森基金報告書(2008年度)
政策・メディア研究科 小林博人研究室 修士2年 浅見麻衣
No.80625562 maiasami@sfc.keio.ac.jp
「ワシントンD.C.メトロポリタンエリアにおける
エチオピアン・ディアスポラのコミュニティ意識に関する研究」
1. 序論
■
研究の背景
・約150万人のエチオピア人が国外に在住。
・主要因: 政治的迫害(エチオピア革命)、貧困、低教育水準。
・ワシントンD.C.メトロポリタンエリアに最大のエチオピアン・コミュニティがある。
人口10万〜30万人。「閉鎖的」、「特殊」と言われる。
■ 研究の目的・手法・意義
【目的】
アメリカのワシントンD.C.メトロポリタンエリアに住むエチオピアン・ディアスポラのコミュニティ意識のあり方を探る。
【手法】
・マクロ視点(歴史背景)+ミクロ視点(コミュニティ形成)
・文献調査及び現地でのアンケート/インタビューを基とする。
〜アンケートとインタビュー概要〜
・アンケート対象:ワシントンD.C.メトロポリタンエリアに住むエチオピアン・ディアスポラ
・配布場所:教会、コミュニティ・センター、レストラン、カフェなど
・回答状況:41/50枚回収
・質問項目: @ 背景(宗教、学歴、移住理由)
A アメリカでの生活(職業、住まい、問題点)
B エチオピアやエチオピア人との関係(情報収集、社会活動、貢献度)
について計30問。
・教会やコミュニティ・センターの職員、レストランやカフェの経営者、教授、ディアスポラ2世など約10人にインタビュー。
【意義】
・エチオピアン・ディアスポラの全体像をつかむのと同時に、コミュニティ意識の核心に迫る。
・ 先進国におけるマイノリティ・コミュニティのあり方の一例となる。
■ 既往研究
エチオピアン・ディアスポラの研究は近年関心が高まってきているものの、既往研究は少なく、大半がエチオピアン・ディアスポラによる。特にD.C.メトロポリタンエリアに焦点を絞った研究は稀有。
■ 研究の構成
2. エチオピアン・ディアスポラ
■近代におけるディアスポラの定義
国外に住みながらも強い集団アイデンティティを持ち続ける人々をディアスポラと呼ぶ。
■在米エチオピアン・ディアスポラ移民史
@エチオピア革命以前(1920年代〜74年)
・背景:アメリカの外交官Skinnerが学生派遣を提案/ハイレ・セラシエ皇帝、積極的に学生を派遣
・何故アメリカか:WWU以降のヨーロッパ諸国は疲弊/アメリカ帰りのエチオピア人への高評価
・特徴と住まい方:上流階級出身者/学位取得後に帰国する意図/コミュニティ組織は確立されず
Aメンギスツ政権時代(1974〜91年)
・背景:1974年エチオピア革命→メンギスツ恐怖独裁体制/1984年、大干ばつ
・何故アメリカか:共産主義国家封じ込め政策・冷戦政策/1980年難民法
・特徴と住まい方:政治難民/アメリカへ移住する意図/コミュニティを確立
BDerg崩壊後(1991年〜)
・背景:1991年メンギスツ政権崩壊→「エチオピア連邦民主共和国」/ソ連崩壊・冷戦構造解体
・何故アメリカか:1990年移民法→移民多様化ビザ抽選プログラム&家族呼び寄せ枠
・特徴と住まい方:比較的低学歴/アメリカへ永住する意図/既存のコミュニティを拡大
3. エチオピアとアメリカ
■
エチオピアとアメリカの外交関係
@帝政時代(1903〜1974年):ハイレ・セラシエ皇帝とアメリカの蜜月関係
Aメンギスツ政権時代(1974〜1991年):ソ連と武器供用協定を締結
Bメンギスツ政権崩壊後(1991年〜):アメリカとエチオピアとの関係改善
■
エチオピアン・ディアスポラ関連の移民法
・1980年難民法
共産圏や独裁国家からの難民に限らず、幅広く定義/アフリカ難民に適用した最初の法律
・1990年移民法
