政策・メディア研究科博士1年 先端生命科学プログラム
西野泰子
学籍番号: 80949181
輸血用赤血球製剤として一般に用いられるMAP濃厚赤血球液(RC-MAP)では、
保存中に赤血球内のアデノシン3リン酸(ATP)、2,3-ビスホスホグリセリン酸(2,3-BPG)が
失われて赤血球の生理機能が低下するため、保存期限を短く設定せざるを得ない。
しかし、ATP、2,3-BPGが保存期間中に減少する本質的なメカニズムは解明されておらず、
現在でも経験に則った方法によって血液保存手法の開発が行われている。
本研究では、シミュレーションによる代謝予測とキャピラリー電気泳動-飛行時間型質量分析計
(CE-TOFMS)による代謝物質一斉測定(メタボローム解析)を駆使して、低温保存赤血球の
代謝不全メカニズムの解明と保存条件の最適化を目指した。
保存赤血球を模したRC-MAPモデルでは、(1)低温条件による代謝酵素とNa+/K+ポンプ活性の低下、
(2)ヘモグロビンのR型遷移、(3)赤血球内pH低下、(4)pHに依存したプリン代謝酵素活性変化、
を代謝変動のパラメータとして表現した。このRC-MAPモデルが予測した低温保存下での代謝変動は、
同様の条件で実際に長期保存した赤血球メタボロームの解析結果とよく一致しており、
構築したモデルの妥当性と新規保存法開発におけるシミュレーションモデルの有用性が示すことができた。
また、シミュレーションモデルに実装したパラメータの感受性解析結果から、
赤血球の保存中に不活性化するホスホフルクトキナーゼ(PFK)をはじめとした数種類の酵素の働きによって
ATPや2,3-BPGの減少が引き起こされていることをシミュレーション予測の結果から突き止めた。
さらに、この効果を実現する方法としてマンノースを保存液に添加する手法を提案した。
現在マンノースの添加効果についてシミュレーションと実証実験の両方のアプローチによって確認中である。
輸血用赤血球をはじめとした血液製剤は臨床医療に不可欠であるが、現在においても血液の代替物(人工血液)は実用化
されておらず、献血による供給に頼らざるを得ない状況である。少子高齢化が進む中で献血者数は減少傾向にあり、
限られた血液資源を有効に活用するためにも、血液の長期保存を実現することは重要な研究課題である。
保存された血液の品質は、赤血球の寿命や酸素運搬機能を司るATPと2,3-ビスホスホグリセリン酸(2,3-BPG)という2つの
代謝物質の濃度によって左右される(Nakao et al., Nature, 1962など)。これらの物質は血液の長期保存中に急激に
減少してしまうため、ATPや2,3-BPGは保存血の使用期限を決定付ける指標とされてきた(Hamasaki and Yamamoto, Vox Sang., 2000)。しかし、
赤血球細胞内における複雑な代謝ネットワークの動的な変化を包括的に理解することは困難なため、これらの物質が保存中に減少する
本質的なメカニズムは理解されていない(Hess, Vox Sang., 2006)。
慶應義塾大学先端生命科学研究所では、ヒト赤血球の代謝に関する広範なシミュレーションモデルが既に構築されており
(Kinoshita et al., J.Biol.Chem., 2007)、情報科学的に赤血球代謝不全のメカニズムを探ることが可能である。
同時に、代謝シミュレーション予測の実測実験系として、網羅的に代謝物質濃度を測定する技術(メタボローム解析技術)の開発が、
キャピラリー電気泳動・飛行型質量分析装置(CE-TOFMS)を主軸に行われている(Soga et al., J.Proteome Res., 2003)。
これら双方の先端技術を組み合わせることで、シミュレーションによる代謝動態の理解と新たな保存方法の提案、
そしてメタボローム解析による実証的な裏づけが可能になる。
このようなアプローチはこれまで実験的な経験則に頼って行われてきた血液保存研究に数理モデルによる予測を
加える革新性のみならず、シミュレーション研究と網羅的測定技術を臨床応用に適用可能にする
世界でも類を見ない独創的な研究である。
