2008年度 森泰吉郎記念研究振興基金(研究者育成費・博士課程) 研究助成金報告書

研究題目: 英語を用いた国際協働研究活動支援のための教材開発

 

慶應義塾大学大学院 政策・メディア研究科 博士課程3

中  (yamanaka@sfc.keio.ac.jp)

 

研究の目的

 本研究は、日本の研究者が国際舞台で英語を用いたディベート、ディスカッション、シンポジウム、パネルディスカッションを行うための支援教材を開発することを最終的な目的とする。昨今日本の研究者は、英語の得手不得手に関わらず、国際レベルでの協働研究を海外の研究機関等と行うことが格段に多くなってきた。その際には、英語でのプレゼンテーションはもちろんであるが、それ以外に英語で行うシンポジウム、パネルディスカッション、ラウンドテーブル等、学会形式での意見交換会を持つ機会は極めて多い。事前に入念な準備が可能な英語でのプレゼンテーションを指南する教材が多いことに比べ、現状ではプレゼンテーション後のディスカッションにおけるやりとりについて支援する教材は必ずしも多くない。本研究は現状の調査から始め、研究者が直面する課題に即した「役に立つ」支援教材の開発のための基礎研究を行う。

 

研究の背景

 「英語が使える日本人」、「実践的コミュニケーション能力」といった表現が代表するように、現代の日本の英語教育一般に期待されているものは、20世紀の訳読偏重に代表される受信・詰め込み式の外国語教育とは明らかに異なってきている。現に英語やコミュニケーションへの関心を背景に、昨今の日本の大学の英語教育は、その多くが「コミュニケーションを重視」したものを目指そうと、各大学独自に様々な改革に取り組みつつある。一昔前の受信一辺倒の授業を、発信型の、学生とのインタラクションをより重視したものに取って代えることを目指し、例えば慶應義塾大学湘南藤沢キャンパス(以後慶應SFCと表記)の英語プログラムのように、「発信型大学英語」の目標のもと、マルチメディア環境を駆使した英語教育を15年以上にもわたって実践してきたような先進的な事例もある(鈴木孝夫 1999、鈴木佑治 2003)。また多くの大学で、学生の主体的な活動が評価の大部分を占めるプロジェクト授業、スピーキングやプレゼンテーションを中心とした科目も導入されつつあり、こうした傾向は今のところ衰える気配はない。一部に未だ見られる「テスト信仰」においてさえ、現行の国内外で見られる英語能力アセスメントの多くは、それが単に英語の知識を問うものではなく、実際の使用の力である言語運用能力を問うものが格段に多くなってきた(山中 2006)

 しかしながらその一方、そうした英語授業における「コミュニケーション能力」という概念を巡る理論的な解釈において、現状ではほとんど合意が見られないのが実情である。これまで英語教育を論じてきた応用言語学は、「コミュニケーション」に関する根本的、かつ哲学的論考に欠け、「コミュニケーション能力」という概念についての理解、さらには、それをどう評価したらよいのかという点に関してほとんど合意を見せず、議論さえなおざりにしてきたのが現状である。すでに社会言語学を含め、応用言語学の分野でこれまで多くの議論やモデルの提案が行われてきたが(Canale and Swain 1980, Bachman 1990, McNamara 1996)、それらの中でも統一的な見解は見られず、議論は抽象的な次元にとどまっているにすぎない(田中他 2005, 金谷他編 2003)

こうした理念上の「混乱」は、日本の英語教育における意義をも曖昧にさせている。「コミュニケーションを重視する」という総論では一応のコンセンサスが得られていると思われる一方で、そのための日本国内における英語(教育)論は理論化が遅れており、具体的な方法論に十分な論拠を与えるまでには至っていない。「何のために」、「どのように」、「どんな」英語を学ぶべきなのか、こうしたいわば理念的な議論を飛び越えて、やみくもに英語教育を必要に駆られ実施しているのが、現在の日本の英語教育の実情ではないだろうか。

 こうした問題意識に対して、本論文はアメリカ哲学で中心的に論じられてきた「プラグマティズム」という概念を英語教育に導入し、具現化としての教材を提示することでその有効性を検証するものである。プラグマティズムに依拠した英語教育論は、コミュニケーションを重視する方向性を共有する日本の大学英語教育において、今後論理として依拠する理念として妥当であり、方法論的にも有効なのであるという仮説に立ち、本研究はこれに一定の説得力をもった説明論理を提供するための実証実験の意味をも持つ。理論的な見地からの立ち入った議論は山中(2008)に譲るが、本研究の理論的スタンスが、結果として今後変化していくであろう英語教育に方向性を与え、さらなる英語教育改革を促すことを希望している。