送出国選出に普遍的な基準を使用した移民拡張政策/移民多様化ビザ抽選プログラムを新設
■
エチオピアニズム〜公民権運動
【エチオピアニズム】
・「やがてエチオピアに向かって手を伸べるだろう」(旧約聖書、詩篇68編・31節)
・独立国エチオピア
【ラスタファリ運動】
・Marcus Garveyのアフリカ回帰運動
・ハイレ・セラシエ皇帝=神(Jah)
【パン・アフリカン運動】
・1900年、パン・アフリカン会議
・1963年、アディスアベバにてOAU(アフリカ統一機構)設立
【公民権運動】
・1964年公民権法制定、アファーマティブ・アクション政策
・Martin Luther King Jr.、Malcolm X、Du Boisらが黒人の象徴に。
4. ワシントンD.C.におけるアフロ・アメリカンとエチオピアン・ディアスポラ
■ ワシントンD.C.におけるセグリゲーション
・大規模な黒人集中都市
・1970年代〜ヒスパニック、アジア系増加→「多様化」
・黒人のセグリゲーション傾向は変化せず
■
Shaw District / U Streetとアフロ・アメリカン
・1890〜1920年代に栄えた黒人自治地区。
・U Street=Black Broadway。
・1950年代〜衰退し、危険地区に。
・1970・80年代〜再開発・Gentrification(高級化)。
・1999年、歴史地区に指定。
■
エチオピアン・ディアスポラの浸透
・最初はAdams Morganにコミュニティを形成。
・1990年代の再開発計画で地価高騰。
安い土地を求めてU Streetや郊外へと拠点を移す。
・3エリア(DC、MD、VA)に集中しつつ、ビジネス拡大。
・2004年、アムハラ語が6つ目のD.C.公式言語に。
■「リトル・エチオピア」論争
・再開発・Gentrificationで”Chocolate City”が
消滅危機に。
・2005年、「リトル・エチオピア」計画。
・エチオピアン・アドボケーター+D.C.市議会議員VS
アフロ・アメリカン。
→エチオピアン・ディアスポラのコミュニティを
領域で統合できない。
5. エチオピアン・ディアスポラのコミュニティ
■アンケート結果
D.C.エリアのエチオピアン・ディアスポラの特徴
・キリスト教徒、アムハラ語&英語話者、高学歴。
・アメリカの生活に満足。
・エチオピアとは電話で、他のエチオピアン・ディアスポラとは教会やサッカートーナメント、レストランなどで交流・情報交換
■「エチオピアの延長」としての場
【教会】
・エチオピア系の教会:13件(うちエチオピア正教会は11件)
最初は倉庫や地下室を教会として利用→拡大・移転
・複合的な機能
宗教的:礼拝
教育的:アムハラ語やエチオピア文化の子どもクラス
文化的:祝祭行事 ex. Meskel
社会的:相互扶助組織(Idir)
【コミュニティ・サービス機関】
・エチオピア系のコミュニティ・サービス機関:8件
実際はアフリカ人や難民全般に拓かれている。
・難民受け入れ、法律相談、無料診療所紹介、マイクロ・ファイナンス、子どもプログラムetc
【レストラン/カフェ/食料品店】
・エチオピアン・レストラン/カフェ/食料品店:98件
・複合的な機能
商業的:食事、食品販売
文化的:インジェラ、コーヒーセレモニー、ダンス、結婚式
政治的:集会
社会的:勉強会、相互扶助組織(ekub)、送金
6. 結論
・限られたエチオピア人であるが区分層があり、また点在している。
↓団結・統合
・ 都市領域ではなく、教会やレストランなど「エチオピアの延長」としての場においてコミュニティ意識を培い、高めている。
・ 団結力のあり方が「モデル・マイノリティ」と言われる成功の理由
「助け合い精神」「分かち合い精神」→ 相互扶助組織を利用した起業
他のマイノリティへの気遣い