2008年度森泰吉郎記念研究振興基金(研究者育成費)研究成果報告書

慶應義塾大学大学院政策・メディア研究科修士課程 笠井賢紀

学籍番号 80724395 / CNSログイン名 kasai

研究課題:公共性の観点から見たフィリピン住民自治の課題と可能性

目次

要旨

本研究の目的は、公共性は地域性を持ったものであるという観点から、事例から公共性の在り方を論じることである。まず、既存の公共性概念について、ハーバマスの市民的公共性の概念を出発点として整理する。ハーバマスの市民的公共性の価値は認めつつも、クロスリーにより提示される身体性、ムフにより提示される対抗性を包含した公共性は、市民的公共性とは別にあると論じ、大衆的公共性として提示する。大衆的公共性は、特定の要件を持たない人々によって担われる公共性であり、様々な意見を持った集団が互いの立場を認め合う。また、大衆的公共性において想定されるのは抽象的市民像ではなく生身の人間である。こうした大衆的公共性の枠組を、フィリピン・ケソン市における住民の政策過程参加事例に適用する過程で、同地における公共性の在り方を浮き彫りにした。すなわち、制度的参加型行政の場は、市民的公共性追求が適しているが、草の根組織からの意見表明においては大衆的公共性が適しており、両者は相互補完的な公共性の類型である。市民的公共性と対になる大衆的公共性を育むには、草の根組織への親近感、日々の生活への問題意識、豊かな社会的ネットワークが必要であり、これらが欠けると大衆的公共性が生まれず、市民的公共性のみ、あるいは公共性の欠如といった事態に陥る危険がある。


以上が本研究全体の要旨であるが、学会誌で査読中の論文と内容が重複するため、本報告書では前半部分、つまり市民的公共性とは異なる公共性について論じる。なお、フィリピン住民自治と公共性との関連については、本研究との関連業績である、以下の論文を参照。

笠井賢紀(2009)『参加型行政と公共性―フィリピン・ケソン市の事例から―』慶應義塾大学湘南藤沢学会

1 はじめに

公共性(publicness)に関して「西洋的」な市民像や公私観とは異なる「アジア的」なあるいは各国ごとの公共性の捉え方があるのではないかという議論が盛んであり、たとえば佐々木ほか(2002)は東アジアにおける公私観を基に日本発の公共性論を打ち立てようとしている。こうした議論において「西洋的」とされる公共性は固定観念が先行している場合もある1)が、市民観、公私観が異なれば公共性の在り方が異なるという問題提起は重要である。なぜなら、公共性について論じるためには、公共性の担い手と、公共性の領域設定が不可欠なためである。従来、公共性の担い手として位置づけられてきたのが自覚的な市民であり、公共性の領域、あるいは公共空間(public sphere)とそうでないものを分けるために用いられてきたのが公(public)と私(private)との差異であった。従って、国、地域、あるいは文化ごとに公共性の在り方は異なる。とはいえ、公共性に関する議論を盛んに行ってきた公共哲学の分野における議論の蓄積は、様々に異なる公共性の在り方に一定の共通項を見いだすのに重要な役割を果たすだろう。

本稿では、こうした問題意識を基に、まず近年の公共性議論、公共哲学について概観した上で、公共性概念が共有している主題を抽出する。

2 公共性に関する議論

本節では近年の公共性議論を概観する。まず、公共性議論に大きな影響を与えているユルゲン・ハーバマス(Habermas, J.)の公共性概念について論じる。次に、ハーバマスの議論へと提示されている様々な批判の整理を通じて、新しい公共性の類型カテゴリを提示する。

