2008年度森基金研究成果報告書

コンピュータシミュレーションとメタボローム解析による赤血球長期保存法の開発と検証

Simulation and metabolome analysis of human red blood cells during long-term storage

政策・メディア研究科修士2年 先端生命科学プログラム

西野泰子

学籍番号: 80725151

Abstract

輸血用赤血球製剤として一般に用いられるMAP濃厚赤血球液(RC-MAP)では、 保存中に赤血球内のアデノシン3リン酸(ATP)、2,3-ビスホスホグリセリン酸(2,3-BPG)が 失われて赤血球の生理機能が低下するため、保存期限を短く設定せざるを得ない。 しかし、ATP、2,3-BPGが保存期間中に減少する本質的なメカニズムは解明されておらず、 現在でも経験に則った方法によって血液保存手法の開発が行われている。 本研究では、シミュレーションによる代謝予測とキャピラリー電気泳動-飛行時間型質量分析計 (CE-TOFMS)による代謝物質一斉測定(メタボローム解析)を駆使して、低温保存赤血球の 代謝不全メカニズムの解明と保存条件の最適化を目指した。
保存赤血球を模したRC-MAPモデルでは、(1)低温条件による代謝酵素とNa+/K+ポンプ活性の低下、 (2)ヘモグロビンのR型遷移、(3)赤血球内pH低下、(4)pHに依存したプリン代謝酵素活性変化、 を代謝変動のパラメータとして表現した。このRC-MAPモデルが予測した低温保存下での代謝変動は、 同様の条件で実際に長期保存した赤血球メタボロームの解析結果とよく一致しており、 構築したモデルの妥当性と新規保存法開発におけるシミュレーションモデルの有用性が示すことができた。 また、シミュレーションモデルに実装したパラメータの感受性解析結果から、 代謝酵素活性の分布・液性(pH)の変動・ヘモグロビン型の遷移がATP、2,3-BPGの濃度変化に 影響を及ぼす因子として重要であることが示唆された。さらに、赤血球の保存中に不活性化する ホスホフルクトキナーゼ(PFK)をはじめとした数種類の酵素の働きによってATPや2,3-BPGの減少が 引き起こされていることをシミュレーション予測の結果から突き止めた。本研究の成果により、 細胞シミュレーションとメタボローム解析を連携させて血液保存法をデザインするストラテジーが 大変有用であることを提示した。


研究の背景

輸血用赤血球をはじめとした血液製剤は臨床医療に不可欠であるが、 現在においても血液の代替物(人工血液)は実用化されておらず、献血による供給に 頼らざるを得ない状況である。少子高齢化が進む中で献血者数は減少傾向にあり、 限られた血液資源を有効に活用するためにも、血液の長期保存を実現することは重要な研究課題である。
保存された赤血球の寿命はATP濃度と相関すること(Nakao et al., Nature, 1962など)や、 2,3-ビスホスホグリセリン酸(2,3-BPG)の減少によって赤血球の酸素運搬能が著しく低下することが わかっている。日本で広く用いられているMAP加濃厚赤血球(RC-MAP)も、ATPと2,3-BPGが低下するため 保存期限が短い(3週間)という難点をもつ。血液保存研究の創始期以来、ATPや2,3-BPGは保存血の使用期限を 決定付ける指標とされてきた(Hamasaki and Yamamoto, Vox Sang., 2000)。 しかし、赤血球細胞内における複雑な代謝ネットワークの動的な変化を包括的に理解することは難しいため、 これらの物質が保存中に減少する本質的なメカニズムは理解されていない(Hess, Vox Sang., 2006)。
慶應義塾大学先端生命科学研究所では、ヒト赤血球の代謝に関する広範なシミュレーションモデルが 既に構築されており(Kinoshita et al., J.Biol.Chem., 2007)、このモデルを用いた 赤血球代謝の理解が精力的に進められている(Kinoshita et al., FEBS J., 2007)。 同時に、代謝シミュレーション予測の実測実験系として、網羅的に代謝物質濃度を測定する技術 (メタボローム解析技術)の開発が、キャピラリー電気泳動・飛行型質量分析装置(CE-TOFMS)を 主軸に行われている(Soga et al., J.Proteome Res., 2003)。 これら双方の先端技術を組み合わせることで、シミュレーションによる代謝動態の理解と新たな 保存方法の提案、そしてメタボローム解析による実証的な裏づけが可能になると考えた。 そこで本研究では、新たな赤血球保存手法の提案へ向けた第一歩として、細胞シミュレーション技術と メタボローム解析技術を駆使して低温保存赤血球の代謝動態の理解を 目指す(図1)。

