2009年度森泰吉郎記念研究振興基金「研究育成費」報告書



政策・メディア研究科 後期博士課程
植村 さおり


1.研究課題名

現代シリアにおけるザカー、サダカの実践の変容~新しい慈善活動の興隆と課題~

2.研究の概要

 本研究の課題は、近年シリアのムスリム社会で興り始めた新しいかたちの慈善活動についてのフィールド調査を通じ、それを同社会におけるイスラーム的社会保障システムであるザカーおよびサダカの実践の変容と捉え、明らかにすることである。さらに、その要因として、ムスリムたちの間に内面的なイスラーム復興現象が起こりつつあるのではないかという仮説を考察する。研究の意義としては、イスラームの教えに基づく見えない富の還流システムの実態を明らかにすることで、異なる経済状況にある人々の間でも共有しうる幸福や、その実現のためのヒントを得られる点が挙げられる。さらには、ムスリムたちの平和的で建設的な社会変革に対する取り組みを、内面的なイスラーム復興ととらえることで、概して危惧されがちな「イスラーム復興」に対して新しいパースペクティブを加えることができる。イスラーム世界に対する開発援助政策等に対して提言を行なうことも成果として期待される。


3.本年度の研究活動
3-1.文献調査
本年度は、イスラームにおける施しと、近代的な知の体系における贈与との比較・整理を行うための文献を講読した。具体的には、おもに贈与行為や無償労働、徳といった概念を、近代経済学や社会科学が近年どのようにとりいれつつあるかという点に着目し、「思いやりの経済」という概念を打ち出したリーアン・アイスラーの『ゼロから考える経済学 未来のために考えておきたいこと』(英治出版、2009年)や、アンドレ・コント=スポンヴィル『資本主義に徳はあるのか』(紀伊国屋書店、2006年)を扱った。また、イスラームにおける豊かさについて、聖クルアーンをもとに若干の考察を行った。

3-2.フィールドワーク
シリアのアレッポ市のムスリム社会におけるザカーやサダカの変容およびその要因や効果に関する調査のため、 2009年8月23日~9月18日、2009年2月14日~2月25日にかけて、シリア・アレッポ市でのフィールド調査を行った。

【参考情報】
「アレッポにおける慈善活動は、従来型と新型ふたつに大別することができる。従来型の慈善活動というのは、集められたザカーやサダカを、食料品や衣料品のかたちで貧困層に配布する「ばら蒔き型」であることが多く、一部の貧困層に見られる依存体質の要因にも深く関わっている。一方、新型の慈善活動を担う人々は、このばら蒔きに対して強い問題意識を持っており、ザカーやサダカを、より貧困層が自立して生きるための支援に使うべきだとする「自立支援型」の活動を企画し、実践している点で、従来型の慈善活動者との違いは明らかである。このような「自立支援型」のザカーやサダカは、「ばら蒔き型」に比して、よりイスラームの本来の教えに則ったものであり、それを担う人たちも、そのことを強く認識している。従って、このような活動が登場しはじめたことは、アレッポのムスリム社会におけるザカーやサダカが、その実践における変容の時期を迎えているということを意味しているのではないかと考えられる。」(2008年度森基金報告書より)

  今回のフィールドワークでは、第一に、こうした新型の慈善活動への従事者に着目した。とりわけ貧困層、とくに未亡人女性の家庭支援を行う、ある政府非公認慈善グループに焦点を当て、活動への参加や当事者たちへのインタビュー調査を実施した。第二に、政府公認慈善団体EIEA(教育と対・非識字の会)の旧主要メンバーたちに再度接触し、その後の活動を追った。

■ある政府非公認慈善グループの女性たちの活動見学・参加およびインタビュー
・リーダー的存在であるIさんへのインタビュー(8/25、9/4、 9/6、 9/15)
-未亡人女性をはじめとする貧困家庭の自立支援活動について
-ラマダーンのザカートおよびサダカについて
・ラマダーンのザカート、サダカ配布活動への参加(9/4)
-フッルク地区、カラム・ミヤッサル地区、バイーディーン地区
・貧困家庭の訪問調査(9/10)
-サラーフッディーン地区、サーリヒーン地区、カラム・ミヤッサル地区の5家庭
・活動近況報告会への参加(2/21)

■政府公認慈善団体であるEIEA(教育と対・非識字の会)メンバーに対するインタビュー
・Gさん (9/13)
・MAさん (9/14、9/16)
・Nさん (9/11)
・MBさん (9/11)
・SHさん (9/13)
・MCさん (9/5、9/14)
■マバッラ・アウカーフ・イスラーミーヤ(ワクフ慈善組織)の訪問と所長へのインタビュー(9/16)
■イスラーム協会のダール・アイターム(孤児院)の訪問と理事長アフマド・イブラーヒーム・シュアイブ氏および理事2名へのインタビュー(9/14)
■イフサーン慈善協会のチャリティショップの訪問(9/16)
■現在のEIEAの活動者(男性)へのインタビュー(9/16)
■アレッポのムフティーであるサルキーニー氏との面会(9/6)
■シリアにおける経済政策や慈善団体に関する情報収集(2/14~2/25)


3-3.現在までのまとめ
【慈善活動者の視点から見えるもの】
●Iさんの参加する府非公認慈善グループの活動者たち
Iさんは、職場の同僚や友達(女性10名以上)とともに、14の貧困家庭の支援活動をしている。このグループには名前すらなく、明確なリーダーもいない。彼女たちは、不正や虚偽のおそれがあり慈善団体としての活動は行わず、敢えて表にでることはしないが、定期的に集まり、小規模ではあるが、各家庭に対して丁寧なケアをしている。こうした家庭への支援金はザカートやサダカであるが、その拠出者は、Iさんの活動を理解している人たちである。各家庭に対しては、専属の支援者がつき、責任をもって家庭状況の改善を見守る。

