2006年度 森泰吉郎記念研究振興基金

 

研究助成金報告書

 

 

研究者育成費 修士課程・博士課程

 

 

研究課題名:「戦後中国の対外援助相手国への認識変化」

 

 

 

 

 

2007228

 

 

 

 

慶應義塾大学大学院

政策・メディア研究科

修士課程2年

胡 楠

E-mail: hunan@sfc.keio.ac.jp

 

 

        研究課題・活動内容:

 

中国は、なお新興の途上国であった1950年代はじめから、アジア・アフリカ諸国に対する経済支援を積極的に推進してきた。1980年代に革命から経済発展に路線を転換して以来、援助目的には大きな変化がみられるようになった。特に、1995年に対外援助方式が大きく改革され、初めて低利借款を設立した。今回の活動を通して、戦後中国政府の対外援助政策への認識変化を検証する。

 

        報告内容:

 

中国の対外援助は、中華人民共和国成立(1949年)直後、朝鮮戦争(50年開戦)における北朝鮮への軍事援助・復興援助に始まる(正式には53年から開始)[1]。続いてアジアの非共産主義国と中東諸国への援助も開始した。さらにはアフリカ、その後、欧州や中南米へも拡大していった。

            

1950-57年の社会主義陣営路線時期においては、中国はソ連から多額の援助を受けつつも、東アジアでの勢力拡大のため近隣共産主義諸国を中心に援助を行った。これは、北朝鮮や北ベトナムなど国境を接する友好国と西側との緊張関係を背景に、安全保障上の脅威に動機づけられたようにみえる。

 

1955年のバンドン会議以降、中国は従来の目的、つまり米国の中国包囲網打破の域を超えて、アジア・アフリカにおける第三世界集団を形成し、そのリーダーシップを握ろうとし、アフリカ諸国への接近姿勢を示した。1956年11月、中国はエジプト政府に対して2000万スイスフランの無償援助を抵抗する約束を交わし、アフリカに対して初めて援助を行った[2]。しかし、1958年時点での中国の指導者は「力がおよぶ範囲で、経済的に遅れているアジア・アフリカ民族主義国家に対して重点国を決めて、中小型プロジェクトを中心に援助を行う」[3]という方針を決定したことは、アフリカ諸国に対する援助の規模はさほど大きく考えていなかったことを示唆する。しかし、1960年にはアフリカ17カ国が独立し、中国はそのうち13カ国と外交関係の樹立することによって、中国の対外援助体制を徐々に整備し、援助相手国の急増につながった。とりわけ、1963年9月、毛沢東は中共中央工作会議で「二つの中間地帯論」を披瀝し、アジア・アフリカに対する支援姿勢を一層強化した。[4]この動向に伴い、1963年の周恩来アジア・アフリカ14カ国への歴訪中に「援助8原則」[5]という対外援助の基本方針を打ち出した。これらの8原則から見ると、中国が援助を行う目的は、途上国が経済的に自立し、第三世界が帝国主義から自由であるような世界経済秩序を目指し、途上国国民の意思に従って外部の干渉なしに経済発展することを支援するもの考えられる。しかし、中国が援助相手国での知名度向上、アジア・アフリカ諸地域を帝国主義に直接的打撃を与える革命闘争の地帯としての位置づけ、アフリカ諸国の国際的支持の確保[6]と台湾との外交合戦[7]等の要素も見過ごしてはならない。

 

1960年代の第三世界路線時期において、中国は第三世界にて多くの解放戦争を支援した。だが、援助相手国の反体制派をも同時に支援したため、60年代後半になると、中国からの援助申し出への警戒感が広がった。また、文化大革命により国際的に孤立され、援助自体は減少した。

 

1970年代前半には、中国は60年代において形成された反米反ソの国際統一戦線の対外政策から、対米接近によって「主要敵」であるソ連の脅威を抑止しようとする連米反ソ・反覇権主義の国際統一戦線へと転換した。反米反ソの国際統一戦線時期において、中国は第三世界の「友人」に対して援助を供与することと、第三世界の「敵」に対する民族解放闘争を支援するという二つのアプローチを採った。しかし1971年以降、中国の経済援助を受け取っている第三世界の国の割合が2倍近く上昇するのに対して、中国が支援する革命の対象となった第三世界諸国の割合は急激に低下し、1973年は過去15年間の最低値記録している[8]。この時期、米国とのデタントの一環として、現状打破的な政治外交政策を転換し、主として国家間関係を中心に積極的に外交が展開され、文革期の国際的孤立から脱却していくのである。

