2007年度 森泰吉郎記念研究振興基金
研究育成費 修士課程 報告書
被災体験を社会化するコミュニティの研究
−関係性をつむぐコミュニケーションと主観的リアリティの分析−
政策・メディア研究科 修士課程2年
InterReality Project
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研究課題 |
本研究の目的は、阪神・淡路大震災についての過去の体験の断片が、現在の社会のなかにいかように残り、社会や人々に対しどのような影響を及ぼしているかを明らかにすることにある。「未曾有」と言われた震災被害を受けた神戸市では、復興へ向けたうねりのなかで様々な活動が生まれた。本研究では、震災体験から生まれた取り組みのなかでも、特に現在まで継続して活動を行ってきた3つのケース、震災の被害者遺族のNPO「HANDS」、ミュージアムにおける震災の語り部活動、被災者支援から生まれたコミュニティ放送局「エフエムわいわい」を取り上げ、暗黙知的に展開されている活動を、社会における「機能」として形式的に記述する。これにより、かつての被災地において、阪神・淡路大震災の記憶の風化が社会問題となっている昨今の社会的状況に対し、一石を投じる新たな視点の提供を目指す。
本研究は、いわゆる理論とフィールドの往復運動のうえに成り立っている。質的調査(5年間に及ぶ参与観察および各ケースへのインタビュー調査)から得られたデータを、理論(ニクラス・ルーマンの社会システム理論をベースにした機能分析)、特に機能分析を軸に据えた一連の理論的手続きのなかに位置づけ、各々のケースの活動を社会における機能として記述する一方、活動に参加する人々の間に共有された主観的リアリティを併せて描き出した。
分析の結果、3つの対象が保有する機能として、「阪神・淡路大震災を他者に伝えるコミュニケーション(伝承)」、「震災当時をめぐるコミュニケーション(回想)」、「防災をめぐるコミュニケーション(防災)」、「関係性をつむぐ(つながりの希求)」、「心的システムの治癒(治癒)」の5つの機能の存在が明らかとなった。特に、阪神・淡路大震災の経験を次代に伝承するという機能は、本論文の3つの対象に共通する機能であり、その意味において、阪神・淡路大震災によって生まれた3つの取り組みは、機能的に等価であることが示された。さらに「震災遺族」や「被災者」、「被災地」といった概念的括りが、他者(特に、体験を共有しない他者)に対する閉鎖性、共感不可能性を高めている一方で、逆説的ではあるが、ミュージアムやモニュメント、コミュニティFMといった「メディア」は、固定化された場所に存在するというある種の閉鎖性によって機能がより強化され、意味あるメディアとして機能しうること、そうしたメディアを取り巻くコミュニティ活動の潜在的な展開可能性が示唆された。
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分析フレーム |
【本研究のアプローチ】
図1:本研究のアプローチ
本研究は、1995年1月17日に発生した阪神・淡路大震災という過去の歴史的出来事を、現在の時点から捉えなおす。つまり、現在のなかにのこる被災体験の断片を、それらが持つ機能という観点から形式的に記述する。これにより、かつての被災地神戸市で近年社会問題となっている阪神・淡路大震災の記憶の風化という問題に対し一石を投じ、現在のなかにのこる「過去」の存在を社会学的に示す。
【理論に基づく研究のフレームワーク】
本研究では、社会システム理論を唱える社会学者ニクラス・ルーマンの考え方を基本的な理論的素地に置いた。これまでの社会学理論では、主体(人間や組織)ベースの社会観が主流であったが、主体ベースの把握では、結局のところ、人間の動機に還元されてしまい、社会のダイナミズムを精確に把握することができない。そこで、ルーマンが提唱したのが、人間と人間との相互作用のなかで生み出されるコミュニケーションを社会の要素として、社会を把握しようという試みである。
社会システム理論は、(1)主体概念とコミュニケーション概念を分けて扱うと同時に双方を扱うことができる、(2)社会学理論に不足しがちな時系列(プロセスアナリシス)で把握可能である、という2点において有効な理論である。
図2:本研究のフレームワーク
そこで、本研究では、被災体験がどのような機能を持ちうるのかを、図2に示した3つの観点(1.主体、2.コミュニケーション、3.両者が存在している「場」)をもとに検討する。
