2008年度森泰吉郎記念研究振興基金 研究成果報告書

研究課題名:細胞内プロテオーム動態の解明

氏名:岩崎 未央omio@sfc.keio.ac.jp
所属:政策・メディア研究科 先端生命科学プロジェクト 修士課程1年

研究成果

1. シアノシステイン切断反応を用いた化学的消化法を膜タンパク質に応用した.
2. シアノシステイン切断反応を最適化し,反応時間の大幅な削減およびシアノシステイン由来のペプチドの回収率を改善した.
3. 本手法を用いることで,既存のトリプシンのみを用いた手法と比較して,タンパク質同定数が約15%増加した.
4. GenoBaseデータベースに登録されている大腸菌膜貫通タンパク質のうち,約40%を同定することができた.
5. 以下の国際学会で口頭発表およびポスター発表を行った.
Mio Iwasaki, Takeshi Masuda, Masaru Tomita and Yasushi Ishihama., Membrane proteome profiling of Escherichia coli using chemical digestion-based shotgun proteomics, 2nd Taiwan-Japan Young Researchers Conference on Computational and Systems Biology, Tokyo, Japan (2008)
6. 以下の国内学会でポスター発表を行った.
Mio Iwasaki, Takeshi Masuda, Masaru Tomita and Yasushi Ishihama., シアノシステインによる化学的消化法の開発と膜プロテオミクスへの応用, 第31回日本分子生物学会年会・第81回日本生化学会大会 合同大会(BMB2008), 神戸(2008)
7. 本研究をまとめ,国際的な科学誌であるJournal of Proteome Research誌に1月末に投稿した.

要旨

細胞膜は細胞外からの刺激を細胞内情報伝達系に伝えるなど,様々な重要な機能を担っている. 膜タンパク質を網羅的に解析することは細胞機能を理解する上で重要である.ショットガンプロテオミクスでは, トリプシンなどの消化酵素で切断したペプチドを試料として用いるが,可溶化剤添加が必要な膜タンパク質の消化においては, 可溶化剤の影響による酵素活性の低下などにより,その網羅的な解析は困難である. そこで,我々は可溶化剤存在下でもタンパク質の断片化が可能な化学的消化法を開発し, 膜プロテオミクスに適用することを検討した. 化学的消化法として2-nitro-5-thiocyanobenzoic acid (NTCB)を用いたシアノシステイン切断反応を選択した.
大腸菌を試料とした場合,シアノシステイン切断反応による生成ペプチドの平均分子量は6,500Daと大きく, LC-MS/MSによる分析に適さないため,シアノシステインとトリプシンによる2段階消化法を行うことにした. in silico予測により,この2段階消化法は既存のトリプシンのみを用いた消化法と比較して, 膜貫通型タンパク質に対する配列被覆率を改善することがわかった. 通常のシアノシステイン切断反応は,NTCBを加え中性条件下でシステイン残基をシアノ化し, アルカリ条件下でシアノシステインN末端側を切断する. 大腸菌細胞抽出液を試料として強アルカリ性条件下でシアノ化および切断反応を行うことにより, 上記反応を12時間から30分に短縮した. この最適化条件を,5%デオキシコール酸ナトリウムで溶解した大腸菌膜タンパク質濃縮画分に適用し, 10倍希釈後トリプシンで切断を行ったところ,従来のトリプシンのみを用いた消化法と比較して, タンパク質の同定数が約10-15%増加した.また,大腸菌膜貫通タンパク質のうち,約40%を同定することができた. 本法は,大腸菌だけでなく,様々な生物由来の組織試料や,培養細胞にも適用可能であり,膜プロテオミクス消化法として幅広い展開が期待できる.

序論

1. タンパク質について

細胞の乾燥重量の大部分はタンパク質であり,タンパク質は細胞を構成する素材となっているだけではなく,生命活動に必要な機能の大部分を担っている.例えば,食物からエネルギーを取り出すために糖や脂肪の分解を行う酵素,髪の毛や皮膚の細胞を補強する構造タンパク質,酸素などの分子を体内の各細胞へ運搬する輸送タンパク質,光やホルモンなどの情報を受容し細胞内に情報を伝達する受容体タンパク質などの重要な機能をもつタンパク質が知られている.生体を構成するタンパク質(プロテイン)の総体(-ome)がプロテオームと呼ばれ,本研究では細胞膜を構成するタンパク質に注目し,膜プロテオーム解析を行った.
全ての生物において,細胞膜は非常に重要な役割をもつ.細胞膜は,細胞外物質と細胞質とを分離し細胞内を一定の環境に保つバリア化,細胞内器官の組織化,さらに膜タンパク質(TM protein)を介した細胞内情報伝達系の制御,細胞内外の物質輸送など,細胞にとって必要不可欠な機能を担う.細胞膜の主成分はリン脂質とタンパク質であり,ヒトの全タンパク質の20-30%は膜タンパク質であることが知られている(Wallin and Von., 1998; Stevens and Arkin., 2000).細胞外の様々なシグナル分子は膜タンパク質を介して細胞内情報伝達系を制御することから,膜タンパク質は薬剤の標的として重要である.現在の薬剤の70%程度が膜タンパク質を標的としている(Wu et al., 2003).しかし,膜タンパク質は極めて疎水的な性質をもつために,現在の実験手法では網羅的な同定が困難である.

