヘルス・シリーズ 青少年の自殺」上里一郎編、同朋舎出版、1988年、4頁/「自殺につながる社会的因子」智田文徳、酒井明夫、高谷友希、大塚耕太郎、吉田智之。精神科、8(5):352~358頁、2006年/「自殺をどのように予防するか −社会的観点から」岩波明、精神科、8(5):369~372頁、2006年/「青少年自殺企図の縦断的研究」北村陽英・和田慶治・北村栄一・井上洋一・山本晃、精神神経学雑誌、第83号第6巻、372~385頁、1981年。

[21] 先行研究において指摘されるほか、筆者がアレッポにて行った、複数のイスラームの専門家に対するインタビュー調査の結果に基づく。

[22] 筆者が1月に行った、イスラームの専門家に対するインタビュー結果に基づく。

[23] フサイニー師のオフィスで行ったインタビューより。(1月9日)

[24] 以下の内容は、アッカーム師の自宅で行ったインタビューに基づく。(1月15日)