本研究は、1995年1月17日に発生した阪神・淡路大震災を事例としている。阪神・淡路大震災の被災中心地である神戸市中央区で生起する事象を事例に、災害発生後の被災地域と日本社会とをとりまく社会的事象を、「治癒」と「防災」という異なる2つの観点から見たコミュニケーション・システムとしてとらえ、災害発生後の社会の有り様を明らかにする。コミュニケーションという観点から社会をとらえ、「治癒」と「防災」、2つの視座を提供する社会システム理論と、個人の主観的現実をインタビューによって描き出すライフストーリーとの併用は、「システム的アプローチ」と「質的研究」と呼ばれる双方の社会科学の調査手法に、新たな視座を提供するものと考えられる。
【阪神・淡路大震災によって生まれた3つのケース】
本研究では、3つのケース(1.震災遺族のNPO「HANDS」、2.震災の語り部「人と防災未来センター語り部ボランティア」、3.震災によって生まれたコミュニティ・メディア「エフエムわいわい」)を取り上げる。3つのケースは、組織形態も種類も三者三様であるが、阪神・淡路大震災によって生まれ、今日までその活動を継続させてきたという共通点を持つ。
- <ケース1> 震災遺族のNPO「HANDS」 (Hanshin-Awaji Network for Disaster Survivors)
「HANDS」は、震災によって家族を亡くした「震災遺族」らを主たるメンバーとして組織されている非営利活動法人である。2000年に自らモニュメント(「1.17希望の灯り」、「慰霊と復興のモニュメント」)を建立し、それらをめぐる活動を展開している。活動を支える主なメンバーにライフストーリー・インタビューを用いてインタビューを行うほか、HANDSの活動やメディアの機能を抽出した。
図3:震災遺族のNPO「HANDS」(ケース1)
「HANDS」をめぐって行ったフィールドワークの詳細を以下に示す。
図4:震災遺族のNPO「HANDS」についてのフィールドワーク一覧
- <ケース2> 震災の語り部「人と防災未来センターの語り部ボランティア」
兵庫県立人と防災未来センターは、阪神・淡路大震災で得られた経験と教訓を後世に継承し、国内外の災害被害の軽減に貢献することを目的に2002年に創設されたミュージアム兼研究施設である。この施設のミュージアム部分「防災未来館」にて語り部としてボランティア活動を行うボランティア24名にインタビューを行ったほか、この施設が果たしうる機能について検討した。
図5:震災の語り部ボランティア(ケース2)
人と防災未来センターおよび語り部ボランティアをめぐって行ったフィールドワークの詳細を以下に示す。
図6:震災のミュージアム・語り部についてのフィールドワーク一覧
- <ケース3> 震災で生まれたコミュニティ・メディア「エフエムわいわい」
震災発生直後、被害の凄まじかった神戸市長田区鷹取町で被災者支援活動を始めたのがコミュニティFM「エフエムわいわい」(愛称「FMわぃわぃ」)の活動の源流である。FMわぃわぃは、震災直後こそ災害弱者のための復興支援情報の提供を行ってきたが、その放送活動の役割は、次第に地域コミュニティの、まちづくりのためのメディアへと変化を遂げている。
図7:震災によって生まれたコミュニティ・メディア(ケース3)
人と防災未来センターおよび語り部ボランティアをめぐって行ったフィールドワークの詳細を以下に示す。
図8:震災によって生まれたコミュニティ・メディア「エフエムわいわい」についてのフィールドワーク一覧
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研究成果 |
【分析結果】
語り部ボランティアの主な仕事に、来館者に対する「講話」というものがある。講話とは、30分間の枠の中で、自らの震災体験を自由な形式で来館者に対して話して聞かせるものである。本研究では、この講話を40個(29名分)採取し、テクストデータにしたうえで、内容の意味分析を行った。下に挙げるのは、語り部によって話された講話の全文を一例として挙げたものである。
