2010年度 森泰吉郎記念研究振興基金 研究成果報告書

珪藻の被殻にみられるパターン形成システムの解明に向けた数理モデル構築

(修正前課題名「葉序を決定する分子システムの解明・数理モデルの構築」)


氏名:石田 花菜

所属:慶應義塾大学大学院 政策・メディア研究科 修士課程1年


【要旨】

 地球上の多くの生物は、歯や骨・殻などの硬組織の形成(バイオミネラリゼーション)を行なう。単細胞生物の珪藻はバイオミネラリゼーションの作用により、珪酸質の材料を利用して、対称性の美しい、強度に優れた様々な模様の細胞壁(被殻)を形成する。被殻の構造は無機物と生体高分子との相互作用より、マイクロスケール~ナノスケールに至るまで制御されているが、その生物学的な機構の詳細は未だ多くのことが明らかにされていない。
 そこで本研究では、生体内分子を想定した力学モデルを構築し、珪藻の幾何学的な被殻模様の形成をコンピュータ上で再現することを目標として課題に取り組んだ。互いに反発する任意の数の要素を用意し、円の内部という限定的な範囲でそれらの要素が一定時間経過後にどのような配列パターンをつくるか、プログラミングにより計算した。生命が単純な法則性で数理的に緻密なパターンをつくることの妥当性を検証し、珪藻の被殻形成メカニズムに迫る研究を進めるための第一歩としたい。

【研究の背景】

 生命現象のあらゆる場面で、数理的に規則正しいパターンをみつけることができる。植物の中にはフィボナッチ数列といった特殊な数に関連し、しばしば螺旋幾何学的な姿が現れる(図1)。まるで意図したかのように緻密なパターンがどのような生命システムによって実現しているのか、分子レベルで解明されていることはまだ少ない。そこで本研究では、生命が生み出す幾何学的なパターン形成のメカニズムの解明につながる、数理モデルの構築を目指した。
 単細胞生物の珪藻はバイオミネラリゼーションの作用により、珪酸質の材料を利用し、まるで意図的に構築されたかのように緻密で、対称性に優れた様々な模様の細胞壁(被殻)をつくり出す(図2)。バイオミネラリゼーションとは、生物が生体高分子を利用して無機鉱物をつくる機構を指す。珪藻の被殻構造はバイオミネラリゼーションのはたらきによりマイクロ~ナノレベルで制御されている。珪酸の代謝を行なう珪藻は、近年ナノテクノロジーの分野において特に関心が高い。しかしながら、その生物学的な機構は多くのことが謎に包まれたままである。
 生命の数理パターン形成の現象に関して調査と考察を重ねた結果、研究対象とする生物を珪藻に変更した。当初は、規則的に並ぶ植物の葉序を例に分子レベルで考察をし、パターン形成のメカニズムを説明する数理モデルをつくることを想定していた。植物にみられる特徴的な葉序も、珪藻の幾何学的な被殻パターンも、生命を規則的で秩序ある形態に導く分子メカニズムを有している。そのメカニズムを数理モデルによって解明しようとする研究の方向性は、両者とも同じである。珪藻の被殻形成における分子の振る舞いをシミュレートし、緻密なパターンの構築を可能にする仮説を示すことができれば、理論生物学的な学問分野に留まらず、材料工学など実験的な分野をはじめとして幅広い研究領域に貢献することが期待される。以上のことから、珪藻を本研究対象として改めて設定した。

図1. ヒマワリの花 (S.スキナー,2008)を部分的に拡大したもの。ヒマワリの種子は
    フィボナッチ数のパターンに従って、幾何学的に隙間なく敷き詰められている。


図2. T.oestrupiiの電子顕微鏡写真(Longuet-Higgins, 2001)。
                


【珪藻の被殻メカニズムに迫る力学モデルの構築】

 珪藻の被殻形成に重要な役割を果たしている可能性が高いものとして、細胞骨格を挙げることができる。珪藻の被殻形成は珪酸沈着胞(silica deposition vesicle: SDV)で生じるが、このSDVの周辺部に細胞骨格の存在が確認されている(N. Kröger et al., 2008; David et al., 2008)。細胞内にはたらく引き合う力や引き離す力を利用して丈夫な生物の体を形づくるメカニズムは、tensegrity構造に通じるところがある。tensegrity構造は、弾力材と圧縮材を巧みに組み合わせ、力学的な観点から全体的なバランスを維持して、秩序ある強い構造を成立させる仕組みを利用している。つまり細胞内分子の力学的な均衡に注目すれば、多様で秩序あるパターンをつくる珪藻の被殻形成機構が説明できる可能性がある。
 そこで本研究では、生体内で起こり得る力学モデルを構築し、珪藻の幾何学的な被殻模様の形成をコンピュータ上で再現することを試みた。今回は研究の初期段階として、互いに反発しあう分子の振る舞いをシミュレートする数理モデルの構築を行なった。