4℃(低温)保存された濃厚赤血球液(以降、RC-MAPと呼ぶ)に含まれる赤血球の代謝状態を再現する
RC-MAPモデルが既に構築済みである。このモデルには現行の赤血球保存液(MAP液)の組成と保存中の
温度条件から考えられるパラメータが組み込まれている。
さらに、RC-MAPと同条件での赤血球保存実験を行い、CE-TOFMSを用いて代謝物質の時系列データを取得し、
複数の代謝物質に対するRC-MAPモデルの予測精度と妥当性を実験的に検証済みである(図2)。
解糖系に含まれる物質のメタボローム測定データとシミュレーション予測結果を比較した。
構築したモデルを用いて保存赤血球の代謝予測と数理解析を行い、
保存赤血球に特徴的なATPや2,3-BPGの減少を招いている作用メカニズムの解明を目指した。
ここでは、酵素反応などのモデルの内部構成要素がATPと2,3-BPGの動態に与える影響を解析し、
個々の反応段階が寄与する影響を定量的に評価した。この結果、HK/PFK/PKなどの解糖系酵素の高活性化や
プリン代謝系に属するAMPaseの低活性化によってATPが維持されることと、BPG合成系(BPGSP)の低活性化と
PFKの高活性化およびヘモグロビンやpHの変化によって2,3-BPGが維持されることがわかった(図3)。
中でも、HKとPFKは活性化するとATPと2,3-BPGの両者が維持できる結果が得られ、保存赤血球の代謝不全を
理解する上で重要な反応段階だと考えられた。
しかし、実際の赤血球でこれらの酵素活性を高めることは困難であるため、これらの酵素活性化と同様の効果が
得られる保存処置の方法を、計算機科学的な手法を用いてモデルを最適化して求めることにした。
その結果、グルコース6リン酸(Glucose-6-phosphate : G6P)やフルクトース6リン酸(Fructose-6-phosphate : F6P)を
あらかじめ増やすことによって同様の効果が得られることが予測された。
上パネル:HKの反応活性に対するATP, 2,3-BPGの濃度変化.
下パネル: PFKの反応活性に対するATP, 2,3-BPGの濃度変化.
HKおよびPFKの活性化(activation)によってATP, 2,3-BPGの両者が維持される
遺伝的アルゴリズム法による保存赤血球モデルの最適化によって、G6P、F6Pなどの解糖系上流に位置する代謝物質の
プールを拡大することでHKやPFKの酵素活性化と同様の効果が得られることがわかった。ただし、赤血球にはG6P, F6Pを
細胞内外へ輸送する機構は存在していないため、細胞外から与えても直接取り込むことは困難であるという問題がある。
そこでF6Pの前駆物質であるマンノースに注目した。マンノースは単糖類の一種であり、赤血球内へ輸送されることがわかっている。
マンノースを添加すれば赤血球内に取り込まれて代謝され、F6PとG6Pの量を増やすことができるのではないかと考えたためである。
まずマンノース代謝機構を新たに追加したモデルを作成して保存状態を再現して、マンノース添加の効果を予測した(図4, 表1)。
パネルA:ATPの濃度変化. パネルB: 2,3-BPGの濃度変化.
赤線:既存の保存液で保存した場合の予測結果.
緑線:既存の保存液に含まれるグルコースをマンノースに置き換えた場合の予測結果.
青線:既存の保存液にマンノースを追加した場合の予測結果.
2-1で行ったシミュレーション予測の結果を実証するために、マンノース含む保存溶液にて赤血球を保存して ATP, 2,3-BPGを含む代謝中間体の時系列変化を測定した。しかし、シミュレーションで予測されていた マンノースによるATPと2,3-BPGの維持効果は実測実験においては観察することができなかった(図6)。 また解糖系の中間代謝物質の時系列変化についても、実測とシミュレーションはほとんど一致していなかった。
左上:2,3-BPGの変化(CE-TOFMSによる実測)右上:2,3-BPGの変化(シミュレーション結果)
左下:ATPの変化(CE-TOFMSによる実測)右下:ATPの変化(シミュレーション結果)
赤線:既存の保存液(MAP液)で保存.