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図1. 本研究の流れ

保存赤血球シミュレーションモデルの作成

E-Cell System Version3上に構築された37℃での正常赤血球代謝モデルを用いて、 4℃(低温)保存された濃厚赤血球液(以降、RC-MAPと呼ぶ)に含まれる赤血球の代謝状態を再現する RC-MAPモデルを構築に着手した。広範な文献調査の結果、現行の赤血球保存液(MAP液)の組成と保存中の 温度条件から、特に代謝変動に影響を与えていると考えられる以下の要素を抽出し、 パラメータとして赤血球モデルに組み込んだ
今回実装したRC-MAPモデルのパラメータは以下のようになる:

  1. 低温刺激による代謝酵素とNa+/K+ポンプ活性の低下(Enzyme activityとNaK pump activity)(Ellory and Willis, J.Gen.Physiol., 1982 など)
  2. 低温刺激によるヘモグロビンのR型遷移(Imai and Yonetani, J Biol.Chem., 1975)
  3. 保存液組成と代謝物質蓄積による赤血球内pHの低下(Shiba et al., Jpn.J.Trans.Med., 1991など)
  4. pHに依存したプリン代謝酵素活性変化(Purine metabolism activity)(Daddona et al., J.Biol.Chem., 1984 など)

ただし、酵素活性に関する3種類のパラメータ(NaK pump activity, Enzyme activity, Purine metabolism activity)については 定性的な情報しか得ることができなかったため、遺伝的アルゴリズム法(GA)によるパラメータ推定で 活性度(%)を求めた。このパラメータを実装したRC-MAPモデルは、先行研究におけるATP、 2,3-BPGの時系列変化の様子を非常によく再現していることが確認できた(図2)

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図2. ATP, 2.3-BPG濃度の経時変化

A:先行研究で報告された実測値(Shiba et al., Jpn.J.Trans.Med 1991) B: 構築したモデルでの予測結果

さらに、GAによるパラメータ推定値が妥当であること確認するため、パラメータ値の網羅的探索シミュレーションを行った。 この結果、以下の4点が示された。

  1. GAでの推定値は、文献から得られた生化学的な知見と矛盾しない。
  2. GAでの推定値は局所解に陥っていない(図3)
  3. 酵素をはじめモデルに含まれる全ての代謝反応活性は、少なくとも3段階に分けて表現する必要がある(図3)。
  4. 保存赤血球に特徴的なATPや2,3-BPGの挙動を再現できるパラメータの範囲は非常に限定されている(図3)
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図3. GAで推定したパラメータ値と網羅的シミュレーションによって得たパラメータ範囲の関係

GAの予測: NaK pump activity = 0.6%, Enzyme activity = 3.5%, Purine Metabolism activity = 24%,
約28000通りの網羅的なパラメータの組合せシミュレーションで得られたパラメータ範囲
:NaK pump activity = 0〜1%, Enzyme activity = 3〜6%, Purine Metabolism activity = 20〜30%

CE-TOFMSによる保存赤血球代謝物質の測定

RC-MAPと同条件での赤血球保存実験を行い、CE-TOFMSを用いて代謝物質の時系列データを取得し、 複数の代謝物質に対するRC-MAPモデルの予測精度と妥当性を実験的に検証した。 その結果、モデルに含まれている約50個の代謝産物のうち、27物質の時系列データの取得に成功した。 特に重要な経路である解糖系に含まれる物質のメタボローム測定データとシミュレーション予測結果を 比較したところ、RC-MAPモデルは、メタボローム解析の時系列データが示す定性的な特徴を予測できる モデルであることが実証された(図4)。

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図4. メタボローム解析によるRC-MAPモデルの検証

このように、現行の保存法で保存された赤血球の代謝を予測し、その妥当性をメタボローム解析実験で 検証できた。これらの結果によって、『保存された赤血球をモデル化して代謝動態を予測し、 メタボローム解析により実証する』という、本研究の基軸となるアプローチが有効にはたらくことを示した。

