2008年度森泰吉郎記念研究振興基金 研究者育成費 研究成果報告書

 

研究課題名「DDRにおける官民アクター間の連携のあり方の研究」

 

代表者所属:政策・メディア研究科

GR 修士課程1年

代表者氏名:平尾智明 

学籍番号:80825104

連絡先:hirao@sfc.keio.ac.jp

 

 

1 研究の概要

1-1 研究の主旨

本研究は、紛争後の国家における復興と平和構築の促進を目的に国連などの国際機関、各国政府機関、又は現地住民が主体となって行う国際平和維持活動の一環であるDDRについて研究する。

本研究では、文献調査ならびに、NGOなどの民間機関、また研究者や実務家に聞き取り調査を行い、平和構築への取り組みにおけるアクター間のギャップを探るものである。

 

1-2 研究参加者

平尾 智明 (政策・メディア研究科修士課程1年)

加藤 佑理 (同上)

川口 貴久 (同上)

関根 知美 (同上)

原田 博行 (同上)

松本 晋平 (同上)

山本 寛登 (同上)

吉田 眞右 (同上)

 

1-3 背景となる問題意識

DDRは、国内紛争後の平和構築の一環として行われる活動であり、元戦闘員の武装解除(Disarmament)、動員解除(Demobilization)、社会復帰(Reintegration)の頭文字をとったものである。冷戦終結を受けた国内紛争の増加を受けた90年代初頭の多くのPKOにおいては、従来型の兵力の引き離しと監視を任務の主とするPKOと違い1つの国家を作ると言う国家建設の文脈などが求められていた。その中で国内に散在する武装勢力に対する武装解除はその活動の1つの焦点となっていた。しかし、脆弱な国家群においては武装勢力間において停戦が成立し、武装解除が行われても、末端の戦闘員が武器を利用して紛争を継続、または犯罪的な行為加担する場合があり、彼らを武器に頼らない「市民社会」へ如何に統合するかが問題となる。つまり、DDの実施だけでなくRの実施を一連のパッケージとした活動が求められることとなった。こうした文脈の中でDDRは、モザンビーク、アンゴラ、ソマリア、シエラレオネ、リベリアなどで実施、若しくはその試みがなされてきた。

 こうしたDDRであるが、その実施主体は、PKOの軍事部門、民政部門のみならず、国連の各種の人道支援機関や準地域機構、各国政府の支援機関、NGOなど多岐に渡っている。また、DDだけでなくRを含めた活動である故に、その活動内容は多岐に渡り、期間は長期的なものとなる。こうしたことから各アクターやDDRの各段階において、綿密な連携と理念の共有が求められる。付け加えるならば、ほとんどの場合紛争後の国家建設という非常に広い文脈の中で行われる活動の1つであり、政治的、経済的、社会的など、包括的な概念で行われることが求められる。こうしたことからDDR研究は、理論と実務を横断し、学際的な研究が求められると考えられる。

 

1-4 研究目的

 本研究の目的は、文献調査や聞き取り調査を通じて、2つのギャップを明らかにすることである。1つはDDRにおける理念と現場のギャップである。もう1つは、DDRに関連する諸アクター間のギャップである。このようなギャップを明らかにすることを通じて、紛争後の平和構築におけるDDRの官民協力のあり方についてひとつの視座を提供する。

 

1-5 全般の活動実績

時期

行動概要

備考

4

研究計画立案

 

5

先行研究の文献調査(輪読)

 

6

先行研究の文献調査(輪読)

 

7

中間発表(GR全体会合)

GR全体会合(グローバル・ガバナンスとリージョナル・ガバナンス・プロジェクト)において、中間発表。

8

聞き取り調査準備

 

9

聞き取り調査準備

 

10

JMAS(日本地雷処理を支援する会)取材

アフガニスタンにおけるDDRIOG(国際監視団)業務を請け負ったNGO

11

上杉勇司氏(広島大学准教授)取材

広島大学大学院国際協力研究科准教授

12

瀬谷ルミ子氏(日本紛争予防センター事務局長)取材

元・在アフガニスタン日本大使館DDR政策担当者

1月

最終発表(GR全体会合)