【2次元上の円内で振る舞う要素の力学モデル】

 今回のモデルでは、2次元空間上で互いに反発しあう力(斥力)をもつ、任意の要素の振る舞いをシミュレートした。要素数はスクリプト内で自由に設定できるようにプログラミングしたが、ここに示すのは要素の数が5(B1~B5)の場合のシミュレート結果である。なお、本研究では細胞シミュレーションのソフトウェアであるE-Cell3を用いてモデルを構築した。
   E-Cell3上で2次元空間を表現するため、本モデルでは空間をx・yの2次元座標として捉え、座標上のどこかに各要素が存在しているものとした。さらに要素間の相互作用はx軸上とy軸上の振る舞いに分解して考え、要素の数だけ用意されたSystemごとに整理し、まとめている。
 各要素は自分自身以外の全ての要素に対して、互いに斥力の影響を与え合う。モデル内では2要素間ごとに要素間の距離関係を算出・任意の斥力係数を設定し、斥力の関係性を時間経過に応じて計算する式を立てた。さらに任意の係数によって、生じ得る摩擦力も設定した。
 なお、各要素はいずれも円の内部に存在する。円は原点(0,0)から半径の距離が1000となる範囲と定義して計算した。円の内部と外部を隔てる境界部分には、斥力が発生するように設定してある。実際の珪藻は増殖の際、被殻が反保存的に複製される機構を持つので、被殻のパターンはあらかじめ決められた被殻の外形内で形成される。そこで本モデルでは、中心目珪藻の中で最も基本的な被殻の形である円を、パターンがつくられる「場」として予め設定した。本モデルにおいて、要素は円の内部を自由に運動するが、円の内側に向けてはたらく斥力を設定することにより、要素が円の外部に飛び出すことを防げる。以上の条件がモデルに組み込まれ、各要素が時間経過に応じてどのような振る舞いをみせるかシミュレートすることができる。
 それぞれの要素のx・yの初期値はランダムに設定される。その値の変化を参照すれば、各要素が様々な配置関係から運動を開始し、時間経過に応じてどのように振る舞うかをシミュレートできる。ただし、要素の初期値を原点(0,0)に設定すると、モデルはただちに破綻する。本モデルでは、100秒単位の時間刻みでシミュレーションを実行し、少なくとも2000秒までは問題なく作動することが確認された。  

 

【シミュレーション結果】

 5つの要素間に斥力だけがはたらく場合(test1)と、斥力と摩擦力の両方がはたらく場合(test2)の試行結果を示す (図3,4)。時間経過ごとの各要素の振る舞いは、それぞれx座標・y座標の時間変化として捉えることができる。簡易的なグラフにおいて各要素が反発する様子をわかりやすく示すために、ここではxとyが同じ値(たとえばx=50ならば、y=50)をとるように設定した場合のシミュレーション結果のみを示す。
 それぞれのシミュレーションにおいて、各要素は円形の境界からの斥力を受け、また互いに反発しながら、円形の境界内を運動した。test1では摩擦力がないため反発し合う要素は激しく運動を続けたが、test2では各要素は穏やかに反発し、時間経過に応じて力学的に安定する等間隔の位置に落ち着いた。


図3. test1(斥力あり・摩擦力なし)のシミュレーション結果。x座標・y座標上に存在する5つの
    要素(B1~B5)が、時間経過ごとにどのように振る舞うかを示している(グラフはx・yの値の
    変化)。要素間の距離が近づきすぎると、斥力によって要素は互いに反発し遠ざかる。  
          

図4. test2(斥力あり・摩擦力あり)のシミュレーション結果。test1と同様、x座標・y座標上
    に存在する5つの要素(B1~B5)が、時間経過ごとにどのように振る舞うかを示している。
    時間が経過するにつれ、要素間の距離はほぼ等しくなり、一定の値に落ち着いていく。
            


【モデルの改良にむけた今後の課題】

 本研究をさらに進めるにあたって、まず2次元空間を運動する要素の動きを、時間経過ごとに追えるような視覚化に取り組む必要がある。現段階では、各要素におけるx座標・y座標それぞれの値の変化を、2次元上のある1点を示す位置情報として統合して示すことができていない。そのため要素の2次元的な位置変化を視覚化できず、各要素の空間的な移動のイメージが捉えにくい。要素の動きをわかりやすく視覚化できれば、パラメーターの違いや要素数をさらに増やした場合など、複数の異なる条件下でのシミュレーション結果を比較し考察を進めることが容易になる。つまり、本モデルによって、実際の珪藻に近い非常に細やかな模様が再現できるかどうかを検証するためには、要素の動きが一目でわかる「視覚化」が不可欠と言える。今後は視覚化の手法を検討しつつ、モデルの最適化も併せて取り組んでいくつもりである。
 本研究は、珪藻の被殻形成のメカニズムに迫る研究を進めるための第一歩となった。引き続き細胞内の分子の振る舞いを説明する力学モデル構築に取り組み、生命が単純な法則性で数理的に緻密なパターンをつくることの妥当性を検証していきたい。


【参考論文・参考文献】

・David P. Allison, Yves F. Dufrêne, Mitchel J. Docktycz, and Mark Hidebrand (2008). Biomineralization at the nanoscale learning from diatoms. Methods in Nano Cell Biology, 90: 61-86(Methods in Cell Biology, Academic Press)

・Michael S. Longuet-Higgins(2001). Geometrical Constraints on the Development of a Diatom. Journal of Theoretical Biology, 210: 101-105

・Nils Kröger and Nicole Poulsen (2008). Diatoms-From Cell Wall Biogenesis to Nanotechnology. The Annual Review of Genetics, 42: 83-107

・スティーヴン・スキナー(松浦俊輔 監訳)『聖なる幾何学―すべてのものに隠された法則を解読する』(ランダムハウス講談社, 2008)(Stephen Skinner, Sacred geometry : Deciphering the Code, 2006)


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