保存赤血球の代謝物質減少を招く代謝メカニズムの理解

保存手法を改善する方法としては、保存液を最適化することがもっとも手頃である。そこでまず、 現在採用されているMAP液組成を改善しようとした時にどの程度の効果が見られるのかを確かめるために、 MAP液に含まれる各要素がATPや2,3-BPGの変動に与える影響を解析した(図5)。 この結果から、現在のMAP組成の成分比を変える操作ではATPと2,3-BPGを維持できないことがわかり、 このような実験を繰り返しても保存状態の改善には効果が薄いことが示された。 よって、トライ・アンド・エラーを繰り返す方法ではよい保存法を提示することが困難であり、 代謝メカニズムの理解が急務であると考えた。

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図5. MAP組成の感受性解析の結果

そこで次に、構築したモデルを用いて保存赤血球の代謝予測と数理解析を行い、 保存赤血球に特徴的なATPや2,3-BPGの減少を招いている作用メカニズムの解明を目指した。 ここでは、酵素反応などのモデルの内部構成要素がATPと2,3-BPGの動態に与える影響を解析し、 個々の反応段階が寄与する影響を定量的に評価した。この結果、HK/PFK/PKなどの解糖系酵素の高活性化や プリン代謝系に属するAMPaseの低活性化によってATPが維持されることと、BPG合成系(BPGSP)の低活性化と PFKの高活性化およびヘモグロビンやpHの変化によって2,3-BPGが維持されることがわかった(図6)。 中でも、PFKは活性化するとATPと2,3-BPGの両者が維持できる結果が得られ、保存赤血球の代謝不全を 理解する上で重要な反応段階だと考えられた。

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図6. パラメータ感受性解析の結果

@ATP: 酵素反応活性変化に対するATPの濃度変化. A2,3-BPG: pH, ヘモグロビンと酵素反応活性変化に対する2,3-BPGの濃度変化.
PFKの活性化(activate)によってATP, 2,3-BPGの両者が維持される

このようにして、実際の実験では操作することが難しい酵素活性などの解析によって、 ATPや2,3-BPGの変動に影響する要素を突き止めた。また、代謝ネットワークに加えてpHや ヘモグロビンの関連性を含んでいる赤血球モデルが、保存条件の最適化を目指す上では大変有用で あることを示した。

研究の展開

現在までに行った感受性解析の結果から、PFKの活性化やヘモグロビンのT型化がATPと2,3-BPGの維持に 有効であることが示唆されている。今後、モデルを用いた数理解析をさらに進めてこのような事例を いくつも列挙して、保存赤血球の代謝メカニズムの理解をさらに深める。
そして、シミュレーション解析から得られた理解を元に、代謝動態に寄与する反応段階の制御を実現する 条件を模索し、新たな保存手法として提示する。この際、遺伝的アルゴリズム法を用いて、 『ATPと2,3-BPGを同時に維持する』ための最適化を代謝制御の鍵となるモデルの構成要素に対して実施して、 元のモデルとの差異を臨床に即した形で評価することで、新たな保存条件を提示する。
最終的には、実際の赤血球を利用した生化学実験・メタボローム測定実験によって、 シミュレーションから提示した保存法の効果を確認し、新たな保存手法の提案へとつなげていきたい。

学会発表

Taiko Nishino, Yachie-Kinoshita, A., Suematsu, M. and Tomita, M “Simulation and metabolome analysis of human red blood cells during storage in MAP medium at 4℃” The 9th International Conference on Systems Biology(Gothenburg, Sweden 2008/8)

西野泰子 谷内江綾子 平山明由 曽我朋義 末松誠 冨田勝 「ヒト赤血球低温保存モデルのシミュレーション解析とメタボローム測定による検証」 第3回メタボロームシンポジウム(鶴岡 2008/10)

西野泰子 谷内江綾子 平山明由 曽我朋義 末松誠 冨田勝 「E-Cellシミュレーションとメタボローム技術による低温保存赤血球の代謝動態解析」 CREST シミュレーション技術の革新と実用化基盤の構築 第4回シンポジウム (三田 2008/11)

西野泰子 谷内江綾子 末松誠 冨田勝 「ヒト赤血球代謝シミュレーションとメタボローム技術によるMAP保存赤血球代謝の予測と解析」  BMB2008(第31回日本分子生物学会年会・第81回日本生化学会大会 合同大会)(神戸 2008/12)