GR全体会合(グローバル・ガバナンスとリージョナル・ガバナンス・プロジェクト)において、最終研究成果発表。

 

 

 

2 インタビュー実績

 

2-1 JMASJapan Mine Action Service)(日本地雷処理を支援する会)

・取材先

JMAS(日本地雷処理を支援する会)

園部宏明氏(元アフガニスタンDDR国際監視団(IOG)団長)

・日時

1020日 13001500

・場所

 JMAS本部(東京都新宿区)

・主な質問事項

 別紙-1の質問票のとおり

・成果

アフガニスタンのDDRにおいて国際監視業務を実施した国際監視団(IOGInternational Observation Group)元団長から現地の業務の実態の細部を聞き取ることができた。この聞き取り調査から、計画と実施とのギャップ、組織間のギャップ、理念と実際のギャップ等について、貴重な所見を得た。

例えば、当初の計画ではDDR実施主体の中心として組織された「The Select Committee(特別委員会)」がIOGを指揮するはずであったものの、実際にはこの委員会が殆ど機能していなかったことなどが明らかとなった。また、IOGが国連機関ではなく、あくまで国連から業務を請け負ったNGOの活動であったことから、航空便など国連のリソースを活用できなかったという不具合などが明らかとなった。さらに、大統領選挙などの政治日程を優先するあまり、DDRの実効性を低下させながら強引にDDR期限を守るという事象が見られたことも明らかとなった。

 

2-2 上杉勇司

取材先

上杉勇司氏(広島大学大学院国際協力研究科助教授)

同氏は、アフガニスタンにおけるDDR研究の第一人者である。

日時

119日(日) 20002130

場所

喫茶ルノアール高田馬場第五店(東京都新宿区)

主な質問事項

 別紙-2の質問票のとおり

成果

 アフガニスタンにおけるDDRの第一人者である上杉勇司氏にインタビューを行った。上杉氏は、アフガニスタンDDR総論について、自身の経験や見解を述べていただいた。特に、アフガンDDRの特色であるPRT(Provincial Reconstruction Team)について言及して頂いた。PRTは軍事機関(治安維持)と文民機関(復興・支援援助)の協働を可能にする枠組みであり、従来の治安維持・復興支援・援助に必要な人員よりも少なくて済む。PRTは地域ごとに展開され、PRT主導国や民軍関係の相違などから地域ごとの特色がある。

また、DDRされた兵士にインタビューしたところ、DDRされた地域・場所には偏りがある。PRTの特質とDDRの実効性に関する実証研究が必要であるとのコメントを頂戴した。

更に、上杉氏はアカデミズムの観点から次のような指摘をされた。第一に、平和構築における国際社会の撤退基準は、従来、選挙の実施であったが、アフガニスタン・イラクで明らかになったことは、選挙は撤退基準とはならず、治安機能の引継ぎ(アフガニスタンではSSR: Security Sector Reformと呼ばれる)が国際社会の撤退のメルクマールとなった。また、治安機能の充実は中央だけではなく、地方においても貫徹されるべきである。

第二に、平和構築・DDRにおいて、UN“Force”でなはなく“Coordinator”という認識で議論されるべきである。

第三に、平和構築に関するアカデミック・ギャップ(Academic Gap)を埋める必要がある。具体的には、これまで別個に研究が蓄積されてきた@安全保障、A援助・開発の分野を横断的に研究する必要がある。アフガニスタンのDDR研究でも同様のギャップを埋める必要がある。

第四に、PRTの概念・定義は曖昧である。サマワで陸上自衛隊が行った活動も実態としてPRTであり、PRT概念を精査して、アフガニスタンDDRPRTを議論する必要がある。

 

2-3 瀬谷ルミ子

・取材先

瀬谷ルミ子(日本紛争予防センター事務局長)

