2009年度 森泰吉郎記念研究振興基金 研究助成金報告書

脳形態発達に基づく身体拘束性のない脳検査開発の検討

慶應義塾大学大学院 政策・メディア研究科博士課程

吉野加容子

 

【背景】

近年、脳形態発達と発達障害児の認知特性との関連が注目され、認知特性を脳形態発達から説明する試みがある。特に自閉症や知的障害の原因となる海馬病変(海馬回旋遅滞症[1])のある児童の認知特性はアンバランスになる傾向があり、神経生理学的な脳検査から得られる情報が教育支援に非常に有効となる。

特別支援教育では、個別の教育的対応を推し進める中、教育指針を導くために必要な児童個人の認知特性を把握するために心理検査や発達検査が用いられている。さらに教育に脳科学知見を取り入れる試みも始まっており、脳検査結果を教育支援に生かす動きがある[2]。しかしながら自閉症児等の多くが身体拘束・接触に拒否感を示すので、一般的に計測装置を用いる脳検査実施は困難である。現在は、設問に対する児童の回答を採点する発達検査を用いるのが主流であるが、これらの行動評価は個人の認知能力を統計的に数値化する検査であり、脳の生理学的あるいは形態発達の状態を評価できない。

知的障害や自閉傾向は、その多くが海馬回旋遅滞症によるものと考えられるが、一方で脳性麻痺や他因子によって一見類似した知的発達傾向や行動傾向が見られる場合がある。海馬の形状は、通常胎生21週までに成人とほぼ同様の回旋角度まで発達することが分かっているが、広汎性発達障害児では約98%が海馬回旋遅滞症(Hippocampal Infolding Retardation :HIR)であることが報告されている[1]HIRの特徴は、病変部位とその程度によって、知的障害と自閉傾向の両方あるいは一方を呈し、自閉症スペクトラムを矛盾なく説明することができる。

教育的対応を考えた場合に、脳形態の発達から考えて、海馬回旋遅滞症が原因か、それ以外が原因かによって教育的対応は異なってくる。したがって、他覚的に海馬回旋遅滞症を検知することが、特別支援教育において有用であり、非拘束性の脳発達検査の開発が必要である。

 

【目的】

大脳皮質は発達期に2年間で12mm程度も厚みが増し、成人でも領域毎に皮質厚が異なる[3]。一方、脳の発達としては生後、白質の髄鞘形成が進むという古くからの知見があり、髄鞘形成と発達的な行動変化の対応が広く知られている。しかし認知操作などの詳細な行動情報と、特定の脳形態発達との対応についてはほとんど研究されていなかった。

本研究は、海馬回旋遅滞症(以下HIR)の皮質発達と白質の髄鞘形成に関する脳形態発達が認知特性にどのような影響を与えるかという点と、HIRを検出する非拘束性検査項目の検討を目的とした。多くの認知機能に関わる海馬周辺の形態異常が引き起こす認知発達の特徴を捉えるために、海馬(Hippocampal formation)の形態計測情報と行動情報との関連を調べた。形態MRI脳画像による脳形態発達と発達検査、及び先行研究で作成した「脳形態発達検査のための行動と認知のチェックリスト」(吉野ら、2008)の関連性を検討し、HIR検査のスクリーニング項目を検討した。

 

【方法】

対象:

本研究は、小学生のHIRを含む調査を行った先行研究[4][6]で得た知見を、発達過程の不確定要素を除外して、さらに分析的に取り扱うため、知的障害のない成人(平均年齢24.5歳)で、HIR8名と健常群14名を対象に行った。

 

手続き:

本研究では、脳形態発達の観察にMRI1)を用いた。また行動情報については、年齢に応じてウェクスラー式検査2)の知能検査及び記憶検査と、「脳形態発達検査のための行動と認知のチェックリスト」(吉野ら、2008)(開発中のため非公開)を採用した。

検討1では、MRIから得られた複数の脳形態発達の数値と、知能検査・記憶検査の結果の相関を算出し、特に海馬に関連のある下位検査を求めた。加えて、HIRの有無で、その傾向が異なるかどうかを検討した。

 検討2では、健常群とHIR群で、知能検査・記憶検査で有意に異なる下位検査がないかどうか調べ、HIR群に共通して見られる認知特性を検討した。

 検討3では、行動様式・認知様式を問う180問の「脳形態発達検査のための行動と認知のチェックリスト」の結果から、健常群とHIR群で有意に異なる項目を調べた。HIRの行動・認知特性を明らかにし、スクリーニングとして有用な項目を求めた。

 

1) MRI-磁気共鳴画像法:(神経生理学的検査)

脳の形態発達を観察する生体情報の非侵襲画像化技術である。海馬を観察するために特別にオーダーした撮影プロトコルを用いて、3方向でT1,T2画像を得た。得られたデータから、個人の海馬周辺の皮質体積及び白質髄鞘形成レベルや体積を計測した。

2) ウェクスラー式検査:(神経心理学的検査)

世界で最も広く使用される個人の知的発達の状態をプロフィールで表示し、認知能力を詳細に分析する臨床的検査である。検査者によって呈示される課題を回答する形式で行われる。年齢集団における偏差得点が得られ、認知的なバランスや総合的な知的能力を測定することが出来る。

 

【結果】

検討1:

海馬傍回白質の髄鞘形成と、知能指数や下位検査評価点との間に相関性を認め、行動情報が特定の脳形態発達の状態を反映することが示唆された[4][6]