緑線:既存の保存液に含まれるグルコースをマンノースに置き換えて保存.
青線:既存の保存液にマンノースを追加して保存.
2-1, 2-2の結果から、構築したマンノース代謝モデルでは表現していない要素があるのではないかと推測し、
シミュレーションモデルと実測値との齟齬を埋めるために、赤血球におけるマンノース代謝を確認する実験を新たに行った。
この実験では、グルコースのみ、グルコースとマンノース、マンノースのみの培地の中で赤血球を37℃で培養したときの
0-4時間後までの代謝物質時系列変化をCE-TOFMSにて測定した(図8)。
その結果、マンノースの添加によってM6P、F6P、G6Pは増加するが、マンノースから生成されるM1Pも同時に増加することが
わかった。M1Pへ向かう代謝経路はシミュレーションモデルには考慮されていなかったので、2-1, 2-1で見られた
シミュレーションと実験の齟齬はモデルに組み込んだ要素が不足していたことが原因で生じた可能性が高いといえよう。
マンノース代謝系の有無を調べるために、糖源を変えた培地で赤血球を4時間代謝させた。
青線:グルコース入りの培地で代謝.
桃線:グルコースとマンノース入りの培地で代謝.
緑線:マンノース入りの培地で代謝.
今回、G6P/F6Pプールの拡大によってATPや2,3-BPGが維持されることが予測されたため、マンノースの供給によって
G6P/F6Pプールの拡大を実現するモデルを作成した。このモデルの予測結果ではよりよい保存状態になっていることが
示されたものの、実験とは異なる結果となってしまった。その一因として考えられるのが、モデルに含まれている要素の不足である。
マンノースの添加によって赤血球の保存状態が若干ではあるが向上することが一連の実験からわかっているので、
今後はまず、実験データを利用して、マンノースによる代謝変化を予測できるモデルに改変する。そして新たなモデルを使った
そして、シミュレーション実験を繰り返すことで、保存液に添加するマンノース濃度の最適値を探り、実験で実証していきたい。
Nishino, T., Yachie-Kinoshita, A., Hirayama, A., Soga, T., Suematsu, M. and Tomita, M
“In silico modeling and metabolome analysis of long-stored erythrocytes to improve blood storage methods”
Journal of Biotechnology, Volume 144, Issue 3, November 2009, Pages 212-223
西野泰子 谷内江綾子 平山明由 曽我朋義 末松誠 冨田勝 「赤血球代謝シミュレーションとメタボローム解析による新規血液保存法の開発」 第82回日本生化学会大会(神戸 2009/10)
Nishino, T.
“In silico modeling and metabolome analysis of long-stored erythrocytes to improve blood storage methods”
Global COE Program "Meet the Professor #3" (Shinanomachi, Japan 2009/12)
西野泰子
「赤血球代謝シミュレーションとメタボローム解析による新規血液保存法の開発」
E-Cell Workshop(藤沢 2010/2)
Nishino, T., Yachie-Kinoshita, A., Hirayama, A., Soga, T., Suematsu, M. and Tomita, M
“Systematic study of metabolism in long-stored erythrocyte using mathematical model and metabolome analysis”
The 10th International Conference on Systems Biology(Stanford, California 2009/8)
西野泰子 谷内江綾子 平山明由 曽我朋義 末松誠 冨田勝
「新規血液保存法の開発に向けた保存赤血球シミュレーションとメタボローム解析」
第4回メタボロームシンポジウム(横浜 2009/11)
西野泰子 谷内江綾子 平山明由 曽我朋義 末松誠 冨田勝
「シミュレーションとメタボローム解析による新規血液保存法の開発」
第32回日本分子生物学会年会(横浜 2009/12)