議論と今後の展望


本研究では宿主であるヒトの翻訳制御機構がインフルエンザウイルスに模倣された結果,ヒトのRNA結合タンパク質を介した翻訳制御機構がインフルエンザウイルスにより行なわれるようになったと考え,このウイルスのゲノム解析からヒトにおける未知の翻訳制御機構の解明を目指した.
ヒトのRNA結合タンパク質であるGRSF-1による選択的な翻訳制御にはmRNAの5’UTRに存在する認識配列の存在だけではなく,その認識配列のmRNA上の位置が重要であるとの仮説のもとに5’UTR上の位置と認識配列の出現頻度を解析したところ,ヒトmRNAにおいて5’端から6-10bp下流の領域において有意に高い水準でGRSF-1認識配列が出現しているが,出現の水準は開始コドンからの相対位置には依存しないことがわかった.
ここで重要な事実として,インフルエンザウイルスにおけるGRSF-1認識配列の位置は一般に5’端から10bp下流であるということがある.またインフルエンザウイルスの5’UTRは遺伝子間,サブタイプ間の比較において5’端に近い領域の保存度が高く開始コドンのある3’側に近いほど保存度が低いという特徴が見られるため(Kash et.al. 2002),開始コドンからのGRSF-1認識配列の相対位置は一定でない.
これらのインフルエンザウイルスmRNAにおけるGRSF-1認識配列の特徴と,今回解析したヒトmRNAでのGRSF-1認識配列の特徴は非常に高い一致を見せており,これはインフルエンザウイルスとヒトで共通の翻訳制御機構が存在するという仮説を強く支持するものと考えられる.
また,ここで5’端から6-10bp下流の領域にGRSF-1認識配列をもつヒトmRNA群は,GRSF-1による被制御mRNA群の候補と考えることができる.ここに抽出された候補mRNAは275あり,そのうち123が機能既知のものであった.この機能既知のmRNA群を検討したところ,転写,翻訳,ヌクレオチド代謝,タンパク質分解,核酸分解,また免疫や細胞自死といった遺伝子をコードするものが多く含まれることがわかった.これらの遺伝子の翻訳が促進され最終生産物量が増加したときに細胞にどのような影響を及ぼすかということについては今後詳しい解析および議論を行うことの必要性を感じるが,現段階での議論としては,リボソーム蛋白質などのハウスキーピング遺伝子と免疫に関連した遺伝子の双方がリストに含まれていたことは,この候補mRNAのリストを考える上で非常に興味深いことであると考えられる.なぜならば,転写や修飾など他にも遺伝子からのタンパク質の合成量を調整するポイントはあるなかでどのような遺伝子がGRSF-1による翻訳の促進制御を受けているかと推測すると,次のようなものが考えられるからである.
1)最終生産物の量を最大化する必要があり,転写でも翻訳でも促進の調節を受けている遺伝    子
2)最終生産物の量は多く必要だが,転写量を多くするような調節を受けておらず,翻訳で生成量を補完している遺伝子
3)認識配列を持ち,かつ同一の細胞で発現している他遺伝子と同じタイミングで生成量を増加させる必要がある遺伝子
さらに,1)から3)あるいはそれ以外の遺伝子のため機能させていたGRSF-1とその認識配列による翻訳促進の機構をインフルエンザウイルスが模倣したことへの宿主のカウンターアクションとして,
4)インフルエンザウイルスへの免疫応答を行う遺伝子
これらの遺伝子が制御の対象となっているのではないかと考えられる.実際に解析により得られた被制御遺伝子の候補群に(1)を連想させるリボソーム蛋白質や(4)として考えられるマクロファージやインターフェロン関連遺伝子が含まれていることは候補群の妥当性を示唆していると考えられる.
以上の結果により,インフルエンザウイルスと同様の選択的な翻訳制御がヒトでも行われていることが示唆された.今後の研究ではヒトにおける内在性のGRSF-1による翻訳促進機構の解明および抽出したGRSF-1披制御候補群の信頼性を評価するために実験検証が必要であると考えている.HeLa細胞にGRSF-1を過剰発現させる発現ベクターをトランスフェクションし,その細胞にさらに,ルシフェラーゼ遺伝子とその上流に本研究で得られたGRSF-1被制御候補遺伝子のmRNAの5’UTRをもつ発現ベクターをトランスフェクションすることにより,GRSF-1依存に翻訳効率が変動するか否かを検討する実験を行うことを予定しており,本研究では平行してこのベクターのデザインを行った.このベクターのプロモーターとしてはGRSF-1認識配列の5’端からの位置を制御する必要から,転写開始点が一意に定まっており,かつコアプロモーター上の転写開始点の位置から5’端の6-10bp下流に任意配列を組み込むことが可能であることを条件として調査を行なった結果,ヒトeIF4A1 (Eukaryotic Initiation Factor 4A1)由来のプロモーター配列を選択した(Kukimoto et.al. 1997).今後の展望としては以上の実験に解析によって得られた候補の実験検証を進めるほか,認識配列の位置による翻訳効率の変化の検討も視野に入れて詳細な機構の解明を目指していきたい.


Ref:
Kash, J.C., Cunningham, D.M., Smit, M.W., Park, Y., Fritz, D., Wilusz, J., and Katze, M.G. (2002). Selective translation of eukaryotic mRNAs: functional molecular analysis of GRSF-1, a positive regulator of influenza virus protein synthesis. J. Virol. 76, 10417-10426.
Kukimoto I, Watanabe S, Taniguchi K, Ogata T, Yoshiike K, Kanda T. (1997)Characterization of the cloned promoter of the human initiation factor 4AI gene. Biochem Biophys Res Commun. Apr 28;233(3):844-7.