同氏は、20036月から20054月までの間、在アフガニスタン日本大使館において、2等書記官DDRプログラム担当、および大使特別補佐官として、DDRに関し各国との調整に当たった人物である。

・日時

1225日 16001700

・場所

 日本紛争予防センター事務局(東京都文京区)

・主な質問事項

 アフガニスタンのDDRの実態、DDR計画策定と実施に関して、DDR実施に際しての障害等

・成果

 本研究での問題意識である現場におけるアクター間の連携についての問題点であるが、国連の統括下でDDRが行われなかったことに関する悪影響があるか否かについての質問に関しては、軍事的要素をISAFやアフガニスタン国防省が補うなど「パッチワーク」的に行うことで機能的にはある程度不備なく行われたものの、権威ある中立的な機関としての性格が損なわれた可能性についての懸念が聞き取れた。

 しかし、こうした現場におけるアクター間の連携以上に、ボン合意において、タリバーンやパシュトゥン人を除外したことで計画策定前からそもそもの「ボタンの掛け違い」が生じていたことや、それに基づいてDDRを強硬に推し進めた結果として、DDRが進行し軍閥が解体された地域において、逆に軍事的治安的不在を作り出しタリバーンなどの武装勢力の活動の素地を作ってしまった点といった懸念が多く聞き取れた。こうしたことより、DDRの成功の前若しくは同時にガバナンスの強化が行われるべきであるという議論が導き出された。

これと関連しながら、こうしたアフガニスタンの事例においての学術的意義として、従来においては、平和構築≒DDRであった傾向が、最近ではあくまでプロセスの一環として捉えるべきとの認識を得られた。

 

 

3 考察

 本研究の目的は、DDRにおける理念と現実のギャップ、およびDDRに携わる各アクター間のギャップを明らかにすることであった。

 理念と現実とのギャップとしては、次のような事柄が明らかになった。

1に、DDRにおいて必要とされる現実のニーズと、理論としての安全保障論および開発論とのギャップが明らかとなった[1]DDRが成功するためには、武装解除・動員解除した元兵士たちに如何に次の仕事を与え社会に復帰させていくかが重要であり、それが現実のニーズである。しかしながら、学術研究においては、DDRについての研究の蓄積は必ずしも十分ではない。DDRは安全保障論と開発論の両方の領域にまたがるものである。このことから、従来の安全保障論の文脈だけではDDR全体を捉えることはできず、また開発論からのアプローチだけでもDDRを捉えきることはできない。このような意味で、理論と現実との間にギャップがあるのである。また、これはDDRに関わる安全保障論と開発論という両理論間のギャップでもある。今後は、DDRとを継ぎ目なく連接する学術研究のさらなる蓄積が課題であると言える。

2に、アフガニスタンにおける議会選挙までにDDRを完了させるという現実の要求があったことから、DDRの達成目標が低く設定され、アフガニスタンのDDRは本来あるべき理想の姿とは異なる結果となったことが明らかとなった[2]。アフガニスタンのDDRは、選挙を安全に実施するための前提条件と位置づけられたことから、議会選挙(20056月)までの間の約1年半で完了しなければならなかった。このことから、DDRの目標は、北部同盟と呼ばれる各軍閥のみに対しDDRを行うこととされた。この目標は、短い期間で達成可能な、言わばハードルの低い目標であり、また、実際に概ね達成された。しかしながら、いっぽうでタリバーンなど、北部同盟以外の勢力はDDRされておらず、また各家々などに散在する武器の回収は行われていない。真に治安を回復するためにはタリバーンや各家々に散在する武器の回収までも視野に入れる必要があるが、アフガニスタンではこれらの武器の回収はDDRの対象外とされた。このような現状は、DDRのあるべき姿とは異なるものであり、理念と現実のギャップと言えよう。