2.1市民的公共性

ハーバマスの代表的著作の一つである『公共性の構造転換』(ハーバマス 1990=1994)を中心にハーバマスが公共性という概念で指し示すものを明らかにする。ハーバマスの公共性はそもそも同書初版序言で書かれているように「市民的公共性」として描かれている。市民的公共性は、「市民社会」の発展史と切り離すことができない「特定時代に固有な類型的カテゴリ」として捉えられている。ハーバマスの議論においては、まず「公共性」が歴史カテゴリーとして扱われており、歴史的発展の段階に応じてそれぞれ異なる公共性の類型的カテゴリが現出するが、ハーバマスが同書で扱うのはその内「主流となった歴史的形態の特徴を対象とする」「自由主義的モデルの構造と機能」を持った市民的公共性であると限定付けられている(同書序章)。

それでは、そもそも「公共」とは何であったかという点について、ハーバマスはギリシアの都市国家、ローマ法、古ゲルマン法などにおける「公」に関わる言葉がどのように使われていたかについて多くの例を挙げることで公共観を描いている。それらの時代に続いて、中世封建社会においては高貴な者による権力の「代表的具現」としての公共性(具現的公共性)、つまり人々の前で支配権を表すものとしての公共性が描かれる。具現的公共性の担い手は王侯貴族や教会であり、対応する生活圏の代表的なものは上位貴族であったが、その衰退とともに、恒常的行政と常備軍による公権力という公共性の新たな担い手が登場する。この歴史的段階においては、官職を持たない人々は公権力への参与から閉め出されており、公共性の担い手ではないが、特権商社など合法的に行政へと包摂された人々は「公衆(publicum)」を形成した。そして、資本主義的生産への改変に伴い、家庭経済の枠内にあったものが「公共性の明るみに出て」きたとする。そうした中で、新聞の登場ににより、行政当局の公示を幅広い人々が見ることで、人々は本格的に公権力の受け手、つまり公衆になった。この公衆が、市民的公共性の担い手として自らが公権力の受け手であるという自覚を持つに至る(同書第1章)。ここで注目すべきは、市民的公共性の担い手は、公権力の受け手となっており、それを自覚している人々に限られるということである。公権力の受け手と自覚していない人々は「民間人」とされる。なお、あくまで市民的公共性も類型カテゴリの一つであるから、民間人の領域における公共性の存在をハーバマスは否定していない2)

具体的な市民的公共性の在り方として、ハーバマスは政治的公共性と文芸的公共性に分けて論じている。市民的公共性が現出する場としては、サロン、喫茶店、文芸サークルや公開的な劇場が挙げられている。ハーバマスは懐古主義的に喫茶店、サロン、クラブが市民的公共性の理念を現出する場であったと称賛したわけではない。それらの場においては社会的地位を度外視するような社交様式が求められ、経済的従属関係や国家の法律、市場の法則が効力を停止するとしながらも「喫茶店やサロンやクラブで、この公衆の理念が本当に実現されたというわけではない」と留保を加えている。その上で対等性が「理念として制度化され、したがって客観的建前として掲げられ、そのかぎりで実現はされなくても尊重されるようになった」ことを述べている(同書第2章)。

そして、19世紀以降、この公共性に更なる変化が起こる。公的権能や公的行政が民間に委託・委譲されるようになったことで、国家と社会の差が縮小し、これまで市民的公共性の土台となっていた公権力そのものが変質を遂げたためである。公的領域と私的領域が交錯することで、市民的公共性モデルは適用不可能になる。この歴史的段階においては、公衆は従属的に存在し、自立化したマス・メディアが国家装置あるいはそれと共働する機関によって意識操作される(同書第5章)。

ここまで見てきたように、ハーバマスは一貫して公共性を歴史に対応したカテゴリーとして捉えてきた。その上で、同書初版の段階では、ハーバマスは現在が属している歴史的段階において、市民的公共性は崩壊し、その担い手であった公衆による政治や文芸への取り組みは、公衆が操作されているものだという極めて悲観的な結論を下したのである。この「操作された公共性」に関して同書第6章では、選挙行動を事例として、公衆が「公共の意見形成過程に寄与することがいかに少ないか」は既に示されており「選挙民の公衆としての解体」が起きていると論じている。