人と防災未来センターにお越しいただきましてありがとうございます。先週もねえ、熊本の学生さんにお話したんですけど、熊本の方は地震がないと言われてる、言われてたらしいんですね。それが最近、震度3か4くらいの地震がときどき、たまにですけど、起きてますね。大きな地震がなければよいのになといつも思いながらテレビを見てるんですけどね。私は、神戸で生まれて神戸で育ったんです。で、かの有名な高速道路が絶対倒れない、言われてて倒れた高速道路のすぐ側に住んでたんですね。だから、ここから、ちょっと150mくらい北入ったところに住んでたんです。だから、あの大きな地震で、ドンとね。これは、この高速道路いうのは、ドンと倒れたわけじゃないらしいんです。後で聞いた話によるとね。じわっと倒れたと言うんですけれども、やっぱりあれだけのもんが倒れたんですから、衝撃も多少はあったと思うんですけど。息子とね、私の二人暮らしだったんです。主人は早くになくなりまして。息子が、中学1年生のとき。で、娘が中学三年のときに、お父さん、病気で死んだんです。で、三人でくらしてて、娘は嫁ぎまして、その弟のほうがですね、その弟は、地震のときに「お母さん、何にもない部屋のほうが怖くなくていいから、ここの部屋使わせてちょうだい」って、リビングが改装したてのところだから、あんまり家具置いてなかったんですね。オーディオセットとテレビくらい。それから、テーブル。それだけのところで、「夜だけお母さんここで寝かせてね」て言うのでね、「うん、いいよ」て言ってそこで寝てたんですね。
それが、最初にガガガッて揺れたときに、それこそ10秒前、10秒前やなかったと思います。5秒くらい前です。布団に座りかけたんです。息子を起こそうと思って。ですから、右足は座って曲げた状態で、左足は伸ばしたまま、そしたら、(揺れが)止まったんです。止まった、良かったな、思った瞬間に、私の身体、中に浮いてました。
神戸の地震ていうのは、直下型の地震。とんとんとん、て上下に揺れたんは3秒ほどでした。ほんで、後、横に揺れたんが、どの向きに揺れたんかは、私も分からないんですけどね、それが7秒、合計10秒であのすごい惨事になったわけですね。で、10秒間っていうのは、私は、全部分かってるんです。なんでか言うたら、3秒の間に私身体が宙に浮いて、そして、仏壇の上側が外れて、私の頭を直撃したんです。それきり気を失ってました。それで、その仏壇が、上に乗っかってたらしいんですね。私は何にも分かりません。気を失ってますから。気がついたら、真っ暗闇のなか。何にも見えないんです。階に寝てて、2階が被さってますからね。真っ暗闇の中、私は、見えてないから、地震でそうなったいうのが分からないんです。記憶も戻らないですね。そして、私は「地震じゃなくて、交通事故にあって目が見えなくなってしまったんや、そのときに、押しつぶされた状況の中で、どうしよう、どうしようかな。目が見えないな。まあ、目が見えなくても、生きていけるかな」くらいの感覚しかなかったんですよね。というのも、私がお稽古してたときの師匠ていうのが、まったく目の見えない方で、その先生に7年間、週に1回通って、お稽古してもらってたそのお姿見てたから、目が見えへんことがそんなに大変なこととは思ってなかったんです。そのうちに、外ではね、ヘリコプターが低空旋回する音で、隣から、おばあちゃんがかすかにね、助けて、助けてって叫んでるんですね。それでね、私も叫んでみようと思って、「助けて、助けて」ってありったけの声を振り絞って、二回くらい叫んでみたんですけど、悲しいことに、外のヘリコプターにかき消されてしまって。後で聞いた話ですけど、娘が、「中のほうでお母さんが声を出したんは、私らには聞こえなかった」って言うんですね。外のもんには。だから、どういうんですか。どう説明したらいいか分かりませんけど、報道関係にはお願いしたいんです。生き埋めになってる人は3時間以内に助けてもらっていても、私のような年になっても、まだ後遺症で苦しんでいる。なるべく早く人を助けよう思ったらね、騒音を押さえてもらわな困ります、て申し入れをしました。
