2008年度 森泰吉郎記念研究振興基金 研究成果報告書

電子コンパスを用いた街探索の提案と実践

慶應義塾大学大学院
政策・メディア研究科
修士1年
小川克彦研究室
80824890 / pma
土橋 美佐

研究概要

近年、携帯電話などのモバイル端末で取得した位置情報をもとに、ユーザの現在位置に即した情報コンテンツを配信するサービスが増えている。このようなLBS(Location Based Services)の普及にともない、位置情報と併せて方位情報を取得する電子コンパスも登場し、位置情報とともに利用することでより高度な情報案内が期待できる。本研究では、電子コンパスを用いて、交差点から街の情報メニューを見るための “XingMenu Viewer”を提案する。これを用いた街探索実験では、被験者が認知する街の領域が拡張されることを観察することができた。

はじめに

情報通信技術はネットという新たな生活空間を創り出した。リアルな生活空間とネットの生活空間は人を介して隔てられている(図1)。ネットの生活空間では、メールやSNSを使えば時間を気にすることなく友人・知人と連絡を取り合うことができ、写真共有サイトに行けば海外旅行に行かなくても遠く離れた異国の景色をいくらでも眺めることができる。しかし、リアルな生活空間を支配している時間と場所の感覚は、ネットの生活空間においては極めて希薄である。

その一方でネットの情報は、リアルな場所にかかわる人の感覚を増幅し、人の記憶を拡張し、人の経験を他人と共有させることができる。リアルとネットをつなぐ場所の情報サービスは、場所をベースとした新しいメディア−これを場所メディアと呼ぶ−[1]である(図1)。本研究では、場所メディアの一つとして、電子コンパスを用いて街のノード[2]である交差点から街の情報メニューを眺めるための “XingMenu Viewer”(以下、XV)を提案する。

XingMenu Viewer

システム概要

 XVのシステム構成図を図2に示す。XVの動作は、次の通りである。 @GPSおよび電子コンパスを搭載したモバイル端末で位置情報と方位情報を取得し、ユーザのいる交差点と向いている方角を把握する。 A @で取得した情報をもとに、表示する風景データとコンテンツを決定しサーバに問い合わせを行う。 Bサーバはコンテンツデータベース、風景データベースにそれぞれ問い合わせ、該当する風景データとコンテンツを呼び出す。 C端末において風景データとコンテンツを合成して表示する。

コンセプト

 ここではXingMenu Viewer(以下、XV)のコンセプトを示す。 XVは交差点においてユーザが見ているリアルな街の風景に、 ネットの情報を重ね合わせるインタフェースである。 これは、街と人のかかわりを支援する機能、 特にリアルな街に対する人の感覚を拡張する機能[1]を提案するものである。ネットの世界ではキーワード検索がごく一般的だが、ネットの情報量が膨大になりすぎて求める情報になかなか辿り着けないことが度々ある。そこでメニュー検索を用いて絞込みを行うと、自分好みの情報を探し出しやすくなる。一方、リアルな街歩きでは、よく初めて訪れた場所で、高いところへ登って場所全体を見渡すことがある。それと同時にガイドブックや地図から得た知識をリアルな風景に重ね合わせる。これは、街の情報メニューを自然に頭の中に描いているのである。 XVは、今まで人の頭の中にしか存在しなかった街の情報メニューを視覚化し、街歩きにおけるメニュー検索を可能にするものである(図3)。

ARとSR

 XVのように現実空間にバーチャル空間を重ね合わせ、そこへ情報を付加提示する手法は拡張現実(Augmented Reality、以下AR)と呼ばれ、昨今注目を集めている。今やユーザがリアルな街で参照するための情報は、ネット上に溢れている。NTTドコモのサービス“iコンシェル”[3]で配信される、現実世界の状況やユーザ一人ひとりの好みに合わせた電車の運行情報や買い物で使えるクーポンの情報なども、その一部である。XVはそこへARの概念を導入し、交差点から街を眺めることで情報にアクセスするためのインタフェースである。例を図4に示す。iコンシェルは自分の好みや生活地域に根差した情報を配信してくれるため、特定の目的がある場合は便利である。これに対しXVは、目的の明確なユーザというより、街を歩いて楽しみながら気に入った店を探す“ブラブラ歩き”ユーザに適していると言える。一方で近年、デジタルカメラやカメラ付携帯電話が社会的に広く普及した影響で、一般ユーザが大量の写真を撮影してネット上で公開するという現象が起きている。flickr[4]やPicasa[5]などの写真共有サイトには、ユーザが散歩や旅行の際に撮影した街の風景写真が数多くアップロードされている。世界中のあらゆる街のリアルな風景が、ネット上の多くのユーザによって共有されているのである。さらに、ブログやSNSの普及とともに、写真やそれに付随するメッセージなどで、日々の生活や街での出来事を記録する、所謂ライフログを残す人も増えてきている。そこで、共にユーザがアップロードした街の風景写真とライフログを組み合わせて現実の空間で共有させ、ユーザの持っている現実世界に対する感覚を拡張する手法を提案する。これをARと対を成す手法として、共有現実(Shared Reality、以下SR)と呼ぶこととする。SRの手法を用いたXVの例を図5に示す。図5の左の画面では、同じエリアで違う時間に記録された、つまり疑似同期されたライフログを並べている。疑似同期されたライフログからは、違う時間だが同じ場所にいた誰かの行動を垣間見ることができ、共感が生まれる。