 Iさんたちが支援するのは、ほとんどが複数の子供をかかえる未亡人女性の家庭である。それも、女性自身もしくは子どもに手術や常に薬の摂取が必要な重病患者や障碍者がいる場合がほとんどである。支援者は、おもに医療費および子供たちの教育費を月々支援する。「人を育てたい」というIさんは、貧困層の自立のためこの教育支援に重きを置く。支援先の家庭を決定する基準としては、(健康な場合)未亡人の母親に働く意思があるか、喫煙しないか、家が清潔に掃除されているかを大切にしているという。依存を助長するのではなく、いずれ自立することを前提としているため、支援先の家庭の選定や支援の方向性についても極めて慎重である。

 筆者がIさんたちの活動に参加したのは、2009年のラマダーン月であった。通常食料支援はしないというIさんたちだが、ラマダーンの間だけは、断食をとく食事のため、支援家庭に食料品や肉を配布するという。Iさんは、人々は、神からの報奨が増えるといわれるラマダーン月にザカーを拠出したがる傾向にあるが、それはたいてい食料として一気に配布されてしまうので、どうしてもラマダーン月に支援が偏ると指摘する。残りの11ヶ月は暮らしに困る家庭がでるというわけだ。信徒にとっての義務の喜捨であるザカートの拠出については、諸学派の定めた詳細な法規定があるため、ザカートの取り扱いには慎重にならざるをえないが、一方で、支払う人の自己満足になりかねない状況に疑問を持たざるを得ないが、この点に関しては、ザカートのみならず、サダカ(任意の喜捨)やワクフ(イスラームの寄進財)といった他の貧困解決に役立てられる財源との関連もみたうえで、考察する必要があると考えられる。


●EIEAの旧主要メンバーたち
EIEAの旧メンバーに対するインタビューで見えてきたのは、結婚や出産、就職にともなうライフスタイルの変化や団体からの脱退による活動場所の変化の中においても、女性たちの多くが、EIEAでやろうとしていたことを、各々の形やレベルで実践し続けようとしている姿勢であった。

Gさんは現在、アレッポ市のمرصد حضريHalab Local Urban Observatory(UN HBITAT協力の地方都市化観測システム)の実質責任者として活躍している。アレッポの都市化による貧困問題や環境問題といった社会的諸課題に対して意欲的に取り組んでいる。まさに慈善団体で行っていた試みを行政の立場で実行に移す機会を得ることができたといえる。このプロジェクトに従事する正規職員は3名しかいないが、EIEA時代の仲間であるMBさんやSHさんがボランティアとして協力することで成り立っているといっても過言ではないという。

 だが、同時にMBさんとSHさんは、慈善活動、とりわけ古くからある政府公認慈善団体が抱える様々な問題に苛まれてもいる。彼女たちは、EIEAを去ったあと、ある女子孤児院で活動していたが、理事や職員のモラルの低さ、汚職等に耐えられず、結局は去らざるを得なくなった。一部の慈善団体に見られる既得権益への固執、中央集権的な運営体質は、新しい理念をもってEIEAで活動を始めたムスリム女性たちの活動の受け皿をますます少なくしている。こうした諸問題は、まさに彼女たちがEIEAを去らざるをえなかった原因と共通のものである。

 一方、Nさんは、EIEA脱退後、赤新月社のボランティア組織にメインの活動場所をうつした。この組織は、多くのメンバーを抱えるが、約10のグループに細分化され、決定が中央集権的になされないため、活動しやすいという。

 敢えてEIEAに残る道を選んだMCさんは、貧困層の自立支援のためにはまさに教育が必要であり、ザカートが一時的な食料としてではなく、教育支援にこそ使われるべきであるという考えの持ち主である。その点で、個人で活動しているIさんと相通ずるものがある。MCさんは、ザカートを貧困層に教育支援のために使用してもよいというファトワー(法的裁定)をアレッポのムフティーであるアッカーム師に出してもらい、貧困地区の男子学生が国立大の医学部で学ぶ手助けをしている。先述したとおり、ザカートの使途については、意見のわかれるところではあるが、アレッポのムフティーであるサルキーニー氏によると、優先順位的には、まず衣食住を満たすことに使われるべきだが、教育に対してももちろん拠出されてもよいという意見も得られた。こうしたムフティーの裏付けは、慎重なザカートの拠出者に対して、活動のイスラーム法適合性を示すものとなる。

4.今後の展望
アレッポの慈善団体の抱える恒常的な問題が、EIEAの旧メンバーたちの活動を分裂させたりはしたものの、彼女たちの慈善活動に対する思いはむしろ進化している。慈善活動を一時中止している人々もいるが、それは結婚や出産といった理由によるものとの主張が複数見られた。彼女たちの多くは、今でも慈善活動に対する高いモチベーションを持ち、自分に課されたことを自分に可能な手段と場所で果たそうとしているということがわかる。もしも彼女たちがそれぞれの領域で成果をあげはじめれば、アレッポの現状を変える大きな流れになるかもしれない。実際、Gさんのように慈善団体での活動の理念を行政で活かしている人もいる点は重要である。
 Iさんたちや、EIEAの旧主要メンバーたちの間に見られる、「善行のため」につながっている人々の関係は、極めてしなやかで強固なものである。こうした連帯が、ムスリム社会の現実を常に問うていくための力につながることが望まれる。

※尚、筆者は2月27日~3月30日まで、ひき続きアレッポに滞在し、複数の慈善団体の訪問やEIEAにかかわるメンバーたちの活動について調査を行う予定である。