 

研究の内容

I. 基礎調査 [文献調査及びそれに関する理論研究]

第二言語習得、TESOL関連のディスカッション、シンポジウム、ディベート、アカデミック・ライティングに関するテキスト、それを研究した論文、AV資料などを介した、現行の支援教材の充実度を調査、英語教育論についての現行の理論パラダイムを研究した。

II. 考察と知見の提供

得られた基礎データから英語教材開発を含む独自の知見をまとめ、考察を行った。

 

研究の成果

 本研究の究極的なゴールは具体的な教材の提示を通して、今後のグローバル化した時代における日本の研究者の支援を行うものであり、単なる一英語教材の作成のみに終始しようとは考えていない。かつて英国が「ケンブリッジ英検」という統一されたスタンダードを広く世界に要求し、米国はそれに対抗して「ミシガン・メソッド」を開発した。これらは彼らの母語である英語を、自分たちにとって都合の良い形で他国・他者に押し付けた、まさに「他者折伏」型(鈴木 1999)のイデオロギーであったとも言えよう。これらの試験や資格を日本の英語教育が目指す限りにおいては、その根底には究極的な母語話者への同化、あるいはそれへの限りない接近という心的態度があり、評価モデルやその評価尺度にもそうした価値観が反映されている。しかしながら現在、目まぐるしく登場する次世代メディアにおけるコミュニケーション環境は、こうした意味でその理念的検討から具体的方法論に至るまで、今後大きな変貌を遂げる可能性を大いに孕んだ岐路に立たさるものであり、そうした際に目指すであろう理念や価値は、必ずしも欧米に倣ったものである必要はない。むしろ日本、そしてアジアからの英語教育への転換を訴えるべきであり、非母語話者としての英語教育政策を理論的に担保しつつ、それらを一つのパラダイムとして確立し、世界へ向けて発信することは意義のあることとなろう。本研究成果が、そうした大きな希望を実現するための一つの端緒となり得る可能性を信じたい。

 本研究はこのような意味で、日本から発信する英語教育教材の基礎研究的な性格を持つものであり、教材開発のための資料収集を行うと共に、以下の考察を提供する。これは本研究が新たに提示する英語教育の理論分野であり、基礎研究としての成果として提示するものである。

 

 

−「英語教育アプローチ普及論」の必要性: 新規英語教授法の戦略的普及と汎用化のための多角的研究の展望−

 

 英語教育は現状として、スケール・アウト(汎用化、普及のための方法論)についての研究がほぼ皆無であるといってよい。もちろん教授法毎に学会や研究会で研究発表やワークショップがあったり、書籍の形でそのノウハウが提示されたりすることは確かに多々見られることではある。しかしながら、これらは海外での教授法研究を日本に取り入れる、すなわち輸入学問の域を出るものではなく、日本初の英語教育アプローチの普及のための一般化された研究、あるいはこのようなスケール・アウトを専門に研究する「分野」は、どの英語教育関係の学会活動の中にも筆者の知る限りほとんど見られない。

 我々英語教員は、日本中の至る所で、英語教育に対して熱意を持って取り組み、素晴らしい教育実践を行う教員がいること、そしてそうした「心を打つ」と言って差し支えないような素晴らしい実践があることを経験上知っている。時に雑誌等メディアに取り上げられることもあり、それらが一時的に注目されることもある。しかし、先に議論した通り、このままではカリスマ講師によるゲリラ的な実践の域を出るものではなく、その講師がどれだけ身を粉にしたとしても、多くの人、この場合は日本中の該当学年や該当レベルの教育機関の学習者が益することはできない。物理的に不可能だからである。

 本研究は、あくまで展望的な所見を述べるものであり、具体的な実証や根拠の提示は別稿を待ちたい。従って、情報量や根拠に曖昧さが残るが敢えてこととして、日本の英語教育は、こうした英語教育アプローチの普及や汎用化に対する一般的な研究や議論を軽視してきた傾向があり、その結果、こうしたスケール・アウトの手法に長けていないのではないか、との疑念を本研究は持っている。すなわち、「普及が下手」なのである。これは今後どれだけ素晴らしい教育アプローチや理念、実践が誕生したとしても、それは結果として日本国内全体の英語教育改革のためにはならず、戦略的な意味からも「生産的」とは言えないのである。また先に指摘したように、聞きかじりの知識をもとに、同じ看板を掲げた教育実践が横行し、そもそもの提唱者が実践し、理論化した教育アプローチとは「似て非なるもの」が横行し、収拾がつかなくなるような事態も大いに予想できることである。しかしこれも、ある程度の妥当性をもったスケール・アウトの手法が一般化されていない現在、言い方によっては「やむを得ない」現象なのかもしれない。従って本研究が提示する展望的所見は、場合によっては英語教育研究が急務として取り組み、何らかのモデルを早急に確立しなければならない分野であり、本研究はその端緒に貢献し、本章にてその事例提示を行ったことになる。