で、ほんとにね、10時間生き埋めになってましたからね。物がないから、手作業でね。皆今みたいに、「地震が来たらこういうもの用意しといたらよろしいよ」いうような物は全然、神戸は地震ないって言われとったものですから、なんにも用意してなかったんですね。だから、素手で瓦をのけてね、板をはがして。で、しまいには道行く人が皆ね、なにかお手伝いしましょうか、て来ても道具がないんですって。「手はこのとおりなんとかあるんですけど、ジャッキなんとかお借りできませんか」って。ジャッキがなかったら車持ってる方も困る思うんですけど、そういうことに関わらず、皆さんにジャッキを何回も貸していただいて、で、あの「お返しは・・・」って言ったら、「そんなんどうでもよろしい、それより、待ってる人助けてあげてください」と言うことで、いろんなかたちで見知らない人に協力していただいたんですね。で、私が埋まってるときに、あの、どんどん、どんどん、私が生き埋めになったと同時に、息子はどうしたんや思いましたら、今のね、建築基準法、新しくできたんではね、梁、天井裏にある梁、これが木造のおうちだったら梁が入ってるわけね。これが、ボルトでこんだけあるんですけどね、昔のは、木を切り込んで、組み合わせてあるだけですから、金具で止めてないから、直下型でがたがた揺すられたらひとたまりもないんですね。外れてしまうんです。だから、これもね、減災のひとつですから、お家でじぶんとこの梁がどないなってるか、木造の古いお家はですよ。マンションは、分かりません。大丈夫やと思いますよ。そういうことも心配して、お父さん、お母さんと、語り部さんが、こんな話をしてたいう話をね、してほしい思うんです。
で、その梁が、どんと外れて、まだ熟睡してた息子の、息子にまともにあたって即死だったんです。で、そのときに、29歳だったんですね。私が、年寄りの私が60過ぎてましたからね、年寄りの私が生きてて息子が亡くなったいうことがものすごくつらくて、どうして逆でなかった、逆であってくれたら良かったのに、て思ってね。3ヶ月入院して、足の治療して、まだ、ギブスで杖をつきながら帰ってきたんですけど、どういうのかな、娘のところへ、家全壊で、こんなに潰れてしまってますから、もともと住んでた家には戻れませんから、嫁いだ娘のところで世話になってたんですね。だから、孫たちの前で泣くわけいきません。それで、思いっきり泣いたら少しは気持ちも晴れるかなって、タオルを口に撒いて、外はね、家がこうしてみんな崩れてますからね、2階建てが1階になって、家は全部こんなんですから、だから、あの明かりがないわけです。明かりがなかったら、人目につきませんから、もうこんなとこだったら、誰も住んでません。ここも全壊ですから、周りのうちは誰も住んでませんから、そういう中を、暗闇の中を思いっきりね、大声をあげて、泣けるだけ泣きました。何回か行ってね。それでもね、子供を亡くした親の悲しみいうのはね、そんな簡単にはおさまりません。で、ほんとにね、ものすごいね、どう言うて表現したらいいのかな。亡くなった子との関わりとかいろんなものがありますから、いろんな形があると思うんですけどね、私はほんとに辛くて、どれだけ泣いてきたか、分からないんです。だから、みなさんにね、お願いしたいのは、親より先に死ぬことほどの親不孝はないんですね。もうみんななら、お父さん、お母さん、そしてご近所の方、皆さん方が大きくなるに連れて、学校の先生はもちろんですし、いろんなことに携わってくださった思いっていうのはね、亡くなったらどんなに悲しいか分かると思うんです。だから、簡単にね、命を落とすいうようなことは考えないでほしいんです。私はクラッシュ症候群て言うて、内臓を圧迫されとったから、ほんとに苦しかったんですね。だから、今、簡単に中学生くらいの、あの中学生くらいの方が多いんでしょ?自殺するのはね。あれを見たときに、勇気あるな、と。私はあんな苦しい、自分が苦しい目にあってるから分かるんやけど、簡単に死ねるもんじゃないんですね。死にたい、死にたい、もう死んでやろってその思いと、死ぬ瞬間、簡単に死ねたらいいんですよ。でも、そんな簡単なもんじゃないんです。一生、後遺症が残ったらどうします?そんなこと考えたら、命というものは、粗末に扱ってはいけないと思うんですね。で、自分の命も大切やけど、お友達の命も大切ですよ。そうしてね、絶対につまらんことで、友達をイジメて死に追いやったりすることがないようにして欲しいと思うんです。