2.2 コミュニケーション行為

前項で整理したように、市民的公共性はハーバマスの議論において、現存するものではなく18世紀から19世紀初頭にイギリス、ドイツ、フランスで見られたものだった。では、ハーバマスは現在においてどのような公共性を理念型として描いているのだろうか。ハーバマス(1981=1985-1987)は、「コミュニケーション行為」を重要視している。コミュニケーション行為とは「「妥当要求」を掲げたうえで、その承認を相手に求め、了解による合意をめざす行為」(中岡 2003:286)である。妥当要求とは、1.自分の言っていることが客観的事実に基づいているという主張(真理性)、2.自分の言っていることが社会的規範に照らして正しいという主張(正当性)、3.自分の言っていることが自分の気持ちや意図に忠実であるという主張(誠実性)の3つである(中岡 2003:150)。ハーバマス(1992=2002-2003)は、こうした妥当要求を掲げたコミュニケーション行為の一形態である討議を絶え間なく行うことで法の妥当性が生まれることを論じている。ハーバマスは次のように述べている。

法の実定性が意味するのは、意識的に制定された規範構造体によって、人為的に産出された社会的現実が成立する、ということである。こうした現実は、その構成要素のいちいちが変更されたり無効とされうるのであり、それゆえ取り消されないかぎりで実在するにすぎない。実定法の妥当性とは、変更可能性という点から見れば、無効になる可能性がつねに存在しているにもかかわらず、特定の規範を有効であり続けさせる意思の、純粋な表現であるように見える。(ハーバマス 1992=2002-2003:57)

ここから分かるように、ハーバマスは可謬主義の立場を取り、法は常に変更可能性を持っているとしている。法は討議による変更の可能性があることによってその妥当性を得ているのである。近代において、こうしたコミュニケーション行為が育まれて来ており、だからこそ近代法が一定の妥当性を保っていられる。この討議は、経験的には様々な障害により実現されないこともあるが、そうでありながら討議に際してはそうした障害のない「理想的発話状況」が想定されているためにコミュニケーション行為が成立するとされる。一方でハーバマス(1981:1985-1987)が「生活世界の植民地化」と呼ぶような問題が発生している。生活世界の植民地化とは、コミュニケーション行為によって制御される生活世界が、貨幣や権力によって制御される「システム」によって侵食されることをいう。つまり、上述したようなコミュニケーション行為による妥当性の担保が機能しなくなる状況であると言えるだろう。

以上、前項と本項でハーバマスの議論の内、特に公共性の在り方に関連する箇所を整理した。次項以降で、これまで述べたハーバマスの議論への批判をとりあげながら、公共性の主題について論じる。

2.3間主観性と身体性

ハーバマスへの批判として、まずクロスリー(Crossley. N)によるものを挙げる。クロスリー(1996=2003:183-240)はハーバマスへいくつかの批判を展開しているが、公共性は地域ごとに異なるという本稿の基本的立場から特に重要なのは間主観性の身体化に関するものである。クロスリーの述べるように、ハーバマスは「間主観性と言語的コミュニケーションを同一視し、間主観性の身体化を無視する傾向がある」(クロスリー 1996=2003:222)。このことは言い換えれば、ハーバマスが「人間の身体性、情動、知覚ないしは想像力」についての言及を避けたままで、コミュニケーション行為による、「間主観的承認」(ハーバマス 1992=2002-2003:35)による妥当性の担保ついて論じているということである3)。クロスリーは、1.身体性や知覚は間主観的な場のなかに織り込まれていること、2.人間身体はコミュニケーション行為の主体であるがゆえにシステムと生活世界の核心の場であること、3.身体化された経験を扱わない説明は間主観性に関する説得力のある記述を与えないこと、以上3点を指摘している。2点目と3点目は論拠に乏しいため、ここでは1点目について論じる。