 こうした問題意識を受け、本研究は「英語教育アプローチ普及論」とも言える新たな英語教育研究の分野を開拓する必要性とその意義をまとめ、提示したい。本章の提示がきっかけとなり、実践の現場と英語教育研究がより近いものとなり(この発想は現場を重視し、現実的に役に立つプラグマティズムと共鳴する)、英語を学ぶ者、教える者にとって「役に立つ」研究の地平を切り拓くことができることを切に希望したい。

 

英語教育のスケール・アウトのパターン: 2つの既存アプローチの分類と1つの新たなパターンの提示

 英語教育アプローチのスケール・アウトを考える際、当該分野がその研究に関して遅れをとっているという現状が正しいならば、他の分野にその先行事例を求めるのが一つの有効な手段であろう。その際、まず参考になると思われるのは外食産業等によく見られるフランチャイズ経営である。これは本部がノウハウを持ち、その全てを事細かに提示することで、各経営者がそれに則った経営を行う。これには徹底した標準化の手法が取られ、そのサービスの質の均一さがその企業のブランド価値を高めることにもつながる。スケール・アウトが成功している事例はビジネスに多く見られる。

 確かに英語教育は、こうしたビジネスの世界でのフランチャイズのような「制度の整い」に比べ、大きな遅れを取っている感が否めない。しかし予見として、英語教育アプローチには、こうしたフランチャイズ的な手法が必ずしもそぐわなかったがために、普及や汎用化の手法が確立されていない可能性もあるのではないだろうか。以下、英語教育アプローチを普及・汎用化させる上での、スケール・アウトの方法論について3つのパターンを暫定的に提示する。

 

1. 「伝統的アプローチ」 [カリスマ・ゲリラ的特徴][千手観音的特徴][古今伝授的特徴]

(普及事例は少ない) 例えば「陰山メソッド、百ます計算」の事例など、失敗例としてはX大学英語プログラムの顛末

2. 「管轄型アプローチ」 [コーディネーション型アプローチ]

例えば一般の英会話学校や、全学的単位で実施したY大学のチュートリアル・クラスの事例など、(ビジネスの現場のフランチャイズ経営に近い)

3. 本研究が提示したい「メソッド一貫型アプローチ」

パターンを提示し、メタ情報を提供する手法。場合によってはNPO的な中間組織を介在させ、そこが一括して「直接手を下さず、ノウハウを提示、実際に行うのは現場(手法)」を徹底する。

 

上記それぞれのアプローチについて、簡単にそれぞれの手法を概略する。

 1.の伝統的アプローチは、先に言及した、いわゆる「カリスマ」講師による「ゲリラ的」、すなわち、その講師が担当するクラスや現場においてのみ、実行され得るものである。その実践そのものは素晴らしいものであるかもしれないが、ノウハウやアプローチ、手法や教材等は全てそのカリスマ講師に「秘められた」ものであり(一部弟子筋には「古今伝授」のような形で伝えられる見込みを除いて)、このままでは普及・汎用化は期待できない。

 普及・汎用化の唯一の可能性としては、実践がメディアに取り上げられ、研究会のような形で多くの教員がそれを「盗む」時に起こり得る。しかしながら、アプローチが提示する言葉や理念が各教育現場で自在に解釈され、色づけされる可能性がある。また表面的な手法の模倣のみが先行し、質的な違いが分からぬまま、闇雲に同じ看板を掲げ続ける恐れもある。

 伝統的アプローチは、カリスマ講師が担当できる授業の数だけ、その教育実践が存在する。千手観音のように、手が千本あり、1000クラスを同時に担当できれば多くの学習者が益するであろうが、それは現実的に起こり得ない。

 2.の管轄型アプローチは、1.のカリスマ講師や、その教育アプローチの第一人者、提唱者等が、自ら直接クラスを担当する代わりに、その教育機関におけるプログラム全体を作り、マネジメントし、管轄する手法である。直接クラスを担当しないことで、より多くの対象学習者に対して、同一の教育アプローチを提供できる利点がある。この場合は、自分以外の教員が直接的に授業を担当するため、その教員に対する訓練や、統一された手法、教材、教え方を「仕込む」必要がある。重要なのは、自分(カリスマ講師、第一人者、提唱者)(理想的には同じ質で)複製することであり、管理と監督が最大の関心事となる。ただし、これも1.の手法と構造的には同じ限界を持つことになる。というのも、同じ一人のカリスマ講師が管轄・監督できる教育機関や英語プログラム数には限界があり、日本全国をカバーすることは実質上不可能である。限定的な普及という意味では有効な手法であるが、これでは汎用化されたとは言い難い。