で、私がこうして、今命があるのはね、もうこれで時間がないかな、と思ってるときに、板切れが手に触ったんですね。ちょうどこう私の指でつかめるくらいで、もうちょっと、長い板きれが触ったんです。それ、ごんごん、ごんごん、と叩いてたら、そしたら、家で飼ってた、シェルティっていう犬が瓦礫に埋まってたんですね。娘が来たときに、犬がいないから、「あぁ、どっかに逃げてしまったかな」と思ったらしいんですね。そしたら、瓦礫の中で暴れ出して鼻先がでてきたんで、娘が「あんた生きてたのね、助けてあげるね」て瓦礫をのけかけたら、人を噛んだことないのに、「ウー、ウー、ウー」って唸っては、軽く噛んで、そして「ヒー、ヒー、ヒー」って言っては首を振るので、それを見てて、娘は夫に、「お父ちゃん見て!この子お母さん生きてるいうこと知らせてるよ」と言ったそうです。娘が裏に回ってみたら、自分の弟の足がもう冷たくなってしまってる。「あ、こら、もうだめだわ。多分お母さんも、弟が死んでるんだから、こんなんだろうな」と思って、諦めてたみたいなんです。だから自分の主人に「お父ちゃん、この子、お母さん、生きてるいうこと知らせてるよ」言うことで、急遽、ご近所の人が寄ってくださって、私を助けに、救出に掛かってくださってね。晩まで掛かりました。で、あ、時間がないからねえ、あれですけどねえ、病院でやっと、晩の9時過ぎに、山の手の病院に、一つだけ簡易ベッド空いてますいう連絡を受けて、運んでもらったんです。ま、ベッドくらいも無いんです。まるで野戦病院でね。ベッドなんかないから、床に全部寝かされてました。その中で、おばあちゃんが「ノド乾いたからお水頂戴、お腹すいたよお、おしっこがしたいよ」言うのを聞いてて、娘が「しょうがないな、お母さんは意識が朦朧として、声もでないのに、あのおばあちゃんは元気でいいな」と思てたら、ついたての向こうに運ばれて、ピッピッピッピーっていう音で、亡くなってしまったんです。次々と寝てた人がいっぱいそこへ運ばれて、どんどん空っぽになっていくのを見て、娘が「あ、次はお母さんの番かも分からない」と、「生きた心地しなかった」と、だいぶん後になってから話してくれましたけど。そのうちにね、私がね、どうしても耳から離れないのはね、「てるちゃん、てるちゃん、てるちゃん、頑張りなさいよ。ああ、ああ、あなたもお父さんや、お姉ちゃんのとこに行ってしまうのね」という声。私は、その寝たきりでしたから、動けませんから、姿もなんにも見てないんですけど、その状況が耳に残りまして、何度考えてみても、あ、お父さんが亡くなって、お姉ちゃんが亡くなって、小さいお子さんだったのかなあって、聞いてたんですけどね。
被災地ていうのはね、ほんとに1人だけの命じゃないんですね。6434人の方が亡くなってます。だから、いざっていうときには、みなさんが若いんですから、1人の人でも救出できるように、助け出せるようにね、そういうときには、頑張ってほしいと思うんです。まだ、いろりろ話したいことがあるんですけど、時間がありませんので、あの、またの機会に、また、みなさんもね、熊本にずっといるとは限らないでしょ。大阪や神戸に大学とか就職とかで来るかも分かりません。私、右足は切断って言われてた状態やったんが、こうして歩けるようになって、後遺症も、まあ今日みたいな日はものすごい痛いんですけど、そんなことも言うてられませんから、こうして歩ける間、生きてる間は、ここへ来て、語り部しよう、て思ってますから、また、お会いできるかも分かりませんね。どうもありがとうございました。これで終わらせていただきます。
こうした講話は、一見すると自由に構成されているように考えられがちであるが、実際にはそうではなく、一定の「型」が存在することが明らかとなった。40講話を意味内容別にわけてコーディング(定性コーディング)を行ったが、その際のコードを以下に示す。
図9:意味内容別コード一覧
以上のコードを用いて意味内容別に分別し、色付けを行ったものが図10である。
図10:語りの型
赤やピンクで示されているのが教訓、特に赤は「防災」と意味づけられている教訓に類する。緑部分は、震災時の体験である。換言すると、語りは、体験のみで語られるのではなく、特に「場」の影響、人と防災未来センターの提唱する減災・防災のコンテクストの影響を大いに受け、「防災」という意味づけによって体験が語られるという「型」が存在していることが示された。
上述と同様の手順で、FMわぃわぃの放送内容を3半期に1度刷新される放送番組タイムテーブル(1996年〜2007年)のデータを用いて、コミュニティのためのメディアとしてどのようなコミュニケーションを生み出しているのかについての分析を行った。その結果、ピンク色で示された震災復興情報、震災関連情報の割合は年々減り、緑色で示されたまちづくりのための情報、コミュニティづくりに関連する情報の割合が増え、2007年に至っては、そうした情報が大半を占めていることが明らかとなった(図11、図12)。つまり、コミュニティFMは、震災復興情報発信の必要に応じて生まれてきたものの、復興とともに存在意義が失われ、現在では、まちづくりのためのメディアとして機能している。