クロスリー(1996=2003:55)は自我論的間主観性を「自己を他者の位置に想像上で移し入れることによって、他者性を経験する自己移入的な指向性を意味する」ものだとしているが、この、他者への想像あるいは配慮は、討議において承認を得るために必要なものであり、ハーバマスの間主観性概念もおおよそこのようなものであると考えられる。クロスリーの、間主観的な場における身体性・知覚についての主張を整理すると次のようになる。まず知覚については、メルロ=ポンティの議論に基づいて心身二元論を退け、「主観身体」の概念、すなわち「我々とは我々の身体のことであり、そして我々の意識と我々の生を活気づける意味との全体は、世界への我々の活動的で身体的な(かつ間身体的な)絡みに基づいている」という考えを提示する。知覚は身体によって空間的な場を与えられるものであり、また、知覚意識は知覚する者と近くされる者との間の空間のなかでそれらの活動的関与によって形成されるものであるという。つまり、知覚は身体を必要としていることと、私的ではなく間主観的であることがここで示されている。次に情動・感情についても、同様に内的状況ではなく、文脈に依存して行為に現れるものであり、また、人が感情によって他者と結びつくものであるとする。このことから、感情は他者との相互行為によって作られるものであり、かつ、相互行為を形づくるものとして位置づけられる。

クロスリーは知覚・情動・感情といったものが、内的なものではなく、他者との相互行為に欠かせないものであること、つまり間主観性の場に織り込まれていることを明らかにした。ここで、上述したハーバマスへの批判に立ち戻ると、ハーバマスは討議による承認が妥当性を担保すると論じているのであり、討議は生身の人間によって行われる以上、その参加者の身体性は無視できず、クロスリーの批判に基づいた部分的修正が必要である。ハーバマスは妥当要求として真理性、正当性、誠実性の3つを提示しており、少なくとも真理性と正当性については間主観的なものであった。しかし、これらは言明内容についての性質を示すものであり、行為者の知覚・情動・感情は配慮されていなかった。

2.4 理想的発話状況と多元主義

続いて、ムフ(Mouffe, C.)による理想的発話状況に関した批判を検討する。既に、コミュニケーション行為は統制的理念としての理想的発話状況が置かれることによって成り立っていることを述べた。排除することなく合意が導かれるという理想的発話状況はあくまで理念であり、その実現には経験的に障害が見られるとするのがハーバマスの立場だが、ムフ(2000=2006:76)は、理想的発話状況への障害は経験的なものとしてあるだけではなく「民主主義の論理それ自体」に内在的であるとする。これは、民主主義の必要条件である異なる立場どうしの者の間に境界線を引くことを満たさないことから説明される。さらに、そのために、ハーバマスに代表される討議民主主義のモデルでは、多元主義を適切に描くことができないと論じる。

多元主義を描くためにムフ自身が提示するのは闘技的民主主義である。闘技的民主主義においては、対抗者としての他者の存在も、対抗者間の抗争性も否定されない。討議民主主義との重要な差異は闘技的民主主義においては、「民主主義政治の第一の課題は、公的領域から情熱を消去することにより合理的合意が可能になると考えるのではなく、その情熱を民主主義の企図にむけて動員することにある」(ムフ 2000=2006:159)。闘技的民主主義の関心は、合意によって多元主義における敵対を無くすことではなく、闘技により和らげることに向けられている。闘技とは「対立する党派が、その対立に合理的な解決をもたらすことなど不可能と知りつつも、対立者の正当性を承認しあう関係性である」と定義付けられる(ムフ 2005=2008:38)。この定義から分かるように、合理的解決をもたらすことは不可能であるという、理想的発話状況とは異なる前提を闘技の参加者は有している。この場合、民主主義の役割は、敵対し相容れない関係(敵対性)から、互いの正当性を承認し合う関係(抗争性)における闘技へと導くことである。こうして多元主義と民主主義の共存が図られる。