2. プロテオーム解析技術と膜タンパク質

現在,タンパク質を網羅的に同定・定量する際には,液体クロマトグラフィー-質量分析計(Liquid Chromatography-Mass Spectrometer; LC-MS)を用いるのが一般的である.質量分析計で感度よく測定できる質量/電荷比(m/z)の範囲はおおよそ700から3000であるので,トリプシンなどの消化酵素を用いてタンパク質を特異的に消化し,ペプチド化した上で分析を行う必要がある.膜タンパク質は疎水性が高いため,消化酵素を含む溶媒に対する溶解性が低く,尿素などの変性剤や,ドデシル硫酸ナトリウムなどの界面活性剤を用いることによって膜タンパク質の溶解度を向上させる必要がある.しかし,酵素はそれ自体がタンパク質であるため,高濃度の変性剤,界面活性剤の存在下では失活する.そのような制限のため,酵素を用いた実験手法では膜タンパク質の断片化が困難であり,同定効率が低い.そこで,変性剤,界面活性剤などの影響を受けない膜タンパク質の消化法の開発が求められている. 本研究では,システイン残基を2-nitro-5-thiocyanobenzoic acid (NTCB)によってシアノシステイン化し,そのN末端側で特異的に消化する化学反応を用いて,膜タンパク質の同定・定量効率の改善を行うことを目的としている.

3. 化学的消化法について

タンパク質の化学的消化法として,臭化シアンを用いたメチオニンのC末端側での消化法,ギ酸を用いたアスパラギン酸のN末端側またはC末端側での消化法(Aiqun et al., 2001),NTCBを用いたシステインのN末端側での消化法(Takenawa et al., 1998)がよく知られている. 膜タンパク質画分は一般的にアルカリ性条件下で抽出される.臭化シアンやギ酸による化学的消化法は酸性条件下で行われるが,消化時に膜タンパク質抽出液を中性から酸性条件下へ移行すると,抽出した膜タンパク質が不溶化する可能性が高い.その結果,消化に関わるタンパク質数が減少し,生成されるペプチド数が減少する.また,ギ酸による化学的消化法では,アスパラギン酸のN末端側もしくはC末端側での消化が起こるため,生成されるペプチドの複雑性が高くなる.NTCBによる化学的消化法では,膜タンパク質抽出時と同じアルカリ性条件下で消化反応が起こり,かつ,システインN末端側特異的な消化反応が起こるため,本研究ではNTCBを用いた消化法を選択した. シアノシステインによる化学的消化法は,1966年に最初にCatsimpoolasらによって報告され,その後Jacobson (1973)らによって改良を受け,シアン化物イオン (青酸イオン)を用いることなく,システインをシアノ化できるNTCBが開発された.現在では,NTCBによる反応は,消化反応のみではなく,チオール基のラベリングに利用される(Ortiz and Bubis., 2001)など広く応用されている. NTCBによる化学的消化法は,主に,タンパク質の還元化,シアノ化,消化反応という3つの反応から成り立つ.NTCBはシステイン残基をシアノ化し,生成されたシアノシステイン残基はアルカリ性条件下で,そのN末端側のペプチド結合が特異的に切断される.しかし,この切断反応は約12時間と反応にかかる時間が長いうえ,副反応物としてβ-脱離反応によるデヒドロアラニン体が生成されることが知られており,消化効率を高めるためには時間の短縮化,および副生成物に至る反応をおさえることが重要となる.そのため本研究では,大腸菌細胞抽出液を試料としてシアノシステインによるによる化学的消化法を最適化し,強アルカリ性条件下でシアノ化および切断反応を行うことにより,上記反応を20時間から30分以内に短縮した.

結果と考察

1. タンパク質,ペプチド同定数の改善

最適化したシアノシステインとトリプシンによる2段階の消化法を,大腸菌の膜タンパク質濃縮画分に適用した.表1に示したように,本手法を用いることで,667個の膜タンパク質および,5542個の疎水性ペプチドを同定することができた.既存のトリプシンのみを用いた手法と比較して,タンパク質同定数が約10-15%増加した.今回同定できた膜タンパク質数は,これまでに報告されている大腸菌のプロテオーム解析研究,さらにバクテリアのプロテオーム解析研究において最大である.

表1. 同定できたタンパク質,およびペプチド数
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トリプシンのみ,およびシアノシステインとトリプシンによる消化法によって同定できた全タンパク質数および膜タンパク質数,また,全ペプチド数および疎水性タンパク質数を示した.

2. 膜タンパク質の種類に偏りのない同定手法の確立

序論で述べたように,膜タンパク質は薬剤の標的として非常に重要であるにも関わらず,膜タンパク質は極めて疎水的な性質をもつために,現在の実験手法では網羅的な同定が困難であった.しかし,シアノシステインとトリプシンによる2段階の消化法を用いた本手法によって,これまで同定することができなかった膜タンパク質を膜貫通回数に偏りなく同定することができた.GenoBase大腸菌データベースという,今回用いた大腸菌のタンパク質が登録されているデータベースには,どのタンパク質がどのような種類の機能を有しているかが登録されている.表2に示したように,本手法で同定できた膜タンパク質は,登録されている様々な機能において偏りなく約40%の割合で同定されていることがわかった.膜タンパク質の種類に偏りのない同定手法を確立することができた.

表2. GenoBase大腸菌データベースに登録されている大腸菌膜貫通タンパク質のプロファイル内における同定できたタンパク質の割合
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GenoBase大腸菌データベースに登録されている大腸菌膜貫通タンパク質のプロファイル内における同定できたタンパク質の割合を示した.

謝辞

本研究を遂行する上で,森泰吉郎記念研究振興基金による援助は非常に有益であり,円滑に研究を進めるために必要不可欠であった.ここに感謝の意を表したい.