図11:コミュニティFMの放送内容(コミュニケーション)の変遷1
図12:コミュニティFMの放送内容(コミュニケーション)の変遷2
前述した3つのケースの主体、コミュニケーション、そして各々の場について行った機能分析を概観しておく(図13)。
図13:3つのケースの機能一覧
さらに、これらの機能について、機能毎に比較分析を行った結果、異なる3つのケースから共通する5つの機能を特定することができた。第1に、阪神・淡路大震災を伝えるという機能、第2に体験者の内での震災についてのコミュニケーションを促進するという機能、第3に被災によって受けた心の傷を癒すという機能、第4にそれぞれの取り組みごとに関連する組織との関係性をつむぐという機能、そして最後に、「防災」を推進するという機能である。
図14:3つのケースの機能間比較考察
【結論】
- 3つのケースは共通して、「阪神・淡路大震災を伝える」という機能を有している(機能的に等価であると評価できる)
3つの異なる事例には「震災をめぐるコミュニケーションを促す」、「阪神・淡路大震災を伝えるコミュニケションを促す」という2つの主な機能が共通して、存在している。しかし、コミュニケーションの範囲と機能が及ぼす影響力に差があることは指摘できる。
- 3ケースの体験の残し方、伝え方は三者三様である
震災遺族は、「家族を亡くしたこと」の価値観へ、語り部は「防災」へ、コミュニティFMは、地域のまちづくりのためのメディアへと、それぞれ体験を社会化している。
- 体験を広く社会化していくためには、主体ではなくコミュニケーションへと変えていく必要がある。
3ケースの中でも、主体寄りの残し方をしている震災遺族のコミュニケーションは、他者に伝わりづらく、理解されにくい。一方、コミュニケーションとして残すことに成功しているコミュニティFMは、震災体験の社会化には成功しているものの、活動から震災の原体験は見えてこない。
- 体験というものは社会的に加工されて残るものであり、その時点において原体験とは異なるものである。
それでも、それは決して阪神・淡路大震災の記憶は風化しているわけではなく、かつての被災地のなかに、かたちを変えて残っている。
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本年度の研究成果発表 |
【論文】
国友美千留, 「被災体験を社会化するコミュニティの研究 -関係性をつむぐコミュニケーションと主観的リアリティの分析-」, 慶應義塾大学大学院 政策・メディア研究科 2007年度 修士論文. 論文要旨. 英文要旨. 論文目次. 参考文献一覧
【メディア掲載】
2008年1月18日付朝刊, 読売新聞(大阪) 社会面, 記事タイトル「被災の大学院生、震災研究...神戸の今追い続け」.
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フィールド調査協力団体・企画 |
【団体・アクター】
- NPO法人阪神淡路大震災「1.17希望の灯り」(HANDS)
- 神戸市市民参画推進局市民活動支援課「協働と参画のプラットホーム」
- ひょうご21世紀財団法人人と防災未来センター企画運営部運営課
- ひょうご21世紀財団法人アジア防災センター国際復興支援事務局(IRP)
- NPO法人たかとりコミュニティセンター
- 株式会社FMわぃわぃ
【企画・フィールド】
- 神戸港震災メモリアルパーク
- 阪神淡路大震災 慰霊と復興のモニュメント
- 阪神淡路大震災 モニュメント「1.17希望の灯り」
- 北淡町震災記念公園
- 阪神淡路大震災 人と防災未来センター
- 神戸ルミナリエ(通年)
- 追悼のつどい「1.17希望の灯り」(通年)
- International Conference on Tsunami and Earthquakes
- 神戸市主催阪神淡路大震災合同追悼式典
- 兵庫県合同慰霊祭
※なお、研究遂行の関係で、申請時における研究テーマ「被災経験の暗黙知を社会に取り込むフレームワークの構築」から、若干変更しました。研究課題についても変更はありませんが、今回の研究では、研究課題に取り組むための暗黙知の抽出に研究の多くを割くこととしました。
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