2007年度森泰吉郎記念研究振興基金 研究者育成費 研究成果報告書

研究課題:アジアを中心とした地域における影絵芝居:歴史と現状

 

政策・メディア研究科修士課程1

鮫島沙織

 

 

1.研究概要

 本研究は、アジアを中心とした地域にみられる影絵芝居という文化が、どのように社会の中に存在してきたか、また、現在どのように存在しているかを明らかにし、それぞれの地域での社会における影絵芝居の役割とその位置づけとを考察するものである。

 今年度は数ある地域の中でもインドネシア共和国のジャワ島ジョグジャカルタおよびバリ島デンパサールに焦点を絞り、先行研究と、計1ヶ月半程の現地での現状調査および資料収集とを行った。

 

 インドネシアの影絵芝居「ワヤン・クリ(wayang kulit)」は、水牛やこぶ牛などの皮を用いて透かし彫り細工を施した平たい人形を、ランプの光を使って白い幕に投影し上演する人形芝居の一種である。その演目はインド叙事詩のマハーバーラタやラーマーヤナによるものが多く、村の浄化・結婚式・割礼・葬式など様々な儀礼の場で上演される。

ワヤン・クリは紀元前1世紀〜紀元後3世紀ごろにはその原型をあらわし、紀元後11世紀には現在の形に近いものが上演され始めた[1]が、ここ30年ほどはジャワにおいてその上演機会が減りつつあった[2]。しかし数年前より政府がワヤン・クリ保護の活動に以前と比べて力を入れ始めたこともあり、ワヤン・クリを取り巻く環境は変わろうとしている。このような状況下で、ワヤン・クリという文化は社会にどのような影響を与えているのか。また、ワヤン・クリという文化はそれぞれの地域社会においてどのように位置づけられるのだろうか。

これらの問題に取り組む手法として、1.先行研究を通してこれまでの歴史を概観する。2.フィールドワークでの観察・アンケート・インタビュー等を通して現状の把握を行う。

 

 

2.研究成果報告

2-1.先行研究

文献調査を通じて先行研究を行った。主な文献は4.主な参考文献に記す。

 

2-2.フィールドワーク

2007年度は、7-8月および11-12月の2度にわたって、計1ヵ月半程のフィールドワークを行った。そのまとめを以下に記す。

 

2007年7月27日−7月31日:ジャワ島ジョグジャカルタ

 2007年11月−12月に行うフィールドワークのためのパイロット調査。ジョグジャカルタ王宮が運営するワヤン・クリ上演者養成学校「ハビランダ(Habirandha)」、影絵芝居人形工房、ジョグジャカルタ文化局等を訪問。その他資料収集、ワヤン・クリ鑑賞およびその会場での観察、インタビューなど。

 

2007年7月31日−8月6日:バリ島デンパサール

 2007年11月−12月に行うフィールドワークのためのパイロット調査。国立デンパサール芸術大学を訪問。影絵芝居上演者宅でのインタビュー、ワヤン・クリ鑑賞およびその会場での観察など。

 

 

20071115日−1127日:ジャワ島ジョグジャカルタ

 ジョグジャカルタ王宮が運営するハビランダにて、観察・アンケート・インタビューを行った。これらの調査の結果から、ハビランダの生徒および教師はジャワ文化としてのワヤン・クリ永続を望み、それを自分の使命とする意識が高いことが明らかとなった。そのほか、ジョグジャカルタ市内で行われた伝統文化のフォーラムに参加、ジョグジャカルタで行われたワヤン・クリ上演の鑑賞、ワヤン・クリの練習会への参加など。

 

20071127日−1208日:バリ島デンパサール

 国立デンパサール芸大影絵芝居上演者学科にて、観察・アンケート・インタビューを行った。これらの調査の結果からは、ジャワ島ジョグジャカルタに比べバリ島デンパサールではワヤン・クリの永続はあまり意識されていない傾向がうかがえた。これは上演頻度の差によるものである。ジョグジャカルタではワヤンの上演は多くても週に23度ほどであるが、バリ島では毎日島のどこかで上演されているという。よってバリの人々は当然ながら文化が消えつつあるという実感がなく、その結果文化を守らねばならないという意識があまり生まれないのである。また、国立デンパサール芸大では、伝統的なバリスタイルのワヤン・クリに加えて新しいスタイルのワヤン・クリ[3]創作が盛んであった。その他、ワヤン・クリ鑑賞、デンパサール芸大で行われたバリ舞踊・バリガムラン・バリのワヤン・クリ人形を用いた創作劇に出演など。

 

20071208日−1211日:ジャワ島ジョグジャカルタ

 国立ジョグジャカルタ芸大影絵芝居上演者学科にて、観察・インタビューを行った。その結果、デンパサールと同様に、ジョグジャカルタ芸大でも新しいスタイルのワヤン・クリが創作されていることがわかった。しかしこれはデンパサールと比べあまり盛んではなく、あくまでも講義の主体は伝統的なジョグジャカルタスタイルのワヤン・クリ上演だということだった。その他、ワヤン・クリ鑑賞など。