ここまでで見たように、ムフはハーバマスの討議における前提に根源的な批判を投げかけているが、一方で、人々が他者の立場について考える間主観性は前提されており、それに基づいて立場を明らかにし、何らかの立場が政治4)によって統一されて現出するという点では両者に共通点が見られる。また、田村(2008:第3章)が検討したように、討議民主主義において「対立の契機の重要性が様々な角度から指摘されつつある」ことや、闘技民主主義が「闘技成立の説明においてアポリアを抱えており、この点を解決するために」討議民主主義的な理解が可能性を持つことが指摘されており、両者は根本的に相容れないものではない。

2.5 大衆的公共性

ラッシュはハーバマスが、アジアの社会は個人主義的法秩序の成し遂げたことを利用せずには資本主義的な近代化に参加できず、自身の文化と人権との関係よりも、経済的近代化に対抗できるかということが問題であると述べている箇所(Habermas 2001:124)を受け、次のように述べている。

したがって、彼の、手続の強調やいわゆる討議原理の普遍性に反して、アジアの社会やそのほかの人々が向き合うことになる選択肢は、文化的アイデンティティと経済的生存、言い換えれば文化的な絶滅と物理的な絶滅との選択なのである。(Rasch 2003:142)

ラッシュがこのように指摘したように、ハーバマスの公共性概念はそもそも「西洋的」、「ヨーロッパ的」なものである。ハーバマスが追った歴史的段階が、ギリシアやローマから始まり、中世封建社会を経て、サロンや喫茶店における公共性が育まれる18世紀へと辿ったことからも、彼の公共性概念がヨーロッパの「主流」地域に極めて限定された議論であることがわかる。その中でハーバマスが焦点を当てたのは市民的公共性であったが、彼は意識的にその他の公共性の在り方の一つである、彼が「人民的公共性」と呼ぶ形態を議論から除いている(1990=1994:初版序言)。市民的公共性の担い手は意識的・自覚的な「市民=公衆」であったが、人民的公共性の担い手は「無教育な「人民」」であり「文筆なき公共性」であるとし、「18世紀の遺産」として扱っている。この人民的公共性が底流として長く生き続けていることは認めているものの「あくまで市民的公共性の志向を基準にして」いるとして、重要視しない。人民的公共性は「一時的に実現されたことのある諸次元」の一つとされ、「別個の研究を必要とする」と指摘するに留めている(同上)。

ハーバマスの議論に従えば「市民=公衆」は「論議する民間人=文人的性格をもったもの」であり、「人民=民間人」は「無教育なもの」となる。しかし、市民=公衆がすでに操作されて市民的公共性が失われているのであれば、その復古を目指すよりも、常に底流として存在したという人民的公共性に焦点があてられるべきだろう。ハーバマスによって「無教育なもの」として描かれる人民=民間人は、実際には教育水準によって定義づけられる存在ではなく、市民=公衆の存在を前提にした「非市民」のことである。ハーバマスの議論に立ち戻ると、市民=公衆は公権力の受け手であり、妥当要求を掲げてコミュニケーション行為の担い手となる人々のことであった。すると、非市民としての人民=民間人は公権力の外にいる人々、あるいは妥当要求を満たせないなどの理由からコミュニケーション行為の担い手ではない人々のことである。新聞での公示によってさえ公権力の受け手となれたことを考えると、新聞のほか、ラジオ、テレビ、インターネットといった情報伝達手段が一定程度整った現代においては、それらにアクセスできる多くの人々は公権力の受け手であると言える。よって、それを除くと人民=民間人とはコミュニケーション行為の担い手ではない人々のことである。

ハーバマスの妥当要求である真理性、正当性、誠実性はいずれも日常的行為に課すには重い負荷である。また、どの要求についても、自らの主張を成立させるため、あるいは議論から利益を得るために、戦略的に敢えて満たさない場合が一般に考えられる。つまり、人々が常に討議のために正直であり間主観的であるとは想定できず、こうした人々の公共性はハーバマスの区分に従えば人民公共性に当たるだろう。「人民」という言葉のもつ被支配者としての性質はここでは必ずしも必要ではないため、より中立的な「大衆」を当て、以後、市民的公共性とは別の主要な類型カテゴリとしてのこうした人々の公共性を大衆的公共性とする。