 次に、各アクター間のギャップについては、以下のような事柄が明らかとなった。

 第1に、従来のPKOとは異なる枠組みの組織構成で行われたアフガニスタンのDDRは、現場レベルで様々な問題を孕みつつも、全体として概ね有効に機能したことである。従来のPKOによるDDRでは、PKO部隊がDDRの監視を行うとともに、DDRの実効性を確保するための裏付けとなる軍事力についてもPKO部隊自身が有していた。いっぽう、アフガニスタンにおけるDDRでは、DDRを監視するIOGが固有の武力を有しておらず、軍事力による裏付けについてはまったく別組織である米軍主体の多国籍軍やISAFなどが有していた。このように、従来と異なる枠組みの組織構成で行われたアフガニスタンのDDRが有効に機能したかについては、全体としては、有効に機能していたと言える。つまり、IOGと多国籍軍・ISAFはそれぞれ別組織であるものの、両者は相互補完的な関係にあることから、DDRを実施する上で全体としては有効に機能したと言える[3]。しかしながら、問題点もいくつか孕んでおり、例えば米軍主体の多国籍軍は紛争当事者そのものであることから、中立性が損なわれたという問題がある[4]。また、現場レベルの問題として、IOGが固有の武力を有していないことから、IOGの自衛能力に限界があり、危険な場所でのDDRを監視する上で支障が生じていたことなどが明らかとなった[5]

 第2に、アフガニスタンのDDRにおいては、文民組織と軍事組織の活動に関して、ギャップというよりも、むしろ民軍協力の新しい可能性が提示されたと言える[6]DDRという活動は、軍事力を背景とした護衛・抑止力がなければ困難であるという点で軍事組織の関与が不可欠であると同時に、元兵士の社会復帰のための職業訓練などの場面ではむしろ文民組織による支援が望まれる。アフガニスタンのDDRにおいては、PRTProvincial Reconstruction Team)と呼ばれる軍民統合による組織の活動が行われ、軍事部門の護衛のもと、各種の復興支援活動が行われた。つまり、軍民が別個の組織として活動したのではなく、軍民が一体となって復興に当たったのである。これは、今後、アフガニスタン以外における平和構築においても軍民協力の新しい可能性を示すものであると言えよう。

 

 

4 主要参考文献

・伊勢崎賢治『武装解除: 紛争屋が見た世界』(講談社、2004

・上杉勇司「地方復興支援チーム(PRT)の実像、アフガニスタンで登場した平和構築の新しい試みの検証」『国際安全保障』第34巻、第1号(20066月)、35-62頁。

・上杉勇司・篠田英朗・瀬谷ルミ子・山根達郎「アフガニスタンにおけるDDR: その全体像の考察」平和構築に向けた社会能力の形成と国際協力のあり方に関する調査研究、No.1(広島大学平和構築・連携融合事業本部) http://home.hiroshima-u.ac.jp/hipec/ja/products/-u.ac.jp/hipec/ja/products/

・遠藤学「『人道的介入』としてのDDR: その社会的影響」『東北法学』No.24 (20049)

・外務省 ( http://www.mofa.go.jp/mofaj/press/danwa/17/dmc_0707.html ) 「アフガニスタン支援紛争後の国家復興を支援する日本の新しい取組み」、「アフガニスタンへの日本の貢献 『平和の定着』をめざして」

・冨田圭一郎「アフガニスタンで活動する地方復興支援チーム(PRT 民軍共同による紛争後の平和構築支援活動」『レファレンス』674号(20073月)、43-59頁。

・日本地雷処理を支援する会編 『オヤジたちの国際貢献』( 創志企画、2006

・山根達郎編『国際平和活動におけるDDR: 平和維持と平和構築との複合的連動に向けて』 IPSHU研究報告No.37(広島大学平和科学研究センター、2006

Knight, Mark & Özerdem, Alpaslan “Guns, Camps and Cash: Disarmament, Demobilization and Reinsertion of Former Combatants in Transitions from War to Peace,” Journal of Peace Research, Vol.41 No.4  (July 2004), pp.499-516

Piiparinen, Touok “A Clash of Mindset’s? An Insider’s Account of Provincial Reconstruction Teams,” International Peacekeeping, Vol.14, No.1 (January 2007), pp.143–157.