 3.のメソッド一貫型アプローチは、本研究が独自に提示する手法であり、メソッドの一貫性とデザインの多様性を両立させることで、汎用性を保ちつつも、似て非なる教育実践の出現を防ぐアプローチである。そのため、具体的には、上記の両立を実現するため、予めデザインの多様性を放置せず、一定のパターンに纏め上げ、バリエーションとして提示することで各教育現場の英語プログラムの責任者に対して実施を容易にし、かつその英語教育アプローチの核となる部分がしっかりと担保されているという安心感を与えることができる。さらにこの手法の特徴は、2.の場合とは異なり、実質的にプログラムを作成、管轄、コーディネーションするのは各現場のプログラム担当者であり、各教育実践に対し、提案サイドは一切の手を下さない。これは幅広い普及と汎用化のためには不可欠なことであり、ただしそうした実施を支援、促進できるような中間組織(例えばNPO)等が介在することで、より円滑な普及化戦略を遂行することができるだろう。

 

 以上が、概略としてのスケール・アウト手法のパターンの説明である。本研究としては、3.のメソッド一貫型アプローチを提示するものであり、それは1.2.との比較優位から導き出すことができる。以下、伝統的アプローチ、及び管轄型アプローチの何が欠点として指摘でき、メソッド一貫型アプローチがいかなる点でこれらのデメリットを克服できるのか、その要点を提示する。

 

 伝統的アプローチがそもそも普及・汎用化を前提としたアプローチではないことはすでに指摘した通りである。カリスマ教員によるアプローチのみの提示で、メソッドやデザイン、テクニックを体系づけていないため、追従しようと思っても、それは見よう見まねでしか実現できないことになる。しかしそれにもかかわらず、挙げる例は少ないが成功した普及例も見られる。英語教育の文脈ではないが、例えば「陰山メソッド」と言われる「百マス計算」は、個人の教員によるカリスマ的な実践であったにも関わらず全国各地の小学校に普及した好例であろう。百マス計算はメディアも熱心に取り上げた事例であり、今持ってしても、必ずしも一つの教育アプローチとして十分な実証を経た上で、教材や評価、メソッドやデザインが確立された教育アプローチとは言えない。しかしながら、おおよそ似て非なる百マス計算の実践は見受けられず、一定の効果も見られるようである。この百マス計算の事例は、英語教育アプローチ普及論の観点からすればどのように評価するべきなのか。

 分野が違うと言ってはそれまでだが、陰山メソッドの場合は、アプローチとメソッドの具体性が高く、ほぼ同義的に議論できる可能性が高いことがまず指摘できる。そして、デザインに対しては、各教育実践のいずれにおいても付加的に実施することが容易な性質のものであり、かつテクニックに関しても特に必要とはしない。つまり百マス計算という言葉だけが仮に飛び交ったとしても、その実践に関してはもともと「ぶれる」要素が少ない教育アプローチであると言える。

 ところが英語教育における教育アプローチは、一言で言えば陰山メソッドのようにはいかないのである。英語教育は、グラマー・トランスレーション、コミュニカティブ、ヒューマニスティック、パターン・プラクティス、タスクを通した文法項目への着目、コンテンツ・ベース、プロジェクト発信型等、そのいずれをとっても、百マス計算に比べればはるかに抽象性が高く、恣意的に解釈される可能性もその分高いことが指摘できる。つまり、伝統的アプローチで教授法を普及させることは、特に英語教育においては難しく、その理由は教育アプローチの抽象性が一要因として大きく作用していることが指摘できるのである。

 