 

 

3.まとめ

 インドネシアの影絵芝居「ワヤン・クリ」は、それぞれの地域社会にどのような影響を与えているのか。また、ワヤン・クリという文化はそれぞれの地域社会においてどのように位置づけられるのだろうか。先行研究も日本ではそれほど手に入らず、新しい文献もあまりなく、はじめはワヤン・クリという文化の大きな枠組みを捉えることも困難ではあったが、まずは現状把握をと踏み出したフィールドワークにていくつかの成果を得た。主な成果としては、

 

・ワヤン・クリは、先行研究においては地域の区別なくおしなべて「衰退傾向にある」と記述されがちであったが、地域によって上演状況が異なること。バリ島では今でも衰えることなく、毎日上演されている。

 

・ここ30年ほど衰退傾向にあったジャワ島でも、数年前より政府の保護が以前に比べ手厚くなり[4]、今後衰退に歯止めがかかる可能性があること。

 

・しかし、漫画やテレビなど新しいメディアの流入や、ワヤン・クリ上演時に用いられる現地の古い言葉を解せない世代が現れ始めたことなど、新たに生まれつつある問題もある。これにより、今後ワヤン・クリという文化がどのような道を辿るかという問題については、様々な可能性が予測されること。

 

などである。

 2008年度はさらにジャワ島ジョグジャカルタにフィールドを絞り、研究を続ける予定である。フィールドワークおよび資料収集からジョグジャカルタの人々のワヤン・クリに対する思いを知り、ジョグジャカルタの人々にとってワヤン・クリとは何なのか、ワヤン・クリはジョグジャカルタの人・社会・文化にどのような影響を及ぼしているのかを考察したい。

現時点では、ジャワ島の人々がしばしば人の性格をワヤン・クリの登場人物になぞらえたり、ワヤン・クリの物語を現在の政治にあてはめたコラムを書いたり、生まれた子供にワヤン・クリの登場人物の名前をつけたりするという現象、つまりワヤン・クリが儀礼の時だけの特別なものではなく、人々の日常生活に浸透しているという現象に着目したいと考えている。

また、ここ数年の新しい動きとしての政府の文化保護政策や、インドネシア全土に広がる上演者の組織の調査は、社会とワヤン・クリとの関係を考える上で重要な要素となるであろう。

 

 

4.主な参考文献

Asmoro AchmadiFilsafat dan Kebudayaan Jawa2003CV Cendrawasih

Drs. Kasidi, M. Hum , Drs. St. Hanggal Budi P., M.Si , Retno Dwi Intarti, S.SnEstetika Dalam Sulukan Wayang Kulit Purwa Tradisi Yogyakarta2007Departemen Pendidikan Nasional

I Dewa Ketut Wicaksana, SSP., M.Hum.Perkembangan seni pewayangan/pedalangan Bali dewasa ini,2001

Departemen Pendidikan Nasional Sekolah Tinggi Seni Indonesia Denpasar

Ir. Sri MulyonoWayang-Asal-usul, Filasafat dan Masa Depannya1975Gunung Agung

Kasidi HadiprayitnoTeori Estetika untuk Seni Pedalangan2004Lembaga Penelitian Institut Seni

Indonesia Yogyakarta

KoentjaraningratJavanese Culture1985Oxford University Press

Tim Penulis SENA WANGIEnsiklopedi Wayang Indonesia Jilid1-61999SENA WANGI

セノ・サストロアミジョヨ著、松本亮・竹内弘道・疋田弘子訳/ワヤンの基礎/1982/めこん

ヒルドレッド・ギアツ著、戸谷修・大鐘武訳/ジャワの家族/1980/みすず書房

松本亮/ジャワ夢幻日記/1984/めこん

松本亮/ワヤン人形図鑑/1982/めこん

マルバングン・ハルジョウィロゴ著、染谷臣道・宮崎恒二訳/ジャワ人の思考様式/1992/めこん

 

 



[1] セノ, pp23-26

[2] バリでは、多くのバリ人が信仰するヒンドゥー教の儀式とワヤン・クリとが密接に関係していることもあり、上演機会が減ったという報告はみられない。

[3] プロジェクターを用いたもの、様々な照明を用いたもの、昔ながらの演目とは異なりバリの伝説を用いた新しい演目を採用したものなど。

[4] 全国に存在する影絵芝居上演者のための組織PEPADI(Persatuan Pedalangan Indonesia)のジョグジャカルタ支部に対して、政府はワヤン・クリ上演ごとにその上演費用の援助を行っている。他の地域の支部においてはどのような援助が行われているかは、現在調査中である。また、インタビューでは「最近小学校のジャワ語の授業において、長らく行われなかったワヤン・クリの授業が再開された」との情報も得た。どの程度の期間行われていなかったかは定かではないが、現在販売されている小学校のジャワ語の教科書を数冊確認したところどの教科書にもワヤン・クリに関する章があった。