Vines, Alex “Disarmament in Mozambique ,” Journal of Southern African Studies, Vol.24, No.1 March 1998), pp. 191-205

 

 

 

 

 

 


別紙-1

質問票(JMAS

 

 

質問項目

質問意図

DDR活動において、具体的にどのような活動を行いましたか? 例えば、とある一日のスケジュールを教えて下さい。(起床から就寝までの流れ)

 

DDR活動の詳細の一例

アフガニスタンでのDDRにおいて、「IOG(国際監視団)と他の組織・機関との間の連携」という面で、なにか問題を感じる所はなかったでしょうか? 他の組織・機関と調整などをしている中で、「これでいいのか?」とお思いになった点などはないでしょうか?

例えば、ANBPMDURVCなどのほか、UNAMAPRTISAFJICA、日本大使館DDR班との連携についてはいかがだったでしょうか?

 

自分の組織と他の組織との間の連携で気づいた問題点

JMASホームページの特集コーナー「アフガンからの報告」第22報(平成161111日)の中で、IOGの問題点として「組織の地位不明確、国連の組織ではないので各種便宜供与が受けられない」とあります。この点について、もう少し詳しく聞かせてください。具体的にどのような不具合があったのでしょうか?

 

IOGと国連(UNAMA)との間の連携上の問題点の例

IOG以外の、「他の組織・機関どうしの連携」の様子はどのようなものだったでしょうか? 

例えばPRTANBPとの間の連携など、他の組織・機関どうしの連携を客観的に見ていて、何か問題を感じませんでしたか? 

他の組織と他の組織との間の連携を外部から見ていて気づいた問題点

DDRの「目的」に関して、各組織・機関の人々の認識はどのようなものだったでしょうか。また、現在行われているDIAGの目的はどこにあるのでしょうか?

例えば、IOGではDDRの目的を「新国軍で使用するための武器収集」と認識していたようですが、他のアクターはどのようだったでしょうか。「将来的にはアフガン国内の武器を一掃したい」という意識だったのでしょうか?各組織・機関等はDDRDIAGの目的をどう認識していたのでしょうか?

DDRの目的にかかわる各アクターの認識のギャップの有無

アフガンDDRは典型的な「平和活動における民軍協力」と呼ばれています。各組織・機関内における「軍人と文民」の連携・協力関係はどのようなものだったでしょうか? 現地で見た限りで、軍人・文民の連携の様子や、問題を感じた所があれば教えてください。

また、軍人と文民がどのように役割分担をし、活動していたのでしょうか。(活動に際し明確な線引きはあったのでしょうか?)

軍民協力の問題点(軍人対文民)

 

 

 

 

アフガンDDRは典型的な「平和活動における民軍協力」と呼ばれています。「軍事組織と文民組織」という観点では、各組織どうしの連携でなにか問題に感じる所はなかったでしょうか? 例えばISAFIOGの連携、あるいはISAFJICA、もしくはISAFUNAMAの関係などではどうだったでしょうか?

また、軍の活動に対して、どのような感想を持ちましたか? 彼らとの活動で問題は発生しましたか? 彼らとの活動で、彼らがいない場合よりも成果がありましたか? ISAFOEFの軍部隊はDDRにおいてどのような枠割を果たしていましたか? どのように民と軍の活動は調整されましたか?(マニュアル、調整・連絡員の交換など?)

軍民協力の問題点(軍組織対文民組織)

 

DDRの一連のプロセスのうち、「DDRとの間の連携」という観点で何か問題に感じる所はなかったでしょうか? 軍閥の武装解除と社会復帰プロセスとはうまく調和がとれていたのでしょうか?

 

DD部門とR部門の連接の問題点

IOGとは別に、PRTもまたDDRに携わっていたようです。では、IOGが携わるDDRPRTが携わるDDRとの関係・連携はどのようになっていたのでしょうか? 例えば、DDRに関してIOGPRTとの間に役割分担や地域分担のようなものがあったのでしょうか?