 

経済発展へ路線を転換した1978年のから80年代後半、いわゆる「四つの現代化」路線時期において、中国の対外援助政策への認識にも影響を与えた。すなわち、1979年7月7日に、鄧小平が中央外事工作会議において指摘されたように「我々が過去において第三世界を援助することは適切であり肯定すべきことである。わが国の経済は困難に面しているが、相当量の対外援助資金を拠出しなければならない。戦略的視点から言えば、わが国が発展を遂げても、相当量の援助資金を拠出すべきである。中国はこの点を忘れてはならない。援助問題に関しては、方針を堅持すべきである。それは、基本的に援助8原則に基づくものである。具体的な方法を修正し、援助相手国に利益を得らせることが重要である」[9]。この枠組みによって、1982年末から83年にかけて趙紫陽総理はアフリカ11ヵ国訪問の際に「平等互恵、実効第一、形態多様化、共同発展」という4原則を発表した。このとき対外援助を「南南協力」と位置づけ、相対的に豊かな国より貧しい国を援助すべきであるとしつつも、援助の効率性と質及び経済的効果を上げることを強調し、単純に第三世界への支援から、徐々に互恵協力に重点を置く方向に転換することを示唆した。この時期から、中国は海外の資金(国際機関や第三国の)や民間企業との合弁も活用し始めた。

 

1990年代に入ると、国内外の情勢を把握した上で、中国政府は、対外援助は政府間の協力だけでは実情に合致しないと判断した。そこで、民間資金をも導入して貿易・投資を組み合わせた援助の枠組みを構築し、中国企業の途上国市場の開拓を目指すようになった。このような状況の下で、1995年の対外援助改革に至ったのである。今回の改革の中で、対外援助の効率化及び財源・援助方法の多角化が図られた[10]

 

 



[1] 田町典子「中国の対外援助の歴史的考察-(上)」『世界週報』20053828頁。

 金徳氏は「戦後中国の対外援助政策」(『東亜』2003126169頁)の中でも中国の経済援助は1956年に始まると指摘している。

[2] 青山瑠妙「中国のアフリカ政策―1960年代対外援助の視点から」『早稲田大学教育学部学術研究(外国語・外国文学編)51号』2003212頁。

[3] 『当代中国的対外経済合作』(中国社会科学出版社、1989年、31頁)。

[4] 王泰平主編『中華人民共和国外交史1957-1969』(第二巻)、世界知識出版社、1998年、6頁。

[5] 「周恩来のアジアとアフリカ三回訪問」

外交部HPhttp://www.fmprc.gov.cn/chn/ziliao/wjs/2159/t9010.htm

八原則とは:1.中国政府は一貫して平等互恵の原則に基づいて対外援助を供与し、このような援助を一方的贈物でなく、相互的なものとみなしている;2.中国政府は対外援助を提供する際に、厳格に被援助国の主権を尊重し、いかなる条件も付け加えることなく、特権も求めない;3、中国政府は無利子または低利子借款の方式で経済援助を供与し、必要に応じて、返済期限を延長し、できるだけ被援助国の負担を減らす;4.中国政府の対外援助は、被援助国が中国への依存ではなく、徐々に自力更生による独立した経済発展を助けることを目的とする;5.中国政府の被援助国に対し支援するプロジェクトは、少額の投資でしかも即効性のあるものを求め、被援助国政府が素早く資金を積み重ねるようにしたい;6.中国政府は自分で生産できる最上の品質の設備や資材を提供し、そして国際市場の価格に基づいて価格を定める。中国政府が提供した設備や資材は合意した規格と品質に合わない場合、中国政府はその設備や資材の取り替えを保証する;7.中国政府はいかなる技術援助を提供する際に、被援助国関係者がこの技術を存分に習得できるよう保証する;8、中国政府が被援助国に派遣した専門家は、被援助国の専門家と同等の待遇を受け、いかなる特別な要求も認めない。

[6] 浦野起央『アフリカ国際関係論』(有信堂、1975年、335336頁)。

[7]青山瑠妙「中国のアフリカ政策―1960年代対外援助の視点から」『早稲田大学教育学部学術研究(外国語・外国文学編)51号』2003211頁。

[8]宇野重昭、天児慧編 前掲書、298頁。

[9] 劉向東『鄧小平対外開放理論の実践』(中国対外経済貿易出版社、2001年)

[10] 石広生「対外開放20年間」『中国対外経済貿易年鑑』対外貿易経済合作部年鑑編集委員会1998年、29頁。