具体的には、健常群とHIR群に共通して、PIQが両側海馬傍回白質の信号強度と負の相関を示した(r=-0.76)VIQと形態指標の相関関係は比較的弱かった。FIQは、健常群で左海馬傍回白質との負の相関の傾向があった(r=-0.67)。記号や図形を用いた下位検査(WISC/WAIS絵画配列・WAIS行列推理・WMS視覚性再生T・WMS注意/集中指標)と、海馬周辺の各形態指標との相関を複数認めた。言語性下位検査と海馬形態との相関は弱かった。加えて、脳形態特徴として、HIR群では左海馬体が健常群よりわずかに小さく、海馬傍回白質の信号強度が右半球でより低い傾向にあった。

 

検討2:

ウェクスラー式検査結果において、健常群とHIR群で有意に異なった結果は、VIQと、下位検査「単語」「知識」「視覚性記憶範囲」の各得点であった(p<0.05)。検討1において、HIRがVIQの高さに対してPIQに影響したことと共通して、VIQPIQの差が大きくなるアスペルガー障害の特徴を表わした。この特徴は、ウェクスラー式検査が海馬病変だけではなく、HIRによる複数部位の脳発達特徴を反映していることも考えられた。

 

検討3:

著者が開発中の検査項目180問の内、16問がHIR群と健常群の得点に有意差があった。HIRを検出し得る質問項目の多くは、国際疾病分類ICD-10や診断基準DSM-Wに含まれてはいないが、HIR群に特徴的な行動・認知特徴を良くあらわす内容であった。また、成人HIRを対象としたことで、幼少期に顕在化しやすい行動・認知特徴と、成人後にも残存しやすい行動・認知特徴を分離することが出来た。またこれらの項目には、海馬のみならず、別の部位をよく表わす項目も含まれており、海馬回旋遅滞の病変が、他の脳発達形成に及ぼす影響を検討できた。

 

【考察】

海馬周辺の形態指標の中では、特に海馬傍回白質の髄鞘形成の強さが、動作性知能(PIQ)のような非言語的な認知処理と相関することが示唆された。一方HIRによって左半球海馬回旋に限局的な軽度の遅れがある場合でも、言語性知能は良好であり、アスペルガー症候群の臨床症状を説明する特徴であった。HIR群に見られた海馬回旋による海馬体の体積特徴と、海馬傍回白質の左右差、および認知課題の処理速度への影響は新しい知見であり、今後さらに対象者数を増やして検討する必要がある。

我々は広汎性発達障害の98%に海馬周辺の形態的未発達があることを突き止めている。しかし実際の教育現場では全員のMRI実施は時間的に現実味がなく、また医学的な専門情報では教員が使える知識にならない。そこで心理検査等で得られる行動情報との間に対応関係が見つかれば、個人の脳形態発達の様子がある程度予測可能となり、支援に必要な情報となり得る。例えば軽度の広汎性発達障害やADHDの症状の連続性は、HIRの有無と他の部位の形態発達程度で説明がつくが、行動情報だけでは的確な個別課題の把握が難しい。また脳血流の増減に基づいたニューロイメージングは大脳皮質機能を見誤ることが計測原理から指摘されているが、脳形態発達を評価せずに血流代謝と皮質機能を結びつけて機能障害を指摘するような安易な研究では学習支援のための神経科学応用にはほど遠いと考えられる。

脳画像から個人の学習支援のための認知特性について詳細情報が得られる一方で、教育現場では非拘束性検査が求められるという社会的背景を軸に、本研究は未だ萌芽的であるが、長期的には教育現場で実施可能な新たな検査様式として、非拘束性・脳発達検査スクリーニングの提案が可能となろう。我々は脳形態発達と行動との対応を定量化し、教育現場で用いることができる検査法を使って、脳形態発達のおおよその予測を可能とすることを目指している。それによって、学習支援の方針立案がより的確になるであろう。

これまでの、認知能力のパフォーマンスの悪さが明瞭になるだけで、脳のどこが原因か分からなかった心理・発達検査に代わって、今後、このような脳形態発達に着目した新しい検査がのぞまれる。その意味で、皮質・白質と、統計的数値で表される認知能力との対応は、本研究が主眼とする教育的スクリーニングのみならず、国際疾病分類ICD-10や診断基準DSM-Wだけでは診断が難しい自閉症群の診断のための補助的な臨床検査やスクリーニング診断として応用できる可能性が充分にあり、脳科学的・医学的にも非常に新規性と発展性の高い研究であると考えている。

 

【参考文献】

[1] 加藤俊徳. 海馬回旋遅滞症. Annual Review神経, 2006; 340-348.

[2] 加藤俊徳、坂口しおり:脳と障害児教育.ジアース社,2005

[3] Sowell ER, et al. Sex differences in cortical thickness mapped in 176 healthy individuals between 7 and 87 years of age. Cereb Cortex. 2007; 17(7):1550-60.

[4] 吉野加容子、加藤俊徳:白質髄鞘形成及び皮質発達と心理・発達検査との対応評価の試み.日本小児科学会,奈良,2009/4

[5] Insausti R, et al. MR volumetic analysis of the human entorhinal, perirhinal, and temporopolar cortices. AJNR An J Neuroradiol. 1998; 19:659-671.

[6] 吉野加容子、加藤俊徳:広汎性発達障害の脳形態発達とWISC-Vとの対応関係−海馬回旋遅滞症(HIR)群と健常群との連続的なIQの背景となる脳形態発達とその特徴−.日本特殊教育学会,群馬,2009/9