 

DDR全体におけるPRTの位置付け、関与の様子

10

PRTの行ったDDR活動に対して、何か感想があればお願いします。

 

DDR全体におけるPRTの位置付け、関与の様子

11

IOGの活動では、どのような組織と接触しましたか? どのような組織と一番長く仕事をしましたか? IOGの活動はどのような組織の指令・要請に基づくものですか?あるいは、どのような(どの程度の)活動がIOG独自の判断に基づくものでしたか?

(1)日本国内の他のアクターでは?(2)海外の他のアクターでは?

 

各アクターの認識する各組織間の関係性

12

上の質問11に挙げた組織との調整や活動で、認識のギャップやSOPの違いがありましたか? それらはどのような問題を起こしましたか? 

(1)日本国内の他のアクターでは?(2)海外の他のアクターでは?

各アクターの認識する組織間のギャップ

13

IOGの活動において、活動の規模や人数の面で不具合を感じることはありませんでしたか?

例えば、活動の計画段階で予定した活動の規模や人数が、実際の活動では不足だったということなどはなかったでしょうか?

活動の計画立案をする者(機関)と、現場で活動する者(機関)との間の連携における問題点

14

アフガニスタンでのDDR活動を通じて、JMASであることの利点、欠点を感じた業務について教えていただきたいと思います。

また、委託業務であること、日本からの団体、自衛隊OBであることの利点及び制限された点などについても教えていただきたいです。

 

自分の組織の抱える問題点の具体例。軍民の個々の限界の認識

15

一般的にDDRをする際の「軍民関係」の理想はどのようなものをお考えになるのでしょうか。

(例えば、軍事組織は役割と任務を明確に差別化するため、直に人道援助を施してはならないとIASC参考文書にありますが、人的・技術的には人道援助要員の身の安全を守るためには必ずしもそうではなかったり、或いは長期的な援助視点から文民組織の影響力と独立性を拡大すべき、といった事があれば教えていただきたいです)

 

どのような軍民協力のパターンが最善であるのか、理想と現実のギャップ

 

 

 

16

 

「軍民関係」に限定せず、広く関係諸機関・諸団体がどのように連携すればDDRが効果的になると考えられるでしょうか? 

ご意見があればお願いいたします。

 

各機関の連携における理想と現実のギャップ

 

17

短い期間ではありましたが、自分たちの活動の成果が出たと感じる時はありましたか?それはどんな時でしたか?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


別紙-2

 

質問事項(上杉勇司氏)

 

(1)
アフガニスタンでのDDRにおける各関係機関の間の連携において、上杉様のご視点から見て問題に感じられる事柄はどのようなものがあったでしょうか? 
(特に、日本から参加している各機関の連携についてはいかがでしょうか?)
 
(2)
アフガニスタンにおける国連の活動では、PRTという軍事部門が国連の統括下に置かれず、別の枠組みで行動しておりました。このことが国連の任務に対して与えた影響はどのようなものがあったとお考えでしょうか?
 
(3)
DDRは平和構築の大きな一連のプロセスの中の1つであり、完全に独立した活動としては認識されないと考えます。SSR内の他の4部門や、大統領選など、DDR以外の他の活動との連携における問題点にはどのようなものがあったとお考えでしょうか?
 
(4)
アフガニスタンの事例が平和構築論に与えた学術的な影響の中で、上杉様が一
番大きいとお考えになるものは何でしょうか?
 
 
 
 
 

 



[1] 上杉氏とのインタビューにおいて特にこの点が強調されていた。

[2] この点に関し、JMASDDRの実効性の限界という文脈で憂慮するコメントをしている。いっぽう、瀬谷氏は政策論の見地から、やむを得ない結果であるという見解を述べている。

[3] 上杉氏の見解による。

[4] この点に関し、特に瀬谷氏が憂慮するコメントを表明していた。

[5] JMASのインタビューで明らかとなった。

[6] PRTによる軍民協力の新たな可能性に関しては、特に上杉氏が強調している。