大衆的公共性は、これまで論じてきたハーバマスへの批判を拾い上げる形で定義づけられる。なぜなら、クロスリーやムフによる批判は、市民的公共性概念の修正を求めるものではなく、公共性の類型カテゴリへの疑義であり、また、その内容は非市民の公共性と矛盾しないものであるためである。大衆的公共性を次のように定義する。1.担い手は妥当要求や市民としての自覚などの特定要件を満たした者に限定しない、2.担い手は抽象的市民像ではなく空間的に存在する生身の人間として描かれる、3.互いに立場を認め合う多元的な集団が存在してよい、4.公共性は人々の合意あるいは闘技の結果によってその都度暫定的に醸成される、5.人々の合意あるいは闘技の結果はその後の合意や討議の結果によって置き換えられる変更可能性を常に持つ。以上、本節ではハーバマスの議論をもとに、ハーバマスへの批判に見られる知見を組み込んで、大衆的公共性の概念を提示した。

1) たとえば西洋出自の公共性論であれば、市民とはブルジョワ階級で市民意識の極めて強い人々が想定されるなど。
2) ハーバマスの公共性に関する議論については、市民的公共性にのみ焦点が当てられることがあるが、ハーバマスは彼が「民間人」とする領域についても重視している。たとえばハーバマス(1994:49-50)は「私的領域の中には、本来の意味での「公共性」も含まれている。なぜなら、それは民間人の公共性だからである」としており、民間人の領域を私生活圏と公共性に区別して論じている。
3) ハーバマスらの討議民主主義が身体性を軽視していることは、Youngから(1996)も批判が挙がっており、田村(2008:77-86)はこの議論を取り上げて、討議民主主義は「世界観をめぐる争い」をその理論に組み込む必要があると主張している。
4) ムフは「政治」と「政治的なもの」を区別している。ムフ(2005=2008:序章)参照。

文献

関連業績

著作 - 1件

学位論文

笠井賢紀(2009)「参加型行政と公共性―フィリピン・ケソン市の事例から―」慶應義塾大学大学院政策・メディア研究科修士論文(慶應義塾大学湘南藤沢学会優秀修士論文)

国際学会発表

口頭発表

[2009年4月予定(accepted)]Yoshinori Kasai,”Changing from Scavengers to Eco-Volunteer”, PSA 2009(太平洋社会学会2009年年次大会), San Diego

[2008年12月]Yoshinori Kasai, “Participatory Governance in Quezon City in the Philippines: Case of the City Development Council and BDP-PLA”, ISA-RC21 Tokyo Conference 2008(国際社会学会リサーチコミッティ21(都市・地域)国際会議東京会議2008) , Tokyo [ウェブサイト]

学会発表(国内)

口頭発表

[2008年6月]笠井賢紀、「フィリピン ケソン市における住民自治の課題」、東南アジア学会第79回研究大会、吹田

研究会・シンポジウム等

[2008年7月]笠井賢紀、「フィリピン・ケソン市における住民自治の可能性と課題」、環境・平和研究会定例研究会、立教大学[ウェブサイト]

[2008年7月]笠井賢紀、「地方自治団体への住民運動の取り込みについて-都市貧困層における一女性のライフ・ヒストリーから-」、第13回フィリピン研究会全国フォーラム、同志社大学[ウェブサイト]

[2008年5月]笠井賢紀「フィリピン ケソン市における住民自治」 、国際平和研究所公開研究会&2008年度第1回CSプロジェクト「「南」地域における社会変動と市民社会―アジア・アフリカ・南米の事例報告」、明治学院大学[ウェブサイト]