街探索実験

ここではXVを用いた東京・銀座での街探索実験について報告する。XVによって、街を探索する人の行動がどのように変化するかを分析した。

プロトタイプ

 プロトタイプの風景写真は筆者が銀座の交差点において撮影したものを使用した。なお、情報コンテンツには、ユーザのライフログではなく、ドコモのiコンシェルで案内されるような店舗の情報を雑誌『銀座Walker』[6]から抜粋し使用したため、プロタイプの手法はSRではなくARに分類される。位置座標は銀座の2・4・6丁目交差点のいずれかに固定し、被験者がXVを操作する際に自分がいる交差点を指定、方位情報はリアルタイムに取得した。なお、現状では高精度の電子コンパスを搭載した適切な端末が存在しないため、GPSレシーバ(Garmin社製geko301)を接続したノートPCを使用した。

実験概要

 被験者には、銀座をほとんど訪れたことがない5人を選定した。被験者はまず2人1組もしくは1人で、ガイドブックや携帯電話のナビゲーション機能などの街歩き支援ツールを一切使用せず「ブラブラ街を歩きながら、昼食を食べる飲食店を選ぶ」という課題を遂行した。被験者は飲食店を決定した時点で街歩きを中断し、散策の際の記憶だけを頼りに銀座の認知地図を作成する課題を行った。 昼食後は、XVを用いて街歩きを再開した。今度は「ブラブラ街を歩きながら、休憩するカフェや喫茶店、甘味処などを選ぶ」という課題を遂行した。被験者は店を決定後、XV使用前に描いた認知地図に上書きする形で再度認知地図を描く課題を行った。街歩きに関して特に制限時間は設けなかったが、所要時間はそれぞれ平均1時間で、合計平均2時間の街歩きとなった。

実験結果および考察

被験者が描いた認知地図の一部を図6に示す。さらに描かれた認知地図の各パーツをLynchの示す認知地図の構成要素[2]のうち、パス、ノード、ランドマーク、ディストリクトの4種類に分類して整理した(表1)。図6においてXV使用前と使用後の認知地図を見比べると、「○丁目」や「○○通り」のような表記は、ほとんどXV使用後の認知地図のみに見られる。被験者の1人はこれについて「XVを使うと、××(店名など)は○丁目、××は○○通りにあったというように、当てはめていく感じ。」と説明した。これは、XVの操作を行った交差点を含む、銀座の主要な交差点全てが「銀座○丁目交差点」という名称であることと、XVの風景写真に写りこんでいる全ての道路上に「○○通り」という通り名の表記を付加したことに起因していると思われる。その結果、被験者の多くが「XVがあると自分が今どこにいるのかが分かり、地理感覚がよくなった。」という感想を述べている。その中には「現在位置を把握できたことで、安心感が生まれた。」と付け加えた被験者もいた。一方で表1において注目すべき点は、全ての被験者が「パス」「ノード」「ランドマーク」「ディストリクト」の全ての項目において、XV使用後も何らかの認知をしていることである。1時間の街歩きの後に再び街歩きを始める場合、大抵は退屈を感じ、新しい発見をすることは難しくなる。それにもかかわらず、XV使用前の街歩きと同等の数の発見があったのは、XVが次にすることのきっかけをつくりだし、行動範囲を広げていったためであると考えられる。

研究成果

本研究の成果として,現在までに以下の研究発表を行った。

また今後予定している研究発表は以下のとおりである。

まとめと今後の課題

本研究では、電子コンパスを用いて、街のノードである交差点から街の情報メニューを見るための“XingMenu Viewer”を提案し、これを用いた銀座での街探索実験の結果を報告した。ARの手法を用いたプロトタイプによる実験からは、交差点においてXVを使用することで「安心感」と「発見」が起こり、その結果、街に対する感覚が拡張することが分かった。今後は、ネット上にあらゆる街の風景写真とライフログを収集し、それらを合成するプラットフォームを構築することでSRの手法を用いたXVのプロトタイプを実装し、本稿で得られた知見についてさらに検証をすすめていく。

参考文献