 これに対し1.の伝統型アプローチとある意味で対局をなすところに位置するのが2.の管轄型アプローチである。コーディネーターが質の統一を徹底的に図るため、アプローチ、メソッド、デザイン、テクニックの全てにおいて関わり、具体的なところまで作成を行う。その典型例はY大学で全学的に実施されている英語チュートリアル・コースであったり、フランチャイズ化を行う一般の英会話学校に求めることができるだろう。統一の教材やマニュアル化されたテクニックのもと、徹底的に管理・監督され、質の保証が保たれる。先の議論で、管轄型アプローチの欠点として、「汎用化させるにも『数』の点で限界がある」ことを指摘したが、これに加え管轄型アプローチには、伝統型アプローチとは違った構造的問題点がある。それは、先に例示した通りそもそも抽象性が一般に高い英語教育アプローチに対し、管轄型アプローチは可能な限り統制をかけることで予測変数の数を少なくし、不確定要素を排除する特徴を持つことである。これは効率的かつ予測がしやすい一方、各現場の裁量や可塑性を限定し、特に教員の創造性や多様性を殺す結果になりかねず、これらの特徴を英語教育の現場に適用することには疑問が残ることである。つまり英語教育においては、フランチャイズ経営のように、不確実な要素をできるだけ少なくし、いつでも、どこでもなるべく同じサービスが提供される、そしてそれがブランド価値として認知される、といったビジネスモデルがそのまま適用できるわけではないのである。英語教育においては、各教育現場も、学習者のレベルも、教員の質も、カリキュラムの制約も、それぞれに大きく異なっており、A大学でうまくいったやり方(例えばチュートリアル・コース)を、カリキュラムも教員も違うB大学に強引に適用することは、まずもって100%できない。また英会話学校のように、一定の質をマニュアル化して教え込んだとしても、それが英会話サロンの域を出ず、結果として使えるレベルにまで持っていける学習者が少ないのが今の日本の英会話産業の実情なのではなかろうか(この意味でも、上記の議論に基づいた教材論も考えられ、そのような意味でも例えばシラバスを提示する「プロジェクト発信型英語教育」などは一つの事例として考察に値するだろう)。先に述べたように、フランチャイズ方式がそのまま適用できないのがむしろ英語教育の特徴なのであり、だからこそ、こうしたスケール・アウトのノウハウが蓄積されてこず、研究も充実を見せなかったのかもしれない。

 

 こうした伝統型アプローチと、管轄型アプローチのそれぞれの欠点を発展的に解決するものとして、本項は3.のメソッド一貫型アプローチを提示したい。これは、メソッドの一貫性とデザインの多様性をそのアイディアの根本に据えるものであり、伝統型アプローチの欠点であった、アプローチやメソッドの「独り歩き」や「勝手な解釈」を「メソッドの一貫性」が規制し、また管轄型アプローチの欠点であった現場毎の異なった文脈や教員の裁量、創造性の抹殺を「デザインの多様性」が保証する仕組みを持ち合わせている。ただしメリットも含め、本アプローチそのものはまだ仮説の域を出たものではなく、またNPO化のデザインを含め、その手法を早急に確立し、ケースとしての分析や実証に耐えうるものにしなければいけない。現時点では先行事例を英語教育に見出すことは困難であり、それ以外の分野からケースを抽出し、また今後の研究の課題の事例として、例えばプロジェクト発信型英語教育をメソッド一貫型アプローチで普及させるアクション・リサーチとして行っていくことが有意義であると思われる。

 

おわりに: 英語教育アプローチ普及論の意義と可能性

 最後に本研究が提示した英語教育アプローチ普及論の意義をまとめ、本研究のまとめとしたい。本項がその概観を提示した英語教育アプローチ普及論は、既存の英語教育研究の中ではほとんど言及されておらず、未だ発展途上の分野であるといえるであろう。しかしながら、この分野における英語教育への貢献は小さくないことは前項までの言及で明らかになった通りである。さらに、英語教育アプローチ普及論が含意として示し得るものは、何も英語教育のみに有効なものではなく、広く教育一般、さらにはビジネスやアート、NPOやマクロ政策においても示唆となる視点を提示する可能性すらある。

 筆者が提示した英語教育アプローチ普及論は、既存の英語教育がこの分野の研究に遅れをとっていることも幸いし、積極的に異分野の研究成果、例えばビジネス分野におけるモデルや研究成果等を取り入れるものであり、英語教育に新奇性を持った視点を導入することができる。先行事例として、先に言及したフランチャイズ方式の検討や、英語教育分野においてはマーケティング要素の強い、英語評価モデルの実態調査(例えばTOEICの普及戦略や、英会話産業のブランド構築の手法やマネジメントの調査・研究)を行うことで、英語教育研究に新たな側面を導入することができるだろう。結果として、こうした研究分野の進展は、現場重視の英語教育研究を復活させることであり、本論文が後に主張するプラグマティズムの姿勢とも呼応する。本研究の提示は、その粗削りなフレームワークを提示したに過ぎず、実効性を持った研究は稿を改めて論じる必要がある。しかし、本章での言及が端緒となり、議論が喚起されること、願わくば分野を問わず、興味関心を持った研究者や教育者が、英語教育アプローチ普及論について、何らかのワーキング・グループを構築し、議論や研究を開始するコンテクストが醸成されることを切に希望したい。