「革命」と「教育」

二人の革命指導者からみたイエメン革命

 

イエメン革命

革命の概要

革命以前のイエメン(正式名称、イエメン・ムタワッキル王国)はイマーム(通常、人に対して使われる場合は宗教指導者をさすが、当時のイエメンでは宗教指導者であると同時に国家の統治者であった)による絶対的支配下におかれていた。当時の社会を知る者の話しによれば、国民の生活水準は極めて低い状態であり、教育も実質上禁止されていた。それでも、イマームは自分の身を守るために軍を強化する必要を感じ、優秀な人材をイラク、イジプと、シリアに留学させ、近代的な軍事を身につけさせた。留学から帰ってきたメンバーを有力なポストに置き、イマームは守りを固めた。しかし、留学を経験した幹部達は、外の世界の近代的な様子を知っていた。そのため、イエメンがいかに“遅れているか”を知り、次第に鎖国的な政策をとるイマームの統治に不満を感じるようになった。そして、その幹部達がクーデターを起こし、王制を転覆させる革命を起こした。

 

二回の革命

 

イマームの統治

 

なぜ革命を起こしたのか 〜革命指導者の生の声〜 


Q:「革命を起こした動機について聞かせてください。革命の思想とイスラームとの関連性はありますか。」

 

Abdullal Aldubbi

A:「関連性は特に考えたことがない。我々は、人々が“ズルム”に直面しているのを見て悲しくなっただけなんだ。多くの革命家はイラク、シリア、エジプトで教育を受け、外の世界を知っていたために、イエメンがどれだけひどい状態に置かれているかを知ることができた。革命が必要性は全ての側面において、必要不可欠なものだった。」

※:イマームの統治下では実質的には教育が禁止されていたと言われる。それは、知識を得ることは反抗分子を育てることと考えたためである。ただし、一部の者には国を(自分を)守る為に必要な軍事を学ばせるために、イラク、シリア、エジプトに留学をさせた。アルダッビ自身は留学の経験はないが、留学から帰ってきた者達からさんざん園との世界の話しを聞かされて育ったという。

 

Ali Abdullal Assalal

A:「どちらとも言えない、いや、いくらかはあると思う。我々はイマームの統治の仕方は間違っていると考えていた。悪いというのは、シャリーヤ(イスラーム法)的にみて悪いということだ。だから、革命はやらなくてはならなかった。忘れてはいけないのは、シャリーヤに照らし合わせて“悪い”と判断されるまでは、我々はイマームに手を出さなかったということだ。ただ、革命家が革命を起こしたもっと大切な理由は、人々から“ズルム”を取り除くためだ。革命家達は、“ズルム”がどれだけひどいかを知っていたから。」

 

“ズルム”とは

ظلم が現れるクルアーンの章句


《そんなことをする者は、自分の魂を損う者である》(雌牛章231)

وَمَنْ يَفْعَلْ ذَلِكَ فَقَدْ ظَلَمَ نَفْسَهُ


《彼は言った。「誰でも不義を行う者には、私たちは刑罰を加える》(洞窟章87)


قَالَ أَمَّا مَنْ ظَلَمَ فَسَوْفَ نُعَذِّبُهُ


《悪を行った者は別だがそれでも、その後、悪の代わりに善を行う者は(恐れることはない)(蟻章11)


إِلا مَنْ ظَلَمَ ثُمَّ بَدَّلَ حُسْنًا بَعْدَ سُوءٍ فَإِنِّي غَفُورٌ رَحِيمٌ


《アッラーの掟に背く者は、確かに自分の魂を損う者である》(離婚章1)


وَمَنْ يَتَعَدَّ حُدُودَ اللَّهِ فَقَدْ ظَلَمَ نَفْسَهُ

 



革命と教育の関係

 Q:どのような教育を受けましたか。あるいは、教育なしで革命は可能だと思いますか。

 

Abdullal Aldubbi

A:「私は、最初イスラーハの学校で教育を受け、卒業後軍の教育施設で教育を受けた。そこでは、クルアーン、アラビヤ語、数学などと思うが、よく覚えていない。教育を受けられたのは幸運だった。教育は光だ、それなしでは未来が全く見えない。」

Ali Abdullal Assalal

A:「教育によって知識を得るまでは、イエメンがどれだけひどい状況に置かれているか気づかなかった。その意味では、教育なしでは革命はなし得なかっただろう。」

 

Q:多くの指導者が孤児院の出身だったと聞いていますが、孤児院の教育についてなにかご存知ですか。

 

Ali Abdullal Assalal

A:「孤児院の教育についてはよくわからない。ただ、多くの有力な革命家がそこを卒業したのは事実だ」

 

※後の調査で“孤児院”とは名ばかりで、実際に孤児でない生徒も多かったという。事実アブドゥッラー・アッサラールも孤児ではなく、中流家庭の出身。

 

監獄での教育

 

Q:「自分に一番影響を与えたと思われる教育はなんですか」

 

Ali Abdullal Assalal

A:「監獄の中だ。1948の革命に失敗した後、イマーム・アフマドは革命の中心的な人物を容赦なく殺害した。自分を含め殺されなかった連中も、刑務所に送られた。刑務所の中でも、一番環境の悪い監獄の中にだ。それは、刑務所の地下にあって、その一部屋に刑務所全ての下水管がつながっていた。つまり、他の部屋にいる囚人の者も含めて、全ての汚物がその部屋に流れ込む仕組みになっていた。しかし、同じ部屋には、革命の同士たちがたくさん居て、一番年下だった私は、いろいろな名話しを聞かされた。外国の話し、いかにイエメンが“ズルム”にあふれているかと言う話しなど、いろいろだ。面白かったのは、監獄の門番さえも、革命家達の話しに心を打たれて、後の(1962年)の革命に革命はとして参加したことだ。そこで我々は7年間過ごした。その間に、何人もの仲間が死んでいった。原因は、不衛生に起因するバクテリアの影響だ。7年後に出ることができたが、イマーム本人も、生存者が出るとは思っていなかったらしい。」